「
以下の文 前にも書いた 気がしつつ もっと下手かと 衰え自覚」、「振り返り やる気失せるや 吾日々の ろくでなきこと ゴミ屋敷かな」、「これ知った あれを知りたい 次は何 知らずに過ぎる こと限りなし」、「限りある 時を知るのに ぼんやりと するも大事と ごまかしうまし」、「ごまかして いかに巧みに 生きるかが 気楽の極意 三つ子でも知る」
一昨日は家内と大山崎山荘美術館に行って来た。2階のテラスから撮ったのが今日の最初の写真だ。その左手は視界を遮っている木立ギリギリに、右手はずっと奥の男山の端でトリミングし、三川合流地帯を中心に収めた。以前の投稿を調べると、9年前の7月に
「高速道路の異様な威容」と題して同じテラスから同じように撮影している。2枚の写真を比べると、左手の木立が大きく成長していることがわかる。京都縦貫道の普段はVに見えるY字型の橋脚が、9年前は3つとも見えていたのが、現在はひとつしか見えない。この橋脚を走る京阪電車の内部から撮ったのが
去年11月12日の投稿で、その2枚目の写真に国交省が設置した「木津川」と記す緑色の看板が見える。地図を見ると、京阪電車はまず宇治川をわたり、その後線路はS字型に蛇行して木津川をわたるので、前述の投稿の3枚の写真は最初が宇治川をわたった直後、2、3枚目が木津川をわたっている最中であっことがわかる。それはともかく、2,3枚目に写る縦貫道のY字橋脚は木津川ではなく、宇治川のものだ。それら3か所をグーグルのストリート・ヴューを頼りに確認し、地図上に赤い丸で記したのが今日の2枚目の画像だが、Y字橋脚は宇治川だけではなく、桂川にもあるはずと思ったところ、やはりそうで、同じように3か所あった。これら3か所ずつは、ひとつが河川の中央辺り、もう2か所が河川敷に設置されているのは当然のこととして、鉄筋コンクリート製ではなく、もっと頑丈な鉄製のしかもY字型にしたのは、大洪水時に流されないためであることもよく理解出来る。木津川にY字橋脚がないのは、かつての巨椋池の中央と言ってよい久御山町のジャンクションから縦貫道路は真西に走り、木津川をわたる必要がなかったからだ。それで三川合流付近で木津川に架かるのは京阪の鉄橋と、木津川御幸橋のふたつで、大山崎山荘のテラスからはどちらも見えるが、山荘により近い御幸橋は今日の最初の写真でもよく確認出来る。橋の側面下部が赤く、それは遠目にもわかる。そしてその写真左手に写っているY字橋脚が宇治川に架かっているものであることも、去年11月12日の投稿に載せた写真からも明らかだ。今日の2枚目の地図で言えば、6つの赤い点のうち、最も南のY字橋脚のみが夏場の山荘のテラスから見えることがわかる。木が葉を落とす冬になっても見えるのは宇治川のそれら3つで、桂川の3つは密集する樹木によって隠されたままだ。
昔はテラスから伏見桃山城が見えた。テラスとの位置関係を記したのが2枚目の画像の上の地図だ。地図の右上端が城、左下が山荘で、21キロ離れている。双方ともに山中にあるが、山荘から見れば城は山の上に突き出ていて、天守閣であることはわかる。2枚目の画像の下の地図は上の地図を山荘付近をトリミングしたもので、緑色の線を加えた。それはテラスから宇治川にある3つのY字橋脚が全部見える冬場の視線だが、赤線から大幅に南寄りとなって視野が狭まっている。テラスから近い左手に樹木が生い茂ったためで、この美術館の開館当時の昔はまだ充分に育っていなかった。つまり今日の最初の写真の左端の木々の背丈がもっと低ければ、桂川の3つのY字橋脚が見え、そのずっと奥の山手に天守が見えた。その眺望が戻ってほしいが、それにはせっかく育った木をかなり伐採せねばならない。テラスからの視界が狭まって来ていることをこの美術館は知っているはずだが、視界を樹木で遮ったのは、縦貫道の大山崎ジャンクションを見えないようにするためで、桜で有名になって来た背割り堤を中心に三川合流地帯を中心に見せるのが、無粋な眺めにならなくてよいとの判断だろう。2枚目の地図の赤線の視線が可能であれば、
5月29日の投稿『乗興舟』に示したかつての桂川と宇治川の合流箇所や淀城跡も見えた。もちろん伏見港も見えたので、若冲と大典和尚が三十石で下っている様子はすべて視界に入ったが、江戸時代のこの山荘辺りの植生はわからず、ひょっとすればもっと樹木が多かったかもしれない。たぶんそうだろう。山荘を建てるため、またそのテラスからの眺めを確保するために多くの樹木を取り払ったはずで、現在のテラス左手の木々の多さは江戸時代に戻しているのかもしれない。それはともかく、今日の3枚目は『乗興舟』の「山崎」と「八幡」を中心とする部分を白黒を反転し、緑色に加工し、大典の記したそれら地名は読みにくいので赤い楕円で囲った。『乗興舟』での山の眺めはこの辺りが最も川に迫って圧巻だ。またあたりまえのことだが、現在の眺めと同じで、そのことは京阪電車の中からでもわかる。同絵巻で「山崎」の文字は山中に書かれるが、その文字付近がこの美術館だ。つまりこの絵巻の景色は今日の最初の写真とちょうど反対方向にある。そう思ってテラスから眺め下ろすと、今日の最初の写真の光る川面が目に入る。それは御幸橋の位置からして木津川であることがわかる。眼下では三つの川は平行し、1,2キロ下流で合流する。『乗興舟』の時代とは違って巨椋池がなくなり、宇治川の流れが変わりはしたが、三川が淀川となって大阪に向かうことは同じだ。大阪で成人し、その後京都に住んでいる筆者はこの美術館のテラスからの眺めや『乗興舟』にはひときわ愛着がある。そう言えばいつか『乗興舟』展をこの美術館でやってほしい。
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