「
生活の 意味はわかるも 死活とは 死して活動 幽霊ゾンビ」、「悠々と 幽霊然の アル中に 精気あるのは 酒避けぬこと」、「避けられぬ 運命ありと 悟り飲む 安居酒屋の にわか仙人」、「撮り鉄の 轍踏み写す 蘇鉄像 集めて耽る 生の読み解き」

今日の4首目は題名の「俳句もどき」がわかりにくいので「短歌もどき」に作り変えた。好きな列車を美しい景色とともに撮り集めたいと思う撮り鉄の気持ちを筆者は蘇鉄に変えて街中で見つける限りその全景を撮影し、文章とともにブログに投稿している。撮り鉄と違うのは長文つきであることと、その文章が蘇鉄の写真の説明にはほとんどなっていないことだ。しかし、この蘇鉄シリーズを続けていることからは表現行為全般について思うことがままあり、それを筆者なりに分析して投稿する場合があるので、直接蘇鉄とは関係ないものの、全く無関係というものでもない。筆者のブログやこの蘇鉄シリーズが独創的かどうかは考えたことがないが、撮り鉄を想起した点で独創的ではない。そこで独創とは何かを考える。そのことを忘れたことがないと言ってもよい。30年ほど前、友人Fがタイに移住する前、どういう経緯か忘れたが、Fを岡崎の京都市美術館に連れて行った。グループ展の案内はがきをもらっていたからだ。50名前後の美術家が作品を展示していて、筆者は当時毎年一種に付き合いの気分で同展を見ていたが、感心した作品は一点もない。Fは館内の展示をざっと見た後、嫌悪の表情で筆者にこう言った。「大山にはこんな連中の作品を見てほしくないなあ。大山はもっと高尚やで。」そのグループ展は現代芸術を標榜し、権威的な団体や作家を侮蔑する者たちが主催していて、筆者が説明しなくてもFにはそのことがわかったようだ。Fは美術に関心があるほうではない。ではそうした人々は芸術を鑑賞する資格がないかというとそれは違う。本物が持つ迫力は子どもでも感じる。以前書いたが、Fはジャズ喫茶に勤めていたことがある。だが夢は普通のファミリーが集える喫茶店を経営することであった。その理由は儲かるからではない。通だけが訪れる独特の閉鎖的な店の雰囲気が嫌いであったのだ。それは筆者も同じで、通を自認する人が足を運ぶラーメン店には絶対に行かない。同じようなことは開高健も書いた。会員制の看板を上げている店には行かないというのだ。筆者もその口で、そういう店はろくな料理を出さない。店が客を選び、お高く留まるのは自由だが、そういう店に群がる人々の知性はどうせ知れている。しかしそうした高級店ではない場合でも、自分たちがあたかも選良のごとく、理解を示さない者を侮る連中がいる。Fがグループ展に感じたことはそれだ。その出品者はほとんど仲間うちにしか知られないので社会的に無害だが、Fは無駄な存在と思ったのだ。だが、そのグループにすれば年一度のお祭り気分で、遊びと思っているのだろう。

自分ひとりでは絶対に京都市美術館に作品を展示してもらえない。生きている間に名を成し、没後半世紀ほどするとそうした大きな美術館で回顧展が開催される場合もあるが、それも稀なことだ。そういう現実を知りながら、またそのことを嘲笑するかのように、先のようなグループは「創造性豊かな」自作を展示しようとする。束になれば強いという、まことに芸術家として情けない思いによるのだが、それだけ個人が自立しているようでいて、ただ群れたがっていると言ってよい。筆者はそういう慣れ合いめいた群れが嫌いだ。独創性があると言われると作家は自尊心がくすぐられて気分がいいかもしれないが、これまでどこにもなかったような作品があり得るとして、そのことにどれほどの意味があるか。創作を目指し始める者は必ず誰かの作品に着想を与えられてのことだ。これも以前書いたが、筆者はネットでたまたまemiさんという女性が左右対称の切り絵をホームページで発表していることを知った。そして即座に着想が湧いたが、それはemiさんの作品とは全然違う様式だ。その意味で独創だが、そのことを誇示する気はない。巷に溢れる切り絵に対してかねがねさっぱり面白くないと思っていたので、それに対する筆者なりの解答のつもりもあった。色紙をふたつ折りして裏から鉛筆で絵を描き、その線に沿ってカッター・ナイフで切り抜き、それを全部終えると元の正方形に戻し、そして裏面に糊をつけてもう1枚の色紙の上に貼る。これだけのことだが、切り抜く線が0.5ミリやそれ以下になると、広げる際に往生する。そして完全な左右対称にならない場合がよくある。それは失敗のようでいてそうではない。500人の男の顔を500点の左右対称の切り絵にしたいという構想も、そのわずかに左右非対称に仕上がるところが現実の人間の顔のようで面白い。創造性を第一義とすべきということはわかるが、その創造性が本人のみ、あるいは仲間うちにしか理解されないものであれば、それは冗談芸と呼ぶべきものだ。レザニモヲのさあやさんは、芸術はスポーツのように点数で評価されるものではないと言う。そのとおりだ。しかし、ではどういう基準で評価されるのか。筆者は彼女に音楽コンテストなどに積極的に応募すればと助言した。審査員には経験や知識が豊かで審美眼に優れた人が必ずいるからだ。そうした客観的な意見を認めないではひとりよがりになりかねない。そうした人の作品は子どもでも悟る。独創性にこだわって難解ないし意味不明の作品を提示することは鑑賞者を拒否していると受け取られ、批判すらも寄せられない。Fが筆者に言いたかったことはそれだ。またFは筆者がそういう自己満足的な作品を目指すほど優雅な暮らしをしているのではないことを知っていたし、偏見なしで誰とでも親しく話すこともよくわかっていたからだ。

以前、阪急嵐山駅前の喫茶店のことを書いた。そのマスターから聞いたが、女性シンガーソングライターがライヴをさせたことがあって、マスターはさっさとわずかなギャラを手渡したそうだ。印象がよくなかったことは口ぶりから伝わった。彼女が無名同然であったためではない。オリジナル曲ばかりを演奏したと思うが、店に合わなかったのだろう。それで筆者が以前から461モンブランの演奏会を同店で開きたいと伝えていたことは間違いでないと確信した。オリジナル曲専門のシンガーソングライターとカヴァー演奏専門の461モンブランとではどちらが芸術的か。誰もが楽しみ、暖かい印象を客の心に残すことが良質の音楽で、独創性はカヴァー演奏にもある。ライヴハウスは地下にある場合が多く、そこで演奏される音楽はアンダーグラウンドであることに一種の誇りを持ち、数少ないファンでいいと思っているかもしれない。ザッパもデビュー当時はアンダーグラウンドを標榜したが、そこに留まることを拒否した。それでは生きて行けないからだ。音楽家は死んではならない。生きるのに金は必要で、それを自分の専門で得ようとするなら、全人生をその専門に費やす覚悟が必要で、自己満足の趣味に浸ってはいられない。客に迎合してわかりやすい作品を目指すというのではない。本物の迫力は誰にでも伝わる。そのことを信じない者はいつまでも成長はなく、そのまま枯れて行く。筆者の切り絵やブログは無料で公開して収入を生まず、自己満足の最たるものだが、特定に人だけに見たり読んだりしてほしいとは思っていない。感想を知りたいとも思っておらず、自己との対話の場として機能しているだけで充分だ。生きた証という大げさな思いもない。こうして書いていて気力を確認出来ることが楽しい。それは蘇鉄に対峙した時に感じる気分に似ている。彼らは黙ってそこにあり、堂々としている。さて、今日の最初の写真は先月15日、数年ぶりに家内と自転車で訪れた天神川太秦の大きなスーパーの手前で撮った。小さな家の玄関脇にあって大事にされている様子がうかがえる。2枚目は同じ日、別のスーパーに向かう途中、丸太町通りの北側で見かけた。以前にも投稿したかもしれない。3枚目は今月1日、桂の自衛隊の近くだ。やはり数年ぶりに訪れる店に行く途中で、前回自転車で走った時にはなかった。玄関両脇に5,6メートル離れて一鉢ずつ置かれ、仁王さんのような魔除けになっている。最後の写真は22日のTV番組で見かけた蘇鉄で、島根の江津駅だ。上がTV画面でたぶん駅舎の北側玄関へと通じる線路沿い、下がグーグルのストリート・ヴューで北側の玄関前だ。この駅は蘇鉄で有名かもしれない。駅は国道9号線沿いにあって、桂から亀岡を抜けて丹波街道を西に進み、さらに西に向かうといずれ着く。車の運転が出来ない筆者はネット上の写真で我慢するしかない。

