「
暑過ぎて 植物園に 行く気失せ 温室の中 まさかサウナに」、「地下鉄を 敬老パスで 北山に 植物園を もっと身近に」、「狭き土地 庭を造るか ガレージか 空き地のままで テントを張るか」、「税収の 増加優先 無駄なくせ 植物園は 畑に戻せ」

昨日歴彩館に調べものに訪れ、帰りに1階の企画展示室で入場無料の本展を見た。9月中旬から今日までの会期で、地味な内容だ。歴彩館の玄関を入って右手の階段を上がった2階に図書室があり、帰り際に玄関左手にあった今日の写真のポスターに気づいた。それがなければそのまま帰宅していた。今年の春、京都府立植物園が開園100周年を迎えるに当たってロゴマークを公募することを知り、応募しようかと思いながら忘れてしまったが、選ばれた3案をネットで見たところ、どれも古臭い印象であった。今調べると緑一色で描かれた紙幣をどこか思わせるデザインのものが選ばれ、何がどう描かれているのか一瞬では把握出来ない。バッジにも使えるもっとシンプルなものを思っていたが、そういうものが流行する時代ではないのかもしれない。それはさておき、去年の夏、この府立植物園に関しての大きな話題を知った。植物園の北西地域を商業施設に改造し、園の南側にある府立大学を1万人収容のアリーナにする計画が持ち上がったのだ。それを知った時はむらむらと怒りが湧いて来た。『1万人収容のアリーナ? しかもそれを植物園を改造したうえで造る?』という気持ちで、閑静な植物園辺りを一気に騒々しい街並みにすることに政治家の経済効果優先教につくづく呆れた。その後アリーナが向日市に出来ることを知り、京都府はよほどアリーナがほしいことがわかった。大阪府は茨木市に巨大なアリーナを造り、サッカー・ファンが集まっていて、京都府はそのことが悔しいのだろう。京阪神はそれぞれ特色を出せばよく、京都は大阪の真似をする必要はない。向日市にアリーナが出来ることについては隣接する狭い道路をどうすべきかの問題が生じているが、スポーツに関心のない筆者はアリーナは苦々しい。東京ではスポーツ庁と文化庁は看板が両翼のように並び、文化庁が京都に来たからにはスポーツ庁もと京都府は目論んでいるのだろう。文化庁が来たとはいえ、京都のさまざまな文化はその大半、あるいはほぼすべてが自助努力すべしという状態で、政治家は文化などどうとも思っていない。それに経済が落ち込んで来れば食うが先で、文化は後回しになる。文化は自然発生するもので、国や自治体が援助する必要はないという考えがあるし、筆者はその考えにかなり賛成だが、韓国の文化予算が日本の3倍と聞くと、韓国がどういう文化にそのお金を使っているのかは気になる。若者相手のポップ・カルチャーが最優先されているならば面白くない。ただし、北朝鮮は兵士を外国に貸し出して金を得るより、韓国を真似してアイドルを育成したほうがいいのではないかと思う。
京都府知事は京都の北山を岡崎と同じか、それ以上の人の集まる場所にしたかったのだろう。反対運動で計画は反故にされ、現状維持が決まったが、一旦開発されると元には戻らないことを人々がよく知っているからだ。戻らないということは荒れたままになる可能性も含んでいる。府立植物館が開園100年を迎えるに当たって、アリーナをすぐそばに建設し、これまでとは比較にならないほどの多くの人に植物園も楽しんでもらおうという考えであったのかもしれないが、サッカー競技を見た人たちはすぐに地下鉄に乗って帰宅し、悠長に花を鑑賞することはまあない。ついでに花でも見るかという程度の人は元来植物園に魅力を感じない。とはいうものの、筆者はめったに府立植物園には行かない。昔は写生によく通ったが、自宅の狭い裏庭で自分で育てた花を描くほうが便利であり、愛着が湧く。あるいは近所でたまたま見かけた花が却って味わい深い。府立植物園には1万種ほどの植物があるが、それは総花という言葉がふさわしいほどに個人が特に好む植物が大量にあるはずはないことを意味している。そのことを2年前に鶏頭を描きに訪れた時に痛感した。結局写生する場合は自分で目当ての花を育てるのが一番よい。その2年前に訪れた記憶で最も印象深かったのは、道に少々迷って森をさまよい歩いたことだ。午後3時過ぎであったか、陽射しは傾き、その光が多くの樹木の葉からこぼれ落ちていて、人の姿を見かけなかった。その10分程度のひとりぽっちで自然に囲まれた経験は山歩きが好きな人ならよく知っていると思うが、植物園に小さくとも森と言える場所があることはありがたい。「糺の森」も名前のとおり、森の雰囲気を持っているが、植物園ではほとんど初めて道路から外れて森の中を歩いたこともあって、神社の森のようには人の手の加わりを感じなかった。アリーナが出来てもその森は残されるだろうが、すぐそばに喧噪の場が出来るのはやはり反対だ。そういう施設が出来ると百年はそのままであろうし、その後アリーナを潰して自然に戻すことはあり得ず、次は高層ビルを建てるはずだ。2年前の夏、鶏頭の写生に植物園に出かけた時、入園者は数えるほどで、それを政治家は無駄と考えるのだろう。しかしSNSによってそういう意見が一瞬で大手を振ることがあり得る時代で、スポーツ好きが増えるほどに植物園は時代遅れのものとみなされる傾向が増してもおかしくない。筆者は写生では出かけないが、植物園ならではの空気はたまには吸いたい。大阪の天王寺公園にはなかなか立派な薔薇園と呼ぶべきものが園の端にあったが、5,6年前に地面のタイル貼りを芝生に変えた際、薔薇はすべて撤去された。それに芝生のそばに店舗が並び、いかに金を使わせるかを念頭に置いた公園に変わった。すぐそばに慶沢園がそのままにあるので文句はないだろうとの考えに違いない。
本展は撮影禁止であったので今日はポスターの写真のみだが、展示された写真や文書などの資料の説明を印刷した16ページの冊子がもらえた。冊子の裏表紙に府立植物園と歴彩館の名称が併記され、そのふたつの施設が本展を企画したことがわかるが、百周年記念展にしてはあまりに小規模で、これなら植物園の建物で常設展示すべきで、その際にアリーナ計画がなくなった経緯も最新情報として入園者に知らせるべきではないか。100年の歩みをたどるとしても、温室を含めて植物園内の建物や植栽地がどのよう増えて来たかの説明はない。冊子にある本展第2章の『植物園創園・100年の森創り』からま簡単にとめると、太古の昔からの原生林が江戸時代になって大幅に田畑が増え、その後大正天皇の即位礼に合わせた「大典記念京都博覧会」が計画されるも財政難で開催出来ず、代わって植物園にする話が持ち上がるが府会の承認が得られず、三井家が寄付をして計画が動き始めたのが1915年で、17年に工事が始まり、23年11月に開園式を迎えようとしていたところに関東大震災があって記念式は見送られ、24年の元日に一般公開があった。 本展では以上のことに関する資料の展示の後に「大森鐘一と植物園」と題して、第10代京都府知事で造園や植物に精通していた大森についての紹介があった。知事の在任は1902年(明治35)から16年(大正5)までだが、知事退任時に大森に支払われた慰労金として集まった寄付金は園芸と本草に関する書籍購入に充てられ、植物園の寄付され、大森文庫として現在まで保管されているという。このコーナーの最初の展示品は小野蘭山旧蔵の明代の『本草綱目』の初版本で、残欠本を含めても世界で15セットしか存在せず、大森文庫所蔵のものは残欠ながら完本に近いとされる。同書の後に同類の植物図譜の展示が続き、イギリスで1787年から現在も発行されている園芸雑誌『カーチス・ボタニカルマガジン』の創刊号から1963年までのバックナンバーが揃っていることの紹介があった。戦前は大森文庫の貴重書は手続きをすれば借り出すことが出来たというが、『本草綱目』などの稀覯本は本展でガラス越しに見ることしかかなわないはずだ。『カーチス…』の1963年以降の号がない理由は知らないが、その気になれば外国から比較的容易に集めることが出来るだろう。またネット時代になって、そうした長い歴史ある雑誌がどう変化しているかの興味が湧く。さて、ややこしいことに次のコーナーは『寺崎良策と植物園』と題して明治神宮内苑に関する展示となり、そのことはさらに次の『神宮の森・東の100年の森創り』のコーナーにつながる。筆者は明治神宮に行ったことはあるが、内苑や外苑の領域に関しては知識がない。本展が東京の明神宮の森創りについて説明するのは、近年の神宮外苑の樹木をかなり伐採する決定を暗に問題視したいからではないか。
植物園を都市型の公園とし、1万人収容可能なアリーナを隣接させる考えは現知事の考えと思うが、鑑賞者が勝手に考えることとして、その彼を植物園の誕生に尽力した大森鐘一と比較してほしいとの思惑が本展に込められているかもしれない。また大森のような人物が東京にもいたことを紹介する意味から、明治神宮内苑を百年以上かけて森を形成する理念で造営に寺崎良策が活躍し、また内苑での森創りに関わった後、京都に来て植物園の設計技師となり、創園に向けての中心的役割を果たしたことを紹介し、明治の森と京都府立植物園に人的なつながりがあったことを伝える。明治の森の内苑は当初は150年で完成するとみられていたのが実際は100年で最初の計画どおりの植生になり、そのことは今年のTV番組でも紹介されていたが、100年以上かけて当初の計画を実現させるのは壮大な話で、それほどに明治神宮内苑は貴重ということだ。本展ではその内苑創りに日本全国から奉仕団が駆けつけたことも紹介され、明治天皇がいかに崇拝されたかがわかる。明治天皇の御陵は伏見桃山に造営されたが、本展では当初渋沢栄一が東京に陵墓を誘致することを主唱したことに触れ、それがかなわなかったので明治神宮造営の動きに変わったことを紹介し、明治から東京と京都の対立があったことがわかる。また表参道と裏参道に囲まれた神宮外苑は当初の計画とは範囲が違っているとのことだが、外苑は都市公園と位置づけされた。森と都市公園との違いが具体的にどうかを知らないが、筆者は前者は原生林のように樹木を自然のままに任せ、後者は人々の憩いの場と商業施設を併せ持つといったようにイメージする。府立植物園の森は全体の面積の何割を占めるのか知らないが、平面図に「針葉樹林」とある区域だけに限れば5パーセントもないだろう。2年前に筆者がさまよったのはその「針葉樹林」であった。つまり、府立植物園は森と言える面積は神宮内苑とは比較にならないほど小さい。となれば現在の姿は都市公園と呼んでも差し支えなく、それで現知事が店舗を張りつかせ、アリーナを建てて一気に賑わいのある地域にしたかったのだろう。植物園北端を東西に走る北山通りはバブル期には新しい洒落た店が並び、高級イメージで有名になった。高松伸が設計した建物も有名になったが、今はその名残りはない。それゆえバブル期の北山通りの雰囲気を蘇らせたい思惑があったと想像する。京都が外国人観光客で溢れる現在、北山通りはそうした人々に魅力ある地域とは言えない。知事はそこを思ったかもしれないが、アリーナはやり過ぎと筆者は思う。桂の自衛隊が駐屯する土地を一部削れて造れば、西京極の競技場と近くていいと思うが、京都府にそれを実現させる政治力はないだろう。さて、次の展示コーナーは『植物園の歩み』で、戦前を扱う『植物園創園・100年の森創り』の戦後編だ。
室戸台風による被害、戦時中の食糧増産のための園地利用、そして最大の出来事として進駐軍の将校の住宅用地として全面接収されたことを紹介する。接収は1946年7月に始まり、広い道路を造るために25000本の樹木のうち4分の3が伐採されて140戸の住宅が建ち、47年4月から入居が始まった。接収は1957年まで続き、返還後に再整備して1961年に再開園したが、この年筆者は10歳だが、最近のことと思える。伐採された樹木は開園当初のものがあったのか。そうであったなら、森創りの難しさを物語る。GHQは東京では外苑を運動施設として接収し、「自由の女神像」を建てたことの写真が展示された。しかし返還されただけでも幸運で、神宮内苑の森が150年の予定が100年で実現したからには植物の再生は速い。話が前後するが、本展の最初の展示は『平成令和の百文様』と題して400年の歴史がある「唐長」が先祖伝来の600枚の板木に新たに100枚を加える試みが平成時代に始まったことを紹介し、ムジナモや梅花藻、藤袴などの文様を摺った唐紙が展示された。600枚の板木は日本の伝統的な植物はすべて網羅されていると想像する。そこに新たに日本的な植物を選択し、それらを文様化することはそれだけでも1冊の分厚い本が書けるほどの興味深いテーマだが、そうした試みが平成になるまでなされて来なかったのかという疑問が湧いた。友禅染ではとっくの昔にそういうことを個々の作家がやって来ている。その代表的な花は江戸時代にはなかった洋蘭だ。ムジナやバイカモなどの異なった文様の板木を複数重ねて摺る技法は唐紙の専門家の目には新鮮に映ると想像するが、いくらでもヴァリエーションが作れそうな気にさせるもので、その意味で現代的かもしれないが、長年使われて来たものと違って貫録のなさが露わになっている。一方、唐長が府立植物園や歴彩館とどういう関係にあっての展示なのかだが、歴彩館には唐長関係の昔の資料が託されているのかもしれない。また花の文様化は植物園に全く関係ないとは言えず、植物園の6倍の歴史を持つ老舗に敬意を表したのだろう。それに本展を美術的な内容の欠如するものにはしたくなかったとの思惑もあったろう。その美術的な展示としては最後のコーナーにあった3点の手ぬぐいだ。これらは大典記念京都植物園が京都府立植物園に名称を変えた1961年に制作されたもので、稲垣稔次郎の型染を思わせる時代感がある。日本画家の佐々木邦彦やタイポグラフィ作家の小栗英二がデザインしたもので、それより10数年以降になるが、筆者がこの植物園を訪れ始めた頃の入園券のデザインが堂本印象のカラフルな絵であったことを思い出しながら、その原図の紹介がなかったことが物足りなかった。2年前に訪れた時は入園券のデザインは違っていたから、入園券が100年の間にどう変化して来たかの展示があってもよかった。
