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●「雨の中 さあ出かけよう 山崎へ 今日は最終 展覧会日」
采を 浴びた後には シャワー室 役目終えれば さっぱりしたき」、「さっぱりと したものばかり 好むれば やっぱりかすみ さっぱりな人」、「やっぱりと 思い当たるや 人となり 直感信じ 無慈悲にもなり」、「頼まれて 安請け合いの お人よし 陰で言われし アホの丸だし」
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今月7日、雨にもかかわらず家内と大山崎山荘美術館に展覧会を見に出かけた。当日が最終日であったからだ。もっと早く行けばよかったのに、筆者の両足の発疹がまだあちこち痛む状態であった。その日は午後7時半頃にヒマラヤの岩塩を溶かした湯に両足を30分浸したのがちょうど10回目で、今夜は「風風の湯」に行ったので行なわなかったが、もうひどい発疹は足の甲の数か所となったので膝から下を足湯することをしなくてもいい気になっている。医者に診てもらわず、薬を飲まずでどうにか快復して来たが、そうなると気分もよくなってなんだかやる気が湧いて来る。筆者が病に関してはお金を全く使っていないも同然であるのに、家内は月に一度は大きな病院に行き、リウマチと喘息の診断を受け、多くの薬を処方される。月二度の1本6万円の注射をしなくなったので出費は抑えられているが、医者はもっと高価な注射があると勧める。その注射であれば6万円の注射のように、リウマチを抑えつつ肺に悪さをしないようなのだが、打ってみなければどうなるかわからない。アクセル・ムンテは医者でありながら、イタリアの農民たちが医者に診てもらわないほうが健康であると書いたが、そのとおりと思う。病院に行くほどに病が見つかり、薬漬けになって別の病を発症する。それはあながち間違いとは言えないだろう。医者が他人の病を治すというのはおこがましい。病を治すのは病人が持っている力だ。それが病に負けるようであれば、それは自然が死を命じていると捉えてよい。とはいえ病に苦しむ者は藁にもすがりたい。筆者はここ2か月ほど、ひどい発疹に特に両足は毎晩火あぶりの刑を受けている気分であった。いくら薬を用いないとはいえ、ニベアくらいはいいかと思ったところ、韓国製のアロエクリームがあるのを思い出し、それを日に二三度塗ると劇的に改善し始めた。内服薬はそうしたクリームの延長線上にあると思えば、一本6万円の注射の存在は理解出来るし、実際それを打っていた当時の家内のリウマチは嘘のように痛みがなくなった。それで安心していると、肺の菌の増殖がわかり、医者は急遽6万円注射の停止を言った。そしてもっと高価な注射があると言うのだが、家内の体はほとんど実験台ではないか。秋に筆者は72,家内は70歳になるので、体の異変が出て来ても仕方はなく、後はいかにうまく病の障害物を切り抜けつつ長寿を保つかだ。とはいえ周囲を見わたすと、長寿がいいとも限らず、厄介を抱え込み続けるだけの気もしている。その一例が生まれて初めて経験した発疹だ。
●「雨の中 さあ出かけよう 山崎へ 今日は最終 展覧会日」_b0419387_11242279.jpg 家内と出かける時は筆者の格好となるべく釣り合わねばならない。家内はそう思っておらず、着心地がよくて動きやすい服がいいと言う。それでも筆者はふたりの服装をそこそこ合わせたい。7日は雨であったが、電車で大山崎駅に出て駅前から美術館まで送迎バスがあり、ほとんど濡れることはない。それででもないが、電車の時間を気にしながら筆者は家内にこれとこれを着てこの帽子を被れと、一切のコーディネイトを大急ぎで言いわたした。シャツもジャケットも帽子もみなヴィヴィアン・ウエストウッドで、家内は文句を言いながらもそれらを着た。筆者は帽子のみ夏場に愛好するヴィヴィアンの麦藁のマウンテンハットで、他はほかのブランドだが、まあふたりの格好は目立つので他者からはペアに見えるだろう。大山崎駅前の西国街道沿いの店で食事することにしていた。今日の最初の写真は駅からそのレストランを向く家内を撮った。その店は昔から知っているが初めて入る。満席で、筆者らは奧の薄暗い部屋の、先ほどの家内の駅での立ち位置が臨める窓際に座らせられた。ブラインドがあって外は広くは見えなかったが、2枚目の写真のようにごくわずかな、3センチほどの隙間から外が見通せた。手前は花の鉢やプランターが占め、細長い絵画のような眺めが面白かいので上下2枚で撮ってつなぎ合わせた。隣りのテーブル席に4人の60代女性が陣取り、コーヒーを飲みつつ大声で話していた。筆者らはちらちらと見られている気がしたが、出て来た料理をさっさと食べ、彼女らを後目に店を出た。彼女らは店のかき入れ時にどれほど店内で粘るのだろう。家内に支払いを任せて先に外に出ると、雨はまだ降っていた。今日の3枚目の写真はレストランの外観と、レジを済ませて出て来る家内だ。家内が出て来て笑いながら、レジの若い女性から「帽子屋さんですか?」と声をかけられたと言う。女性が続けて言うには、カップルのひとりが帽子を被ることはよくあるが、どちらもしかも見慣れない形の帽子となるとめったにいないとのことだ。それはそうかもしれない。以前にも筆者らは帽子を誉められたことがある。「はははは、帽子屋とは参ったな」「そう、それで主人が帽子好きでいろいろと買うのですと言ったよ」「彼女、ヴィヴィアンの帽子とわかったかな。それはないやろうけど」ヴィヴィアン・ウエストウッドのマウンテンハットをメルカリで出品している若い女性が書いていた。『買ったものの難易度が高過ぎて家の中で被っただけ…』この気持ちはよくわかる。写真ではとても格好よく見えるが、実際に被って鏡を見ると、全身の服装をその帽子に合わせなければならないと思い始め、するともうとてもその勇気が出ない。筆者もその口だが、還暦を過ぎた頃から好きな格好をすればいいとより強く思うようになった。同世代の老人の地味過ぎる格好を見ると、同じようにはいたくない。
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# by uuuzen | 2023-05-15 23:59 | ●新・嵐山だより
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その41
轤首 待ちくたびれて 伸び過ぎて 相手のもとに にゅーと顔出し」、「恐々に 尋ねてみれば やはり恐 びくびくすれば 見くびられるや」、「堂々と 尋ねてみればひるまれて あんた恐いわ 偉そうにして」、「偉い人 偉そうにして 偉く見え アホな人には アホと呼ばれて」●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その41_b0419387_02360538.jpg 相楽園の蘇鉄を採った写真の枚数を減らすため、ほとんどを2枚を1枚に組み合わせ直した。そうすれば書くべき文章の段落数が大幅に減る。それで写真が全9枚であれば投稿は3回ではなく2回でもよかったが、承天閣美術館の蘇鉄よりか貫禄のある蘇鉄園であるので3回がよいと思い直した。筆者がブログに投稿する写真は基本的に500×360ピクセルだ。これを2枚で1枚に加工しても同じ500×360にするため、その半分の1枚の写真は360×250となるが、2枚の間に2ピクセルの空白を設けるので、360×249ピクセルにする必要がある。500×360の写真を縦横比率を守って360×249に縮小すると、360は259ほどになって249では10ピクセル足りない。つまり最初はどの写真も500×360に加工するのに、その写真を2枚で1枚に加工し直す際、元の2枚の写真は縦を10ピクセル削ることになる。これが厄介な場合がある。かなり厳密に構図を決めて500×360に加工しているものを、改めて縦を削るからだ。それで仕方なしに10ピクセル削る場合と、500×360の写真の縦横比率を変えて360×249にする場合がある。後者では写っている内容はそのままでわずかに扁平になるが、筆者の安物カメラでは現実を正しく真正面から撮っていることはなく、左右も上下もわずかに傾きがある。左右の傾きは筆者が撮れば必ず右が少し下がるので、水平に戻す加工をする。その時に生ずる水平線のギザギザの歪み線によって本来の写真の傾きを変えたことがわかる。上下の傾きは小柄な家内が筆者を撮る場合と、筆者が家内を撮る場合に差が出るし、被写体とカメラの距離も関係する。それはともかく、500×360の写真2枚を同じサイズの1枚に加工し直すのは上記のように手間がかかるが、10ピクセル削らずに縦を10ピクセルすなわち4パーセントほど縮小しても写真は不自然に見えない。スマホには足を長く伸ばして加工出来るアプリがあるようだが、轆轤首のような長い女性の足の写真を見ると筆者はとても気色悪くなる。蜘蛛か奇形であってとても美しいとは思えない。人体の各部はおおむね調和が取れていて、轆轤足ではないが、足だけ手術で長くすれば絶対に全体の均衡美が失われる。明治生まれの人の全身像の写真を見ると6等身と言ってよいほどで、とても頭が大きく見えるが、キモノを着た写真では不自然に見えず、小柄ながら全身のバランスが取れていて、当時背の高い男をデクノボウと呼んだことに納得も行く。ところが日本の人体美の基準がここ半世紀で大きく変わった気がする。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その41_b0419387_02362678.jpg ヴァン・ドンゲンの絵が予告したように今はとにかく背が高いことが格好よさの最大条件だ。筆者から見れば能無しに見える顔つきの男でもモデルや芸能人になり、またイケメンと呼ばれている。最近身長が175センチない男は男の権利はないと言った女がいた。そういう女は女の権利がないと小柄な男は思っているし、賢い男はみなそうだ。人間が蘇鉄のように生育条件がよければどこまでも大きくなる動物であれば、やはり大柄な蘇鉄は小さな蘇鉄を馬鹿にするだろうか。絶対にそうではない。どの蘇鉄も最初はごく小さいからで、たまたま育つ場所が違って成長具合に差が出る。筆者はTVで女性が男性の身長は高いほどによいと言っている場面に出会えば、必ず「身長3メートルの男を探せ」とつぶやく。そんな男はいるはずはないが、2.5メートルならいるかもしれない。ともかく世の中の多くの女がそういう男を求めれば、それこそ男はデクノボウになることを望み、こぞって手術をして足を伸ばすか、遺伝子操作で足長人種を生み出せとデモ行進するだろう。遠い未来はさておき、男の高い身長を望んでも2メートル少々が限界とすれば、彼らは小柄な人を馬鹿にするだろうか。そうだとすれば蘇鉄以下だ。それに2メートルはない大多数の人はやはりその人物をデクノボウと呼ぶ。デクノボウは背が高いだけで取り柄のない男のことだが、これが小柄な男のひがみかと言えばそうとは限らない。長い歴史から人は小柄な男に偉大なことを成し遂げて来た場合が多いことを知っているからだ。もちろん長身の偉人もいるが、それを例外とみなすほどに身長2メートルは日本ではきわめて珍しかった。だが戦後日本の栄養がよくなって今は男の平均身長は175センチになっているのかもしれない。それでは前述の女の発言はさほど小柄男性を侮蔑していないことになりそうだが、栄養状態をどんどんよくしても平均身長2メートルにはたぶんならない。蘇鉄も同じことが言えるかもしれないが、蘇鉄は品種改良によって今はいくつかの種類があるはずで、成長が比較的早く、また棕櫚とまでは言わないが、背がかなり長く伸びるものがありそうな気がする。それが面白いとなれば、商売人は遺伝子改良して轆轤首のような長い幹の蘇鉄を生み出すだろう。植物がそうなったところで人間は面白いと言って珍重するだけで恐がらないが、遺伝子操作が今後どこまで広がってどのようなデクノボウ的、あるいは轆轤首的な生物が登場するかわからない。それで身長3メートルの男がよい女の望みもかなう。だが男はどういう女を望むのか。大柄女を好む小柄男はたまにいるが、身長3メートルの女に抱きつく小柄な男はまるで赤ん坊で、子宮に出入りして遊ぶことを互いに歓ぶかもしれない。普通のセックスに飽きればいずれ人間はそういうことを本気で考える。轆轤首のお化けを生み出した先人は人間の捉えどころのない気味悪さを見抜いていた。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その41_b0419387_02364290.jpg

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# by uuuzen | 2023-05-14 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その40
(そそのか)す 手立て見抜いて 難を避け 貯めた大金 使わずに死に」、「高台に 住んで見下ろす 地の底に 高層ビルの こちら向く窓」、「せせこまし 鉢に聳える 蘇鉄には 怯えることは 土の少なさ」、「大都会 うじゃうじゃ人の どっと混み たまに紛れて ドットで目立ち」
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その40_b0419387_16275732.jpg
今日の第4首の歌は水玉模様の服を着て、周囲から浮き立つであろう筆者の姿を想像したもので、もうしばらくするとその格好で出かけてみよう。帽子も靴も水玉模様にすると、さすがに目立ち過ぎて変な爺に見られるので自粛するが、外出時には白髪隠しもあって帽子を欠かさない筆者は水玉模様のものをほしいと思っている。ところが水玉模様の帽子や靴はほとんどが幼児用か女性用で、どうやら男には可愛い水玉模様は似合わないという認識が昔からあるらしい。それはそうと蘇鉄模様のアロハシャツはいくらでもありそうだが、筆者は派手な柄のシャツはあまり着たいとは思わなくなって来ている。蘇鉄を服地の柄にすればどのような色合いでも派手になる。蘇鉄の葉の広がりが爆弾の破裂を連想させるからだ。その意味で蘇鉄は全体が緑一色ではあるが、遠目に目立つ派手さを持っている。形における派手さは色のそれよりも渋くて格好よい。筆者が好むファッションはそういう類のものだが、形の派手さを追求すると女性ものに行き着く。まあその話はさておき、TVでイタリアなど地中海沿岸の街を紹介する番組を見ていると、その植生に目が行き、蘇鉄や棕櫚に似た植物が必ずあることを知る。アメリカの西海岸もそうだ。そうした熱帯性の植物を見るといかにも外国という気がするが、日本に住みながら蘇鉄を見ると、日本に溶け込みながら異国情緒もあって目立つ。もっとも、この目立つというのはその対象に関心がある人に限ることで、植物に無関心な人はどこへ行ってもどういう植物がそこにあったかを記憶しない。それではもったいないが、知識や関心がなければ仕方のない話であって、当の本人は何ら不自由していない。昔ロンドンに行った時、街中を適当に歩いていると、住宅地の坂道に入り込み、それを下ったところのほとんど四辻の角の家の前庭に、赤紫と白のフクシアの花がたくさん咲いていた。日本でも見かける品種で、ほんの少し立ち止まって見つめていると、家の奧から子どもの笑い声や話し声が小さく聞こえていた。それで筆者はそっと立ち去ったが、たったそれだけのことを何度も繰り返し思い出すのはフクシアの花があまりに鮮やかであったせいだ。その花の名前を知らない人は素通りしたであろうが、そうしたところでどうでもいい断片的な話で、筆者の記憶が貴重とは限らない。ただし、こうして文章にすると誰でも思い当たることがあるはずで、その意味で筆者は孤立してはいるが、誰とでも感動というほどのおおげさなものではないにせよ、思いを共にすることは出来る。そしてそのことにひとつの文章の価値を思っている。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その40_b0419387_16282124.jpg 相楽園の蘇鉄群は外国人に珍しがられるだろうか。蘇鉄は南国ではいくらでもあるが、相楽園のものほど手入れされ、ひとまとめに植わるものはおそらくない。文人趣味にかなう蘇鉄であったので近代になっても大金持ちが愛好し、庭に植えたがった。そうして拡大したものが相楽園の蘇鉄で、先人の知識人たちが蘇鉄を好まねば、後の財力のある人も進んで鑑賞しようとはしなかった。つまり蘇鉄が愛でられることには長い歴史があって、それで各地に樹齢200年以上のものがたくさんある。筆者は相楽園のものを見るまでは栗林公園の蘇鉄が最大級であったが、規模の大小よりもどういう場所にどういうように植えられているかで印象に大差が生ずる。もちろん蘇鉄の本数に関係なく、栗林公園のものも相楽園のものも立派さは同じで、どちらも味わい深い。それは大切に世話をされているからだ。植物は世話するほどにそれに応える。それは人間でも言えるが、世話の焼き過ぎで台無しにしてしまうことがままあって、距離の取り方には注意を要する。筆者は隣家の前庭と裏庭に蘇鉄の鉢を置いているが、枯れた葉を見つけると適当な時期に切り、落ち葉が蘇鉄の葉にあれば必ずそれを取り除けるなど、それなりに見守っている。ただし鉢植えでは育つのに限界があり、蘇鉄も窮屈を感じるはずで、相楽園の蘇鉄の地植え状態が羨ましい。あるいは筆者はほとんど羨むことがないので、言葉を変えれば、わが家の蘇鉄が勢いよく育っていながら何となく憐れだ。それはせっかく大きく育つ可能性があるのに、家の経済事情で充分に学べない子どもを見るようで、自分の不甲斐なさを思う。同じことを植物を育てる人はたいてい思うだろう。田舎であれば広い庭はあたりまえに確保出来るとしても、先に述べたロンドンのそこそこ高級住宅地の一軒家の前庭の狭さも思い出す。その家に裏庭があるのかどうかわからないが、フクシアの花が咲く前庭は畳2枚分ほどであった。京都市内でも事情は同じで、大半の住宅は庭らしきものはあっても植物が育つ庭と呼べるものがない。そこに広い場所を占める蘇鉄となると遠目にも目立つので」、筆者は初めて見る鉢植えに気づくたびに内心声を上げる。植物好きの外国人が日本の街を歩くと、蘇鉄の鉢があることを知り、一方で栗林公園や高松の玉藻公園に蘇鉄が大規模に植えられている様子を見ると、日本人がエキゾチシズムを愛好し、その思いを植物にまで広げて珍重していることに感心するだろう。植物好きは世界中にいるが、日本における蘇鉄のように社会の層に応じながら大小で育てられている植物は他にないように思う。フクシアはどこで咲いても草花で、蘇鉄のように樹齢200年といったものにはならない。日本の代表的な花の桜はそうではないが、慎ましいアパート住まいの庶民が桜の鉢植えを楽しむことはなく、そもそもホームセンターで桜の鉢植えは販売されていない。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その40_b0419387_16284049.jpg

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# by uuuzen | 2023-05-13 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その39
び 葉が歯向かうや 蘇鉄かな 触れずに見よと 注意の声が」、「蘇鉄園 ひとり遊びの かくれんぼ 妻は呆れて 探しもせずに」、「これほどに 蘇鉄集いし さぞ楽し 孤独もいいが 群れはなおよし」、「想像を 超えた迫力 言葉なし 写真を撮って ゆっくり回顧」
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その39_b0419387_00413053.jpg
この蘇鉄シリーズの前回は4月上旬で、相国寺の承天閣美術館にある「蘇鉄の庭」を2回に分けて投稿した。その時に気になったのは、見た順序からすれば2年前の10月末に見た神戸の相楽園の蘇鉄の写真を先に紹介すべきことだ。筆者がこれまでに見た蘇鉄ではたぶん最大の規模のその蘇鉄の群れは、写真をどう撮っていいのか戸惑うほどに大量で、踏み込んでならないとは書かれていなかったので、ひとり入り込んで撮影した。その写真をようやく先月投稿用に加工したが、枚数が多くて投稿をまた躊躇した。投稿を思っていながらそのままになっている写真は数多くあるが、蘇鉄の写真は全部載せたい。それで重い腰をようやく上げる。今日から3日連続でその「蘇鉄園」での写真を使うが、写真枚数は多いのに、何を書くべきか決めていない。3日とも写真は3枚であるから最低2段落すなわち原稿6枚分で、これはたいした量ではないが、書いていて退屈であれば読んでもそのはずで、何か面白いことをと思う。と書きながら、何が面白いのかこれは人によりけりで、筆者が面白いと思うことを書いても他人はそう思うとは限らない。このブログは他者の目を気にせずに綴っているので、他人が面白いと思わなくても筆者は何ら困らないが、せっかく頭と時間を使って書くからには、自分が楽しくなければならない。それには楽しい経験が必要になるが、楽しかったことを書けば他者が読んでも楽しい文章になるかと言えばそうとは限らない。おそらくかなりの割合のブログは楽しい経験自慢で、豪華な海外旅行や食事について写真優先で文章はごくわずかだ。それを見る人は羨ましいと思いつつも金持ち自慢に嫉妬しないまでも嫌な思いをする。家内が「風風の湯」でよく出会う常連客は、会えば必ずどこそこへ旅行して来たとか、有名レストランで食事して来たといった話を交わし、家内はそっとその場を去るそうだ。3人以上集まれば、3人が楽しめる話題を持ち出すのがエチケットと思うが、特に還暦以降の裕福な女性は怖いものなしでしかも図々しいことを自覚せず、自分が楽しいことを傍目を気にせずに話題にする。とまあ、こういう話はさっぱり面白くないので筆者は前言に沿わないことを書いている。それに今日は蘇鉄園について書かねばならない。蘇鉄は面白い植物だろうか。ホームセンターで鉢植えがいくつも売られているところ、買う人があり、すなわち面白いと思う人がわずかでもいる。それは多肉植物と同様、ほとんど手間いらずであるからだろう。無精者でしかも植物の緑が身近にほしい場合、蘇鉄は多肉植物のように小さくはなく、それなりに存在感があって好ましい。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その39_b0419387_00415600.jpg 大きくなると場所を取るのが問題で、小さなアパート住まいであれば数年経っての転居の際、蘇鉄の鉢植えの処分に困る場合がある。数年ではさほど成長しないから問題はないが、成長条件がよければめきめきと育って葉を増やし、それを広げる直径が冷蔵庫や洗濯機以上になる。直径1メートルにもなれば部屋にはもう置くのは邪魔で、さりとて庭がないとか狭いとなればそこも無理だ。そんなことを常々思っている筆者は相楽園に見事な蘇鉄の園があることを知り、その敷地の南東角の玄関から上り坂の園内を北に進んだ時、蘇鉄の大群を目の当たりにして狂喜した。承天閣美術館にある蘇鉄のように植木屋が人工的に手を加え、配置した庭ではなく、ここでは自然主義、放置主義で野放図に成長している感がある。確か樹齢200年のものがあると立て看板にあったが、当初薩摩か奄美から移植したものから株分けするなどして増やし続けているのであろう。あまりの圧巻にどこをどう写生したいかを考える余裕がなく、ただ蘇鉄の迷路の中を歩き回ることが楽しかった。本当はその行為は禁止されているかもしれないが、蘇鉄園に立ち入っても蘇鉄に手荒な真似は出来ない。触れば蘇鉄の葉がちくちくと刺し返すからだ。この触ってはならないと言わんばかりの態度が蘇鉄のよさでもある。放っておいてほしいという素振りは女性でも時に可愛いが、蘇鉄も女性も放置一方ではさびしがる。それで適当に蘇鉄を目にしてたまには水やりをすると、蘇鉄が笑顔になっていることが何となく伝わる。このことは以前に書いたので繰り返しは面白くない。話を戻して、女性の裕福自慢は嫌味に思えるとしても、貧富の差があるためにたとえば相楽園が作られ、それが現在まで保存され、京阪神では随一と言ってよい規模の蘇鉄園がある。昔なら誰でも相楽園に入ることは許されなかったが、今では安価で園内を巡り、ハッサム邸も見られるし、蘇鉄の園に踏み込むことも出来る。だが、前述の女性たちはハッサム邸にも蘇鉄にも関心がない。面白いと思う対象が違うのだ。それで家内は彼女たちと談笑することがあっても神戸の相楽園に行って来たとは言わない。「それ何?」で話が続かず、また妙なことを自慢していると思われる。女性蔑視はしたくはないが、話し相手より自分が上とばかりの自慢話をされるのは聞いていて楽しくない。だが彼女らは自分が楽しければよく、さらに相手より勝っていると自覚出来ることが何よりの人生の面白さと信じている。だがこういう話を彼女らにしても貧乏人とひがみと思われるのが落ちで、家内のように話の輪からそっと抜け出すのがよい。面白いことはひとりであっても無限にある。もっと言えば金をさほど要せずに楽しめる。そういう人が面白い。とはいえ、金持ちの玄関先には大きな蘇鉄が植えられ、並みの庶民にはない貫禄を見せつける。そうであるから相楽園の蘇鉄の群れは文句なしに面白い。
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# by uuuzen | 2023-05-12 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●『キース・ヴァン・ドンゲン展』の図録から
なき ベレー帽では 眩しけれ サングラスとは 常にセットや」、「昔から 好きな画家は 年取らず 吾は鏡の 白髪見つめ」、「吾ほしき ヴァン・ドンゲンの 油彩画を 女や花を 描きしそれを」、「色使う 仕事に要るは 色気なり 性力用い 名は広まりて」
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このカテゴリーでは展覧会を実際に見た感想を書くことにしているが、今日は例外的に入手した図録によって書く。去年7月上旬から9月下旬まで東京でのみヴァン・ドンゲン展が開催された。同展を見るために東京に行くほどの気持ちも経済力もなく、図録入手で我慢した。以前に書いたと思うが、筆者がヴァン・ドンゲンの作品を初めて知ったのは、何の本か忘れたが、図版によってだ。週刊朝日百科『世界の美術』を引っ張り出すと、その絵が原色で紹介されている。筆者は18,9の時にこの「テラスの女」の白黒図版を見てドンゲンの絵の魅力に囚われた。フォーヴあるいは表現主義の画家としても活躍したドンゲンは日本ではさほど有名ではなく、めったに作品に接する機会がないが、スイスのプチ・パレ美術館に「村の広場」と題する風景画があり、それを19歳で筆者は大阪なんばの高島屋で開催された『スイス プチ・パレ美術館 20世紀名画展』で見た。正方形の小型の図録はたぶん500円であったと思う。もちろん買った。今日の最初の写真は上が「テラスの女」、下が「村の広場」で、艶めかしい笑顔の女性を描く画家がこういう静謐な村の風景をも楽し気に描くことに感心する。筆者が次にドンゲンの実物の油彩画を見たのは26歳で、京都高島屋での『ヴァン・ドンゲン展』だ。当然また図録を買った。その後日本ではドンゲン展は開催されず、筆者はネットでよく利用するフランスの古書店でたまにドンゲンの画集を探しながら買わずにいるが、去年夏に東京で44年ぶりにドンゲン展が開催されることを知った。このほぼ半世紀の間に日本におけるドンゲンの人気がさして高まりもせず、また東京一局集中が美術展でも顕著になり、大好きなドンゲンの作品を目の当たりにすることなく、せめて図録だけでも入手することで溜飲を下げるしかない。今日の2枚目の写真は左が78年展、右が去年開催展の図録表紙だ。44年の開きがあるとなれば、もう筆者が生きている間に京阪神でドンゲン展が開催されることはないはずで、今日は長年のドンゲンに対する思いをわずかでも書いておく気になった。日本でドンゲンの人気があまりないのは、「テラスの女」からでも即座にわかるように、女性の肖像画に頽廃性が強く滲み出ているからだろう。だがドンゲンの作品はそれだけが売り物ではない。花瓶に活けた花、風景画も含めてそれぞれに時に可愛げがあって味わい深く、この画家の内面を覗き込む気分になる。そして画家として高名を挙げるには何が必要かを考えさせる。その要件は100年前のパリにおいてだけとは限らない。華やかな社交界があればいつどこでも通ずるものだ。
●『キース・ヴァン・ドンゲン展』の図録から_b0419387_01562081.jpg 才能があって作品を生みさえすれば必ず誰かが目に留め、作者の没後であっても有名になることはあり得る。カフカがその一例だが、画家ではゴッホだ。ドンゲンはヘルマン・ヘッセと同じ1877年生まれで、24歳年長のゴッホと同じくオランダで生まれた。やがてゴッホと同じくパリに出るが、ゴッホと違ったのは都会のパリを好み、また交際好きで、次第に上流社会に食い込んで行く。陽気で気さくな人柄であったのだろう。そのことは作品の色合いが示しているが、フォーヴの画家はみな原色を多用し、派手な画面を築く。ドンゲンの初期の作品はゴッホに通ずるような貧しい人々を画題にして社会を告発するようなものがあるが、絵が売れ始めて社交界で名を馳せると、描く女性像は金持ちがもっぱらとなる。そういう女性たちから次々に注文が舞い込むのでそれは致し方がない。またドンゲンは女性を描くことを初期から好み、その女性の階層が上流に変化しただけとも言える。社交界の女性たちの間でドンゲンが有名になるには単に画才だけでは駄目であったはずだ。まず人柄がものを言う。時にはセックスの相手とならねば描いてほしい女性たちは満足しない。動物と何ら変わらない性的魅力の応酬によって世の中が動いているし、また取り巻きの女性にはドンゲンの性的能力がきわめて高いことを認識する直感があった。もちろん性的魅力を感じさせない、表わさない画家や表現者は多くいるが、それはそれとして一方では性の奔放な交歓によって物事は動いて行く。その多くが不倫という形を取るが、そうした性にまつわる秘め事が不幸な結末を招くとは限らない。それはさておいてドンゲンはモデルになった女性と性行為をする一方、画家として作品のあるべき形を考え、その作品が月並みな印象を与えないことに筆者は驚嘆する。それは10代後半で図版の「テラスの女」を見た時から感じたものと言ってよく、女性の官能性を描く一方で、ドンゲンはモデルの肉体に溺れておらず、それどころか彼の冷徹な眼差しを感じさせ、そこに人間の悲哀や歓び、そして高貴ささえもが混じって伝わる。簡単に言えば、描かれた女性たちの若さや性的魅力はすぐに消え去ったが、絵画として刻印され、その絵画を描いたのが自分であるとの矜持がドンゲンにはあったと思う。どの画家ももちろんそうなのだが、ドンゲンには性の魅力を濃厚に湛えた女性を自分以上にうまく描く画家はいないとの自信はあったろう。そしてそういう絵を描くには、女性との性交能力を人並み以上に保持するかたわら、女性の魅力に溺れ切らない醒めた思いが欠かせない。そこがポルノ男優との違いで、文筆家として名を残した女性渉猟家のカサノヴァにも同じ思いはあった。それは性交が目当てでありつつ、それを超えた創作への強い衝動だ。ドンゲンに肖像画を描いてもらおうとした上流社会の女性はドンゲンのそういうところに魅せられたであろう。
●『キース・ヴァン・ドンゲン展』の図録から_b0419387_01564779.jpg
 小説『トリルビー』やまたアクセル・ムンテの著作にフランスで画家のモデルになる美女の話が登場する。彼女らはみな貧しく、時に画家に妊娠させられ、社会の底に沈んで行く。だが、画家が描いた彼女の姿は高貴さを湛えてどこの貴婦人かと噂される。そうした理想化的表現と違ってドンゲンが描く女性はみな蠱惑的とは限らない。ドンゲンはモデルとなる女性の性格を見抜き、その身分と身なりに応じていかにもそれらしいたたずまいと表情で描く。そこには肉体と服装に対する美意識があって、下半身をひどく引き伸ばした表現が目立ち、洋服のスタイル画のような趣があるが、表現のルーツはそこだけにはなく、ドンゲン以前にフランスの画家にあったオリエントや古代ギリシアに対するエキゾチシズムに求めるべきものだ。1907から1910年に描かれた「テラスの女」は右端の女が顔の3分の1だけを画面に覗かせる大胆な構図で、口元に白い扇、頭に赤い花を描く。中央の女は大きな帽子を被り、笑顔でテラスの下にいる男性に声をかけているのだろう。右下隅のテラスにかけられた布は黒地に金の模様で、この絵に装飾性を付与してエキゾチシズムを増加させながら、女の表情にふさわしい赤を中心とした色彩が女の誘惑を示す。ふたりは踊り子で売春婦と見てよいが、そうした華やかな女性に誘惑されながら、これほどの強固な画面を構成する才能は20世紀初頭ではめったにない。「村の広場」は1906年の作で画面右端に教会、左端に屋根を覗かせる民家を配置し、画面中央の並木の途切れた箇所に教会の屋根と相似形の三角を空け、そこに「VINS」(葡萄酒)の文字を描いて酒場があることを示す。斜めに傾けられた三角形の広場の左端に、花輪のある十字架らしきものを持つひとりの老婦人の背面を描き添え、生と死、俗と聖がごく単純化された画面に盛られる。去年の東京でのドンゲン展は副題「フォーヴィスムからレザネフォル」と題し、20世紀に入ってから1920年代(レザネフォル)までの作品を主に扱い、これは受注する女性の肖像画が型にはまって行く晩年以前がドンゲンの作品の魅力との考えに立つところがあるからだろう。78年展では1958年制作の当時24歳であったブリジット・バルドーの肖像画が出品され、81歳になってもドンゲンの感覚と力量が鈍っていなかったことを伝える。今日の3枚目の写真がその絵で、ドンゲンの戦前の作品の魅力を愛する者からすれば「ブリジット・バルドー」は渋い暗さがなく、何となく物足りない。高齢の画家がセックス・シンボルと言われたフランスの女優をポップの時代に応じたように描いたことは積極的に評価すべきだが、やがて美術界の中心地はアメリカとなり、アンディ・ウォーホルが有名人から肖像画を受注し、その注文主の顔を写真版画で制作することになる。
 今日の最初の写真の左すなわち78年展の図録表紙の作は「ルイーズ」と題され、1900年の作とある。この絵の大味なところのどこがよいのかわかりにくいかもしれない。またルイーズが娼婦か上流階級の女性なのかわからないが、横顔の青い目と赤い唇が絵の中心で、目は真正面から描かれ、そのことが強烈な印象を与える。なぜドンゲンはそのように目を描いたか。同展の図録によれば1920年の作として紹介する文献がある。ドンゲンの作は制作年が不明のものが多いようで、1900年と1920年のどちらが正しいかはわからないが、前者とすればドンゲンがパリに住んで間もない頃にすでにエジプト美術に関心があったことになるだろう。エジプトの絵画では横顔であるのに目は正面向きに描かれるからだ。ドンゲンが初のエジプト訪問は1913年で、その成果はすぐに作品に反映される。ドンゲンがエジプトで発見したのは特に彫刻における女性像の輪郭線の美しさだ。エジプトの彫刻は片足を一歩踏み出す立像以外は動きがほとんどない厳格な構成のものがほとんどだが、特に女性像であれば肉体にぴたりと張りついた薄い着衣の下に肉感的な曲線を表現する。それは古代ギリシアの彫刻でも同じで、また古代ギリシアでは「ベルリンの画家」がしばしば描くように、衣服の襞の重なりが下方に垂れる美しさがひとつの不可欠の要素として使用された。後述するように20年代のドンゲンはそうした要素を現代のモードのひとつの特徴として作品に描いている。ドンゲンはあられもない素っ裸の寝姿の女性もしばしば描いたが、下着やドレスをまとった姿でも極端に細長くデフォルメする場合が多い。流線形もしくは魚のようと言えばいいか、そうした姿の女性像がいわゆる「格好よく」見えるのは当然で、そのことからドンゲンがファッションに関心があったことも想像出来る。先の「ブリジット・バルドー」も背景のレモン色に花模様を散らして衣服のような装飾性が強い。ドンゲンは現実にはない色彩の布置を優先すると同時に人物や動物を、またその動きを画面構成のためには極端にデフォルメしてよいと考えた。その意味では写実ではないが、写実に基づきながら画面の細部を味わう楽しみがあるように再構成をした。しかもおそらく緻密に計画して少しずつ描き進んだのではなく、ほとんど即興的に走り描きしたはずで、直感に頼って破綻しておらず、スーパーリアリズムの対極にありながら、絵画本来の尽きせぬ魅力を満載する。それは絵は絵であって現実とは違うもので、描かれる対象は自身も含めて平面上に組み合わせて並べられるものという、華やかな文様のある布地のようなものとの思いだ。その平面的な装飾感覚はエジプトの絵画や古代ギリシアの壺絵などから学び得たが、文様画ではなく、立体である人体を描くには奥行き感は無視出来ず、全身像を描く場合は奥行きを伝えるポーズをさせる必要がある。
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 その点、上半身のみ描く「ブリジット・バルドー」は静的だ。しかもかなり平板に色を塗る。そこに浮世絵の影響が垣間見え、顔はバルドーの売りとなった口元や目を強調し、ほとんど漫画のような画面になっている。ドンゲンと浮世絵の関係は知らないが、印象派やゴッホが浮世絵に学んだことの後塵を拝する思いがドンゲンにあってしかるべきだろう。去年のドンゲン展の図録表紙の絵は1914年の「楽しみ」で、エジプト旅行の成果が見られる。この作品はドンゲンの絵を左右に2点描き写し、中央に異様に背の高い若い女性を画家としてひとり立たせる。左脇の塗りの小卓には外国旅行で買った象に乗る人物の人形と緑色の小壺を置き、女性以外は大胆な赤褐色を中心に配色する。左右の2点の絵画のうち、右は「マドモアゼル・ミロワール、マドモアゼル・コリエ、マドモアゼル・ソフォ」で、78展に出品され、同図録では1918年から25年の制作とされるが、14年が正しいだろう。題名の3人とも実在したであろう。4枚目の写真の左が78展の図録に載る同作の図版で、全体に褐色の少ない赤味を帯びる。左上の裸婦はほとんどモジリアニの女性像かと思わせる。モジリアニも初期は古代ギリシア彫刻に憧れ、画家に転身してからもその要素を変容した絵を描いた。ドンゲンがモジリアニと交遊したかどうかだが、最初期のモンマルトルに住んだ頃にお互い存在を知っていたことは間違いがないだろう。だがモジリアニは1920年に若死にする。「マドモアゼル・ミロワール…」は3人の女性をそれぞれ違い姿態で描きながら、画面の色合いも単純化した輪郭の人体もアフリカないし古代エジプト風で、左端の鏡を見る下着姿の女性は時代最先端の現代女性でもある。それは画面下方で寝そべる女性も同じで、ドンゲンの女性像の特徴がよく出ている。78年展にはエジプトの王と王妃像と言ってよい、男女の正面裸像を中心画題にしてきわめて平面的に着彩する、全体の色合いが「マドモアゼル・ミロワール…」によく似た作も出品され、1918年頃の制作とされる。それが正しければドンゲンにとって1913年にエジプト旅行はよほど後年まで印象が強かった。ドンゲンは15年後の28年にもエジプトを訪れるが、再訪時の成果を作品化したものの、数は少なかったようだ。それはエジプトに行った同じ1913年にノルマンディーにある海辺の街ドーヴィルを訪れ、同地を気に入ってその後何度も訪れ、多くの画題を得たからでもあろう。またドーヴィルのさまざまな風物を描く作品はデュフィに似た軽妙さと色合いを帯びながら、ドンゲンでしかあり得ない特徴を持つ。デュフィもドンゲンも即興で迅速に描いたようなところに特徴があるが、透明で厚みをあまり感じさせないデュフィの絵に対してドンゲンはおおまかにざくざくと描きつつ物の質感や空間をうまく表現し、油彩画独特の味わいはより強い。
 先に触れた「楽しみ」はドンゲン自身の作画に対する思いだろう。中央の女性は実際はドンゲンだが、全体に暑苦しい色彩の画面中央を縦に引き裂く形で白いドレスの女性を描いた。彼女は「マドモアゼル・ミロワール…」の絵に向かってパレットと絵筆を持ち、モデルがいたとすれば「マドモアゼル・ミロワール…」に描かれる3人の誰かであろう。この白い女性は腕の輪郭線にドンゲン特有の緑色を使い、また金髪を描く絵具は画面左上の画面に描かれるふたりの正面向きの女性のうちの左側に使われ、鮮烈な青のハイヒールはその絵の下の象に乗る人物の衣服にも見られる。当然中央の女性が持つパレットには赤褐色が最大の面積を占め、そこに金髪に使われる黄味がかった色、そして青、緑、それに画面下部に多用される焦茶の計5色が置かれる。つまりドンゲンは使用する色をごく限りながら、大部と細部を呼応させ、作品全体を平面的に処理する。そうしたことがわかるとますます細部を凝視する楽しみが湧くが、どこも荒々しく描かれたようで、そのことがまた画家の生々しい手わざの息吹をよく伝える。ドンゲンの作品の魅力は即興で描いたように思わせながら、よく計算された華麗な色彩配置と、描かれる対象を見つめるドンゲンの思い、眼差しが伝わることだ。「楽しみ」は左下の遠近法で描かれる小卓に立体である置物の人形や壺を置き、その小卓の右も同様の遠近法で描きながら室内の奥行をわずかに感じさせながら、画面上部は左右に平面である自作絵画を配する。そしてそれらおおまかに4つの物の中央に流線形の女性を置き、また彼女を画布の白を基調として描き、画面全体にひとつの縦方向の裂け目を作り出している。その白はドンゲンが期待する未来でもあるだろう。ドンゲンは画中画の手法を後年に繰り返す。今日の5枚目の写真は78展に出品された2点で、左の原色図版が1935年頃の「ヴィーナス」でこれはモデルを使ったドンゲンの理想の女性像としてよい。右の作品はその「ヴィーナス」を描くドンゲンの「裸の自画像」だ。同じ35年の制作で、当時ドンゲンは58歳であった。図録には白黒図版しかないのが残念だが、各作品の実寸から2枚の図版の比率を割り出して左右に組み合わせた。「裸の自画像」に描かれる「ヴィーナス」は左の「ヴィーナス」とほとんど同じ大きさながら、わずかに細部は異なる。78年に筆者はこの「裸の自画像」を見ながら、ドンゲンのような勇気を持つ自信がないと思った。全裸の自分の姿を自作絵画とともに描くことは隠すものが何もないという自負に支えられている。裸の女性をさんざん描いて来たドンゲンであるので、裸体に欲情することは次第に減って行ったであろう。実物の女性を描いた「ヴィーナス」を描く自画像は、自らをもヴィーナスのように神格化することであると同時に、絵画の力を絶対的に信ずる思いが伝わる。
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 「楽しみ」では無名の白い女性を画家になぞらえたのに、それからおよそ20年後の「裸の自画像」では自身を客体化して描き込んでいる。しかもヴィーナスとともに衣服をまとわず、デフォルメなしに男女の性差による肉体美を描く。ところでドンゲンは日本の浮世絵に感化されたのかどうか、男女の性行為を描く素描がたくさんあって、それらはみなドンゲンにすればきわめて写実的で、また欲情をあまりそそらない。そこにもドンゲンの醒めた意識がうかがえるが、それは春画を描いた江戸時代の浮世絵師も同じで、性行為において男は女よりはるかに醒めていることを男は改めて知る。それは性行為中に敵に襲われるかもしれない大昔の危険を思う本能によるだろう。女性は性行為の相手が途中で変わっても生殖の本能が満たされるならば誰でもよい部分が強い。それどころか性行為の最中に男が別の男に殺されても、より強い男がよく、ほとんど気にしないだろう。そういう女の本性を知っている男はなおのこと性行為では女を喜ばせようと頑張るが、その思いの裏には醒めた意識がある。「裸の自画像」を描いたドンゲンは社交性が人一倍あり、女性に大いにもてたはずで、精力的な画才と旺盛な性力によって人気画家として駆け上がって行ったのであろう。そういう自信が「裸の自画像」からは伝わるし、またドンゲンが信じていたのは寄って来る女以上に自分の絵画であった。またそのことを女性が本能的に察知し、ドンゲンに接近したであろう。社交家となったドンゲンは有名人と交友し、その中に服飾デザイナーのポール・ポワレがいた。去年展の図録にはドンゲンとポアレの関係についての論文がある。ドンゲンの描く女性はポアレと親しくなった頃から明らかにポアレのファッション・デザインの感覚を取り入れたものになっているという内容だ。ドンゲンはポアレと親しくなる以前からエジプトに行くなど、エキゾチシズムに強い関心があったし、またフランスにおけるオリエンタリスムの流行は前世紀から盛んで、そういう文脈にドンゲンやポアレを置けば、彼らの新古典主義に対する趣味は古典から連なったもので、突然変異では全くないことを認めねばならない。それはともかく、流行する絵画の流派が同時代のファッションと交差することは当然であろう。その意味では服飾も芸術になり得るし、ヨーロッパでは実際そうだ。だが身にまとう衣服は絵画と違って消耗品でもあって、また流行が過ぎ去れば古臭く見えて処分されがちで、デザイナーの名声は残っても実物の衣服は後世に伝わりにくい。それゆえ古代のエジプト人やギリシア人がどういう身なりをしていたかは伝わる絵でしかわからない。ドンゲンの名前は実作品とともにこれからも長く残り続けるとして、ポアレのデザインした服がどういうものであったかはよほどのコレクターが熱心に収集しない限り、不明な部分が多いだろう。
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# by uuuzen | 2023-05-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON

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