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●「水やりを 怠り弱る 草木見て 世話のかからぬ 逞しさ褒め」
頼を 置くや尺度の 名声は 裏に醜き 実体隠し」、「時雨あれば 堤防壊す 豪雨あり 神のジョーロの メンテ怠り」、「夕暮れに バケツ四杯の 水をやり 狭き裏庭 わずかに涼し」、「天を向き 群がり咲くや 鶏頭の 根元にそっと ジョーロの慈雨」
●「水やりを 怠り弱る 草木見て 世話のかからぬ 逞しさ褒め」_b0419387_16103754.jpg
今日は昨日の続き。今日の最初の写真は3月27日に堂本印象美術館の近くにある喫茶店を兼ねたパン屋で撮った。筆者の座席からブリキ製の大きなジョーロと籠が見え、そこだけ見ればフェルメールの絵画の雰囲気でなかなかよい。真正面の奥すなわちガラス越しの店外は向かいの家の物置で、そこに緑色のプラスティック製のジョーロが置かれている。視線の左右かつ遠近の2個のジョーロを見比べ、今年は同様の大きなジョーロを入手しようと思った。鶏頭への水やりはジョーロがいいからだ。去年は息子が子どもの頃に遊びで使っていた半ばおもちゃの小さなジョーロで間に合わせた。これは牛乳瓶1本ほどの水しか入らず、また先端が茶瓶の注ぎ口と同じ形状であるため、草花の根元に撒くには勢いがよすぎて大量に注いでしまう。鶏頭の種子を撒く頃までに買うつもりで、スーパー近くの荒物屋に立ち寄り、三条通り沿いの100円ショップも覗いたが、売られていない。百貨店ではたぶん最低でも2000円はするし、嵩張るので持ち帰りが不便だ。ネットで中古を買っても送料は1000円以上になる。それに気に入るものがない。どうすればいいかと考え続けながら、5月下旬にネットで面白い商品を見つけた。1リットルのペット・ボトルの先端に取りつけるジョーロ・ヘッドで、2個で250円、送料は同じほどだ。鶏頭への水やりは大型のジョーロは必要ないのでそれに決めた。届いたものを早速使用するためにコーラを久しぶりに買い、その半分はファスビンダーの映画を思い出しながら「クバ・リブレ」のカクテルを作って飲んだ。また何年かぶりにファスビンダーのDVD『聖なるパン助に注意』を見た。この映画は何度か見るうちに味わいがよくわかって来る。しかしそうした作品を評価しない映画ファンは多いはずだ。数年を経てまた見る気にさせる映画は注意すべきだ。そのことをこの映画の題名は表わしている気もする。何度も見る間に滋味と言えばいいか、ファスビンダーが映画の何を聖なるものと思っていたかがわかって来る。この映画の感想は10年前に書いたが、改めて書きたい気にさせる。それはさておき、大型のジョーロでは置き場所に困るし高価なはずで、ペット・ボトルをジョーロ本体に使えるヘッドはよいと思ったのに、ボトル内の水を密閉状態で使うため、ボトルを手でいちいち凹ませなければ水は出ない。手荒にすればボトルはいずれは破損するが、無限に入手出来るプラボトルだ。これで鶏頭の根元に夕暮れに毎日水をジョワーと与えている。爆暑続きのこの頃、1日水を与えなければ葉がだらりと垂れる。しかし野生的な鶏頭で、やりすぎはよくないだろう。
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# by uuuzen | 2024-08-03 16:13 | ●新・嵐山だより
●「鶏頭の 小さき花の 咲きそろい 白き蜆の 蝶留まり舞う」
はあれど 無名の号を 使いしは 取るに足らぬを 肝に銘じて」、「気がつけば 鶏頭の葉の 紛れしや 鉢の端にて すくっと立ちて」、「鶏頭は 縁なき花と 気に留めず あの人を知り 思い重ねり」、「日没に ざあと水撒く 裏庭に 鶏頭の咲く 鉢五つ六つ」
●「鶏頭の 小さき花の 咲きそろい 白き蜆の 蝶留まり舞う」_b0419387_15211648.jpg
5月13日に書いたように、今年は鶏頭の種子を4月12日に蒔いた。タキイ種苗から通販で買った一袋の半分で、残りは5月下旬に隣家の裏庭の一部を掘り起こし、石や根を除去した後に蒔いた。ところが水やりを続けたのに全く発芽しなかった。どうにも不思議で、鶏頭は気難しい。去年は6月17と25日の二回に分けて撒き、後者の発芽は7月9日の雨天に傘を差して「風風の湯」の玄関前の桜の林の周辺部の20か所ほどに移植した。ところが1週間と経たない頃に雑草刈りが行なわれ、桜の根本周辺にあったさまざまな雑草はきれいになくなり、おそらく発芽した鶏頭も一掃された。桜の林を選んだ理由は、夏場はほとんど誰も立ち入らず、野生的な環境を好みそうな鶏頭にはいいと思ったからだ。しかし開花するまでの間に勢いのよい雑草に負けるだろう。さて、今日の写真は6日前に裏庭で撮った。地面にもう2鉢あって、日当たりは後者が劣る。隣家の裏庭との間にある背丈ほどのブロック塀の上に鉢を並べているのは、そこが最も日がよく照るからだ。毎日の水やりに困るが脚立を使っている。今年の種子蒔きは去年と違って、スーパーで売られる卵のケースのような、縦横にたくさんつながった発芽用の黒いプラスティック容器にではなく、鉢に直接蒔いた。鶏頭は移植を嫌うからだが、あまりに小さい種子で、つまんで蒔く際にどこにどれほど落ちたかわからない。写真の横長のプランターには適当にばら蒔いたが、発芽直後から名前の知らない小さな草がびっしりと繁茂して絨毯のようになっている。鶏頭は間引きせねば大きくならないのに今回はそれをしなかった。しかし様子を見て半分ほどに減らすつもりもある。その時、抜いたものを捨てるのはかわいそうで、去年と同じく桜の林に移植しようかとも思うが、根を傷つけてはならず、土にスコップを垂直に深く差し込み、その全体をごそりと鉢から抜いて植え替える。ヒヤシンスが咲き終わってその球根を得た5月中旬、その同じ鉢にスコップで抜き取る方法で発芽して間もない鶏頭を3,4本植え替えた。それが順調に育って開花しているので、移植を嫌うとはいうものの、根を傷つけなければよい。2週間ほど前から多くの白シジミ蝶が鶏頭の花に飛来し、毎日それを見るのが楽しい。写真からわかるように現在は小さな花なので、本当にシジミの貝殻のように見える小さな蝶はよく似合う。遅いかもしれないが、間引きしない限り、今年は大きな花は望めないだろう。種子の袋の裏面に「草丈が高く、茎と葉が赤い「久留米けいとう」です。…丈夫で作りやすい品種です。密植して小型に作ると切花に最適です。」とある。
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# by uuuzen | 2024-08-02 15:24 | ●新・嵐山だより
●「蝉丸の 琵琶音を想い 逢坂の 関越しで聴く 車中のロック」
ヒルとは 何もかも知り やる気なし そう見せかけて ニタリと笑い」、「蝉出る 穴に種落ち 育つ木に 蝉鳴き交いて 地中を目指し」、「早朝に 蝉の合唱 シンフォニー 眉しかめるな うるさき人よ」、「大玉の 西瓜書いたし 諦めし 冷やす場所なし 古冷蔵庫」●「蝉丸の 琵琶音を想い 逢坂の 関越しで聴く 車中のロック」_b0419387_11571246.jpg 今年は7月1日に蝉の声を初めて聞いた。わが家の裏庭で鳴いたのはその数日後で、ここ1週間ほどは朝5時半頃から猛烈に泣き始め、それで目が覚める。日が高くなる10時過ぎには一斉に鳴き止み、夕方にまた思い出したように一、二匹が短く鳴く。つくつく法師はまだだが、数日以内に聞こえるだろう。わが家で蝉が鳴くのは背が最も高い合歓の木だ。その名のとおり、蝉は合歓している。一昨日「風風の湯」に家内と向かう時、小学3年生くらいの男子が虫捕り網を持って駅前の桜の木を見上げていた。しかし夕方7時となればもう蝉を見つけることは難しい。地中に6年か7年か、とにかく長い間眠っていて、地表に出た途端に捕獲されれば、蝉はやり切れないが、子どもが捕るくらいでは絶滅しない。そう思って人間は魚を食べている。去年少年補導委員をした時、ちょうど今頃の夜間パトロールで、ある委員が小学校の外壁に脱皮中の蝉を発見して懐中電灯で照らした。割れた背中から青緑色に光った蝉が半分出ている状態で、その委員はすぐに灯りの向きをまた道の前方に向け、10人ほどの委員は解散のための場所に戻った。人知れず蝉は脱皮し、樹木の上方で雌を求めて猛烈に鳴く。1週間かそこらに交尾を済ませなければ子孫は残せられないが、子どもに捕獲されればさぞ無念だろうと思うのは人間の勝手で、さて蝉はどう思っているか。独身で異性に縁がないまま生涯を終える人は珍しくなく、蝉も人間も似た生涯と言えまいか。ただし地中に長年いて、その後のあまりの短い生は、人間の10月10日を母体で眠ることと比較すれば、人間はわずか1日だけの人生となる。それでは何を優先するか。やはり異性を求めて子孫を残そうとするだろう。しかし人間は1日では赤ちゃんのままで何も出来ず、10数年を経て子孫を残す能力が具わる。今日の写真は数日前に裏庭の合歓の木とグミの木の根本で見つけた蝉がはい出た穴で、同様のものが周辺で3つ4つあった。地面に穿たれたその穴は女性の性器の穴を連想させ、女性が地母神と言われる理由がわかる。蝉は自らの力で地中を這い上がりながら土の管を造り、地表に出ればそこらの幹に留まって脱皮する。同じように世界は何かを運ぶ管で出来ていて、食道や産道も含めた内臓と電線や地下鉄は同じ原理に基づく。ロジェ・カイヨワの言うように世の中の構造は1ダースに満たない原理から成っているのが確かとして、かけ離れたように見える何かと何かを根源的な相似において言葉で捉えるのが詩人だ。イメージを描く画家にしても同じだが、突飛なイメージの組み合わせで喜々としている画家は悪い意味で子どもじみている。
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# by uuuzen | 2024-08-01 12:02 | ●新・嵐山だより
●「夏休み 遠出なしでも 祭りあり 小学校に 親子が集い」
まつり 校庭使い 縁日の 気分盛り上げ 子ども遊ばせ」、「自治会に 入らぬ家庭 増えるのも 少子高齢 仕方なきかと」、「住民の 懇親のほど 難しき 好悪ありても 顔には出さず」、「あの人と もっと話を 望んでも 傍目気にして 5分で済まし」
●「夏休み 遠出なしでも 祭りあり 小学校に 親子が集い」_b0419387_17354840.jpg
3日前の27日に地元小学校で自治連合会主催の夏まつりがあった。14,5年前に筆者が自治会長を4年務めた時に馴染みの催しで、その後に少年補導委員を何度か引き受けた年も参加した。参加というのは主催者の一員として準備や後片づけも行なうことで、祭りの開催中はフライドポテトやみたらし団子、かき氷その他を提供する模擬店の運営に携わるので、朝から深夜まで終日ボランティアとして働きづめとなる。朝にテントを張ったり食材の準備をしたりした後、祭りは日が沈む5時からの開催となって、今年もそれを踏襲した。筆者は自治連合会の中で高齢の3人しかいない平安講社の役員のひとりで、本来は当日の準備や運営に携わるべきだが、声がかからなかったことを幸いに手伝わなかった。しかし全く顔を出さないわけには行かない。わずかでも行って顔見知りの人には挨拶をするのが礼儀で、それで午後5時ちょうどに校庭に入った。ちょうど紅白の幔幕内で演目が始まったばかりで、その様子を長椅子に座って鑑賞する悠長な姿は見せられないので、模擬店のテントの前や運動場の中央に立って周囲を見回し続けた。その時に撮ったのが今日の写真で、5時半から6時頃までの間のものだ。開会の5時はまだ日差しがあって、今年の猛暑では高齢者はさすがに夕涼みを期待して訪れると当てが外れる。自治連合会の筆者と同年齢のTさんとしばし立ち話をしたところ、熱中症気味で児童数名がクーラーが利いている部屋で休んでいると聞いた。同じ日の夜のTVニュースでは高槻市のもっと大きな規模の小学校の同様の夏まつりで児童5人が熱中症で倒れ、救急車が出動する騒ぎとなって、ヘリコプターが現場を上空から撮影していた。全員命に別状はないとのことで、通報した人たちは自分たちで対処出来たのではないかと思う。そのような大騒ぎになると来年からの同じ時期の開催は難しいだろう。今は責任問題がよく言われ、そのことに尻込みするあまり、子どもを集めた地元のまつりの開催は積極的になれない世代が増える一方ではないかと思う。あるいは開催時間をずらせばいいかもしれないが、あまり暗くなってしまうとそれも考えものだ。思い切って「秋まつり」と称して1か月ほど遅らせればいいかもしれない。それは自治連合会の各役員の協議による問題で、その話が持ち上がれば筆者にも参加要請の報せがあるかもしれない。あるいは今回手伝いを告げられなかったので無視されることもある。それはそれで全く気にしない。こうした行事はほかに体育祭がある。それに去年は自治連合会50周年の特別の催しがあった。
●「夏休み 遠出なしでも 祭りあり 小学校に 親子が集い」_b0419387_17360719.jpg
 行事の資金は自治会費を集めた自治連合会が各種団体に分配する。毎年大部分を使う立場にあるのは模擬店の運営をする体育振興委員と少年補導委員で、双方の合計で80名はいる。彼ら以外にPTAの役員や父親の有志団体、民生委員その他が協力する。50年も経てば時代が変わる。筆者が知っていた自治会内の古老たちは亡くなるか姿を見なくなり、自治会の委員名簿を見ても四半世紀前に名前のあった人はひとりもいない。それで大きく変わったことがあるかと言えば、各自治会内での地蔵盆や小学校での体育祭、夏まつりは内容は変わっても続けられていて、その最大の理由はほかの自治連合会もやっているからというのが一番大きいのではないか。しかしどの連合会でも同じ行事をやっているかと言えばそうではない。そのことは自分の学区のことしか知らないのであればわからないが、筆者のように嵯峨のFさんとよく話す機会があれば、連合会の会長の判断ひとつで行事内容が違うことを知る。それはある意味では大きな問題で、いかに自治連合会が他の同じ会の事情を知り、その情報を地元住民に告知しているかが問われる。しかし他の自治連合会のことを会議で持ち出しても、「よそはよそ」という一言で議題の俎上に載らないらしい。筆者はその「よそはよそ」という考えを抱く理由を問えばと言いたいのだが、長年連合会役員を務めている人に盾突くことは難しいだろう。ともかく各自治会内で時代に応じて何が求められているかを知ろうとする意識を自治会や自治連合会の役員たちが持つ必要がある。面倒臭いとばかりに行事を辞めてしまうのは簡単でも、復活は並みたいていのことではない。惰性と思われることがあってもなるべく地域住民が全員参加出来る催しは続けたほうがよい。ただし悪い意味での惰性は必ずある。そのことを言いにくい雰囲気があるのはどの団体でも同じだろう。それは日本の政治を見てもわかるように、年功序列が幅を利かせ、90歳近い人が相変わらず要職に就くことだ。年齢は関係ないという言葉はそのとおりだが、若い世代が気を使うことがよくない。働き盛りの人は自治連合会のこうした催しに時間を割きにくく、それで定年退職をした70歳以上の人が主に携わるが、誰でも想像出来るように時間と金の余裕のある人が中心にならざるを得ない。そして弁護士はいないと思うが、医者や大学の先生には声をかけづらく、その奥さんが代わりとなって各種委員を担当する場合が普通で、女性が半ばを占めるのはいいことだが、案外そうでないことも去年実感した。そのことをここで詳しく書くことは出来ないが、一言すれば男中心の団体に女性が入ると女性同士で対立しやすい。表沙汰にならないだけによけいに始末に悪く、去年そのことを充分学ばせてもらった。結論を言えば資金の流れの不透明さだが、証拠の書類があっても10数年前の古いこととなると領収書その他が残っていない。
●「夏休み 遠出なしでも 祭りあり 小学校に 親子が集い」_b0419387_17361925.jpg
 結局は現状維持が無難ということになるのだが、ある委員から聞いた話には驚愕し、またなるほどと妙に納得もした。自民党政治の縮図そのままで、自治連合会と日本の政治を比べるのは規模が違うものの、本質は全く同じだ。何かに特別の才能を持っている人はこうした住民の集まりの長にはならないし、またなれない。平凡の代表のような人物が首相になるのであって、個人は清廉でも集団となればそれでは済まない事情がある。それでみんなからの税金の幾分かを自分たちの保身のために使う。これも詳しく書けないが、嵯峨のFさんもつい先日そのことを実感したらしく、「暇と金のあるぼんくらの老人どもが好き勝手やっている」と毒を吐いていたが、聞きながら筆者は大笑いした。そのとおりであるからだ。世間の人間関係はしょうもないことが圧倒的に多く、それに気持ちを集中すると精神を病むと言っていいほどだ。それゆえそのことを直感しているごく普通の人は自治会や自治連合会から距離を置こうとする。人生で何が最も負かと言えば人間関係のトラブルだ。表立って口喧嘩をするのはまだよい。陰で長年恨みを抱き続けると、そのことがその人の顔つきや態度にも現われて来やすい。それで筆者はあまり親しく話をしたことのない人を色眼鏡で見ることを絶対にしたくないし、本能的に嫌いであってもそのことを努めて顔には出さず、挨拶程度で済ます。ここで男女の差を持ち出すと筆者が偏見を持つ人間と思われるので、以上のことは女性全般に押し広げる話ではなく、ごく一部の女性のこととしておくし、またそれを言えば男でも一部には呆れる態度の人がいる。そうした小説向きの話は昔自治会長をした4年の間にいろいろ体験したが、順に故人になって行くし、またそうなれば誰も噂せず、忘れ去られた存在になる。そう思えば、腹立たしいことがあっても何度も思い返さないに限る。人物の評判は不思議と公平なもので、生きている時は大きな顔をしていた人も、死後はその人物の評価が天秤にかけられ、横柄な態度が目立った人はそのことが強調されて評価が定まる。それは憐れなことだが、筆者から見れば本当は生前からその人の評価はそうであったのに、本人だけが知らなかったのであって、生きている間から憐れであったということだ。筆者は積極的に自治会長や今の平安講社の役員も望んだのでは全くない。頼まれたので引き受けただけだ。いつでも辞められる思いはあり、3000世帯の地域の中で名が知られて自尊心が満たされることはない。しかし稀に親しくしたいと思う人はあって、年一度のこうしたお祭りでたまたま出会って会話するが、人目を気にするあまり、あまり親しい雰囲気はご法度だ。洲之内徹はある画家が地元自治会の役割に時間を割いていたことを惜しんだ。そんな暇があれば絵を描くべきと思ったのだ。そのとおりだが、地方ではそうは割り切れない場合が多々ある。
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# by uuuzen | 2024-07-30 23:59 | ●新・嵐山だより
●「自転車の 路面のマーク ここ走れ 人と車に 挟まれ狭し」
の字を 含む車輪の 自転車の 印融けるや 路面の暑さ」、「電動の 自転車無視し ペダル漕ぐ 年季入るは 我が身と同じ」、「夏場には 歩いて行けぬ スーパーに 老夫婦乗る 中古自転車」、「先のこと 思わず今は 元気なり 人生ゲーム 上がり無視して」
●「自転車の 路面のマーク ここ走れ 人と車に 挟まれ狭し」_b0419387_10520479.jpg 今日の最初の写真は京都中京の三条商店街で撮った。去年から気づいていながら撮影が今頃になった。この商店街は時間帯によっては車も走る。自転車の通行は多く、歩行者の間を縫って衝突せずに背後から追い抜いて行く。写真の自転車マークはここを走れという意味だが、道幅が広い割りに人通りが少なく、おそらくほとんど誰もこの標識を気にしていない。しかし路面にこのシートを貼りつけた人は、標識上を自転車が走り、左手つまり店側を歩行者、右手つまり商店街の中央部を車と分けているつもりだろう。自転車走行用の道路表示は京都市内には5,6年前に急速に増えた。自転車に乗っている人からはまとも見えように、すなわち歩行者には縦に引き伸ばされた自転車記号で、京都府警独自のデザインかと思う。今日の写真のものが三条商店街独自かと言えば、これの設置を商売にしている会社の独自デザインかもしれず、その点は「飛び出しボーヤ」の看板に似た位置にありそうだ。三条商店街を歩いていて面白いのは、この路面シートが地面の熱によって白い記号の「大」を含むふたつの車輪がぐにゃぐにゃになっていることだ。そうなると、「ここはボロ自転車の専用です」を意味しそうで、筆者ならそれに該当するので苦笑する。これは以前に書いたが、数年前に家内が梅津の郵便局に自転車で立ち寄った時、自転車置き場で隣り合った地元の若い母親が家内の自転車を見て笑いながら言った。「えらい年季が入ってますね。」彼女はそれなりに整った外出着姿であった家内には不釣り合いなボロ自転車に驚き、即座に率直な感想を漏らしたのだ。「年季が入っている」という言葉はそうすぐに出るものではなく、家内はとても快活な楽しい女性でまた会いたいとたまに思い出して笑う。その自転車は10数年前に梅津の自転車屋で3000円で買った。店主は「ペンキは剥げてるけど、ものはいいので長持ちするで」と言った。確かにそうで走行具合がいい。自転車くらい最新のものを買えばいいと言われそうだが、筆者は新もん食いではない。10年ほど前か、その自転車に乗っているところを警官に呼び止められ、パトカーまで出動した。筆者は梅津の自転車の主に電話してもらって中古で買ったことをようやく認めてもらい、開放された。タイヤがつるつるに減り、乗らなくなって今は自転車置き場で夏の雑草の蔓が絡まっているが、優しかった自転車店の主を思い出せば、タイヤを交換し、塗装し直し、また乗ってやろうかという気になる。修理してもボロさは隠しようがないが、汗の出ない季節になればその自転車で三条商店街の崩れた自転車マークの上を走ってやろうか。
●「自転車の 路面のマーク ここ走れ 人と車に 挟まれ狭し」_b0419387_10522214.jpg

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# by uuuzen | 2024-07-29 23:59 | ●新・嵐山だより

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