人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●過去の未投稿日に投稿する場合があります。最新の投稿は右欄の最上部「最新投稿を表示する」か、ここをクリックしてください。

●雨の路傍のカタバミ
員に なりたくはなし 金はなし 運を信じつ 努力忘れず」、「雑草の 嫌われしこと 逞しさ踏まれ抜かれて いずれどこかに」、「名の知らぬ 雑草呼ぶに 綽名つけ 親しみ増して 互いに見つめ」、「新しき 美があるならば 花こそと 交配試す 人生は美か」
●雨の路傍のカタバミ_d0053294_01515547.jpg
500円コンテナ野菜を販売する7Sの近くに、LPジャケットほどの小さな玄関前の植え込みに親指大の黄色い水仙の花が群がって咲いている様子を何度か見かけた。写真を撮ろうと思い、ようやくある日1枚撮ったが、花の盛期はやや過ぎていて没にした。来年はどうなるかわからず、花との出会いは一期一会だ。先月25日、天神さんの縁日に行くと、去年の春に一度だけ出会った若い女性がひとりでテントの奧に座っていた。目が合って筆者はテントの奧に進むと、彼女は「去年トイ・ピアノのことで話した人ですね」と声をかけて来た。それから2,3分話し、ずっと見かけなかったことを言うと、いろいろ事情はあったらしい。去年は父親らしき男性と少し話をし、そのことが気になっていたので彼女に「お父さんですか」と訊くと「いいえ、親方です」との返事であった。今日は親方から「もういい加減、天神さんに行くべき頃やな」と言われて来たと言う。彼女は筆者のことを相変わらず「何者?」と思っているだろうが、二度目に会う彼女の顔は最初とは印象が少し違っていた。不思議な魅力と言えば大げさかもしれないが、押しつけがましくない態度、ちょっとした言葉に見え隠れする女らしい優しさ、また野生的な魅力は相変わらずだ。何か買ってあげたいが、当日はさまざまな酒を中心に売っていて、種々の酒を100本以上持っている筆者としてはほしいものが何もない。当日は小雨が降り、家内と早足で一回りして帰宅の途に着き、帰りがけに状態のとてもよい「松江のお宮」を見つけた。品のよいものばかりを並べている40代の夫婦で、美人の女性に値段を訊くと4000円と即答された。残念ながら紙箱はないが、「松江のお宮」では最初期のデザインで、筆者は同じ形のものを所有する。帰宅して調べるとメルカリで送料込みで1800円で売り切れていた。それくらいなら買うが、ネットでは時に1万円ほどで売れることがある。状態がとてもよいので4000円は妥当だろう。先の野生的な彼女の店はいわゆるガラクタばかりで、たとえば昭和の玩具ならどういうものが珍しくて高額かという知識がなさそうだ。買い手としてはそういう店でこそ掘り出し物に出会える。古道具、骨董の世界に限らず、収入を第一に考えるならば知識が最重要だ。ただし商いは売り手の人柄も大きくものを言う。その人柄は買い手と相性が合うかどうかで判断されるもので、その意味で野生的な彼女の店は彼女の存在において筆者には魅力的だ。今日は一段落で済ますつもりが予定していなかったことを書いてしまった。それで本題に入る。
●雨の路傍のカタバミ_d0053294_01521047.jpg
 今日の最初の写真は先月31日に撮った。長靴を履いて散髪に出かけ、その帰り道で車道際の街路樹の根元に着目した。雨でオオキバナカタバミの満開の黄色の花が全部花弁を閉じ、その長い茎を一斉に傾けて花芯に雨が入らないようにしている。筆者がしばし立ち止まった理由は、太い幹の根元の際に集団になって自分たちの領土を築いていることと、花の淡い黄色の可憐さに感じ入ってのことだ。黄色の花は珍しくないが、どれもこのカタバミよりも色が濃い。最初に書いた黄色の水仙の花の群れもこのカタバミの何倍もの濃度があった。五弁の筒型の花が開き切っている状態ではなく、一斉にしなだれているところに弱い花ながら懸命に自分を守っている様子が伝わり、春雨の花の風情を感じたからだ。この花は誰かが植えて手間をかけて育てているものではなく、野生で、花が咲かなければ誰も足を止めず、筆者も本来はそうだが、雨に打たれた姿と、花の透き通るような淡い黄色はこれまで見たことのない珍しさだ。一昨日はあまりに濃い紫色のヒヤシンスの花について書いた。紫の補色は黄色で、毒々しい濃色の紫であれば強烈に濃い黄色が似合うはずだが、筆者はその強烈な紫に対してこのカタバミのはかない黄色を対比させたい。このカタバミの色のような女性は珍しくなく、筆者はあまり関心はない。そう言えば筆者は強い女性が好きなのだろう。野生的という形容詞は強いという意味に近いが、先の天神さんの縁日で露店を張る女性は野生的で強い印象はありつつ、優しさ、気配りといった性質が覗き見え、雨の日の黄色いカタバミのようでは全くないものの、初めて見るような個性を発散している。それは彼女と何度も話すうちに崩れて行くものかもしれないが、その予感は当たらないかもしれない。それはさておき、今日の2枚目の写真は一昨日撮った。同じく嵯峨だが7Sにより近い場所で、カタバミの黄色の花はやはり弱々し気だ。この花の写真は美人画にたとえれば夢二が描くような女性で、特別の美人ではなく、どこにでもいそうな優しい人を連想させる。繰り返すと筆者はそういう女性をことさら好むのでは全くない。ただ70半ばになると、花も女性も、またさまざまな美しいものも、それらの本質がさらによくわからなくなって来ているような思いを時に抱く。それで初めて見たような感覚を与えてくれる花や女性に出会うと何かとても重要な経験をした気分になる。それは家内に飽きているからではない。家内も含めて筆者は女性の本質を何ら知ってはいないのではないかと思うことがよくある。そして今日の2枚の写真のように、見慣れているはずの花が全然異なった姿で眼前に現われると、その衝撃的な美しさに呆然とする。女性が男性に対してそのように感じることがあるのかないのか。それはあるに決まっている。誰しも気づかないうちに魅力を発散していて、その魅力を感じ取る誰かがいる。

# by uuuzen | 2026-04-07 23:59 | ●新・嵐山だより
●神社の造形―下嵯峨稲荷神社(豊川稲荷神社)
崎に 丹色映えるや 大鳥居 陸の孤島に 文化平安」、「色褪せの 朱色似合うや 白壁に 春の日差しの 影まだ弱き」、「生垣を 割って鳥居の 開き口は 人を吸い込む 仕組みの標」、「塗り替えを 繰り返し後 建て替えを 鳥居示すや 事物の保存」
●神社の造形―下嵯峨稲荷神社(豊川稲荷神社)_d0053294_14430955.jpg 昨日ヒヤシンスの花を撮った後、家内から3月末までの年度内に記帳すべき銀行通帳についてまた話された。最寄りの支店が車折神社前にあって、雨天ではそこまで行くのが億劫だと言う。筆者は記帳を引き受け、長靴を履き、透明ビニール傘を差して歩いて行くことにした。記帳が終わった後、同じ道を引き返さずに南方の嵯峨美大前を歩くことにした。同校の南西に確か2年前、鶏頭の花がたくさん咲いていた老人ホームがあり、そこまで歩いて植え込みを確認すると、当然ながらまだ鶏頭の花はない。そのまま西に歩き、三条通りに出る少し手前に嵐山小学校がある。その門の左手すなわち南側に直径1メートルはありそうな切り株が目についた。桜の老木が倒れる事故がよくあり、その心配から伐られたのか、自然に枯れたかだが、グーグルのストリート・ヴューで確認すると、最新の2022年7月の撮影では写っている。桜ではさそうで、幹は45度より低く正門に向かって傾き、やはり倒れる心配があったのだろう。同校には市民健康診断で昔一度訪れたことがある。筆者の住む地域の小学校はこの嵯峨にある小学校より桂川を挟んで西側にあるのに、50年前の創立時に「嵐山東」と名づけられた。その理由は忘れた。さて、嵐山小学校の正門前に垣根があって、その合間に色褪せた鳥居があることに気づいた。2年前に歩いた時も気づいたはずだが、カメラを持っていなかったのだろう。今回は写真を撮った。鳥居脇の立て札に「豊川稲荷」とあって、先日出町柳の妙音弁財天の境内奧にも同様の社があったことを思い出す。鳥居を入って左に折れると三重の鳥居があって、その様子も妙音弁財天と同じようだが、こちらはかなり色褪せている。ストリート・ヴューによれば、垣根沿いの鳥居は2019年6月以降に建った。現在の褪色はこの6,7年間に進んだことがわかるが、この鳥居がなければ垣根越しにわずかに見える三重の鳥居は「my神社」と思われていたのではないか。今もその可能性はあるが、持ち主が高齢であれば次代の所有者が鳥居を塗り替えたり建て直したりするだろうか。色褪せた鳥居はいずれ塗り直す必要がある。見栄えがよくないというより、木材の保存には具合が悪いからだ。帰り際、鳥居脇に小さな本棚があることに気づいた。児童書その他、好きに持ち帰ったり置いたりしているようだ。右端に雨にどうにか濡れずに展覧会図録が1冊あって、もらって帰った。93年開催か、ポルトガルと日本の関係に焦点を合わせた展示で、同じ本を持っている気がしたが、隣家の図録置き場を調べると思い違いであることがわかった。散歩に出てよかった。お詣りのご利益か。
●神社の造形―下嵯峨稲荷神社(豊川稲荷神社)_d0053294_14424994.jpg


# by uuuzen | 2026-04-06 23:59 | ●神社の造形
●3年目の濃い紫色のヒヤシンスの開花
しくも 買うは宝珠の ヒヤシンス 窓の明かりで 水鉢に生き」、「三代で 潰すか店の 看板を 時代に合わせて 意匠変えるも」、「花の数 減りてさびしき ヒヤシンス 秋に土掘り 球根いかに」、「紫の ヒヤシンス見て 描けぬと 思う理由は 絵具及ばず」
●3年目の濃い紫色のヒヤシンスの開花_d0053294_23322029.jpg 3年前の12月23日、岡崎の丸太町通りの南側の歩道にヒヤシンスの球根がひとつ落ちていた。拾って帰って植木鉢に植えると3か月後に花が咲き、そのことは写真を添えて2年前に投稿した。花の後、花穂を切り取って放置しておくと、土の中で球根が育つ。たぶんどの花の球根も同じだ。地表の葉は枯れるまでに光合成によって球根に栄養を送り、花の終わった直後に葉も抜いて処分するのはもったいない。花穂の切除後、何か月放置すれば妥当か知らないが、クリスマス頃に球根を植えると3か月後に開花したので、花が終わって半年はそのままでいいはずだが、数か月で葉は枯れ、半年経たない間に球根のことは忘れる。たぶんこの鉢かと思って雑草の生えた植木鉢を逆さにすると、土の中から球根が現われる。2年前は元の球根と同じほどの大きさのものが得られ、去年の秋は半分ほどの大きさになり、しかもその脇に小指の爪ほどの球根がふたつ出来ていた。子孫を増やそうとして必死なのだ。小指大の球根を増やしたために中央の球根が貧弱になったのかどうか、それを植えればどういう花が咲くかは予想出来、今春そのとおりに咲いた。今日の写真は今月1日の撮影で、一昨年の球根の半分ほどの大きさであったため、花の数も半分ほどのさびしさで、球根の大きさどおりに花が咲く。脇にあったミニ球根は長い一本の葉として育ち、花穂はつけなかった。水やりをするのみで肥料を与えていないから、うまく育っても昨年と同じ大きさの球根がひとつ得られるだけで、それはまだ幸運ではないか。今秋、球根を掘り返すとどのようになっているだろう。天候も左右するとして、主たる球根はさらに小さくなり、分岐球根は数を増やしても小さいままだろう。種苗会社のホームページなどに球根の育成について詳しく書かれているものがあるはずだが、ずぼらな筆者はそれを知っても肥料を買うなどの面倒はしないだろう。それに庭にこのヒヤシンスが一鉢あるだけで充分で、それほどにこの濃い紫は他の紫には見られない苦味走った独特の味わいがある。以前にも書いたが、毒々しいのが面白く、そういう花は手元にわずかでよい。ヒヤシンスの花は写生する気を生じさせないが、この濃い紫は絵具では再現出来ない。染料でも無理だろう。そう思うでなおさら描く気は起らない。そして色を使う絵画は実物の再現は不可能であることを知る。色は光と不即不離の状態で存在し、絵具で光の照りを表現するのは無理だ。無理に描けばおそらく実物以上に毒々しくなり、少しも美しい絵画にはならない気がする。しかし白や淡い色のヒヤシンスなら話は別だ。

# by uuuzen | 2026-04-05 23:59 | ●新・嵐山だより
●嵐山中ノ島公園の雨桜
天候 気にせず進め 破天荒 ぬかるみ越えて 兵士は平気」、「雨傘に 花びらつけて 花見かな 花のたまりを 眺めて避けて」、「花びらを 集めて流る 小川にも 鴨の番いの 花見あり」、「満開に なった途端の 強き雨 まだ散るまいぞ 次の晴れまで」
●嵐山中ノ島公園の雨桜_d0053294_01000691.jpg
昨日の夜桜に続いて今日は先月31日に撮った雨の桜の写真を掲げる。雨天では嵐山の観光客はまばらかと言えば、小旗を掲げた先導員の後を10数人の外国人旅行者の団体がぞろぞろと着いて行くのはいつものことだ。彼らは不運にも雨に遭遇したが、スケジュールどおりに動く。団体旅行はそこが欠点だが、団体の楽しさはあって、昔の筆者と家内は阪急交通社の「旅物語」を利用して各地を旅したものだ。しかし当然と言うか、そうした旅行はどこをどの順序でどう巡ったかの記憶がほとんどない。楽しくないことはないが、道に迷いながら目的地に行くことの方がより楽しい。連れて行ってもらえる便利さの団体旅行と違って、何から何まで自分で決めて旅することは、筆者の人生に似ている。大昔は旅は楽しいものではなく、過酷なものと思われていた。そのことに関してイタロ・カルヴィーノの本に旅人を泊めては殺してその死体を宿の暖炉で焼いていた宿主のことが書かれていて、それは現代では考えられないことかと言えば、そうは言えない国や地域はまだあるかもしれない。ひとり旅をする者から金品を奪い、その証拠を隠すために殺してしまうことは絶無とは言えない。若い女性ほどその災難に遭遇する確率な高いだろう。そういうスリルも含めての旅の魅力と言えるかもしれず、災難を想定すれば切りがないとも言える。さて嵐山は桜の名所と言うほどに桜の木は多くないが、よく見るとどの木も、つまり松や楓も含めて、手入れは行き届き、形がよい。嵐山を背景に渡月橋とその周辺の桜や松など、確かに絵になる眺めで、先月投稿した円山応挙の京名所を描いた屏風は現在の嵐山、中ノ島の風景がそれとわかるようにいわば記号的かつ箱庭的に配され、外国人にも評判になっていることはわかる。ただし団体旅行の外国人はみな渡月橋北詰から北へと歩を進めて竹林を訪れるようで、渡月橋を南にわたって中ノ島公園を散策する人はほとんどいないように見える。先の応挙の絵も渡月橋北詰のやや下流の上空からの眺めで、中ノ島に立てば嵐山はあまり見えず、眺めは陰陽の陰にたとえてよい。とはいえ、あまり人が多く集まらないのはそれなりのよさがある。「風風の湯」の常連は、たいてい以前は嵯峨にある「天山の湯」の常連であったが、あまりに混雑して芋の子を洗うようで、それが嫌で空いている「風風の湯」にやって来るようになった。確かに露天風呂に筆者ひとり浸かって満開の桜を愛でることが出来るのは、ちょっとした非日常の旅気分で、それを毎年味わうことはしみじみと人生を追憶させもする。
●嵐山中ノ島公園の雨桜_d0053294_01003004.jpg
 先月末は中ノ島の雨の桜を見るためにわざわざ出かけたのではない。買い物で嵯峨に行く必要があり、筆者は黒い長靴を履いて家内と出かけた。その長靴はコロナ前であったか、神戸の長田神社の少し手前の店で買った。年に一度くらいしか履かないが、なくては困る黒の礼服のようなものだ。長靴はファッション的には見栄えしないアイテムだが、雨がひどい時は水溜まりでも平気で入れるし、足元を気にせずに済むのでよい。そう言えば筆者はズボンの膝をよく擦り減らして破き、当て布を自分で施して着用する。家内は格好悪いのでよせと言うが、筆者は平気だ。話を戻して、水溜まりに浮かんだ桜の花びらが絵画的であるのは、花びらが褐色づかずに散るからだ。わが家に八重のピンク色の花を咲かせる大きな椿の木があって、来週は次々に落花し始めるが、どの花も必ずどこかが褐色づいていて、地面に落ちた時点で枯葉のように思える。人間で言えばわずかにシミや皺が出来た状態で、大いに若さが残っているが、それでもう役目を終えて枯葉と一緒に処分されるのは残酷だが、その椿の花が褐色を帯びずに地面に落ちることの方が無残であろう。となれば全然褐色を見せずに散る桜はどうかという話になる。椿の花は地面に落ちた時にボトリと音が聞こえるほどに重さがあるのと違って、桜は風が吹けば無音でハラハラと落ちるし、また花弁の数は無数と言ってよく、椿の落花とは全然風情が違う。そして地面に落ちた眺めも見物で、人は花がなくなってさびしくなった桜の木から地面に目を落とし、花びらの溜まりを惜しむ。集まった花びらがゆっくりと流れている様子を見るのも乙なもので、海に流れついてそこで海底に沈むとして、魚類への何らかの栄養になるのだろう。地面に落ちた花びらはすぐに土に同化して見えなくなるが、落ちてしまえば誰も気にせず、平気で踏み締める。充分役目を果たしたものがすぐに忘れ去られることを桜は代表している。かなり高齢になっても元気な人が高齢者に元気を与えるという理由は眉唾もので、高齢者は自分より元気で人気があり、金もよく稼いでいる高齢者を内心疎ましいだろう。若手でもそうならばなおさらで、近年筆者はそのことを折りに触れて思う。そうなるとこのブログも他者に目障りかと気になるが、嫌な人は見ない、読まないから気にせずともよいと自分を説得しながら、どこかで嫌われ者の老人になってしまうことの可能性が頭から去らない。どの花もだいたいぱっと咲いてすぐに散るか枯れるが、花だけが生ではないと思えば、老人になっても相変わらずごそごそと何かに携わっていることは、美しいとは言えないまでも誇ってよいことではないか。それはともかく、ビニールの雨傘に桜の花びらが数枚こびりつき、それをそのままにして歩くのは楽しい。今日の写真はどれも絵を見るような風情があって、桜の季節は雨の嵐山も見ものと言っておこう。
●嵐山中ノ島公園の雨桜_d0053294_01005355.jpg


# by uuuzen | 2026-04-04 23:59 | ●新・嵐山だより
●嵐山中ノ島公園の夜桜
意のなき 他愛なきこと 他者に告ぐ ブログ綴るも 他生の縁か」、「桜咲き 長生きしたと ふと想い 何と早くも 一年は過ぎ」、「花びらを 掬う童の 真面目顔 露天風呂にて 桜照らされ」、「夜桜を 見て思い出す 華岳の絵 浮世美し さらに哀しき」
●嵐山中ノ島公園の夜桜_d0053294_20541489.jpg
今日は先月28日に撮った写真を載せる。同じ日の写真は一昨日にも1枚使った。夜桜で最も記憶にあるのは大阪造幣局の「桜の通り抜け」で、夜に2,3回見たことがある。大勢の人に混じってぞろぞろと歩くだけだが、たっぷりとした八重桜がライトアップされていると濃厚な色気が漂い、昼間に見るのとは風情が違う。通り抜けではなくてそれらの桜の木の下でゴザを広げて飲食すればもっと楽しいだろうが、お彼岸が済んでも肌寒い日は多く、今年は特にそう感じるから、夜桜の下で気の合う者と一杯やるというのは想像しにくい。嵐山の中ノ島公園はわが家から近いので家内と夜桜を見ておこうという気になるが、店はすべて閉まっていて、また川からの風は冷たいので写真を撮ってすぐに引き返すことになる。造幣局の夜桜を見た人々はその後どうするのかと言えば、天神橋筋商店街にでも出て食事するか、若い世代なら火照る体を桜宮のラヴ・ホテルで落ち着かせるのだろうが、嵐山は何もないので夜桜のライトアップを楽しむ人もまばら過ぎる。エネルギーの無駄と言ってよいが、懸命に開花した桜をねぎらうために数日はライトアップしてやるのは思いやりと言うものだろう。しかし花も夜は眠りたいはずで、ライトアップを迷惑がってはいまいか。そう思うのは先日「風風の湯」の桜の植え込みの下にある2,3の夜間照明のひとつが真っ赤に見えていて、電球の色を変えたのかと思っていたが、サウナ室から出て露天風呂に行く際、気になって間近で確認すると、山茶花の赤い花が照明にまともに当たっていて、赤い光に見えることに気づいた。LEDなので熱はあまり持たないとしても、花は昼と間違って迷惑するのではないか。夜間照明で思い出した。毎年桜と紅葉の季節に清水寺は夜空に向かって青い一筋の照明を投げかける。今日の最初の写真の中央付近にその青い光が写り込んでいる。清水寺まで9キロほどと思うが、この青い光は飛行機やヘリコプターからどう見えるのか、また迷惑ではないのだろうか。夜を明るくすることが文明の進歩の象徴となって、労働が終わった後の夜を楽しむ人が増えたが、一方ではコンビニが24時間営業をするなど、エネルギーの使い放題の風潮が広がり、いわばそれで嵐山のほとんど誰も見ない夜桜もライトアップされる。円山公園の有名な枝垂れ桜は夜に篝火が焚かれるが、それはライトアップの補助で、主役は電気の照明だ。また繁華街にごく近い八坂神社であれば夜桜のライトアップを味わうために訪れる人は多い。そう思いながら筆者はもう何年も円山公園の夜桜を見ていない。
●嵐山中ノ島公園の夜桜_d0053294_20543577.jpg
 そんなことは誰にでもある。死ぬまで再会のないことは無数にある一方、初めての「こんにちは」もあって、何気ない時に思い出すことが人生のひとつの謎めいた意味だ。同じことが犬や猫にあるかとなれば、同じ動物であるからにはあるだろう。たとえば豚が満腹になって眠たくなった時、記憶がぼんやりと蘇って、「あの時に食べたものはうまかったなあ」などと思うであろうし、そのことが生きる原動力になるというおおげさなことではなく、ただ半ば無意識で思い出すことは誰にでもある。それは重要な記憶であるからではない。言葉で伝えられないイメージで、また美しいというものでもない。そういう幻を絵画として表現するのが画家だが、夜桜で思い出すのは村上華岳の「夜桜之図」だ。2週間ほど前、84年の華岳展の図録をヤフオクで落札し、そこに載る同作のカラー図版を見て記憶とは色合いが違うと感じた。実物はもう少し色鮮やかで、色気が強い。この二曲屏風は大正2年(1913)、華岳25歳の作で、当時全く評価されなかったが、天才ぶりを示す代表作だ。夜桜とその下で酒宴を楽しむ大勢の人々の気配をどうすれば鑑賞者に伝え得るかを考えた場合、まずそういう困難な絵を描こうと決心したことに筆者は驚く。江戸末期の平野神社の夜桜を画題にし、浮世絵しかも肉筆のそれを思わせるところ、2月24日の投稿で少し触れた岸田劉生の著作『初期肉筆浮世絵』との関連を思わせるが、同書は「夜桜之図」から13年後の出版で、終生より3歳年長の華岳は劉生よりもかなり早く「でろり」とした感じをよく認識し、また描くことに成功していた。「でろり」は猥雑な色気と言ってよいが、色気が猥雑さを必ず大いに交えているとの見方は正しくなく、「夜桜之図」は後の甲斐荘楠音の絵のような体臭を発散する肉感的なものではなく、前述したぼんやりとした時に蘇る気配の記憶に近く、喪失感を伴なう切なさが色濃い。ぼんやりしている時に無意識に蘇るイメージは特別恋しく、思い出して懐かしさに心が震えるほどのおおげさなものではないが、それでも経験した人生の明らかな断片で、死ぬまでに何度も一瞬想起されるものだ。そういう幽かなイメージの存在を「夜桜之図」は教えてくれるのだが、その絵のイメージもぼんやりしている時、あるいは夜桜を実際に見た時には筆者の脳裏に浮かぶ。そして同時に平野神社の境内を思い出し、またそこを訪れて同作を描く気になった華岳の気持ちを想像してみる。誰しも20代半ばの若い頃は特に活力を漲らせて行動し、あまり幽かなことに関心を持たないと言ってよいが、活力を幽かなものを他者に伝えるべく漲らせることに華岳の絵を描く主なる目的があった。それは劉生のような写実で表現出来ないかとなればそんなことはない。晩年の劉生が初期肉筆浮世絵に関心を抱いたことは若い頃に幽かに感じたことの凝視で、大正時代の空気からの感化でもある。
●嵐山中ノ島公園の夜桜_d0053294_20545761.jpg


# by uuuzen | 2026-04-03 23:59 | ●新・嵐山だより

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2026 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?