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●「未使用の シール貼りたし 目立ち場所 誰もそうして どれも目立たず」
どい人 レッテル貼って 貶めて あんた個人の 考えなのに」、「ラベル見て 中身判断 ド素人 見える上辺の 虚飾の魅惑」、「蝋垂らし 印押し付けて 口封じ 飲みたいならば 金を払えや」、「切手舐め 貼ること知らぬ 新世代 LINEスタンプ ベロ出しの口」
●「未使用の シール貼りたし 目立ち場所 誰もそうして どれも目立たず」_d0053294_13133199.jpg 今日の最初の写真は2週間ほど前に撮った。このシールで埋め尽くされた「照明分電盤」は嵐山の渡月小橋の南端西にあって、すぐ南が料理旅館「花筏」だ。また猿が群がる遊園地の山への登り口にほど近い。付近は桂川に向かっての眺めが写真撮影にはなかなかよく、渡月橋辺りは外国人観光客で日々あふれ返っている。この分電盤は何年も前から塗装が剥がれるなど、見栄えは悪かった。それを少しでも隠す意図からか、あるいは逆に手入れが行き届いていないのでなおさらいたずらしてやろうとの思いのほうが大きいだろうが、ある日誰かがシールを貼った。それが目につくとさらにまた誰かが貼る。群衆心理はそういうものだ。最近スーパーへの途上、自転車でしばしば通る線路沿いの道がある。そのとある空き地に「ゴミ捨て厳禁」の立て看板が目立ち、看板の周囲に瓶や缶などのゴミが目立つ。少し離れた看板のない場所はきれいなままだ。え、ゴミを捨てる人は看板に反抗的な気分になるのだろう。話を戻して、筆者が渡月小橋のこの分電盤のシール満載に気づくのは、以前はこういう状態でなかったからだ。塗装の剥げを放置していると、それが気になる人は少なくないはずで、そういう人の中にいたずら心が湧く場合があって、シールを持っているとそれを貼ろうとする。そうして目立つと誰もが同様のことをする。このシール満載状態はSNSで「バスる」ことと同じだ。筆者がこうして写真を紹介すると、そのバズり具合に拍車がかかるかもしれず、嵐山の新名所となるかもしれない。いつからこのような状態になったか。当然外国人観光客の急増以外にない。つまりこの2年ほどだ。夜間の照明に不具合が生じて分電盤の内部を調べる人が、いずれはついでにシールを全部剝がすが、頻繁にその作業をしない限り、また同じ状態になる。さて一昨日の「ザッパロウィン」でさあやさんがこれまでの「ザッパロウィン」用に作ったチラシのデザインをシールに印刷し直したものを配布した。今日の2枚目の写真がその6年分のデザインだ。シールは100枚で1万円だったそうで、「ザッパロウィン」は演奏者の出品が嵩む。筆者の手製の「お土産」も毎回家内に呆れられているが、せっかくのお祭りで、尽力や出費は気にしない。シール6種を切り分ける作業を963さんがしたらしい。手違いでスケルトンとして印刷され、貼る箇所が白地以外では絵柄がうまく見えない。分電盤に貼っても目立たないので使用は控えておこう。この分電盤のグーグルのストリートヴューの最新画像は今年9月だ。2年後の次の撮影の直前頃に何か目立つシールを貼ればストリートヴューの記録に残る。
●「未使用の シール貼りたし 目立ち場所 誰もそうして どれも目立たず」_d0053294_13135844.jpg


# by uuuzen | 2024-11-05 23:59 | ●新・嵐山だより
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 24』
性には 助成の金を 払うべし 男性ほしき 強き弾性」、「君が代を 歌う君がよ 気味がよし 調子外れも 謗られぬ由」、「覚醒を 求めてたばこ 吸い続け 眩暈ほしさに 酒を欠かさず」、「雨傘や 失うよりも 妻怒る 古びたゴミを なぜ持ち帰る」
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 24』_d0053294_20523178.jpg 昨日書いたように今年のザッパロウィンは初めて大雨に遭遇したが、幸い開演までには晴れ間が覗いた。10月28日の夕方に届いたさあやさんからのメールでは予約者が25名、その3日後は36名で、昨日のメールでは38名が入ったとのこと。筆者を含む関係者がその半数近くいたので、会場は狭苦しかったが、やはり客の入りは多いほどよい。今年で早6年目の催しで、それを記念してでもないが、さあやさんは毎回デザインしているチラシを今回はステッカーに印刷して来場者に配布した。それが今後どう変化してまとめて印刷される機会の有無は客の入りにかかっている。BWANAもザッパニモヲも少しずつレパートリーを変えて来ているが、ザッパニモヲの中心となるレザニモヲのふたりは毎回新曲を加え、ステージ運びに腐心している。それゆえ今後の変化がこのハロウィーンにちなんだザッパ祭にはあるが、ドイツの毎年開催されて今年確か34回を迎える「ザッパナーレ」に倣って、多くのバンドが出演して場合によっては2、3日にわたっての祭りになるという当初からの筆者の思いの実現は今のところ遠い。昔からザッパの音楽は日本では受け入れられてもアジア諸国では無名同然で、そこにはザッパの政治信条も作用しているが、せめて自由主義諸国だけでもどうかという思いは今もある。またたとえば韓国や台湾でザッパ・ファンが増え、ザッパ曲をカヴァーする人たちが出て来た時、BWANAやザッパニモヲがその模範となるはずで、ザッパロウィンを続けることは夢が広がる。大火事は最初の小さな炎から始まる。何事もどういうきっかけで大きく火がつくかはわからない。ただし、BWANAもザッパロウィンもそういう夢は少しは見るかもしれないが、理解あるザッパ・ファンが集まって楽しく演奏を聴こうというのが最重要の目的で、そういう醍醐味を理解する人が少しずつでも多くなって行くことが期待される。今回さあやさんが明かしたが、来年5月10日に今年5月と同様DEWEYでザッパニモヲが単独で演奏する。春と秋の演奏は当初から筆者の願いであったが、それが定着しそうで、ザッパニモヲにすれば練習量が増え、レパートリーが多くなり、演奏技術が高まることであって、自然と評判も高まって行くだろう。「客は製造出来ない」とは昔からよく言われるが、評判が高まれば客は増える。またその評判は唯一無二のものに対して火がつくもので、その価値をわかってもらえる方策を、バンド・メンバーは練習とは別に考える必要はある。また筆者はこうした文章でもっぱら宣伝と報告に務めるが、ロックやザッパにまとわりつくイメージはなかなか変えにくい。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 24』_d0053294_20525781.jpg さあやさんは予約者数が増えないことを懸念するメールで、「(聴き手が)食傷気味かもしれない」と書いて来た。それが正しいかどうかはわからない。筆者はと言えば、1年ぶりに会うザッパ・ファンがちらほらいて、ザッパロウィンがなければ会う機会がほとんどないことを思うと得難い機会になっている。これまで毎回来てくれていた人が今年は来なかったことが気になるが、会場では最高齢者の筆者にしてもいつ何があってもおかしくなく、ザッパが取り持つ縁として今後もザッパロウィンは続けてほしい。問題は若い客が増す期待、またザッパの音楽にさほど詳しくない人に楽しさを知ってもらうことだが、突破口がほしいところだ。さて、今回は最初に5人で演奏するBWANAが登場し、冒頭と最後はザッパの日本公演を含む1976年のテーマ曲をそっくりそのまま演奏した。これは若い世代のザッパロウィンはほとんど気づかなかったのではないか。BWANAのギタリストの紫さんは76年2月の京大西部講堂でのザッパのライヴをいわば原体験し、その記憶は年々新たになり、そして今回の演奏の最初と最後の演奏となったと想像するが、70年代のザッパは年毎にコンサートのテーマ曲を変え、それを最初と最後に演奏することで全体を印象づけた。これはビートルズの67年のアルバム『サージェント・ペパー』の技法の踏襲と言ってよいが、ザッパはレコードと同じほどに重視したライヴをひとつの完璧なショーとしてまとめるために、新曲やファン好みの曲を切れ目なしに演奏するだけではなく、全体の起承転結を意識した。これはあたりまえのことで、クラシック音楽の交響曲や組曲でもそうなっている。構成力は短い曲にも必要で、多くの曲を立て続けに演奏するとなると、また別の構成力が必要となり、それは短い曲を書く何乗ものエネルギーを要する。ザッパにはその才能はやや欠けた恨みがあるが、それは凝り過ぎたからでもある。ザッパの音楽が普通のロック・ファンに敬遠されるとすればその凝り具合に恐れを成すからだ。話を戻して、BWANAの演奏は冒頭と最後が同じ主題を奏でて76年ザッパへのオマージュを感じさせたが、ザッパは当然76年以外にもそういうテーマ曲を用意し、またそうなり得るメロディをたくさん書いた。ザッパ没後世代が中心になっているザッパニモヲはBWANAほどには年度毎にザッパの特徴にこだわりはないだろう。それがいいかそうでないかは問題にはならない。ザッパ・ファンの世代ごとにザッパの音楽に対する受け止め方が異なるのは自然なことで、そういう世代の異なるザッパ・カヴァー・バンドが登場して聴き比べられるところにもザッパロウィンの楽しみがある。その意味からすればもっと別のカヴァー・バンドないし個人が登場してほしいが、そうなれば前述のように2,3日にわたっての、また別会場を使っての大きな催しに発展する。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 24』_d0053294_20532249.jpg 今回筆者は当日になってストラヴィンスキーが自身で指揮する『プルチネッラ』をCD-Rに焼いて持参し、バンド交代の折りに20分ほど流してもらった。会場で説明したように、同曲は20代で死んだイタリアの天才作曲家ペルゴレージの曲をストラヴィンスキーが引用し、組曲に仕立て上げた。つまりペルゴレージ曲のカヴァー演奏だ。それでもストラヴィンスキーの強烈な個性が満載で、筆者は42年前にLPを買って以来愛聴している。ペルゴレージ以外の作曲家の旋律も引用していることが判明しているが、ストラヴィンスキーの才能によってペルゴレージが再発見された。それはストラヴィンスキーが見事な曲として組み上げ直したからにほかならない。「組み上げ」と書いたがそのとおりで、美しい建物のように同曲は聳えている。その美意識がストラヴィンスキーの名声の根拠になっている。どの短い旋律もみなきびきびしていて、全体の中のしかるべき箇所に嵌っている。そこからザッパを連想しても当然で、ザッパはストラヴィンスキーの楽譜を研究した。ではザッパ曲をどうカヴァーすべきかの問題がそこから浮上する。ピアノのみ、あるいはギターひとつでザッパ曲をカヴァーし、またコンサートやCD録音のために3、40分ほど演奏を続けるとすれば、全体の起承転結は当然ながら、またBWANAがカヴァーしたようにザッパがツアー用に用意した主題曲ないしモチーフを用いることのほかに、『プルチネッラ』に学ぶならば、ザッパ曲の印象的な断片旋律を各所にライト・モチーフのように散りばめて変奏する手法が浮かぶ。これは作曲に踏む込む作業だが、カヴァー演奏の最終的な果てはそこにしかあり得ない。ストラヴィンスキーがペルゴレージの曲を引用して『プルチネッラ』を書いたことに委嘱者のディアギレフは戸惑いながら結局受け入れた。そしてストラヴィンスキーにとっては新古典主義時代の幕開けになったが、ストラヴィンスキーが只者でなかったのはその後に新古典主義にのみこだわらなかったことだ。新古典主義はファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドにも顕著で、彼女はパンクから出発しながら、新古典主義の美しい衣装を創り出した。今回BWANAは筆者がこれまで聴いた最高の演奏で、ベース奏者や紫さんのギターも練習の成果がよく伝わった。紫さんの日本語で歌う歌詞はザッパの歌詞とはほぼ無関係だが、ストラヴィンスキーが言ったように音楽は何も意味せず、歌詞で音楽を意味づけることは別の創作だ。ザッパニモヲは最後に「十代の売春婦」という新曲で締めくくった。「マフィン・マン」で終わりたくなかったためだ。ライヴ全体の美的構築の観点からの同曲の演奏の是非はさておき、難曲の「エキドナのアーフ」や「イージー・ミート」の意外な新しいレパートリーは今後ザッパニモヲがどういう変化を遂げて行くかの大きな期待を抱かせるに充分であった。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 24』_d0053294_20535713.jpg


# by uuuzen | 2024-11-04 20:54 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●「濁天に 青みが差すや 安堵して and腹空き 餡ドーナツを」
節を 清く保つを 自戒しつ 晩の歩道で 屁のラッパ吹き」、「格好を かまうは大事 ハレの日は 背筋伸ばして 気分引き締め」、 「フランクと 呼ばれし男 石と化し ハロウィーンには 仮面になりて」、「お祭りが 終わって撮るは 勢揃い 登頂気分で 次の高みを」
●「濁天に 青みが差すや 安堵して and腹空き 餡ドーナツを」_d0053294_16373707.jpg
昨日は11月には珍しい大雨が降り、出かけるのに少々億劫になったが、今年の「ザッパロウィン」の会場となった大宮高辻の交差点に四条大宮から歩いて行く途中で傘は必要がなくなった。雨であったせいか、地下の「夜想」に至る階段や地上に並ぶ客はまだ誰もいなかった。すぐにビルの地下の「夜想」の階段を降りると、名古屋からのバンドBWANAのメンバーが練習が終わったばかりで扉の外に出ていた。時計がないので正確な時刻はわからないが、たぶん4時10分ほど前だ。「夜想」の中に入ると、ザッパニモヲもリハーサルが終わったと言う。荷物を下ろし、顔を合わせる人と挨拶を交わし、手持ち無沙汰から階段の下から地上を見上げると、もう空は半分が青い斑模様になっていた。先月末、さあやさんから予約者が38名となったので一安心とのメールがあった。予約者は全員来るだろうが、当日行くかどうか迷っていた人は雨で諦めた場合もあるかもしれない。筆者は先月下旬以降、4,5人に声をかけた。相手のスマホで「夜想」を表示させると、その看板と地下への階段の写真を見て驚きの声と表情になった。穴倉と言ってよい場所ではどう処していいのか戸惑いが先に立つだろう。それにザッパの音楽は認知度は限られている。そう言えば今年の時代祭で馬に乗ってくれた若者の60代の父親が医者で、9月下旬に初めて言葉を交わした。「ザッパの名前はディープ・パープルの曲の歌詞で知っているだけですが、音楽通の友人との酒席ではそうした話で盛り上がります」「現代音楽では何がお勧めですか」「バルトークのピアノ協奏曲第3番が凄いですね」「ザッパはその曲を演奏しましたよ」「えっ!」「CDは何枚くらいお持ちですか」すると奥さんが申し訳なさそうな顔をして夫の答えを遮った。つまり筆者は夫の足元にも及ばないというのだ。2、3万枚は持っているかと想像するが、それならザッパを1枚くらい持っていてもいいのに、ディープ・パープルの方に関心があるでは話にならない。医者ならば音楽を聴く時間は筆者より圧倒的に少ない。筆者は半世紀以上、起きている間はほとんど音楽を聴いている。それはさておき、「夜想」前にほとんど最初に来た濁天さん(勝手にこう呼んでいる)に撮ってもらった写真を今日は使う。4500円だったか、とても小型のカメラで動画も撮影出来ると聞いた。ライヴ後の集合写真も彼の撮影で、早速送信してもらったのでトリミングして使う。写真のフランケンザッパの仮面男性とは去年夏に心斎橋のSTARLESSで会った。今回筆者は阿弥陀くじを作り、客全員に引かせたところ、彼に筆者の本が当たった。
●「濁天に 青みが差すや 安堵して and腹空き 餡ドーナツを」_d0053294_16375664.jpg


# by uuuzen | 2024-11-03 16:50 | ●新・嵐山だより
●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」
がある この楽しみや あればこそ 明日も賭けると 夢中で駆ける」、「三大の 京の祭りは 見るだけで 参加したくも よそ者は駄目」、「よそ者が 自治会入り 半世紀 されど入り人 京の町では」、「信用は 幼馴染みに 限る人 スマホの詐欺で 大金取られ」
●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00183920.jpg 今日の最初の写真は先月27日、寝屋川市民会館での「京阪アコーディン・コンサート」を聴きに行く途中で撮った。京都の四条通と鴨川左岸の交わる北側にある出雲阿国の銅像だ。今調べると同じものが出雲大社のすぐ近くにもある。鴨川の畔にこの像が建ったのは歌舞伎発祥400年を記念してのことで、20年ほど前だ。阿国が南座を眺める角度で建てられ、三条京阪にある高山彦九郎の座像の御所を向いて拝む姿に着想を得た設置に思えるが、詳細がよくわからなくても阿国を顕彰するのはいいことだ。今日の投稿は出雲阿国がらみではあるが、内容の大半は先月22日の時代祭で撮影した写真の残りに絡むことで、今年の時代祭について別の角度から書く。時代祭は毎年同じ仕様で「行列次第」書が印刷され、関係者に配布される。筆者はそれを時代祭の当日平安神宮に受け取りに行ったのに、第十一社の代表などの関係者がみな帰宅していなかったことを先日書いた。たまたま出会った権禰宜に必要枚数をもらって帰ったが、翌日代表からもっと多くを届けられたので今年は7,8枚あまった。次第書は行列の順を詳細に印刷してあり、またそれを提示すれば京都御苑内に設けられた平安講社席に座って時代祭の行列を鑑賞出来るので、今年知り合った濁天さんに一部届けようと思ったが、時代祭前日まで3日しかなく、郵送で届かない可能性があった。またわが家に取りに来てもらうほどのものではない。濁天さんは時代祭を見るために自転車で御所まで行き、その近くで行列を鑑賞すると言っていた。筆者は行列の出発とほぼ同じく御所を出て平安神宮まで歩くので、濁天さんに会えるかもしれないと思っていたが、行列が進む道路筋沿いの歩道は人が埋まり、またみな行列を見ているので背中しか見えず、濁天さんの存在に気づかなかった。祭が終わって彼から行列を撮影したデータがいくつか届いた。音声の伴ないに興味を示したようで、届いた映像ファイルは無言で歩く第十一社は省かれていた。これは鑑賞者の立場からすれば重要な視点を提供している。無言でぞろぞろと大勢のおっさんたちが仮装して歩くだけでは関心が持たれにくいことだ。見栄えを言えば若い美人や男性がよく、今回そのことを実感した。今年わが学区から馬乗り役として参加した男性は30代半ばの長身のイケメンで、祭当日の夜のTVでわずかに彼の姿が紹介された。筆者は彼の姿を御所の堺町御門付近で待って見たが、周囲は外国人の撮影者が群がり、追いかけてまでも馬上の彼を連写している西洋人がいた。それほどに武者姿が目立ったのだ。その馬上の武者姿は先月23日の投稿の最後の写真だ。
●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00191069.jpg
 その日の2枚目の集合写真からわかるように、第十一社の行列は全員が男で、女性は裏方に回るしかない。これに不満を唱える女性が出て来て当然だが、時代行列を審議する学者たちは室町幕府には歴史上目立った女性がいないという理由で女性は行列に参加出来ないことにした。ならば行列の後方に就く40名ほどの裃隊では無理か。そのことを今春の第十一社の例会の直会の席で筆者は平安神宮の前述の権禰宜が隣りに座ったので訊ねたところ、第十一社の代表たちの意見によるとの話であった。代表に訊いていないが、男ばかりの行列であるので、裃隊も全員男であるべきとの考えであるのは間違いないだろう。裃姿で歩く女性は存在しなかったというのがその理由で、それはもっともなことだ。しかし笠で顔が半ば隠れることもあって、各社が裃姿で数十人単位で歩く中に女性が混じっていてもほとんど気づかれないはずで、裃姿の女性があっていいと思う。しかしそのことで今年は驚く光景があった。第十一社の直前の行列は第五社が担当する「織田公上洛列」で、その裃隊の最後にロシアかウクライナ人らしき金髪の若い美女がいた。その日筆者はかなり目立つ洋服姿であったので、行列の出発を待つ間に彼女は近くにいた筆者に何度か視線を送り、目が合った。ちょうどその頃、第十一社の行列の関係者と言葉を交わして教えてもらってところ、彼女のすぐそばにいた人が持つ町名を記した何かを掲げていて、太秦のとある地域から参加していることを知った。それから3時間ほど経って平安神宮内の広場で第十一社の裃2名の到着を待っていると、当然一足早く「織田公上洛列」が到着し、また金髪の彼女を間近で見た。すると年配の裃姿の男性がその女性に近づき、握手を求めながら笑顔でこう言った。「また来年も頼みます。」その美女のそばに若い男性がいて、美女とは夫婦かもしれない。それはいいとして、女性が裃姿で行列に参加してよいなら、第十一社でもそれはあってよく、そうなると来年以降筆者は女性を勧誘出来る。それはともかく、御所近くの歩道で濁天さんは撮影し、その映像の中にしっかり「織田公上洛列」の末尾の先の美女がアップで映っていた。それほど目を引く女性で、それはそれで祭としてはよかった。さて、平安神宮まで歩く筆者はもっぱら第十一社の行列の前後を行くので、まだ行列の最初から最後までを通して見たことがない。御所内の平安講社席から全部見てから追いかけても筆者のほうが早く平安神宮に着くはずだが、勉強のために一度はそうしなければならない。今日の2枚目以降の写真は撮った順で行列の順ではない。女性に目が行くのは第十一社にはいないこともあるからだが、歴史上の有名な女性をどのような現代人が扮装ているかを確認することは楽しい。それは馬に乗る有名な武士とは違ってまだ見るに耐えるからだ。
●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00193959.jpg 織田信長や豊臣秀吉、また楠木正成とはあまりにほど遠い顔つき、体つき、しかも馬に乗り慣れないのでいかにも不安定で、兜が半分ずり落ちている場合も珍しくない。市民参加の仮装行列であるから、役柄にふさわしい人物を厳選することは不可能で、それは女性にも言えるかもしれないが、化粧でかなりごまかせる女性はだいたい演じることが上手で、違和感はあまりない。「江戸時代婦人列」では和宮、蓮月、玉瀾、中村内蔵助の妻、吉野太夫、出雲阿国などが、京都市地域女性連合会が人選を行なっているので、全員ふさわしい女性がそれなりに選ばれているだろう。しかし明治に近い和宮はともかく、蓮月や玉瀾の名前とどういうことを成した女性であるかを知る人はかなりの少数派だろう。最近TVの外国人にインタヴューする番組で、ある西洋人の若い女性は蓮月の書が大好きで収集していると語った。蓮月の書の味わいは、その文字が読めなくても魅力が伝わることを思い知ったが、教養とは何かを考えるに、日本の平均的な若い女性のその低さは目を覆いたくなるものと言ってよい。玉瀾の名を聞いて即座にその絵と署名が明確に思い浮かぶ女性はたとえば芸大美大を出てもまあほとんどいないだろう。そう考えると、時代祭の「江戸時代婦人列」はとてもよく考えられた人選で、動く絵巻と呼ぶにふさわしい。しかし歴史に残る有名な女性とはあまりに癖のある人物でもあって、現在の女性が演じるとそこに前述の馬上の武士のような滑稽さがある程度滲み出ることは仕方がない。今日の2枚目左は誰に扮したか知らないが、その美女ぶりに目を引いた。右は市役所前に設置された児童生徒招待席で、馬がやって来るたびに歓声を挙げていた。3枚目は上が牛車を引く黒牛、その後方にやや小型の牛が終始鳴き声を上げて歩いていた。これは前方の牛が歩けなくなった時の代わりか。4枚目は上が三条通り沿いの古い家の前に置かれた植木鉢で、黄色のハイビスカスの満開具合が目を引いた。下は神宮道に入ってからで、3人の若い女性の先頭は出雲阿国で、後方のふたりは「弟子」だ。去年出雲阿国は筆者と目が合った途端、刀を両肩後方にかけて笑顔でポーズを作った。その堂に入った身振りに出雲阿国に成り切っていると感心したが、観衆へのそのようなサービスは素人では出来ない相談で、演劇関係の女性かと想像した。今年の筆者は傍目にかなり派手に見えたようで、男女ともに4,5人に声をかけられた。三条大橋で写真を撮るために待っていると、前にいた60代らしき女性3人が振り返って筆者を見ながら写真を撮っていいかと言ったので、断る理由がないので撮らせた。またある女性とは10分近く話をし、着ている服のブランドの話になったりもした。御池通りでは3,4人の中年女性が振り返って筆者を見つめながら話題にしていたが、目立つ格好で出かけた理由は先月23日に書いた。
●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00201420.jpg


# by uuuzen | 2024-11-02 23:59 | ●新・嵐山だより
●「霜月に 菊はまだない 植え込みに 野鶏頭のみ 穂先を競い」
A面と B面に分け 位づけ 表と裏も あることわかり」、「駄菓子屋と 市民会館 隣り合う 寝屋川市には 名物乏し」、「目に映る すべて気づかず 意識せず されど雰囲気 誰しも覚え」、「去年とは 違う眺めも また楽し 次の変化に 意外を期待」
●「霜月に 菊はまだない 植え込みに 野鶏頭のみ 穂先を競い」_d0053294_21320428.jpg5日前に訪れた寝屋川市民会館のすぐ西側の裏通り沿いにある植え込みについて去年か一昨年に書いた。秋の花がたくさん咲いていて、アコーディオンのコンサートのほかにはそれを確認することもちょっとした楽しみだ。同じく市民会館のすぐ西には駄菓子屋があって、4日前も子どもたちや2,30代らしき人も入っていた。一度入ってもいいが、どういう菓子が並んでいるかは想像がつく。それで店の外観の写真も撮らない。今日の写真はその店の前にある植え込みで、菊の花はまだひとつも咲いていない。代わりにノゲイトウが花盛りで、この思わぬ出会いは寝屋川まで訪れた甲斐があったと受け止める。今年のわが家の鶏頭はさっぱりであったが、その代わりに各地で面白く咲くものをいくつか遭遇して撮影し、写生もした。このノゲイトウは桃色と白の二段がまえの色合いが長い飴のようなお菓子に見えるが、この花は鶏冠鶏頭と同じヒユ科であることは即座にわかる。花の形は全然違うようでも、どことなく似ているからだ。そのどことなく似ている外観は植物の分類学者にしても真っ先に気づいたことだろう。しかし同じ科に属しはしてもやはり鶏冠鶏頭とこの野鶏頭は形にかなりの差がある。鶏冠鶏頭のほうがはるかに面白いが、野鶏頭も鶏冠鶏頭を絵にする場合の添えものには使える。畳2枚と同じ大きさの二曲屏風に描くとして、鶏冠鶏頭のみよりかは野鶏頭など他の鶏頭の花の仲間を添えるほうが賑やかになってよい。交響曲的と言い換えてもよく、筆者は多彩な作品を好む。野鶏頭と槍鶏頭がどう違うのか知らないが、鶏冠鶏頭のようには形が多彩ではないことが想像される。「槍」というからには細長く尖った形で、色合いは赤を中心にさまざまだろうが、花穂は先端がふたつに割れていたり、もっと奇妙な形の冠状になっていたりすることはあまりない気がする。ただし筆者が注意深く見ていないだけで、野鶏頭、槍鶏頭もいろんな形があるかもしれない。そういう情報はネットではほとんど得られない気がする。筆者の狭い行動範囲で見つける鶏冠鶏頭でも今年は変わった形のものを見つけたから、気に留めれば、つまり強く意識すれば新たに気づくことは多いだろう。何事もそうで、わかって気になっている、あるいは全く無視いていることがある日、にわかに存在が意識の中で拡大される。そしてそういういわば些細なことを楽しむことの出来る人は老化の速度が遅くなる気がする。またそうして興味は広がり、意外なところで自身が知らない知識を豊富に持った人に出会うことがある。別段そのことを希求していないが、たまたま話を交わして予想外の面白い時を過ごすことはままある。

# by uuuzen | 2024-11-01 23:59 | ●新・嵐山だより

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