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●『植物園のはじまりと100年の森』
過ぎて 植物園に 行く気失せ 温室の中 まさかサウナに」、「地下鉄を 敬老パスで 北山に 植物園を もっと身近に」、「狭き土地 庭を造るか ガレージか 空き地のままで テントを張るか」、「税収の 増加優先 無駄なくせ 植物園は 畑に戻せ」
●『植物園のはじまりと100年の森』_d0053294_22555308.jpg 昨日歴彩館に調べものに訪れ、帰りに1階の企画展示室で入場無料の本展を見た。9月中旬から今日までの会期で、地味な内容だ。歴彩館の玄関を入って右手の階段を上がった2階に図書室があり、帰り際に玄関左手にあった今日の写真のポスターに気づいた。それがなければそのまま帰宅していた。今年の春、京都府立植物園が開園100周年を迎えるに当たってロゴマークを公募することを知り、応募しようかと思いながら忘れてしまったが、選ばれた3案をネットで見たところ、どれも古臭い印象であった。今調べると緑一色で描かれた紙幣をどこか思わせるデザインのものが選ばれ、何がどう描かれているのか一瞬では把握出来ない。バッジにも使えるもっとシンプルなものを思っていたが、そういうものが流行する時代ではないのかもしれない。それはさておき、去年の夏、この府立植物園に関しての大きな話題を知った。植物園の北西地域を商業施設に改造し、園の南側にある府立大学を1万人収容のアリーナにする計画が持ち上がったのだ。それを知った時はむらむらと怒りが湧いて来た。『1万人収容のアリーナ? しかもそれを植物園を改造したうえで造る?』という気持ちで、閑静な植物園辺りを一気に騒々しい街並みにすることに政治家の経済効果優先教につくづく呆れた。その後アリーナが向日市に出来ることを知り、京都府はよほどアリーナがほしいことがわかった。大阪府は茨木市に巨大なアリーナを造り、サッカー・ファンが集まっていて、京都府はそのことが悔しいのだろう。京阪神はそれぞれ特色を出せばよく、京都は大阪の真似をする必要はない。向日市にアリーナが出来ることについては隣接する狭い道路をどうすべきかの問題が生じているが、スポーツに関心のない筆者はアリーナは苦々しい。東京ではスポーツ庁と文化庁は看板が両翼のように並び、文化庁が京都に来たからにはスポーツ庁もと京都府は目論んでいるのだろう。文化庁が来たとはいえ、京都のさまざまな文化はその大半、あるいはほぼすべてが自助努力すべしという状態で、政治家は文化などどうとも思っていない。それに経済が落ち込んで来れば食うが先で、文化は後回しになる。文化は自然発生するもので、国や自治体が援助する必要はないという考えがあるし、筆者はその考えにかなり賛成だが、韓国の文化予算が日本の3倍と聞くと、韓国がどういう文化にそのお金を使っているのかは気になる。若者相手のポップ・カルチャーが最優先されているならば面白くない。ただし、北朝鮮は兵士を外国に貸し出して金を得るより、韓国を真似してアイドルを育成したほうがいいのではないかと思う。
 京都府知事は京都の北山を岡崎と同じか、それ以上の人の集まる場所にしたかったのだろう。反対運動で計画は反故にされ、現状維持が決まったが、一旦開発されると元には戻らないことを人々がよく知っているからだ。戻らないということは荒れたままになる可能性も含んでいる。府立植物館が開園100年を迎えるに当たって、アリーナをすぐそばに建設し、これまでとは比較にならないほどの多くの人に植物園も楽しんでもらおうという考えであったのかもしれないが、サッカー競技を見た人たちはすぐに地下鉄に乗って帰宅し、悠長に花を鑑賞することはまあない。ついでに花でも見るかという程度の人は元来植物園に魅力を感じない。とはいうものの、筆者はめったに府立植物園には行かない。昔は写生によく通ったが、自宅の狭い裏庭で自分で育てた花を描くほうが便利であり、愛着が湧く。あるいは近所でたまたま見かけた花が却って味わい深い。府立植物園には1万種ほどの植物があるが、それは総花という言葉がふさわしいほどに個人が特に好む植物が大量にあるはずはないことを意味している。そのことを2年前に鶏頭を描きに訪れた時に痛感した。結局写生する場合は自分で目当ての花を育てるのが一番よい。その2年前に訪れた記憶で最も印象深かったのは、道に少々迷って森をさまよい歩いたことだ。午後3時過ぎであったか、陽射しは傾き、その光が多くの樹木の葉からこぼれ落ちていて、人の姿を見かけなかった。その10分程度のひとりぽっちで自然に囲まれた経験は山歩きが好きな人ならよく知っていると思うが、植物園に小さくとも森と言える場所があることはありがたい。「糺の森」も名前のとおり、森の雰囲気を持っているが、植物園ではほとんど初めて道路から外れて森の中を歩いたこともあって、神社の森のようには人の手の加わりを感じなかった。アリーナが出来てもその森は残されるだろうが、すぐそばに喧噪の場が出来るのはやはり反対だ。そういう施設が出来ると百年はそのままであろうし、その後アリーナを潰して自然に戻すことはあり得ず、次は高層ビルを建てるはずだ。2年前の夏、鶏頭の写生に植物園に出かけた時、入園者は数えるほどで、それを政治家は無駄と考えるのだろう。しかしSNSによってそういう意見が一瞬で大手を振ることがあり得る時代で、スポーツ好きが増えるほどに植物園は時代遅れのものとみなされる傾向が増してもおかしくない。筆者は写生では出かけないが、植物園ならではの空気はたまには吸いたい。大阪の天王寺公園にはなかなか立派な薔薇園と呼ぶべきものが園の端にあったが、5,6年前に地面のタイル貼りを芝生に変えた際、薔薇はすべて撤去された。それに芝生のそばに店舗が並び、いかに金を使わせるかを念頭に置いた公園に変わった。すぐそばに慶沢園がそのままにあるので文句はないだろうとの考えに違いない。
 本展は撮影禁止であったので今日はポスターの写真のみだが、展示された写真や文書などの資料の説明を印刷した16ページの冊子がもらえた。冊子の裏表紙に府立植物園と歴彩館の名称が併記され、そのふたつの施設が本展を企画したことがわかるが、百周年記念展にしてはあまりに小規模で、これなら植物園の建物で常設展示すべきで、その際にアリーナ計画がなくなった経緯も最新情報として入園者に知らせるべきではないか。100年の歩みをたどるとしても、温室を含めて植物園内の建物や植栽地がどのよう増えて来たかの説明はない。冊子にある本展第2章の『植物園創園・100年の森創り』からま簡単にとめると、太古の昔からの原生林が江戸時代になって大幅に田畑が増え、その後大正天皇の即位礼に合わせた「大典記念京都博覧会」が計画されるも財政難で開催出来ず、代わって植物園にする話が持ち上がるが府会の承認が得られず、三井家が寄付をして計画が動き始めたのが1915年で、17年に工事が始まり、23年11月に開園式を迎えようとしていたところに関東大震災があって記念式は見送られ、24年の元日に一般公開があった。 本展では以上のことに関する資料の展示の後に「大森鐘一と植物園」と題して、第10代京都府知事で造園や植物に精通していた大森についての紹介があった。知事の在任は1902年(明治35)から16年(大正5)までだが、知事退任時に大森に支払われた慰労金として集まった寄付金は園芸と本草に関する書籍購入に充てられ、植物園の寄付され、大森文庫として現在まで保管されているという。このコーナーの最初の展示品は小野蘭山旧蔵の明代の『本草綱目』の初版本で、残欠本を含めても世界で15セットしか存在せず、大森文庫所蔵のものは残欠ながら完本に近いとされる。同書の後に同類の植物図譜の展示が続き、イギリスで1787年から現在も発行されている園芸雑誌『カーチス・ボタニカルマガジン』の創刊号から1963年までのバックナンバーが揃っていることの紹介があった。戦前は大森文庫の貴重書は手続きをすれば借り出すことが出来たというが、『本草綱目』などの稀覯本は本展でガラス越しに見ることしかかなわないはずだ。『カーチス…』の1963年以降の号がない理由は知らないが、その気になれば外国から比較的容易に集めることが出来るだろう。またネット時代になって、そうした長い歴史ある雑誌がどう変化しているかの興味が湧く。さて、ややこしいことに次のコーナーは『寺崎良策と植物園』と題して明治神宮内苑に関する展示となり、そのことはさらに次の『神宮の森・東の100年の森創り』のコーナーにつながる。筆者は明治神宮に行ったことはあるが、内苑や外苑の領域に関しては知識がない。本展が東京の明神宮の森創りについて説明するのは、近年の神宮外苑の樹木をかなり伐採する決定を暗に問題視したいからではないか。
 植物園を都市型の公園とし、1万人収容可能なアリーナを隣接させる考えは現知事の考えと思うが、鑑賞者が勝手に考えることとして、その彼を植物園の誕生に尽力した大森鐘一と比較してほしいとの思惑が本展に込められているかもしれない。また大森のような人物が東京にもいたことを紹介する意味から、明治神宮内苑を百年以上かけて森を形成する理念で造営に寺崎良策が活躍し、また内苑での森創りに関わった後、京都に来て植物園の設計技師となり、創園に向けての中心的役割を果たしたことを紹介し、明治の森と京都府立植物園に人的なつながりがあったことを伝える。明治の森の内苑は当初は150年で完成するとみられていたのが実際は100年で最初の計画どおりの植生になり、そのことは今年のTV番組でも紹介されていたが、100年以上かけて当初の計画を実現させるのは壮大な話で、それほどに明治神宮内苑は貴重ということだ。本展ではその内苑創りに日本全国から奉仕団が駆けつけたことも紹介され、明治天皇がいかに崇拝されたかがわかる。明治天皇の御陵は伏見桃山に造営されたが、本展では当初渋沢栄一が東京に陵墓を誘致することを主唱したことに触れ、それがかなわなかったので明治神宮造営の動きに変わったことを紹介し、明治から東京と京都の対立があったことがわかる。また表参道と裏参道に囲まれた神宮外苑は当初の計画とは範囲が違っているとのことだが、外苑は都市公園と位置づけされた。森と都市公園との違いが具体的にどうかを知らないが、筆者は前者は原生林のように樹木を自然のままに任せ、後者は人々の憩いの場と商業施設を併せ持つといったようにイメージする。府立植物園の森は全体の面積の何割を占めるのか知らないが、平面図に「針葉樹林」とある区域だけに限れば5パーセントもないだろう。2年前に筆者がさまよったのはその「針葉樹林」であった。つまり、府立植物園は森と言える面積は神宮内苑とは比較にならないほど小さい。となれば現在の姿は都市公園と呼んでも差し支えなく、それで現知事が店舗を張りつかせ、アリーナを建てて一気に賑わいのある地域にしたかったのだろう。植物園北端を東西に走る北山通りはバブル期には新しい洒落た店が並び、高級イメージで有名になった。高松伸が設計した建物も有名になったが、今はその名残りはない。それゆえバブル期の北山通りの雰囲気を蘇らせたい思惑があったと想像する。京都が外国人観光客で溢れる現在、北山通りはそうした人々に魅力ある地域とは言えない。知事はそこを思ったかもしれないが、アリーナはやり過ぎと筆者は思う。桂の自衛隊が駐屯する土地を一部削れて造れば、西京極の競技場と近くていいと思うが、京都府にそれを実現させる政治力はないだろう。さて、次の展示コーナーは『植物園の歩み』で、戦前を扱う『植物園創園・100年の森創り』の戦後編だ。
 室戸台風による被害、戦時中の食糧増産のための園地利用、そして最大の出来事として進駐軍の将校の住宅用地として全面接収されたことを紹介する。接収は1946年7月に始まり、広い道路を造るために25000本の樹木のうち4分の3が伐採されて140戸の住宅が建ち、47年4月から入居が始まった。接収は1957年まで続き、返還後に再整備して1961年に再開園したが、この年筆者は10歳だが、最近のことと思える。伐採された樹木は開園当初のものがあったのか。そうであったなら、森創りの難しさを物語る。GHQは東京では外苑を運動施設として接収し、「自由の女神像」を建てたことの写真が展示された。しかし返還されただけでも幸運で、神宮内苑の森が150年の予定が100年で実現したからには植物の再生は速い。話が前後するが、本展の最初の展示は『平成令和の百文様』と題して400年の歴史がある「唐長」が先祖伝来の600枚の板木に新たに100枚を加える試みが平成時代に始まったことを紹介し、ムジナモや梅花藻、藤袴などの文様を摺った唐紙が展示された。600枚の板木は日本の伝統的な植物はすべて網羅されていると想像する。そこに新たに日本的な植物を選択し、それらを文様化することはそれだけでも1冊の分厚い本が書けるほどの興味深いテーマだが、そうした試みが平成になるまでなされて来なかったのかという疑問が湧いた。友禅染ではとっくの昔にそういうことを個々の作家がやって来ている。その代表的な花は江戸時代にはなかった洋蘭だ。ムジナやバイカモなどの異なった文様の板木を複数重ねて摺る技法は唐紙の専門家の目には新鮮に映ると想像するが、いくらでもヴァリエーションが作れそうな気にさせるもので、その意味で現代的かもしれないが、長年使われて来たものと違って貫録のなさが露わになっている。一方、唐長が府立植物園や歴彩館とどういう関係にあっての展示なのかだが、歴彩館には唐長関係の昔の資料が託されているのかもしれない。また花の文様化は植物園に全く関係ないとは言えず、植物園の6倍の歴史を持つ老舗に敬意を表したのだろう。それに本展を美術的な内容の欠如するものにはしたくなかったとの思惑もあったろう。その美術的な展示としては最後のコーナーにあった3点の手ぬぐいだ。これらは大典記念京都植物園が京都府立植物園に名称を変えた1961年に制作されたもので、稲垣稔次郎の型染を思わせる時代感がある。日本画家の佐々木邦彦やタイポグラフィ作家の小栗英二がデザインしたもので、それより10数年以降になるが、筆者がこの植物園を訪れ始めた頃の入園券のデザインが堂本印象のカラフルな絵であったことを思い出しながら、その原図の紹介がなかったことが物足りなかった。2年前に訪れた時は入園券のデザインは違っていたから、入園券が100年の間にどう変化して来たかの展示があってもよかった。

# by uuuzen | 2024-11-10 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
●「西へ飛ぶ ジェット機雲の 二筋の 平行線は 逆さ八の字」
くほどに 味わい深き 音楽も 愚痴る人あり 世間は広し」、「カフェラテの 絵見て想うや 空の雲 次々変わり 見飽きず楽し」、「動物を 象るケーキ かわいいね パクリと食べて ああおいしいね」、「食べたいね かわいいほどに おいしいよ 柔らかいほど 甘味もあるし」
●「西へ飛ぶ ジェット機雲の 二筋の 平行線は 逆さ八の字」_d0053294_22091413.jpg
今日は午後から歴彩館に調べものに行った。その帰り、西の空を見ると今日の写真のように二筋のジェット機雲が西方向に伸びていた。この二機が同じ夕暮れに同じ方向に飛ぶことは嵐山でも確認出来る。どの基地に向かっているのか知らないが、日本の上空を監視しているか、練習のためか。写真の右端が歴彩館の建物で、写真中央奥は駐車場と思うが、車に乗らない筆者はその有無に無関心だ。2か月ほど前、同じ自治会内に住む仏師のOさんから電話で以前と同じことをまた訊ねられた。時代祭に少しは関係すると思うが、秀吉時代の権力者に公家から嫁入りしたある女性の衣装がどんな形をしていたのか、何か資料を持っていないかというのだ。秀吉時代の権力者の女性の衣装については有名な肖像画が伝わっているので、それらからどういう形のキモノでどういう文様をつけていたかはわかる。つまり悩む必要はないと答えたが、Oさんは公家から嫁いだのでその出自を誇るために十二単にこだわっていたのではないかとの考えだ。ならばその実在した女性がどれほど公家意識があったかという、調べてもおそらくわからない話になるし、また武士に嫁ぎ、開放感もあって時代最先端の染織文様を施した小袖を愛好した可能性もあって、想像の域を出ない話だ。鴨川東畔の出雲阿国の銅像を作った彫刻家は、昔の屏風などに描かれる阿国の姿を参考にしたはずだが、キモノの文様まで気にすることはないので割合楽な仕事であった。Oさんが受注するその公家出身の歴史に名を遺した女性の木彫りも衣装の形だけの話でそう難しくはないと思うが、髪型をどうするかは重要な問題だ。平行線を保ったまま電話を切り、10日ほど後に、歴史的な資料の調査は歴彩館に行くと懇切丁寧に協力してくれると電話で伝えた。Oさんが歴彩館やそれ以前の京都府総合資料館の存在を知らなかったのは意外で、勉強不足が過ぎる。車で外出するOさんであるから、歴彩館に駐車場があるかどうかが問題だが、筆者はあると答えた。行ってなければ近くの駐車場に停めることになるが、歴彩館近辺にそうした駐車場はない。その後Oさんと話していないが、時代祭を見てもヒントは得られないと思ったので声をかけなかった。Oさんが彫る予定のその公家出身の女性像は衣装や髪型もそうだが、顔が一番厄介ではないか。出雲阿国像は平凡な顔つきで、出雲大社の巫女をしていたという雰囲気は出ているが、日本の中心の京都で喝采を浴びたのであるから、とても目立つ器量、愛嬌はあったはずだ。そういう考えで時代祭では毎年若い女性から選んでいると思いたい。となれば芸能人かその卵がふさわしいか。

# by uuuzen | 2024-11-09 23:59 | ●新・嵐山だより
●「鶏頭の 花の縮れに 規則あり 多数絡みて 雑に見えしも」
ンチにて ブックエンドの 高齢者 予期したほどに 老いは恐れず」、「いつまでも 元気でいたし お互いに 花首垂れて なおも倒れず」、「人のみが 絵を描き残し 愛でるのを 不思議がるのは 不思議ではなし」、「描き終え 間もなく忘れ また描く 無我の境地は 時間の無駄か」
●「鶏頭の 花の縮れに 規則あり 多数絡みて 雑に見えしも」_d0053294_18110716.jpg 今年はわが家の鶏頭は写生したくなるほどには成長しなかったので、散歩や買い物途中で見かける鶏頭になおさら目が行く。写生しにくい場所である場合は写真を撮るだけに済ますが、9月8日9日の投稿はそうであった。8日の投稿の花はここ2、3年毎年同じように咲き、またその家の奥さんから描いてもいいかと訊いたこともあるのに、今まで1枚も描いていない。その理由は花の背丈がかなり低いからで、かなりしゃがみ込まねばならないのはまあいいとして、背後に車がよく通り、その邪魔になるからだ。9日投稿の花はそこから50メートルほど北の有栖川沿いの道路につながる坂道で、しかも日陰に咲いているので、やはり描く気になれなかった。筆者の行動範囲はとても狭いが、嵯峨はまだ大阪や京都の市中よりは家の周りに花がよく咲いていて、今は珍しくなっている鶏頭の花に出会う可能性はかなり大きく、写生もしやすい。それに写生していると、その花を育てている人は必ず好意的に接してくれる。筆者が若者ならもっとそうだろう。今日の写真は嵐電の鹿王院駅の南で先月21日に写生した鶏頭の花だ。その日は2枚描き、2枚目が紙の下に半ば透けて見えている。この花もここ2、3年は毎年全く同じといってよいほどに咲き、2年前に本ブログに写真を載せた。花の形が鶏冠鶏頭の一部を拡大したような珍しさで、同じように咲くものをほかの場所では見かけない。しかし背丈は50センチほどで、弱弱しく、女性っぽい艶やかさがある。道路からわずかに凹んだモルタルを敷いた狭い場所にその花のプランターがあって、すぐそばに窮屈に座り込めば往来する車はどうにか避けられ、去年は数枚描いた。住民に断りを入れずに描き、高齢の奥さんが表に出て来ると挨拶をする。21日もそういうことになった。奥さんは言葉数は少なく、描くなら勝手にどうぞといった風だ。そのことは去年から知っていたが、今年は買い物に出かける前か、奥さんは筆者に背を向ける直前にこう言った。「最近嵐電の線路沿いによく咲いているのを見かけたけど。」「そうですか。描き終われば確認しに行きます。」そして2枚描き終えて自転車で東へと走った。西は線路際に道がないからだ。ゆっくり自転車を走らせ、車折神社前に着いても鶏頭は全く見当たらない。「さては嘘だったか、あるいはもう花は終わって根こそぎされたか…」と思って帰宅した。それはさておき、2枚でも描いたのはよかった。奥さんはすぐに全部刈り取り、数日後にはプランターの土の上に花がたくさん散らばっていた。そうしておくと来年また同じように咲くという。

# by uuuzen | 2024-11-08 23:59 | ●新・嵐山だより
●阪急嵐山駅の西際に出来た空き地
治屋と 同じ顔した 支配人 劇場こそは 世の縮図なり」、「常識の なき金持ちの ゴミの顔 人の敷地に ゴミ捨て平気」、「相手には したくなき人 絡み来る 最初のただに 調子よくして」、「便利屋は コンビニになき 労を売り ただで動かぬ 世間の鑑」
●阪急嵐山駅の西際に出来た空き地_d0053294_22110136.jpg
本ブログの「駅前の変化」のカテゴリーは個人の私有地は扱わないが、今日は例外とし、題名にあるように駅のすぐ西に出来た空き地の写真を紹介する。以前はここに築70年、あるいはもっと古い木造の2階建てがあった。四半世紀ほど前、30代の夫婦が住み始め、今年2月に挨拶もないままに突如引っ越して行った。5月下旬に建物の取り壊しが始まり、それが終わったのが6月20日で、更地はすぐに販売が始まった。今日の写真は先月末に撮ったが、夏場の間に雑草が繁茂し、先月下旬にそれらはすっかり刈られて写真のようになった。近所の噂では土地が売れたのではないとのことだ。ネットで広告を見ると、土地の価格は9800万円で、路線価格からして倍の価格だ。商売も可能なのでその価格になったのだろうか。三角形の土地で、北の細く尖った部分は使えないから、なおさら割高感があるが、駅の真横で改札口から徒歩30秒だ。喫茶店が建つならば駅前に「カフェらんざん」があるので商売にならないだろう。住宅ならば土地と合わせて1億5000万円の豪華な一戸建てが出来るが、東京都内よりはるかに割安ではないだろうか。そう思うと、中国人が購入して住むかもしれない。夏場に数組が見学に来ていたが、明らかに中国人であった。地元で代々住む人は自由に使える1億や2億の資産は持っているはずで、地元住民が購入して家を建てて誰かに貸すこともあり得る。話を戻して、家の取り壊し作業をたまに筆者は見ながら、ユンボを操縦している若者と言葉を交わすようになった。彼は取り壊しを引き受けているだけで誰が土地と建物をいくらで売ったかといったことは何も知らない。取り壊しが始まった建物を見上げると、今まで気づかなかったが、窓ガラスが戦前にあった気泡入りで歪みのあるもので、そうした手作りのガラスはおそらく古物市場で高値で取り引きされているだろう。しかし建物を壊す際に一緒くたにしたはずで、古びて値打ちのある物もいとも簡単に廃棄物になってしまう。またこの建物の前には松や枝垂れ桜が植えられていて、それなりに見事な形であったのが、やはり簡単にユンボで根こそぎされた後、おおまかに輪切りにされ、業者が運び去った。取り壊しが始まって間もなく、筆者は土地の北端の尖った箇所に植わっていて、開花を始めたカンナの株をふたつ掘り返し、すぐにそれらを隣家の裏庭に移植した。数日後には残りの株がユンボで掘り返され、ゴミと化したので、筆者は危ういところを救ったことになる。7月20日の投稿でそのカンナを中心に撮影した写真を投稿した。そのカンナの奥は更地になっている。
 その写真の左手を見ると、昨日投稿した阪急のレンタサイクル用の土地はまだフェンスが改造されておらずに真っすぐであることがわかる。その写真のカンナは阪急が所有する道路際の細長い土地に咲いていて、解体業者のユンボは当然そこまでは掘り返さなかった。カンナはいずれ根こそぎされることを知っていて別の所有者の土地にまで根を張ったと見える。隣家に移植したカンナがうまく根づけば来年は存分に写生出来るが、20年ほど前に筆者はこの現場のカンナをかなり写生している。また話を戻す。取り壊れた家は1軒のように見えたが、背中合わせに2軒あって、30年ほど前にはどちらにも高齢の品のよいお婆さんがひとりで住んでいた。相次いで亡くなった後、前述の夫婦が住み、てっきりその夫婦が購入したと思っていたが、借家として住んでいたことを転居して行った後に知った。夫婦は自治会に入らなかったので、近所で親しい人は筆者を除いていなかったと思うが、筆者はそれなりに親しくし、家の中の全部屋を一度だけ見せてもらったことがある。奥さんは1階でレンタル・キモノの着付け屋を営業し、若い客はよく来ていた。10年ほど前、北野天満宮の露店でその夫婦をよく知る女性と話をしたことがある。和装小物を夫婦の奥さんに納入していたのだが、その初対面の女性から夫婦のことを聞かされた。プライヴァシーなので聞きたくなかったが、その女性は嫌な顔つきで話を続けた。一方、筆者は夫婦のご主人から夫婦のなれそめなど、個人的なことをそれなりに聞いていたので、和装小物を納入していた女性の話は意外ではなかった。夫婦は近所では評判があまりよくなかった。レンタルキモノ店というきれいな商売を細々としている割りに、玄関とは反対側、つまり客の目の届かないところは近所の人たちが眉をひそめるほどに雑然としていて、家の板壁もひどいありさまであった。ご主人は次々にがらくたをどこかから拾って来るようで、実際廃品回収をしていると聞いた。さて、コロナ以降嵐山に観光客が戻って来たと同時に渡月橋の近くや嵯峨に中国人が経営するレンタルキモノ店が次々に登場し、価格と品揃えの競争から奥さんの店は売り上げが減ったであろう。そして2月に突如家を空けた。更地になって見晴らしがよくなり、近所の人はこのままであってほしいと言うが、誰かが購入したのであればいずれ何かが建つ。建築速度はとても早く、1か月を要さない。かくて空き地であった月日は一瞬ということになるが、その記憶のために今日の投稿を考えたと言ってよい。さて、ブログには全く書いていないが、更地になったことで腹立たしいことが夏以降発覚した。また別の件でも他人のトラブルに付き合わされているが、簡単に言えば自治会に入っていない人たちの勝手な行動だ。人のよさは考えもので、たいていの人はそれに付け込んで自分の利を考える。そして経済的に裕福な者ほどそうだ。

# by uuuzen | 2024-11-07 23:59 | ●駅前の変化
●阪急嵐山駅のレンタサイクル場の増設
過ぎて 散歩し過ぎて 飽き過ぎて また暇過ぎて 自転車に乗り」、「自転車で 遠出し過ぎて 疲れ過ぎ 電車で帰り 早く着き過ぎ」、「早過ぎて 誰もおらずに 待ち過ぎて 場所の間違い 気づき遅過ぎ」、「過ぎ過ぎて いじめたことを 忘れ過ぎ 恨み買い過ぎ 刺され過ぎ過ぎ」
●阪急嵐山駅のレンタサイクル場の増設_d0053294_11431559.jpg
今日の最初の写真は先月26日の撮影だが、8月か9月のどちらであったか、阪急嵐山駅西側の駐輪場よりわずかに南方の細い道路の向い側に貸し自転車が20台ほど停められる駐輪場が出来た。若い男性ふたりが1台用の白い駐輪用器具を各段ボールから取り出しながら大急ぎで並べて行く様子を目の当たりにした。それらの20台ほどの器具はコンクリートを敷かない地面にそのまま並べ、たぶん相互にボルトで締めただけで、また屋根もないので仮置き場の印象が強い。嵐山駅の駐輪場については本ブログで連載的に3年まえの春から投稿したが、その月極と時間単位で貸している駐輪場がいっぱいになったので新たにその駐輪場の近くに20台分ほどを用意したのかと思っていると、今日の写真の手前に写るように、貸し自転車用の駐輪場であることを示す置き看板が現われた。これは阪急が経営するレンタサイクルで、嵐山駅でのその店舗は駅前広場が10年少し前に改造されるより前から駅前広場の北にあった。同店には従業員が数人いるが、売り上げは微々たるものだろう。それでも阪急は同店に固執し、広場のすぐ北部にホテル「花伝抄」が出来る時、同ホテルの玄関脇、つまり昔からの同じ場所にレンタサイクル店を改築したうえで取り込む形でホテルの設計がなされた。それはかなり無粋に見えるが、レンタサイクル店は昔から駅前すぐの理想的な場所にあったため、それを駅前の別の場所に移すことは難しかった。代替地として可能なのは道路向かいの林の中くらいなものだが、そこは手をつける気がなかったのだろう。それはともかく、貸し自転車はホテル1階の狭い同店に収納するだけでは近年の外国人観光客の急増には対処出来ず、改札口と直結する屋根下の変形倉庫にも収められているが、その倉庫の扉は観光シーズンには開けられ、今日の写真に写るのと同じ置き看板が、道行く人を邪魔しない場所ぎりぎりに置かれる。その倉庫から50メートルほど南に今日の写真の自転車置き場が造られた。今日の2枚目の写真がその全景で、その場所は6月か7月、いつの間にか道路際のフェンスが一部凹まされる形で改造されて出来たものだ。昔から駅西すぐの細い道路は阪急の所有とは知っていたが、その道路の西際の幅1メートル強のごく細い草地の使い道を模索し、自転車ならば並べることが出来ると思いついたのだろう。阪急がインバウンドの観光客を目当てにごくわずかな土地も金に換えることに熱心であることの表われで、今日の写真は見知らぬ人が静かな住宅地に侵入して来ていることの一端を象徴している。
●阪急嵐山駅のレンタサイクル場の増設_d0053294_11434888.jpg


# by uuuzen | 2024-11-06 23:59 | ●駅前の変化

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