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●京都河原町三条「DEWEY」にて、『ザッパニモヲ・マザーズデイ・ライヴ』筆者のトーク
風見て 坊主目覚めて 描く絵は 大顎開けた 鮫を上手に」、「難易度の 高き演奏 挑むのは 重荷なれども 楽しさ主に」、「秋春と ザッパニモヲの ライヴあり 変化深化の 色合い見せて」、「思い出は 実現ありて 意味を成し 決意断行 何より勝り」
●京都河原町三条「DEWEY」にて、『ザッパニモヲ・マザーズデイ・ライヴ』筆者のトーク_d0053294_00481113.jpg レザニモヲがザッパニモヲとして毎回心配するのは客の入りだ。演奏当日の20日前のさあやさんからのメールでは、予約がほとんど入っていないのでチラシを配ってほしいとあった。送付された30枚の半分ほどは自治会内の知り合いに配り、もう半分は「風風の湯」のフロント脇のチラシ・コーナーに置いてもらった。効果はほとんど期待出来ないが、認知度を増やす機会にはなる。何事も地道に広報に努めるしかない。今回の演奏の際、さあやさんはザッパニモヲのライヴが9回目で、欠かさず見に来てくれる人のことを笑いながら「変な人」と表現した。ザッパの音楽を「変」と形容するのは変拍子の多い曲でよく知られるからには妥当だ。一方、変なことは世間では稀であるから変とみなされるから、世間ではあまり知られないザッパの音楽を好むのは変人ということなって、筆者を始め、ライヴを聴きに当日会場に集まった人たちは「変人」というのは正しい。さて、これを書くデスクトップ・パソコンの上に今回のライヴで配布した「おみやげ」としてのCD-Rを作る際のその紙袋を糊づけした後の重しに使った中野三敏の『近世新畸人伝』がまだ置いてあって、その本の序文にこういう文章がある。「はやくは京洛の癇癪先生上田秋成が、みずからの剪枝畸人と名乗って『雨月物語』を著したのに端を発して、やがてその類の一派を網羅した『近世畸人伝』正統二篇が編まれ、この言葉は江湖に広まった。…秋成が剪枝畸人と名乗ったのは、単なる役立たずのわやく者の意ではなく、無用の枝指を剪りとった、天に等しい真人の意味をこめていたのに違いない。」6,7年前になるが、さあやさんと一緒に大阪から電車で京都に帰ったことがあって、その時筆者は尊敬する人物が10人いるとして、そこに上田秋成が含まれると話した。その10人は年々変化するが、秋成は10人の中から外れることはない。もっとも、当日のライヴが終わった後に垂水在住の畠中さんと話した時、最近エルンスト・ユンガーの著作に感銘を受けたことを話題にしたように、筆者の興味は日々変わり、面白い著者すなわち表現者に出会えると俄然生きていることが愉快になる。そんな風に感じさせてくれる人は現存者にはいないのは筆者の交友が狭いからだが、そんな筆者がザッパニモヲの演奏の前に30分のトークをするとなると、結局ブログに書いているようなことになるしかない。話す内容の要点を紙にメモすれば言葉に詰まったり、舌がもつれたりすることは少ないが、面倒くさいので出たとこ勝負で思いつくまま話すことにした。そして今日も思いつくまま書いているが、トーク内容とはなるべく別のことを書く。
●京都河原町三条「DEWEY」にて、『ザッパニモヲ・マザーズデイ・ライヴ』筆者のトーク_d0053294_01001974.jpg 去年の時代祭りの際、行列に参加してくれることを頼むために何軒か訪れた。その中に初対面の医者がいて、結局その息子さんが祭りに参加してくれた。医者である父親は筆者のザッパ本を馴染みの床屋で見たことがあり、ザッパの音楽は知らないが、ディープ・パープルの曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にザッパのことが歌われていることを音楽好きの友人たちとの酒席で話題になって盛り上がると筆者に言った。床屋云々は筆者がその店主と親しく、1冊贈呈したからだ。筆者はその医者が音楽好きであると知って嬉しくなりはしたが、ザッパの音楽をディープ・パープル絡みでしか知らないと聞くと、もう期待はしない。話のついでと思って「CDは何枚くらいお持ちですか」と訊くと、そばにいた奧さんが主人の返事を遮った。そして『大山さんは足元にも及ばないわよ』という言葉を飲み込んだことが、申し訳なさそうな顔つきからわかった。ならば2,3万枚は持っているのだろうが、そうであればなおさらザッパの音楽を知らないとなると、「変人」ないし「畸人」すなわち天に等しい真人の作品に関心がないということで、筆者としても話を続ける気はない。筆者はディープ・パープルの音楽をほとんど聴いたことがないが、ディープ・パープルの音楽をよく聴く人はザッパに関心はないだろう。何が言いたいかと言えば、さあやさんが思うとおり、ザッパの音楽を好んで聴く人は「変人」で、天に等しいとまでは言わないが、ありきたりのものには満足しない「通」であることは間違いない。この「通」は悪く言えば好事家、ディレッタントだが、レザニモヲはオリジナル曲を演奏するので、ただの趣味人ではない。そのオリジナルの作品が世間でよく売れるかどうかは問う必要がない。ろくでもない表現がもてはやされることは戦後のTV時代になってからは特に顕著で、平均かそれ以下の知能の人たちを相手に番組そして人気者が作られ、また彼らは巨万の富を得て自分を巨匠であるとの大いなる錯誤に至る。その笑えない現実はネット世界に持ち込まれ、また政治がネットの影響を蒙ってザッパが危惧したような大統領が堂々と出現することにもなっているが、トランプが畸人かと言えば、貴人になりたがっている俗人であることは先ごろのローマ教皇に扮した写真を投稿したことから明白だ。またその確信的行為からは宗教を信じていないことよくわかる。そういう人物が頂点にいる国家は長続きしない。これはロジェ・カイヨワの若い頃の本に書いてあるが、アメリカで「聖なるもの」がどのように捉えられているかとなると、映画ではたとえば葬式は葬儀屋が仕切っていかにも明るく、軽いものとして描かれる。戦後日本の葬儀は全くそのアメリカと同じ道をたどったが、日本にはまだ神仏崇敬があるとはいえ、一方で多くの新興宗教の登場を思うと、「聖なるもの」に対する意識はどんどん変わって来ていると言ってよい。
 そのひとつの事例は現在の大阪万博には70年の万博にあった宗教建築がないことで、日本においても「聖なるもの」の意識は希薄になっている気がする。アメリカで長年暮らした人が晩年になって日本に帰りたくなった理由として、文化の深さが比べものにならないことに物足りなさを感じたというのがあった。神仏が生活の中に普通に存在している日本で長年過ごせば、若い頃はよくても老いると物足りなさを覚えることは充分想像出来る。これは見方を変えれば、敬虔なるものを精神に抱いていない人は交際しても退屈ということだ。その敬虔さを感じる対象が「聖なるもの」と言ってよいが、今回のライヴで筆者が話題にしたのはそのことだ。話の最初に建築における「聖なるもの」のイメージについて話したが、それが音楽ではまずは宗教音楽ということになるとして、ザッパ関連で言えばストラヴィンスキーの『春の祭典』の原題におけるフランス語の『Le Sacre』に思い至り、ザッパはその言葉を使いはしなかったが、意識はし続けたように想像する。もうひとり影響を受けたヴァレーズからは何を受け取ったかとなれば、ヴァレーズは妻が書いた本によれば、冒頭にヴァレーズがかなりの癇癪持ちであったことが明かされ、「怒り」をザッパも抱えていたと思う。話は逸れるが、最近家内は「風風の湯」で筆者をよく知る90代の自治連合会の女性からこう言われた。「あんたの旦那さん、癇癪持ちやろ。」それはある意味では親しみを込めた言葉であったと思うが、家内は大いに立腹した。しかし実際筆者の上田秋成好きは、同じ癇癪持ちだからであろう。それが敬虔さを持ち合わせることとは矛盾しない。ザッパは自身をコンポーザーと称した。作曲は曲を組み立てる行為で、形あるものを生み出すことだ。その形はある意味では建築物と同じで、細部も全体も見事であらねばならない。その様子に感心、感激することは敬虔さを覚えることの端緒だ。トークではザッパのギター・ソロにザッパの敬虔さがよく表れていることを言った。ザッパは自己陶酔せずにどこまでも醒めて弦を弾く。醒め切りながら神がかりの機会を根気よく待ち、稀にそれが訪れるが、そのためには地道な訓練を日々するしかない。その長い辛抱は芸術の歴史に連なる望みと作品の形体美への信仰があって出来ることだが、一方でいつでも型に嵌り込んでしまう危険性も熟知している。そんな割に合わない行為に人生の大半を費やすのはまあ馬鹿のやることだが、その馬鹿が畸人になり得る。変人ピラミッドの頂点が畸人だが、畸人ザッパの現代的京都的解釈の演奏を知りたい貴人変人は11月2日のザッパロウィンに来てください。YouTubeではなしに実際のライヴを、すなわちお祭りとしての、サクレ、聖なるものを目の当たりにすることは、人生を生で味わう行為です。そしてつまるところ、「聖なるもの」を感得しない人生はつまらない。

# by uuuzen | 2025-05-13 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●ムーンゴッタ・2024年12月
れた月 やがて戻るや 丸い皿 さらっぴんから また割れ始め」、「満月を 国旗に使う 国ありや 三日月好きな イスラムは問い」、「太陽が なければ月も 輝かず ただのあばたの 鈍い塊」、「今月も 満月の夜を 迎えられ 余は満足じゃ 豚饅も食べ」
●ムーンゴッタ・2024年12月_d0053294_00091298.jpg
今夜の満月はコールド・ムーンと呼ぶらしい。夜8時頃までは雲が出ていたが、「風風の湯」から帰る9時半頃には雲はすっかり消えて頭上にくっきりと浮かんでいた。少し右手に光る月は金星か、今夜はそれを含めて写真を撮った。どうでもいいことかもしれないが、今夜家内は85M奥さんから昔話を聞いた。85Mさん夫婦は大阪市内の鶴橋や阿波座界隈に長く住んでいたと以前聞いたが、今夜家内が聞かされたのは吹田に住んでいた頃のことだ。夫婦は犬好きで、嵐山に来てからは同じ自治会内の帯問屋の大の犬好きの夫婦と親しくなり、筆者は渡月橋近くで彼ら2組の夫婦が犬をそばに置いて談笑している姿をよく見かけた。親しくなったため、帯問屋の夫婦は85Mさん宅にある日メロンを持参した。85M奥さんは戸惑い、京都人にどう接していいかわからず、「風風の湯」で筆者の家内に相談した。85M奥さんはそれ相応のものはお返ししたと思うが、帯問屋の主人は間もなく亡くなり、その奥さんも2年ほど後に世を去った。筆者はご主人が亡くなってからも元気であったその奥さんと話したことがあって、意外な気がしたが、80代ではいつ死んでも不思議ではない。85Mさん夫婦は犬好きだが、現在のマンションでは飼っていない。それはさておき、85M奥さんが吹田市在住時、飼い犬の散歩でダルメシアンを連れた青年と顔を合わすようになった。犬好き同士で親しくなったところ、青年は「慶応義塾を出て今はユニクロに勤務しています」と自己紹介した。その言葉を筆者が聞くと男を信用しないか、軽い馬鹿だと思う。一方、同じく犬好きの若い女性がいて、彼女はダルメシアンに触発されたのか、また85M奥さんが勧めたのか、同じような高級な犬を飼い始め、青年に接近した。ある日、85M奥さんは青年にユニクロの社長の経歴について話すと、青年は何も知らなかった。おかしいなと思っていると、青年が嘘をついていたことが若い女性の話からわかった。嘘がばれて青年は転居したが、別の土地で見知らぬ若い女性をものにするために同じような嘘をついているだろう。それは一生治らない。まともな大人であればそういう男は簡単に見抜けるものだが、若い女性はたいてい簡単に騙される。家内の姪も大学時代に交際した男が阪大の医大生と言っていたのに、高卒の肉体労働者であることがわかった。学籍詐称で女をものにするのは今も同じだろう。女は男の価値を嘘かもしれない肩書で判断する。また男は嘘をつくほどに妙な度胸が具わって行く。馬鹿な女がいつの時代にもいて、馬鹿男を恰好いいと思う。それはお似合いの関係で、何の問題もない。

# by uuuzen | 2024-12-15 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●「パッケージ もっと遊べよ おっとっと 大人買いする 工夫はほしき」
きを 人は喜び すぐ忘れ 何かないかと スマホを見つめ」、「アイデアが 尽きて困らぬ 焼き直し そのうちバズる 数撃てばよし」、「わずかな差 見分けられぬは 素人か この世は広い みんな素人」、「おっとっと またポケモンか 手難きや 興味なけれど 買い物籠に」
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週に二度ほど嵯峨のスーパーに家内と出かけるが、必ず中ノ島公園を横切って渡月橋南詰めに至る。その際、5,6年前に設置される現場をたまたま見かけたポケモンのマンホールの蓋 の脇を歩く。その蓋は飛翔する鳳凰で、SNSに大量の写真が挙がっているはずだが、今なお外国人観光客がその蓋をスマホで撮影している様子によく遭遇する。ポケモンについて全く興味がなく、そのマンホールの蓋にも関心はないが、時代は常に進むのに新しいことに興味を持てなくなる人はいつの時代でも多いし、筆者も素直に自分が時代遅れの人間と認めねばならない。老若男女の誰もが新しい何かに興味を示すという状態は不気味なことだ。ポケモンで言えば筆者はその最も有名なピカチューという黄色い猫か狐のようなキャラクターを昔最初に見た時、その尻尾が直線で構成された稲妻型であることに新しさは感じつつ、何か規則破りの、新奇なものを生み出すには何でもありの方法を見る気がして、あまりいい気はしなかった。そのピカチューの尻尾はたとえば文字のデザインで言えば全体がゴシックであるのに最後の一画が明朝体になっていることに似て、面白いかもしれないが、美しいと言えるものではない。漫画であるのでどのような奇天烈も許されるであろうが、自在に動くピカチューの尻尾が常に直線のジグザグの形をしているというのはやはり変で、少しも面白くない。そのピカチューの尻尾の形ひとつでポケモンの全体が推し量られる気がするのだが、それは偏見とは言い切れない。それはともかく、「おっとっと」におけるピカチューがどのように表現されているかを凝視したことはなく、ジグザグの尻尾がどのように動くかも知らないが、ピカチューの輪郭を小さなスナック菓子で象るには尻尾よりもまずは耳や体躯であるはずで、ジグザグの尻尾は添え物に過ぎないだろう。しかしその添え物に内在する違和感、あるいは子どもにとっては大いなる好ましい形象なのだが、いずれにしても「おっとっと」の商品開発部のデザイナーはピカチューを小さな菓子に象る際、その尻尾をどう表現するかはかなり悩んだと想像する。「おっとっと」のキャラクターはある生き物や物体の全体像を象ることが前提となっているが、恐竜シリーズでは2個や3個の菓子をつないで恐竜一頭を構成するアイデアが登場し、そのことから推せば、いずれポケモンの新シリーズの「おっとっと」として、ピカチューを3,4個の菓子で構成される可能性がある。そうなった時、確実に直線のジグザグの尻尾のみの菓子が登場するはずだ。
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 そのジグザグの尻尾のみで子どもはピカチューとわかるのは言うまでもない。筆者ですらそれは判別出来る。となれば、ピカチューの最大の発明はその尻尾ということになりはしまいか。昔ポケモンがTVアニメで放映された時、画面の明暗は瞬時に何度切り替わって子どもが失神したという事件があった。その頃、その画面がどういうキャラクターがどういう行為をしたのか興味がなかったが、考えてみればピカチューという名前のピカは光や稲妻を表わすかもしれず、それで体が黄色いのかもしれない。またピカチューが閃光を発するキャラクターであれば、尻尾が稲妻の形をしていることは不自然ではなく必然と言える。しかし現実の稲妻は直線のジグザグではなく、やはりピカチューの曲線で描かれる体躯に尻尾のみ直線というのは様式的に不自然だ。だがあえて不自然を狙って印象づけることが現在は大流行している。ただし全体が不自然であっては格好悪いという意識が前提にある。全体としては正統的であるのに部分が不自然というのが格好いいとされる。ヴィヴィアン・ウエストウッドのパンクを基本にしながらも古典的な制服のデザインを強調した服はその一例で、ポケモンの登場はパンクあってのことだろう。また日本の美術展覧会のポスターやチラシの文字デザインにおいて、明朝を基本に一部の画をゴシックや絵にするなど、明らかに一風変わった視覚デザインで衆目を集めるアイデアがよく使われている。文字だけではなく、題名の言葉にも及び始め、いわゆる若者言葉が使われるようになって来ているうえ、それは図録所収の文章にまで及んでいる。展覧会はなるべく多くの若者に見てもらうのがよく、迎合というのではないが、敷居を低くすることは重視されるべきなのだろう。筆者は家内と話す時に若者言葉をあえて使うことがある。たとえば「スゲー」だ。それを連発するのは少しも対象を「凄い」とは思っていないからで、いわば批判的に使っている。それよりも筆者は家内だけに通じる言葉を絶えず作り出している。たとえば「カムチャッカ半島」で、これは「無茶苦茶」の意味だ。TVで野球の空振り三振の場面を見た時はすかさず「空堀商店街!」と言う。「トンデモナイ」は「何でもTOY」と言い換えるし、とにかく家内相手に始終カムチャッカ半島だ。さて、「おっとっと」のピカチュー・シリーズには興味がないので、以前買ったデザインの箱のものをまた買った。初めてのことだがまあいい。中身の菓子は以前とは違うものが混じっているはずで、どれがどのキャラクターかさっぱり関心がないが、とにかく白い皿にだぶりのない形を全部並べて写真を撮った。これらのキャラクターを諳んじている子どもはその才能をいずれ別の対象に発揮して新たな大発見を為すかもしれない。そういう教育的効果も幾分かは狙って「おっとっと」の企画室は調査と研究をしているだろう。物価の上昇が悩みとは思うが。
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# by uuuzen | 2024-12-10 23:59 | ●新・嵐山だより
●温泉の満印スタンプ・カード、その70
の熱で 温泉あるは 言い切れず 冷泉沸かし 風風の湯はあり」、「ドルマンの 袖に包まる 心地の湯 夢見る胎児 思い浮かべつ」、「凍える夜 雀はどこで 夢見るや 明日の朝には 米撒く爺に」、「湯に煙る ガラスに描く 大円を 大団円の 人生想い」
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今月から「風風の湯」はシルバー・デイが金曜日以外に毎週火曜日にも設けられた。マネージャーが変わってからはやがて火曜日は隔週でシルバー・デイとなったが、60歳以上が半額になるその日のみ利用するいわば最低級の常連客が目立つことから、マネージャーは火曜日もシルバー・デイにしたようだ。その日は600円で入湯出来るので、10枚8000円に据え置きされている回数券より割安だ。さて、先月のムーンゴッタの投稿に書いた工繊維大の先生は車の免許を持たず、「風風の湯」には電車で来ているが、筆者と顔を合わせるのは週に一度ほどだ。また必ず話をするとは限らない。それにその先生が浴室にいるのは2、30分ほどで、筆者と話し込むと時計を気にする。最初に話をしたのは3か月ほど前だ。スタンプ・カードを利用しているかと訊ねると、知らないと言われた。60歳にはなっていないはずで、シルバー・デイは関係がない。週3、4回は来ているようなのに、スタンプ・カードも回数券も使わないことをフロントが指摘すると、関心がなさそうであったことをフロントから聞いた。経済的に心配がないというより、フロントと手続きなどをやり取りすることが面倒ゆえではないかと想像する。というのは以前書いたように外国人ではないかとの予想が、今日の話から当たっていたことがわかった。「ああ、このことを日本語でどう言うのかちょっと思い出せません」と言ったからだ。「どのお国の人ですか」と質問するのは失礼であるし、またそれはどうでもよく、筆者は建築関係の疑問などを話題として持ち出す。以前は日本の庭の話題を向けると、京都の有名な寺の庭はどこそこの業者が入っているなど、とても詳しかった。奈良の古い社寺にも造詣は深い様子で、友人に車で連れて行ってもらっていると言う。また、つい先日TVのニュースで知ったが、建築家の板茂が「世界で最も美しい美術館」としてベルサイユ賞を受賞した話題を向けたところ、板茂が紙の筒を使った建築や震災復興の住宅で有名になったことを教えられ、SDGsが喧伝される昨今にもてはやされる理由がわかった。ベルサイユ賞を獲得した美術館は外観をパステル・カラーで塗装したコンテナを並べて通路で結び、海辺に浮かんでいる。広島県下にある下瀬美術館とのことだが、蔵品の有無やどういうジャンルの美術作品を展示するのかは知らない。TVでは一瞬コンテナ際に二枚折りの琳派風の屏風が映った。野外設置であるので陶板か金属なのだろうが、その作品と展示は美しいとは言い難いものに見えた。またそこからこの美術館がおそらく最新の現代美術を展示することを思った。
 展示室としてのどのコンテナにも窓がないように見えたが、先の先生によれば美術品の展示に窓は不要との意見だ。コンテナを10ほどつないだ美術館が世界一美しいかどうか異論があろう。筆者は行きたいとは思わない。しかしコンテナはどこへでも運べるし、移動不可能な建物よりはるかに安上がりで済む。美術展は展示する中身が主役で、展示場所は倉庫でもどこでもよいという考えがある。しかしそれは安上がりを旨とするいわば経済的貧しさが根底にあって、それが持続可能となることはあまり好ましくない。とはいえ、置く場所されあれば頑丈なコンテナはさまざまに使える。かつては使わなくなったバスや市電、貨車を改造して店舗や展示場として用いることがよく話題になった。その延長上にコンテナが使われるのは当然のことで驚きはない。先生はそういう例として堀川御池の少し東にコンテナ内部を染色の工房や喫茶店としている「コンテナ集合の建物」があることを教えてくれた。先生は少し考えながら西洞院通りを下がったところにあって、何気なく歩いているとコンテナを3階まで積んだ建物には全く見えず、ファサードは京町家風にしてあると言う。グーグルのストリート・ヴューで西洞院通りを調べると該当する建物がなく、油小路ではないかと思って堀川から下ると西側にすぐに見つかった。コンテナを積んでいるが、周囲の環境に馴染んで見える。建築費の高騰からか、あるいはコンテナであれば仮設建築とみなされて固定資産税その他、税金の面で得策であるのかもしれない。それに経営が難しくなれば簡単に撤去して、付近と同じビルを建てることが可能だ。ネットで調べていると嵯峨野にもコンテナを使ったカフェがあることを知った。嵯峨野のイメージにそぐわないが、そのそぐわなさが今は流行っているのではないか。法律を守りながら簡便で安価、そして意表を突いて話題性がある。流行が去ればさっさと撤去が可能ということがもてはやされている理由だろう。前言を繰り返すとそれは貧しい時代の仕方なき方策を逆手に取ったものに思える。SDGsを言えば、昔の京町家がそうであった。コンテナ店舗が増え続けると、Tシャツの高級化やあえてジーンズを破ったりして商品の差別化を図る考えも生まれて来るだろう。しかし昨今の新築住宅はスーパーにならぶ大量生産の商品と同じで、どれも同じに見え、陰影がなく、のっぺりとしていて、そういう家に暮らす人のライフ・スタイルも人格も同様になって行くだろう。日本の家屋から床の間がなくなり、江戸時代にあたりまえにあった掛軸も無用のものになった。それで屏風は形だけ今の美術家は受け入れ、野外展示が可能な素材で作る。板茂の建築思想は紙と木を本位にする日本建築の延長上にあるという話で筆者と先生は板茂の話題を打ち切ったが、コンテナを積み上げた「貸し倉庫屋」を見るにつけ、景観をぶち壊していると感じて嫌な気分になる。

# by uuuzen | 2024-12-06 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5
事とは 金持ち帰る ことなれど 年金使い 奉仕の仕事」、「五十年 過ぎて変わらぬ 吾の熱 されど年々 地球は暑し」、「交霊を より信ずるか 高齢者 長き命に 役割あるか」、「反省を しても変わらぬ 半世紀 広げしことを 片づける日々」
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5_d0053294_11325455.jpg
『アポストロフィ』B面最後の「臭足」は、A面最後の「宇宙のゴミ」と同じくスローなブルース曲だ。長年聴いて来たにもかかわらず、歌詞は別として音楽の違いが即座には思い出せないが、前者は前奏があり、後者はごく短いドラミングの直後にザッパの歌が始まる。これも本作のブックレットのサイモンさんの文章から知ったが、後者のベーシック・トラックは去年発売された3枚組CD『ファンキー・ナッシングネス』に収められたライトニン・スリムの「アイム・ア・ローリン・ストーン」のカヴァー曲から転用された。同アルバムについて以前書いた時、そのリフが「臭足」とそっくりであることに気づきながらも同曲について触れなかった。12分に及ぶ演奏で、ザッパが歌うところ、黒人のブルース・ミュージシャンへの強い関心がうかがえるが、同様の趣向は同曲でヴァイオリンを奏でるドン・シュガーケイン・ハリスがヴァイオリンとヴォーカルを担当する『いたち野郎』での「ダイレクトリー・フロム・マイ・ハート・トゥ・ユー」に、曲の仕上がりとしては軍配が上がり、黒人のブルース曲のカヴァーではザッパの歌声は黒人歌手にはかなわないことがわかる。それはともかく、ジョニー・ギター・ワトソンその他、ザッパが愛聴したブルース・ミュージシャンの古典曲に学びつつザッパが特色を発揮しようと、まずはカヴァー演奏をし、そこから音楽はそのままで歌詞を誰も思いつかないものとすることで、「宇宙のゴミ」や「臭足」が出来た。「臭足」のベーシック・トラックが70年録音の「アイム・ア・ローリン・ストーン」から実際に転用したかどうか、またどの部分を使ったかはわからず、それほどにザッパの曲作りはマルチ録音したテープの一部を使いつつ速度や音質を自在に変えたもので、何度も書くように、本人ですらその音のコラージュの過程はよくわからなくなったのではないか。黒人のブルース曲の独特のうねりは黒人が置かれていた社会的立場や生活に由来するものだ。それをザッパのような白人が模倣すれば、精神的な同調は出来ても、声質の差もあっても黒人っぽさを減じるのは仕方なきところがある。それを承知してブルースを演奏するとなると、ジャック・ブルースを招いての「アポストロフィ」のような独自に編み出したリフを執拗に繰り返す即興演奏主体の器楽曲か、もしくはザッパしか書かないようないわばアホらしい笑いを誘う「宇宙ゴミ」や「臭足」になるしかない。それは自分の生活から得た着想が元になっていて、作詞においてラヴ・ソングをひとつの基礎にしながら性本能に注目するか、ボブ・ディランの影響もあって、社会的な矛盾に視野を広げた。
 『興奮の一夜』で初めて披露した1オクターヴ下げた声の低音処理のヴォーカルを「臭足」にも適用したことは、キャプテン・ビーフハートが黒人の歌声に憧れたことの電子機材によるザッパなりのオマージュと言ってよく、元タートルズのフロ・アンド・エディを迎える第2期のマザーズ以前の69年辺りに黒人音楽への顕著な傾倒は始まっていて、そのひとつの目立った成果が73,4年の『興奮の一夜』と『アポストロフィ』にあった。さて、「臭足」はアルバムの締めくくり曲としていくつかの印象深い言葉が歌われる。「想像する病気(IMAGINARY DESEASES)」や「概念継続(CONCEPUTUAL CONTINUITY)」など、またアルバム・タイトルの「アポストロフィ」が「CRUX OF THE BISCUIT」であるとも明らかにされるが、聴き手は相変わらず煙に巻かれたような気分が収まらず、面白さがどこにあるのかと考え込む。歌詞は「宇宙ゴミ」のように単純ではなく、発汗の臭気を介して三つのパートに分かれ、最後はプードル犬とその飼い主との空想上の会話となる。現実には犬は人間の言葉を話すことが出来ず、飼い主に対しての意思表示は態度で示すしかないが、餌を与えられる弱者であるからには飼い主の機嫌を取る本能が働き、虐待と思うことでも背に腹は代えられないとばかりに反抗は出来ない。ここにはザッパが雇ったバンド・メンバーとザッパとの関係が暗示されていると捉えるのは穿ち過ぎだろうが、犬を飼っていたザッパは言葉の通じない主従の関係に思いを馳せることはあったろう。次のアルバムとなる『ワン・サイズ・フィッツ・オール』でも犬について歌う曲「イヴリンは変更犬」が登場する。そこでは部屋にある豪華なピアノのそばでの環境下で初めての経験をしながら、怯えから慣れへと順応して行きはするが、結局はただ吠えることしか出来ず、言葉を持たない犬の表現力の限界を示す。この犬と人間の関係は人間同士でもあり得る。語彙が乏しければ、言葉や文字ではそれなりのことしか他者には伝えられない。また表現者の隠喩的表現が正確に読者に伝わるとは限らず、作者のていねいな説明抜きで提示される詩文は、謎として残るところをそのまま楽しむしかない場合が往々にしてある。「臭足」の最後の飼い主とプードルのやり取りは飼い主の想像かと言えば、飼い主と犬の双方を見下ろす立場にあるザッパの想像で、そのことがまた話の理解をややこしくしている。それはともかく、人間の汗にまみれた臭い足が犬に及ぼす一種の、あるいはおそらく確実な虐待が中心の主題で、「黄色の雪は食べるな」で犬の小便が混じった雪を目玉に擦り込まれた密猟男とは反対の図が描かれ、アルバムの最後に至って最初の曲に概念継続すると言ってよい。その概念が糞尿や臭汗というのは下品そのものだが、動物に普遍のものであって、きれい事を歌わないザッパらしい。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5_d0053294_11332411.jpg
 「臭足」の最初の歌詞は夜型のザッパ自身のことを歌ったように思わせる。しかし歌は「朝になれば部屋の壁で窒息気分を味わい、友人はひとりもおらず、誰もが自分を嫌っているような厭世観に囚われる。そんな時、気分を正す場所がある。靴下と靴を履いてその街角を曲がればよい。そこではそよ風が夜通し吹いて人々は「想像の病気」に囚われている。」と続き、孤独な人でも散歩すれば街の至るところで悩みを抱えた人がいることを知ると諭す。この世間を見通す眼差しは数年後の曲「街の小さな灯り」を思い出させる一方、作家には創造の場と時があるという救いへの意識が見え透く。それは特権と言うほどのものではなく、創作に携わっている限り、そのほかのことを考える暇がないという多忙の多幸感だ。話を戻して、街を歩き通せば病気になる。足が蒸れるからだ。医学では専門用語があるが、簡単に言えば「臭足」だ。「臭い足」と訳すとよりわかりやすいが、医学用語的かつ省略記号のアポストロフィ(’)を適用すれば「臭足」がいいだろう。曲では次のヴァースはこうだ。真夏に1週間もブーツを履き続けた男がそれを脱いでベッドに入った時、ガールフレンドが叫ぶ。「臭い足ね! 鼻がひん曲がるわ! 寝られないわよ! 洗えないの? そう思わない?」この場合は「臭足」と訳すのはよくないが、仲のよいカップルであればふたりだけに通じる言葉を使うことはよくある。筆者も他人が聞いてもわからない言葉を毎日変えながら家内に使う。たとえば「小便」は「おしょんべん」と何でも「お」をつけるとか、「むちゃくちゃや!」を「カムチャッカ半島!」といったように全く関係のない音が似た言葉を発する。そういう筆者からすれば「STINK FOOT」はあまりに単刀直入で面白くないが、「臭い」はこの曲では中心となる言葉だ。さて、ガールフレンドに注意された男はスリッパを子犬に持って来させる。その犬の動きをザッパは音楽で表現するが、飼い主の臭気のあるスリッパを犬が喜ぶのか嫌がるのか、犬を飼ったことのない筆者にはわからない。しかしこの曲では犬が悶絶して倒れたのは確かで、飼い主の香りを好むとはいえ、その匂いの度が過ぎると犬でも嫌がるだろう。飼い主にとっては遊びのひとつでも、犬には迫害になる場合がある。嗅覚が人間よりもはるかに優れている犬にとって、人間でも我慢が出来ない臭気を強制的に嗅がせられることは責め苦ではないか。しかし人間はそういう拷問的行為を性交では求める場合がある。この曲の歌詞は泥鮫を入れられるグルーピーや黄色い雪を目玉にねじ込まれる密猟者との共通性があり、「アンクル・リーマス」における耐え続ければ報われるというリーマス爺さんの言葉も想起させる。さて、最後のヴァースでは犬と飼い主の想像的対話となる。まず犬が哲学的とも言える言葉を発する。飼い主よりも冷静温和で賢いという設定だ。
 「昔誰かに訊かれたのです。『お前の継続している考えは何だ?』それで言ってやりました。『ビスケットの核心がアポストロフィであることを知るのは簡単なはずです。』」 「THE CRUX OF THE BISCUIT」が何を意味するかだが、犬が言うからにはドッグ・フードのそれだろう。しかしその形はさまざまで、その「CRUX」がどういう形をしているか、また犬が言うようにアポストロフィであるとして、そこにどういう意味があるのか。サイモンさんの文章でもその点は断言がない。「CRUX」は「中心部」として、「急所」や「難題」、また本来の十字架の意味から「拷問」の意味もあって、バター犬と同様、女性が自分の急所にビスケットを置いてそれを飼い犬に食べさせる行為を想像させる。では「ビスケットの拷問がアポストロフィ」とはどういう意味か。単語を短く表現する時にこの記号は使われるから、犬はそのつもりか。つまり女陰に置かれたビスケットを食べさせられる行為はもっと短くしてほしいということか。靴を履き続けた男の足が臭いとして、腋や股にも同様に汗をかき、臭気を発散する。そのことをおそらく人間以上に知っている犬にすれば、ビスケットはそのままで食べたいだろう。男が臭気漂うスリッパの臭いを犬に嗅がせる一方で、その犬は女の主からも似た虐待を受けているという図だが、喋ることが出来ず、また空腹が我慢出来ないからには、女を喜ばせながら餌をもらわねばならない。この奴隷と主人の立場は平和に見えるどのような家庭でも大なり小なり日々行なわれている。また人間対人間の性暴力は事件として告発されても、飼い犬とその主となれば、主が飽きれば平気で遺棄することはままあり、そのことは100年前にモーパッサンが小説に書いた。しかしどれだけ虐待されても犬はそのことを告発出来ない。話を戻して、犬が昔からずっと思っていた、すなわち概念の継続が、「ビスケット犬」にされるのは嫌ということを男は聞き、それを信じない。犬が人間の言葉を発することはあり得ないからだ。そして男はアポストロフィだらけの言葉でその犬の言葉を否定する。それは案外「バター犬」や「ビスケット犬」とされる犬の立場を知ったうえでの男の態度であろう。しかし男は彼女にその性癖をやめさせることが出来るだろうか。曲の最後で否定する男に向かってプードルは、背後で鳴っているザッパ/マザーズのブギの演奏が正確であることを言い、そしてひたすら餌をむしゃくしゃと食べ続ける。これは犬であっても人間と同じように感じられ、言葉を使わないまでも人間に意思を伝えられるというザッパの思いだろう。言葉が通じない外国人同士の比喩にもなり得るし、もっと言えば奴隷であっても残酷な仕打ちをされるべきではないとの考えだ。その筆者による行間の読み取りはザッパの継続した思想の根底を成すもので、相手の拒否を無視した強制はしないということだ。
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 3回の投稿で済むかと予想していたのが今日で5回目になる。毎回6段落、計30段落、すなわち原稿用紙100枚に満たない短縮の90枚でいいかと考える。ザッパ没後の近年のアルバムはジョー・トラヴァースともうひとりザッパのメンバーや関係者の解説がつき、日本盤独自の説明は添えられないが、日本盤の解説つきという定番の様式をザッパ・ファミリーが真似した側面はある気がする。解説なしでは理解が難しいのがザッパのアルバムや曲で、今回は筆者自身が改めて『アポストロフィ』の内部構造を主に歌詞中心に探ってみた。迷路のように見えることも立ち止まって考えると案外先の道筋は開かれていると思える。それが錯覚や誤解であるとしても、考える楽しみは得られる。ザッパは自らを作曲家と呼んだ。それは作品を構成する意味であって、建築家や彫刻家に似ている。その形をどこから見ても盤石なものとするには熟考は欠かせないから、即興で書いている筆者の文章とはまるで違うが、頭の中のもやもやをひとつずつ文字として吐き続けることは気分が爽快で、他者はどうであれ、自分ひとりは楽しんでいる自覚がある。そうでなければこのような「宇宙のゴミ」を綴る気になれない。しかし即興のことを考えると、ザッパのギターの演奏や机の上での楽譜書きにしても同じ即興のはずで、後者は消してはまた書くという試行錯誤は含むとしても、思いついたことを次々に書く点で筆者のこの文章とある意味では同じと言ってよい。つまり作品は即興で頭に浮かぶことを書くことの連続で仕上がる。そう考えるので筆者は素描としてこうして矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、パソコン画面に固定している。二度と読み返すことはないだろうが、何かの役に立つかもという思いは少しはある。本作に話を戻すと、73、4年のザッパのライヴの仕事は2枚組LP『ロキシー・アンド・エルスウェア』として世に出た。没後にその「エルスウェア」での録音が発売されて来た。本作は『アポストロフィ』の50周年記念盤とはいえ、収録曲の大半は同作とは直接関係しない当時のライヴ演奏で、「エルスウェア」での録音の発表を補完している。そのため、スタジオで精緻に組み上げた『アポストロフィ』の構成要素を分析して見せるというより、そのことはザッパ個人の内部にあるという闇は相変わらずであって、マザーズの一発勝負であるライヴを中心に選曲するしかなかった。それでは本来の意味での50周年記念盤にはならないが、ザッパがスタジオでの個人の孤独な編集作業とは別に、ツアーで曲を録音し、それをまたレコードの材料にするという方法を実践していたことから、『アポストロフィ』とその発売日を挟む前後のライヴ録音の提示は意義がある。それにゴールド・ディスクを得た記念すべきLPであったので、前作の『興奮の一夜』と同様の箱入り仕様となったが、「その1」で示したように箱のサイズがわずかに違う。
 本作では写真スタジオで撮ったメンバー写真がディスク2と3に使われ、そこでは9人全員が黒のTシャツを着て、ロキシーでの演奏前後に撮られたことがわかる。この9人からドラマーのラルフ・ハンフリーとギターのジェフ・シモンズ、そしてトロンボーンのブルース・ファウラーの3人が抜けた6人で夏以降ツアーをする。本作では9人編成とその後の6人編成のライヴの未発表かつ最良としてよいふたつの演奏がディスク2,3とディスク4,5に収められる。メンバー数が多いほど音は豪華になるが、3人減ってもほとんど同じレパートリーを演奏し続けたので熟練度が増し、74年の晩期になるほどに演奏速度は増して狂気の極致と言ってよいものとなった。その成果の代表は、生前のザッパが『誰もステージで演奏することは出来ない』という自負の言葉をタイトルにしたアルバム全6集のうち、74年9月でヘルシンキでのライヴを収録した『同、第2集』だが、そのほかにザッパが保存していた録音を発掘し、種々の欠如を最新技術で補って前述のように2か所でのライヴが今回公にされた。演奏時のミスや録音時の不手際など、毎回のライヴが満足の行く成果を得られるとは限らないが、レコードとして発売するには「完璧」を意図する必要がある。その意味では本作のライヴ録音は完全とは言い切れないが、初めて発表されるヴァージョンがいくつかある。それは正式にアルバムで発表される以前の過渡的な形で、いかにザッパが曲を満足の行く形に手を加えて行ったかがわかる作例になっている。その代表は「アンディ」と題されて『ワン・サイズ・フィッツ・オール』で発表される「何かいいことあるかい?」だ。9人編成でのこの曲は「デュプリーのパラダイス」に次いで長い11分もあって、ザッパのギター・ソロが特に緊張を孕んで冷静なものとなっている。3月21日、コロラドでの演奏だが、録音テープ交換時の欠損部は3日前のユタ州での録音から補ったと解説にある。またそのユタ州での同日の演奏から「インカ・ロード」のみがディスク4の最初に14分の長さで収められ、続くディスク4の残りとディスク5前半はボーナス・コンサートと称して11月24日のオハイオ州でのライヴが収まり、その最後は『アポストロフィ』A面の「宇宙のゴミ」を除いた4曲となっている。そのほかスウェーデンのイエテボリでのライヴからザッパのギター・ソロ曲がさらなるボーナス曲としてディスク5に含まれ、数年先んじたザッパの典型的な即興ギター曲の雰囲気がある。演奏場所が変われば録音の音質も変わる。ステージごとに新たに工夫したザッパであるので、同じ曲であっても雰囲気は異なる。そういう微妙な味わいを楽しみたい人はザッパ没後のアルバムを買う。それらが成す星座はどこまで星の数を増やすか。マイクロ・プラスティック混じりの宇宙のゴミを自覚しながら、それらの星屑を見上げる。

# by uuuzen | 2024-11-28 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など

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