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●「ビビリやん ウエストうんと 絞りいな かちこちよきや スリムムスリム」
く鐘の 音色いろいろ ゴーンカン カルロス鳴らす バサバサ札を」、「モネの絵は マネを真似せず 光満ち いい印象を 人に与えり」、「ペンキ屋の ペンキまみれの アート服 切って広げて 額縁に入れ」、「老夫婦 写真撮り合う 五月晴れ 傍目気にせず 天晴れレレレ」●「ビビリやん ウエストうんと 絞りいな かちこちよきや スリムムスリム」_b0419387_14004870.jpg 去年の5月14日に家内と泉屋博古館を訪れた。今年は16日であったから2日違いだ。同じく好天で、展覧会の内容は変わっても気分は1年経ったとは思えない。この美術館は中庭を挟んで南北に建物があり、南側の建物で中国古代の青銅器を常設展示する。その展示品を説明してくれるボランティアらしき人々がいて、初めて訪れる人にとって親切な対応が考えられている。青銅器は一度見ればよいとの思いがあるので、筆者は何度もこの館を訪れながら青銅器室にはたぶん3回しか入っていない。青銅器室の出入口の左手に休憩室があり、その扉前に無料の給水機がある。紙コップに4,5種類の飲み物がHOTとCOOLで選べる。前回訪れた時、レモン味のお茶があった。筆者はそれを2杯飲み、今回もそれを飲もうとしたのに、メニューは変わっていた。残念。しかし訪れるたびに種類が変わるとすればそれも楽しみと捉えるべきで、この給水機はとてもありがたい。それで利用者はひっきりなしに続き、紙コップの消費は毎日かなりの量になるだろう。昨日投稿した展覧会を見る前後で筆者らはこの給水機を利用した。北側の企画室のある館に行く前に、給水機のそばの椅子でしばし休んでいたところ、40代前半の女性が物珍し気に給水機に歩みより、機械の横壁に取りつけてある紙コップの入った透明なプラスティックの筒の底から1個を引き抜いた。その拍子に筒全体が大きな音を立てて床に落下し、係員の女性がすっ飛んで来た。筆者が利用した時も少々ぐらついていたので、やはりという気がしたが、40代前半のその女性は歩き方して活発と言うか、乱暴と言えばいいか、場違いな感じがあった。彼女が派手な音を立てた失態は意外ではなく、なるほどと納得させるものであったが、彼女はぐらついている設置が悪いのであって、自分は怪我をしかねかったと思ったかもしれない。何年か前、この給水機を前に中年の女性が連れ合いの女性にこう言った。「空いているペットボトルに紙コップから何倍も移し代えればいいかも」無料をいいことにそこまでするかと思ったが、そう発言した女性はさすがに筆者の眼前でその行為をしなかった。しかし人の目がなければやっていたかもしれない。「風風の湯」には冷水機があって、サウナから出るたびに筆者はそれで水を飲むが、水が生温い場合は口にした途端、口をつぐむ。利用者が多ければ冷却が追いつかず、生温くなるのは仕方がないが、空いたペットボトルに満杯に給水している人をたまに見かける。女湯でも同じで、自販機で買うよりも得と考える人がいる。図々しいが、それが人間でもある。
●「ビビリやん ウエストうんと 絞りいな かちこちよきや スリムムスリム」_b0419387_14011590.jpg 今日の最初の写真は渡月橋北詰近くのバス停で撮った。東山の天王町近くにある泉屋博古館には嵐山から市バスの93系統一本で行くことが出来て便利だ。運行は2,30分ごとで、それはいいとして、このバス系統の嵐山バス停は季節と曜日によって場所が変わる。そのことはバス停の時刻表に書かれているが、それがとてもわかりにくい。バス停は4か所あって、どこで待ってばいいかよくわからない。地元住民の筆者がそうであるので、外国人観光客はちんぷんかんぷんだろう。あるいは英語のサイトにていねいに書かれているかもしれない。嵐山から天王町まで東西8キロで、バスでは50分ほど要する。京都市内は南北の移動に比べて東西はあまりに不便で市バスを使えばとても時間がかかるが、市バスの1日乗車券を使えば700円で乗り放題であるから、時間はさておき、経済性は優れている。この1日乗車券は長年500円であったのが600円、そして700円に値上げされ、今年9月に廃止される。購入者の9割が外国人観光客で、彼らが市バスに乗る混雑のあまり、市民が乗ることが出来ない場合が多くなったからだ。コロナ禍直前がそのような状態で、金閣寺に行く205系統は何台も満員状態が続いていた。実際は満員ではなく、車内で譲り合って場所を詰めればいいのだが、そういうことがわからない乗客が多い。それは外国人観光客もだが、修学旅行生も同じで、立った場所から頑として動かない人は目立つ。それはさておき、市バスの1日乗車券はなくなるが、地下鉄と市バスが1日乗り放題のチケットは残り、京都市はそれを買わせることで市バスの乗客を地下鉄に分散させると言う。だが地下鉄は金閣寺辺りには通っておらず、京都駅から金閣寺に行く観光客は地下鉄市バス乗り放題チケットを購入して205系統に相変らず乗るはずで、バスの混雑ぶりは解消されるはずがない。京都市民で地下鉄を利用する人はごく一部だろう。観光客も地下鉄を積極的に乗ることはないはずで、つまり京都市は実質的値上げをして地下鉄市バス乗り放題券を買わせるつもりのようだ。京都市民の敬老乗車券は毎年年齢が上げられ、75歳になってから申し込みが可能となる。家内は今秋に70歳になるが、敬老乗車券を購入出来るのは5年先で、せめてその5年間は市バスの1日乗車券が販売されればと思う。9月からはバスに乗るたびに230円を支払わねばならず、手元は小銭だらけになる。現在は降車時に両替をして230円を支払うシステムだが、両替機を失くしてお札でお釣りが出る仕様にするとのことだが、頻繁に釣銭不足が生じるはずで、その意味でも1日乗車券はあってよいと思う。市バス1日乗車券の売り上げの9割が外国人観光客というのは驚きだが、それは市民の大半は車を所有し、筆者のように車を持たずに市バスで市内を移動する者は例外として無視される現実を突きつけてもいる。
 今日の最初の写真はバス停で待つ家内の後ろ姿で、7日の雨天に大山崎山荘美術館に行った際に撮った家内の後ろ姿とペアにする思いが芽生えたためだ。家内が被るヴィヴィアン・ウエストウッドの麦藁の黒いボーラー・ハットはとても珍しいものだ。4,5年前に購入し、筆者は一度も被っていなかった。少し小さいためで、ピーピーケトルの蒸気を当てながら少しずつ周囲を広げ、どうにか被れるようになった。それでも被らなかったのは同じヴィヴィアンの麦藁の紺色のマウンテンハットが気に入っているからだ。今日の2枚目の上の写真にそれを被った筆者の写真を掲げる。16日に泉屋博古館の展覧会を見た後、中庭で家内にその写真を撮らせたのは、去年も同じように撮ったことを思い出したからだ。めったにないことなので今回は家内の姿を筆者が撮った。どちらも1枚限りで、撮り直していない。たまたま筆者の顔は陰になり、家内の顔には光が当たって、展覧会名の「光陰礼賛」にかなう。これもたまたまただが、家内も筆者も靴を除いて全身ヴィヴィアン・ウエストウッドの身なりで、給水機のある部屋から筆者らを見ていた数人の客はどう思っていたろう。身なりは若くても年齢は隠せず、年甲斐もないと眉をひそめられたかもしれない。好きなものを好きなように着て歩くことは、たまに女装の年配男性を見てぎょっとさせられるので、公害ぎりぎりと言ってよい面はあるが、まあいいじゃないか中村くん! 半年ほど前か、ヴィヴィアン・ウエストウッドのジャケットの袖を肩から4、5センチ詰めてもらいにリフォーム店を訪れた。ヴィヴィアンの上着は異様に袖が長い場合があって、どのようにして着るのかと首をかしげる。当然特別西洋人の手が長いからではないはずで、手首を隠してさらに長いままにだらりと袖先を下げて着用しているモデル写真がある。実用的でなく、とても不便に思うが、清王朝の宮廷服は同じように袖はかなり長く、普段は手首を隠して着ていた。寒さを防ぐ意味もあったはずだが、室内では袖口を折り返して着用したことは中国の時代劇からわかる。ヴィヴィアン・ウエストウッドはそうした民族衣装もデザインに取り入れたのであろう。話を戻して、リフォーム店の若い女性は筆者がジャケットを袋から取り出した途端、「ヴィヴィアンですね」と言った。あたりまえのことだが、わかる人には一瞬でわかる。「格好いいですね」「老人なのにおかしいでしょう」「そんなことはないですよ」筆者はこの年齢になって家内からもよく言われるが、遊び人として生きて来た。それはチャラいということでもあるが、チャラさも真面目に徹すればそれなりに様になるだろう。3枚目の写真は昨日書いたモネの「モンソー公園」の中央部を光と陰の対で壁掛けにしたもので、企画展館の玄関にあった。これが実にかちこち(格好)よく様になっていて、同じものを市販すればよく売れるのではないか。
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# by uuuzen | 2023-05-20 23:59 | ●新・嵐山だより
●『光陰礼賛 近代日本最初の洋画コレクション』
ならぬ 天気に添いて 息をして 意気軒高や ママは逞し」、「目的を 問われて窮す ホームレス ただ生きること 何が悪いか」、「光には 陰がありての 麗しさ 生に伴なう 死を想うべし」、「シャボン玉 高く長らく 浮かびたし 風風吹けよ 遠くに飛ばせ」●『光陰礼賛 近代日本最初の洋画コレクション』_b0419387_01012473.jpg 3日前の16日に家内と泉屋博古館の展覧会に出かけた。本展はまず去年5月21日から7月31日にかけて泉屋博古館東京で開催された。今回の京都では3月14日から5月21日までの会期で、2枚のチラシを見比べると細部が違う。モネの「モンソー公園」とジャン¬=ポール・ローランスによる「マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち」の図版を上下に配するのは同じでも、裏面に載る6点の作品図版は4点のみが共通し、東京と大阪とでは展示作品に違いがあった。また副題が東京展では「モネからはじまる住友洋画コレクション」、京都展では「近代日本最初の洋画コレクション」とされ、チラシ表の周囲の白黒の縁取りは東京と京都とでは反転し、デザイナーは本展の題名に因んだ工夫を施している。泉屋博古館の企画展は京都に次いで東京で展示されるのが常であった気がするが、本展は東京の建物がリニューアルオープンしたことに因み、先に東京で開催された。日本の洋画の歴史を語るうえで東京と京都は双璧を成す。そのことを意識して東京と京都での展示作品を若干変更したのであろう。二会場での本展を見比べることで浮かび上がる問題は明治から論じられて来たことで、その決着は明確にはついていないと言ってよい。そもそも絵画の意味が決着することはなく、時代が変われば新たな読み取りがなされる。そのことを思っての本展であろうし、題名の「光陰礼賛」は含蓄がある。チラシでの扱いからして、モネの「モンソー公園」は「光」で、ローランスの「マルソー将軍」は「陰」の扱いであることは明らかだが、「マルソー将軍」では画面右の普仏戦争で死んだフランスのマルソー将軍が「陰」で、右手のオーストリア軍は「光」の扱いで描かれ、全体として「陰」的な作品にも「光」と「陰」が同居している。それはともかく、「モンソー公園」は1876年、「マルソー将軍」は1877年に描かれ、1年違いで同じフランスでこの対照的な印象派と古典派の油絵が描かれたことを当時の日本の画家がどのように受け入れ、自作の方向づけをして行ったかが本展の趣旨と言ってよい。また2点とも住友家が購入し、副題の「モネから始まる住友洋画コレクション」は日本の洋画に力添えをした自負がよく表われている。本館は以前大阪の画家上島鳳山の展覧会を開催したことがあるが、筆者はこのブログに感想を書かなかった。財閥が芸術家を援助して日本の文化発展に寄与することは確かとしても、当主の好みが援助する才能を見極めると言ってよく、時代が移って画家の評価も変わることの現実を鳳山の例からも思う。
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 それは住友吉左衛門(春翠)から任されて「マルソー将軍」を4万フランで購入した鹿子木孟郎にも言える。鹿子木は春翠の援助でフランスに行き、ローランスに写実絵画を学んだ。鹿子木の没後50年展が1990年に開催された時、会場は三重、鎌倉、京都、岡山で、東京では展覧されなかったが、そのことは鹿子木の評価の実情を示している。つまり黒田清輝の東京勢に対して関西の画家として重視されて来なかったことを反映している。本展では「マルソー将軍」を初め、鹿子木の代表作としてよい大画面の「ノルマンディーの浜」と「加茂の競馬」が展示されたが、生誕150年に当たる来年や17年後に没後100年展が開催されるだろうか。とはいえ絵画は個人が好きに見ればよいもので、定まったような評価も普遍ではなく、作品はいつでも新たに思考され得る。だが、名作と呼ばれるものは素人なりにかすかにでも感じる圧倒的な何かを内蔵しているもので、その言葉に出来ない何かは時代を通じて伝わり、名作は自ずとその評価を保ち続ける。ただし名作であるゆえんは作家が持っている情熱がそれにふさわしい表現技術と相まったところにあり、技術の優劣が問題となり得るが、作家はその技術は素人にはわからないものという考えを持ちやすい。素人は見所として技術の優劣を言われてもさして興味がないであろうし、いい絵と思える作品が1、2点でもあれば展覧会に足を運んだことを喜ぶ。筆者はそのタイプで、その点から言えば本展は「マルソー将軍」も「ノルマンディーの浜」もさほど名作とは思えず、印象の薄い展覧会であったことになるが、購入時の4万フランの現在の価格がわからないままに非常な高額を支払って住友家が購入したことや、またそのために動いた鹿子木の思いを想像すると、つまらない展覧会と一蹴する気になれず、再評価とまでは言わないが、明治の日本の洋画の一端を改めて考えるにはよい機会と思える。それはローランスや鹿子木の作品を反面教師として捉える意味でも、また新たな価値を見出すという立場でもなく、百年経っても日本は相変わらず同じような状態で、永遠に西欧化出来ない何かを残すであろうことと、そのことがいいのかそうでないかの判断も百年前のまま決着がついていないことを再確認する。つまり、鹿子木の作品はその意味で今日的で多くの問題をつき突けている。そうでなければ何の役にも立たない絵画となってこの世から失われても惜しむ人はいない。ほとんどの作品はそうであるが、そうした作品でも触れた瞬間に作家の思いが放たれ、見る者の心に何かを喚起させる。その意味で鹿子木の大作も同じであって、彼が住友春翠の支援を受けながら描いた作品はそれ相応の責務を果たし、またまっさらな目で眺められることを欲したものであったはずで、本展の意義は日本の洋画の歴史を垣間見ることにある。
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 わが家の2階のトイレの壁に1985年に兵庫県立近代美術館で開催された展覧会『19世紀ドイツ絵画の名作展』のポスターを長年貼り続けている。フリードリヒの有名な風景画「孤独な木」が中央に印刷され、その右手に先の展覧会名、左に「ロマン主義からレアリスムの系譜」の副題がある。この副題は芸術の傾向が変わったことを意味するが、ヨーロッパでは年月のずれはあってもみなそのように芸術の「流行」が変遷した。20世紀に入るとレアリスムからまた別の顕著な動きが出て来て流派は目まぐるしく勃興、そして衰退して行ったが、そのことはどの分野にも言えることで、どの流派が最も普遍的で価値があるとは誰にも言い切れない。つまり「モンソー公園」か「マルソー将軍」のどちらが名画かという問いにどう答えても間違いではない。ただしこの2作以降、フランスの絵画がどのように変化して行ったかの歴史があり、よく知られるのは印象主義のモネであり、ローランスを知る人は稀であろう。つまり「マルソー将軍」の暗い画面から「モンソー公園」の外光溢れる画面が好まれるようになった。このことは日本の洋画の歴史に反映し、その一端を本展は紹介するが、師の画風の感化を受ける一方、フランスと日本の風土、風俗の違いから画家は光の扱いに悩みつつ、日本的な油絵の確立を目指した。その「日本的」という要素は強く意識しなければ持てないものか、意識せずとも自ずと滲み出るのかという問題があるが、国家が国粋主義を掲揚する時代では画家は意識して国家独自の何かを積極的にするであろうし、戦後のように親米が広く浸透すると自由主義がさらに幅を利かせるようになり、画家は時代の影響を強く受ける。その意味ではモネもローランスも同じであったが、どちらが後世により影響を及ぼしたかとなれば断然モネで、レアリスムから印象主義へと系譜が移ったことになる。ただしレアリスムがすっかり消滅したのではなく、迫真的に対象を描く思いは人間にあり続けるはずで、前述した素人なりに感じる絵画の圧倒性は写実絵画に最も多いだろう。逆に言えば、印象主義風や抽象絵画風の絵は素人でも描けると思われやすく、レアリスム以降の絵画は専門家以外に間口を広げたことに功績があったとも言える。鹿子木は油彩画が絵画では最高位にあり、そこに至るにはデッサンを繰り返し、下絵をいくつも描く段階を踏み、習練を重ねる必要があると思っていた。それはヨーロッパ絵画のルネサンス以降の伝統であり、そこからはみ出るものは「妖画」であるとの考えで、印象主義を認めなかった。ところが1900年以降三度のフランス行きの間にフランスの絵画は変化し続け、鹿子木の学んだ画風は時代遅れとなって行った。そのことは「マルソー将軍」からも明らかだ。この絵は敵国の将軍の死を悼み、その葬儀に参列する騎士道精神を描くが、第1、2次世界大戦を経た現在それはあまりに非現実的だ。
●『光陰礼賛 近代日本最初の洋画コレクション』_b0419387_01030070.jpg それででもないが、筆者は第1次世界対戦に従軍して兵士の惨たらしい死を目の当たりにしたオットー・ディックスの戦争画を好むが、鹿子木はディックスの絵画を見ても全く評価しなかったであろう。鹿子木のように師の画風を守り続けることは美談だが、時代は確実に変わる。そのことを鹿子木は知っていて、水彩画の流行を批判しながら後にその技法で描きもしたし、また印象主義以降の野獣派の画風を思わせる作品もある。そのことに鹿子木の仕事の焦点が合わせられることは少ないと思うが、レアリスムの画家と目されながらも鹿子木は時流を読み、それに応じた絵を描く必要を感じていたはずで、その意味での再評価は今後なされる可能性がある。画家になるにはアカデミーで学ぶことが重要であると晩年の猪熊弦一郎は言ったが、彼のマティス風および漫画風の絵を見れば、アカデミーで何を学んだのかがわからず、簡単に模倣出来ると思う人は少なくないのではないか。話を戻して、鹿子木は明治3,40年代に日本で流行した水彩画に対して批判を展開した。そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチらのルネサンス絵画から続く解剖学や遠近法の習得が画家に欠かせないと考えていたからでもあって、レアリスム絵画を目指すのであればそうした絵画の伝統技術を学ぶためにカデミーで学ぶことは必須とされていた時代でもあった。ただしフランス人以外は国立美術学校には入れず、「サロン」に出品しても入選は困難で、それで「サロン」で受賞した有名画家が教授となっていた市井の「アカデミー」に学んだ。それは「サロン」に入選するための近道で、ローランスに学んだ鹿子木も師と同じくやがて「サロン」に入選するが、そのことが現地でどれほどの意味、意義があったのか、鹿子木は大いに悩んだのではないか。フランスに帰化して現地で描き続けることは考えず、日本に帰って後進を指導しながら日本においてアカデミーを構築することがそもそもの目標であったろうし、そこに新たな水彩画のブームに対する権威主義の誇示もあったと思うが、フランスでは「サロン」に落選した画家たちが集まって印象派を旗揚げしたことを知っていた鹿子木は、「サロン」という国家の権威やレアリスムが絶対不変ではないことを薄々感じながらも、日本においてフランスの「サロン」と同じようなアカデミーの存在を求めることに疑問を抱かなかったに違いない。水彩画論争で双方の考えは平行線をたどり、また画家は好きな画材で好きなように描けばよいということに世間の思いは動いて行ったが、現在鹿子木の作品が本展のように展示される機会があるのに、明治時代の水彩画の寵児たちの作品展が戦後にあった話は聞かず、その意味では鹿子木が言ったように、油彩は水彩画の上位に立ち、水彩画専門の画家はアカデミーから外れた存在ということになりそうだ。
●『光陰礼賛 近代日本最初の洋画コレクション』_b0419387_01034455.jpg しかし日本の水墨画の歴史の長さのその延長線上に水彩画はよく馴染み、日本の絵画を考えた場合、油彩の下位に水彩画が甘んじると頑なに考えるのもおかしい。それに鹿子木は水彩画をよく描き、そうした作品のみで個展も開催した。そこにはローランス譲りのレアリスムを墨守し続けたという頑迷な画家像ではなく、いろいろと試行錯誤しながら描き続けた苦闘の痕跡が見え、それを正直と見るか、優柔不断であったと見るかで評価は分かれるだろう。ただし、筆者は図録で鹿子木の作品を一点ずつ吟味しながら、対象の前でそれをどう捉えればよいかと呻吟した鹿子木の姿を思い浮かべ、ともかく描いている時が一番幸福であったに違いないという当然のことを感じ、それゆえ世間の評価がどうであれ、好きなものを好きなように描いた自由人であったと納得する。そのことは日本のアカデミーや画会同士の論争などに嫌気を指してフランスで描いた浅井忠に共通しているが、浅井の作品が重文指定され、義務教育の美術の教科書に載り、切手の図案として採用されて来たのに、鹿子木の作品はよほどの日本の洋画好きの間でしか評価されていない現実がある。そのことの最大の理由が何かと言えば、名作であると多くの人が感じる作品がないからであろう。大作はあっても記念碑的名作がないのはどの分野の作家でも致命傷的なところがあって、世間での人気は得にくい。では鹿子木の大作はなぜ名作として小中学校の教科書で紹介されないのか。本展の「ノルマンディーの浜」はローランスの別荘があったノルマンディーの有名な観光地で構想から素描、本画と数か月を要して制作されたもので、フランス人が見て即座にノルマンディーの浜辺での親子を描いた作であることがわかるが、日本人画家ではなくても描ける風俗画であって、鹿子木にすればヨーロッパの画家並みの技術を持っていることを誇示したかったのであろうが、日本人であることを思い返せばこの作品にどれほどの意義があるのかと自問することがなかったとは言い切れない。そこで本展で展示された同じような大画面で5年後の作である「加茂の競馬」を見ると、画題は白や赤、そして模様入りの狩衣を着た男8人と馬二頭で、馬よりも動きある男性たちに目が奪われる。習作として神馬のみを同じ場所に置いた油彩画があるが、本画では狩衣姿を重視した。鹿子木はフランスでたとえばジェリコーなどの馬の絵画を見たと想像するが、「加茂の競馬」では陽射しの中の神馬と男たちが地面に落とす影の濃さが暑さを連想させつつ、ほとんどスナップ写真のような構図に競馬の荒々しさを伝えたかったのだろう。そう思って「ノルマンディーの浜」とその下絵の素描を見ると、人々の一瞬の動きを捉えることに関心があったことがわかる。そのことは「マルソー将軍」に通じ、鹿子木が師匠から学んだことであったと言ってよい。
 しかし「ノルマンディーの浜」の大人の男女はアンソールが描く仮面をつけた夫婦像を連想させ、ふたりの会話がどこかよそよそしさがある。そうしたことは浜にびっしりと埋まる玉石のごつごつとした見事な表現からも感じられる。この男女や子どもたちはモデルを使って描いたもので、当初は父親が子どもを抱き上げる場面を構想し、習作を描いたが、主題は座る男と立つ女性の会話に移された。それもあってこの絵で何を描きたかったのかがよくわからない。素描や下絵段階では映画の一場面のように動きの一瞬を描こうとしていたことがわかるが、本番ではその動きを極力削って夫婦の心理描写に関心が移った。また陸揚げされた二艘の船が画面の半分を占め、海景はほとんど遮られていることからなおさら夫婦に目が行くが、光陰で言えば座っている夫が白い服を着て横顔に光が当たって画面中では最も目立っているのに対して、妻の衣服や抱える大きな籠はどれも船と同じ黒褐色で、顔も逆光で描かれて暗い。その対比に男尊女卑の考えが滲み出ているとまでは言わないが、 ノルマンディーにまで行ってこの絵を描いた鹿子木には船に乗ることで家族を支える夫に同情する思いが強かったのであろう。だがさらに深読みすると、この絵の夫は浜辺に座って網を繕っており、それは仕事でありながら休息の感もあって、鹿子木が住友家から援助を受けて留学していることの浮き世離れした画家という職業をどこかで恥じていたのかと思わせもする。だがそうであればなおさら真面目にかつ真剣に作画に勤しむべしとの思いが強かったはずで、その力みが本画ではどこか裏目に出ている。またそれは多くの素描を重ね、いくつもの下絵を作って本画への準備を入念にする間に当初の描きたかった霊感が微妙に改変されて行くことも作用し、油彩画の大画面作が常に名画とはなり得ないことを感じさせもする。となれば印象派のように、あるいは日本で流行した水彩画家のように、現場で本画をさっさと仕上げることのほうにより名画が生まれやすいのではないかと思わせ、それはアカデミー教育を受けることが必ずしも名画家になる条件ではないことを突きつけもする。だがやはり霊感、直感を他者に作品で伝えるためには技術は必要で、それはさまざまな方法を学ぶことでもある。それは自己流で獲得出来るが、そうする人にも敬愛する先輩画家がいるはずで、彼らは全くの素人として終始したのではないはずで、ある程度の基本的なアカデミックな学びを通過する必要はある。「加茂の競馬」では男性たちは解剖学が不要なほどにその時代衣装はたっぷりとして体の輪郭を隠しているが、それでも一瞬の動きを捉える技量は裸体モデルを何度も写生した学びの成果で、ここでは単なる記号以上の迫真性が露わだ。それがレアリスム絵画の見どころで、「加茂の競馬」はその現場やまたその祭りを知っている者にとっては印象深い作品であろう。
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だがきわめて迫真的ながらそれが過剰と言えばいいか、見ていてあまり心地よくはない。千年も続く祭りであることの貫禄ぶりを5月の明るい日差しを描くところは日本の伝統重視と印象派の外光重視性を取り込んだ意欲を感じさせはするが、もっと爽やかな風がほしい。それを情緒と言ってもよいが、鹿子木は情緒に溺れるような絵を嫌ったのだろう。それは「あざとい」という言葉が似合い、大衆はそういうものをいつの時代でも歓迎する。黒田清輝の有名な「湖畔」は切手図案に採用され、後に重文にもなったが、モデルの女性は芸者であることを割り引いても顔は理想化がなされているはずだ。あるいは筆者は興福寺の阿修羅像の顔にどこか似ていると思うが、それがこの絵の人気の源泉であるかもしれない。ともかく、理想的美人を浴衣姿にして湖畔に置けばそこに甘美なそよ風が吹いて鑑賞者は喜ぶと黒田が考えたことの巧緻さがうかがえる。絵は作りもので、作為は意図せずとも入り込む。それがいやらしく見えないぎりぎりのところで名画は生まれるのだろう。「湖畔」はコランの画風を日本に置き換えて成功した最大の作と言ってよいが、鹿子木はこの作品を見たのかどうか、同作が描かれた1897年に結婚した。そして黒田より8歳年下の彼は同作から四半世紀後の1921年に「画家の妻」という室内での横顔の裸体の座像を描く。同年には「和装の女」があり、これも妻を描いたものだが、結婚当時妻が仮に18歳として「画家の妻」は42歳の像となる。それが不自然ではない裸体で、豊満とは言えない乳房にどこか痛々しさを感じるが、写実に徹する鹿子木には「あざとい」理想化は拒否すべきものであったのだろう。それに「和装の女」での妻の表情は「湖畔」の女性のような色気がない代わりに真摯な眼差しは好感が持てる。妻の理想像と言えばいいか、家をしっかり守るという落ち着きが露わだ。それに「湖畔」の女性のように国籍不明なところはなく、日本の代表的な面貌と言ってよい。だが世間は「湖畔」は明治屈指の作と持ち上げるのに、鹿子木の妻の像はほとんど展示の機会もない。鹿子木はなぜ「画家の妻」を描いたのか。当時は妻の裸を人の眼に晒すことは勇気が必要であったろう。そこで座像として腰を布で覆い、横顔として妻は鑑賞者と目を合さない。これは黒田の1893年の「朝妝」や1899年の「智・感・情」での陰部を隠さない女性像とは大違いだが、その後鹿子木はルーヴルでアングルの「泉」を模写しており、黒田の一種勇気ある裸婦像の源泉を知ったが、前面を見せる女性の全裸像を昭和になって描き、さらにそこには色気を売りにする「あざとさ」はない。それは黒田に先を越され、またコランを初めフランスにはいくらでも全裸の女性を描いた油彩画があることを知り、それを黒田とは違った日本流の画題にする方策を練り続けたためかもしれない。
 筆者は黒田と鹿子木の顔写真を見比べながら前者は政治家にありがちな好色の曲者で、後者は住友家の援助を受けたので世渡り上手であったとは思うが、真面目な頑固者に思える。黒田の絵が過大評価されているとまでは言わないが、鹿子木の作品はもっと顧みられてよい気はする。黒田は一般受けすることが何であるかを、つまり時流を読むことに長けていた。就く師匠によって画風が違ったことはやむを得ず、鹿子木がローランスから学んだ画風はアカデミーに厳格に立脚していたのに、解剖学や遠近法をことさら重視せず、印影を強調しなかった黒田の方向性が後の日本のアカデミーとなって行く。コランの展覧会は四半世紀ほど前に東京で開催されたが、ローランスのそれはおそらく今後もないだろう。どちらも「サロン」で受賞し、勲章をもらった画家だが、コランの作品ははるかに爽やかで色気があり、そのわかりやすさから大いに人気を博したことがわかる。ローランスは田舎者と言ってよく、その分律儀で時流に乗ることをあまり考えないところがあるように思われるが、そういう点も鹿子木は学んだであろう。以上は鹿子木没後50年展の図録を参考に書いたもので、題名を見なければフランスか京都か場所がわからない作品もままあるものの、掲載図版からは京都で写生した風景画は糺の森や御所など、鹿子木の行動範囲がわかるようで面白い。大阪の豪商であった住友家は今は東京に本拠を移し、それもあって泉屋博古館東京がオープンしたと思うが、京都の館で本展を見ることは鹿子木の作品を中心に見ることかと言えば、本展では浅井忠の作品が4点出品され、取り上げられた画家では最多であった。これは京都を意識した展示のはずで、東京展では浅井忠の作品は少なかったのではないか。あるいは会場の大きさは京都より広く、京都展は東京展を縮小したかもしれない。浅井忠に関して書くとまた長くなるので今回はやめておくが、東京生まれの彼は1900年のパリ万博で圧倒的な画家の多様性と実力を目の当たりにし、日本の絵画の卑小性に気づかされる。アカデミーらしきものはあっても実力の伴わない画家らだけであることを思い、そして吹っ切れたように好きな絵を好きなように描くに至る。もちろんそれは技術に裏付けされた油彩画で、その意味では鹿子木と同様だが、見る者の心に素直に沁み通る画風と言えばいいか、個性が際立っている。アカデミーや伝統、物の見方にこだわらず、ひとりの画家として個性をどう表出するかが最も大事なことであると考えていたゆえで、それは明治中期のどの画家もそうであったと言える反面、やはり作品を通じての画家の個性の見え方には差があって、鹿子木は「陰」の印象が強い。それが明治時代の空気感と言ってしまえばそうではあろうが、重苦しい雰囲気は大きな人気を得にくい。ただし画風の多様性はどういう心境の変化に由来するのか、一考すべき問題であろう。
●『光陰礼賛 近代日本最初の洋画コレクション』_b0419387_01263215.jpg 本展は第1章「光と陰の時代―印象派と古典派」、第2章「関西美術院と太平洋画会の画家たち」、第3章「東京美術学校派と官展の画家」から構成され、第2章は浅井忠を中心とする美術教育機関と画会で、鹿子木は太平洋画会に所属した。同会は東京の黒田清輝が中心となった白馬会とよく比較され、またその勢力に敗れて解散した。第3章では藤島武二や岡田三郎助、和田栄作といった有名どころ以外にさほど知られない画家の作品があって、それは第2章でも同じであった。また京都展では東京展チラシに図版が印刷される岸田劉生やルノワールの作品がなく、両展で出品作の異動があった。全作品が住友の所蔵かどうか、東京展での「住友洋画コレクション」の副題は貫禄を伝える。財閥が画家を援助し、フランスの「サロン」で受賞した作品を購入するといったことはこれからの日本ではもうあり得ないだろう。代わって自治体が作品を購入する時代になったとはいえ、それもこれからの日本を思えば心もとない。それで大作はさておき、画家の小品は市民が積極的に購入して家に飾って楽しむのがよいが、それには美術のある生活の豊かさを広く伝えねばならない。ところが芸術が皆目わからない政治家が大手を振る。また大金持ちはいつの時代もいるが、「モネからはじまる住友洋画コレクション」のそのモネの絵を購入した慧眼ぶりに匹敵することは起こり得ないのではないか。先物買いはいつの時代もあるとして、大半の先物である現代美術作品はどこがどのように購入し、しかるべき企画展を開催し、評論家が美術史にどう結びつけることが出来るか。今はフランスに行かずともよき画集はふんだんにあり、美大がアカデミー教育を施す場として機能しているとしても学生に学ぶ意欲が貪欲にあるかどうかは疑問でもある。それはいつの時代でも言えることで、才能や努力もさることながら、作品によって名を残す者は運も作用し、万にひとつの確率と言ってよい。しかも形ある作品はそのままで保存され得るとは限らず、戦争や災害で破壊されることも多い。本展では絵画の展示室の外に今日の2枚目の写真のように須磨にあった住友春翠の邸宅の模型がガラスケース内にあった。その内部に春翠は鹿子木の絵画や彼にフランスなどで購入させた作品を飾ったが、建物は戦争で被災し、建物跡は神戸市に寄贈されて後に公園となった。同じ展示室に油彩画と区別のつかないほどに古城址を精緻に表現するモザイク画があった。これは須磨の邸宅にあったもので、多彩に色づけされたガラス管をびっしりと横方向に埋め込んで風景を表現した作品だ。江戸時代の柳沢淇園が素麺で同じような作品が作られたことを書いているが、お土産絵として盛んに作られたのだろう。ステンドグラスの伝統のある国では色づけしたガラスでモザイク画を構成することは20世紀になっても行なわれ、たとえばルイス・ティファニーには大画面の作品がある。
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# by uuuzen | 2023-05-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
●テセウス柴刈り爺の心配、6
えたぎる 思い冷まして 再考す よりよき手筈 得るに欠かせず」、「柴刈れと しばかれし彼 しらばくれ しばしばりばり 柴折り芝居」、「回覧が なくなり困る 高齢者 スマホで調べ 情報得よと」、「枝切りを せずに伸ばすや ロック爺 長髪自慢 世間挑発」●テセウス柴刈り爺の心配、6_b0419387_01130880.jpg 去年の春以降、家庭で出る枯れ木などの不用品回収に関する回覧板がなくなった。枯れ木の回収は5月と10月にあるはずで、去年10月は区役所がもう回収しなくなったのかと思いつつ、いつもどおり裏庭の合歓木を中心として2月以降に剪定をした。杉花粉の飛散頃で、また剪定は注意と労苦を要する作業で、その精神的肉体的疲れもあってか、両足を中心にひどい発疹が生じ、生活に支障を来した。アメリカ在住の大西さんが4月中旬に来日した際、筆者に届けてくれたヒマラヤの岩塩を熱湯に溶かし、「風風の湯」に行かない日は必ず膝から下の両足をその湯に30分浸すこと十数回、一昨日からは足湯を必要としないほどにバンドエイドは数枚になった。発疹跡は紫がかった赤で、それは完全に消えないかもしれない。それに発疹跡からまた血と膿がいつ噴き出すかわからないが、歩くのにほとんど支障は感じない。話を戻して、枯れ木の回収を区役所がやってくれなければゴミ袋に入れて回収日に出せばよいが、最大容量の袋を買っても尖った枝はあちこち破る。また家庭ゴミと同じ扱いにするには忍びない。それで特別に指定された回収日時に指定場所まで持って行きたい。先月知ったが、わが学区のPTAは回覧文書をすべてスマホで各家庭に送信する。コロナ禍がきっかけだろう。筆者はスマホを持たないがパソコンはほとんど終日使っている。早速区役所の年二回の枯れ木回収日を調べると、ちゃんと載っていた。もう紙の文章では各戸に回覧しないようだ。日時を忘れないように書き留め、その紙を冷蔵庫の扉に貼った。去年5月以降、枯れ木の束は八つになった。回収は一家庭二束までで、わが家は半分しか処分出来ない。筆者は隣家も所有するので、4束は捨ててよい。それでも以前不審がられたことがあったので、家内と筆者とで2束ずつ別の場所に持参することにした。その日が今日の午後2時から3時であった。家内は自転車の前後の籠に振り分けて公園に持って行ったが、誰も何も持って来ない。回覧文書がなくなったせいで区役所が不用品を回収しなくなったと思っているのだろう。筆者はキャスターに2束をくくりつけて自治会館前に持参すると、会合があったらしく、自治会館からぞろぞろ高齢者が出て来る。上品な女性が筆者の枯れ木を見て、「私も早く家に戻って近くの公園に出さなくては…」と言った。それで今日が回収日であることを確信したが、家内は「誰も出してないよー」と言いながら2束を自治会館前まで持って来た。しばし待ったが他の人は何も持って来ない。自治会館前に置かれた4束は回収されたのだろうか。それが心配になっている。
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# by uuuzen | 2023-05-18 23:59 | ●新・嵐山だより
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その42
健に なれと贈らる 蘇鉄苗 その意味知らず なよなよ育ち」、「ああここに どうにか生きる 蘇鉄あり どうにか生きる 人が育てし」、「置き場所に 困る蘇鉄の 鉢植えを 山に捨て植え いずれ姥園」、「永遠に 生きるためには 子を遺す 鉢の蘇鉄も それを知るとや」●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その42_b0419387_15345914.jpg 神戸市内の相楽園は山手にあってそこの蘇鉄園は大名の貫禄があるのに対し、筆者が身近で見る蘇鉄はどれも鉢植えのもので、わが家の二鉢もその例に漏れない。日当たりと土の栄養がよければ成長は早いはずだが、そうなると5,6年置きに大きな鉢に植え変えてやらねばならない。ところが大きくなると扱いにくく、老人ではその作業が面倒ないし無理となって、せせこましい鉢の中で蘇鉄は葉を大きく広げて行くと同時に根を張り続ける。その限界が来ればどうなるか。その例をわが家の裏庭の蘇鉄が示している。日当たりを少しよくしてやろうと鉢を動かそうとすると、鉢底の水穴から根が地面に伸びていてびくともしない。鉢を割ってそのままを地面を深く掘った穴に埋めてやるのがよいが、そうすると成長が早まって裏庭はやがて蘇鉄で大半の面積が占められる。それでも別にかまわないが、金柑や楓、キンモクセイやネコヤナギなど、他の木が何本もあり、また地面は今年は大きな蕗の葉を全部取っ払って鶏頭だらけにしようと思っていることもあって、蘇鉄を最優先するつもりはない。それで困ったなと思いながらそのままにしている。これは成人した子どもがいつまでも家にいて嵩高いことと同じで、どこか別のところに出て行って一家を持ってほしいと思う親心と似ている。とはいえ葉の直径を1メートル以上に広げた蘇鉄を易々と引き取ってくれる人は知り合いではまずおらず、鉢植えのまま放置するしかない。以前に書いたが、わが家の蘇鉄は息子が小学2,3年生の頃に学校からもらって来た葉が1枚の苗木であった。筆者は世話するでもなく庭の片隅に放置し、気づくと葉を増やしているので素焼きの大きな鉢に植え変え、やがて幹の根元が二手に分かれたのでひとつを別の鉢に植えた。そうして30数年経って置き場所に困るようになっている。それはさておき、学校がなぜ児童に蘇鉄の苗木をプレゼントしてくれたのかその理由を考えるに、蘇鉄のようなじっくりと粘り強く育ってくれるようにとの思いからではないか。子どもはそういうことを聞かされると、クラスにひとりくらいは大人になってもよく覚えていて蘇鉄好きになるが、筆者の息子はさっぱりで、わが家に蘇鉄があることもたぶん気づいていない。それで筆者や家内が死ぬと蘇鉄の処分に困るはずで、大金を出して植木屋に引き取ってもらうか、葉を全部切り落とし、幹は斧で割ってゴミにするだろう。どちらも否定したい筆者だが、筆者は蘇鉄よりはるかに寿命が短い。各地から不要になった蘇鉄を引き取って集団で育ててくれる小さな山があればと思うが、そういう酔狂な土地持ちはいるのではないか。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その42_b0419387_15351464.jpg
 今日の最初の写真は3月27日に撮った。嵯峨の住宅地にある八つ橋の製造工場の玄関脇で、蘇鉄は立て看板や他の木の陰にあって目立たず、ほとんど手入れされていないようだが、工場のいちおうの顔として地植えされている。この工場の存在を筆者は10年ほど前に知ったが、最近家内とよく出かけるスーパーから少し離れたところにあって、別のスーパーに向かう途中で立ち寄ることが出来る。2か月ほど前、「風風の湯」の常連のFさんは家に息子さんがやって来て食べ始めた八つ橋に気づいた。Fさんが10代の頃におやつとしてよく食べていたもので、息子さんは今も工場の受付で売られていることを知って買って来たのだ。八つ橋の製造工程で出る「はしくれ」で、うどん状の細長いものを300グラムほど袋に詰め込んで200円台の価格だ。生の八つ橋で日持ちはしないが、食べ始めると意地になり、Fさんは毎朝食事代わりに一袋を平らげると言う。餡は入っていないが、原材料の中心は米であるから腹持ちはよい。Fさんはこれをいつも4袋ほど買うと言う。筆者と家内がスーパーに出かける午後ではたいてい売り切れで、5回に一度ほどしか買えない。この工場のみで売られ、宣伝もされていないが、車でやって来て5,6袋を買って行く人もいる。朝8時からの販売でたいてい午前中に完売するが、稀に売れ残ったものを筆者らは午後に2袋買う。きなことニッキの味以外に砂糖の甘味があるから、Fさんのように朝食代わりに毎日一袋を食べると糖尿病に一直線だろう。Fさんは糖尿の薬を飲んでいるので「はしくれ」の食べ過ぎはよくないが、筆者の意見に耳を貸さなくてもそのうち飽きるはずで心配には及ばない。2,3枚目の写真は4月に自治連合会会長に挨拶に出向いた時、近くで見かけた。その時にカメラを持っていなかったので、今日自転車で訪れて撮った。2枚目は庭先に置かれたひとつの鉢に大小2株が植わっている。3枚目は用水路際の側溝蓋の上に大きな鉢が置かれ、置き場所に困っていることがわかる。これほど成長すると大人ひとりでは動かせない。鉢の大きさからして成長は限界に達していると思うが、どうしようもないので放置されているといった感じがある。車の往来はごく少ない場所で文句を言う人はいないだろう。わが学区にはそういう場所がままある。松尾駅に近く、筆者はめったにその界隈に踏み込まず、たぶん訪れたのはこれまで3,4回だ。となればわが学区には筆者がまだ見ていない蘇鉄はあるはずで、道路を隈なく歩けばよいが、そこまでして蘇鉄を見出す気はない。たまたま出会うのがよいからだ。「飛び出しボーヤ」の看板にしてもそうで、「人生は偶然」主義に近い。たまたまの出会いに愛着を覚えるのは何となく得した気分になれるし、そのたまたまの出会いから始まった縁を失っても「しょせん偶然の出会いで、元からなかったと思えばよい」と諦めがつきやすい。
●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、その42_b0419387_15353053.jpg

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# by uuuzen | 2023-05-17 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●『没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより』
りかと 思いつ拒む 霊や神 幸も不幸も 考え次第」、「ヒトが消え モノが残るの 不可思議を ヒトは知るゆえ モノに念込め」、「大切に すること学ぶ 大切さ 安物買いは 軽んじられて」、「見返りは 自己の満足 ほかになし よき時過ごし 次の挑戦」●『没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより』_b0419387_18015231.jpg いつもは阪急の大山崎駅から大山崎山荘美術館まで歩くが、雨では無料送迎のマイクロ・バスがよい。これはJRの山崎駅でも客を拾うので、大山崎駅前から歩くコースとは違ってやや遠回りになる。しかしそれは歩くのが億劫な場合は特にJRの踏切を越えてからの山の坂道を上ることを思えば気にはならない。バスの乗客は筆者ら以外に40代後半から50代前半らしきカップルがいた。美術館の敷地前で降りた時、相変わらず傘は必要で、またそこから美術館の建物までは山道を5分ほど上る必要がある。バスを降りて筆者はそのカップルの女性に声をかけた。彼女らは初めての同館で、枚方に住むとのことであった。枚方市役所ではたまに美術展が開催されるが、淀川対岸の高槻市ほどには文化度が高い認識が筆者にはない。失礼を承知で「枚方には何か見るべきものがありますか」と訊くと、「枚方パーク」と返された。子どもがいればありがたい施設だが、そうでなければ今では菊人形もほとんど作られなくなり、筆者は枚方パークに行く気がない。そう言えばそのカップルは子どもがいない雰囲気があった。身なりはとても地味で慎ましく、人のよさそうな夫婦といった感じだ。眼鏡をかけた長身のご主人は終始無言で、筆者らをどう見積もったかと思う。昨日書いたように筆者らは帽子屋と間違われるほどに格好が目立ち、年齢に似合わずにとてもカラフルな服装の筆者は一体何者かと思われたであろう。山荘の玄関まで筆者は彼女にいろいろと説明し、館内に入ってからはさっさと知り尽くした部屋の展示を見て回り、家内の姿を見失った。一緒に館内に入った先のカップルの姿も見えず、どこに消えたかと思いながらひとりで山荘の1、2階を二度巡った後、ようやくそのカップルが1階の「山本記念展示室」に入って来た。彼女は筆者の姿を認めて笑顔になったが、筆者は家内がどこに行ったのかわからず、相変わらずうろうろし続けた。そこで急に思い出した。この美術館に何度か前に来た時、筆者は展示室のひとつを見忘れた。帰り道にどうもおかしいことに気づいたのだ。チラシに載っている写真の作品がなく、会期中に展示替えがあったのかと思いながら実はそうではなく、「夢の箱」と命名される「山手館」に足を運ばなかったのだ。「地中の宝石箱」と名づけられる「地中館」はモネの水蓮の絵が見られる円形の鉄筋コンクリートの建物で、これは安藤忠雄が設計し、筆者は毎回この美術館を訪れると見る。ところが「地中館」とはちょうど反対方向にある「山手館」は比較的新しい建物で、開館当初から通い慣れている筆者はその建物に何となく馴染みがない。
●『没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより』_b0419387_18021477.jpg 今日の2枚目の写真は最初の展示室のテラスに出て撮った。その後に隣接する「山本記念展示室」に行き、そこでの展示を見て2階に上がった。そうして撮ったのが3枚目の写真で、2枚目の写真では見えない白い羊のつがいの彫刻が左手に垣間見えたのが面白かった。2枚目の写真は睡蓮のある池が見物だが、雨では飛び石を歩くことは出来ない。またそれは禁止されている。この写真の右手に山手方向に伸びる廊下があり、その突き当りに「山手館」がある。そのことを思い出したのでそこに向かい始めると家内と出会った。「山手館」は鑑賞順路としてはテラスのある展示室に次いで2番目だ。本来はそこを訪れた後、テラスのある展示室1に戻り、そして「山本記念展示室」を見る。枚方のカップルは順路表示にしたがって「山手館」を見た後、筆者が家内を探していた「山本記念館」にやって来たのだ。そのことを知ったのは2枚目の写真を撮り、さらに2階に上がって3枚目の写真を撮った後で、家内と出かけなければ筆者は「山手館」を見ることなく帰っていた。「山手館」の展示は本展の目玉で、最も充実していた。それはさておき、雨天にもかかわらず、会期の最終日のためか、館内はどの部屋も多くの人がいた。家内と合流して「山手館」を見た後、筆者らは帰ることにしたが、雨はほとんど上がり、バスを待つことなく歩いて阪急の駅前に出て喫茶店で休憩した。そこから5時をちょうど過ぎた頃まで送迎バスが客を二度下ろす様子を目撃したが、枚方のカップルの姿を見なかった。彼らは閉館までいて筆者らと同じように歩いて下山したのだろうか。あるいは往路とは違ってJRの山崎駅を利用することにしてそこでバスを降りたかもしれない。本展に関係のないことを長々と書いている。黒田辰秋展は以前京都駅ビルの美術館で見て感想を書いた。本展は同展とは作品がほとんどだぶらないはずだが、筆者は辰秋の作品展であれば何度でも見たい。それはまだ彼の作品の全貌を知らないからでもあるが、本展は没後40年展であるので、10年後には大規模な回顧展があるかもしれない。辰秋の作品は特に人柄がよく滲み出ている感があり、大柄で朴訥とした風貌に木工作家らしさを思う。それはいかにも民藝の精神にかなうようで、柳宗悦の思想のもとから出た作家として今後ますます渋い輝きを得て行くだろう。大塚家具は高級品で名を売ったが、現在の無名あるいは名のある家具職人の中で辰秋の評判はどうなのか。たとえば辰秋の作品と同じような趣の家具をほしい人はいるはずで、そういう要望に応えられる才能は当然あるはずだが、模倣では面白くないから、辰秋の雰囲気を残しながら新しさを盛った家具がどのように現在の日本で展開されているのか、筆者はそのことが気になりながら、一方ではIKEAやニトリの安価な家具のブームから辰秋の作品をほしいとも思わない人が増えているのではないかと案ずる。
●『没後40年 黒田辰秋展―山本爲三郎コレクションより』_b0419387_18022608.jpg
 辰秋の代表作は20代半ばに作られ、それらが本展の目玉になったが、100年前と現在とでは日本の建築が大きく変貌した。夏目漱石はイギリスに留学してロンドンの大きな邸宅を見ながら羨ましがり、それと同じような建物が日本にほしいと思った。日本が戦後の高度成長を経て金持ち国になり、どのような建築物でも建てられるようになった結果、日本の庶民が暮らす家屋がどうなったかと言えば、大型のプラモデルと同じように工場製品の画一化が進み、大工や左官の職人を不要とするものになった。おまけに昔はどのような小さな家にもあった庭がなくなり、つまりは街から緑が大幅に減った。田畑が団地や新興の住宅地に変わり、一方東京では実験的な建築がバブル期以降急増し、しかもそれらの寿命は万博のパヴィリオン並みにとても短い。ロンドンではそのようなことはあまりないだろう。どちらがいいのかわからないが、緑が少なく、小さな家が密集する日本の街では地震でどうなるのかと思う以前に、真夏の暑さは昭和3,40年代とは違って地獄的で、とにかく風通しがよくない。日本の建売住宅の味気ないデザインと仮設建築のように最新デザインで建て替わって行く東京のお洒落な店舗やビルとがどのように関係しているのか筆者にはわからないが、住居用の建物の内部には家具が必要で、黒田辰秋の家具は100年前の木造住宅の日本にふさわしいものであったことを思うと、今は今なりにIKEAやニトリの安価な家具の時代で、家と同じように数十年使うことを考慮していない消耗品扱いだ。当然そういう家に住む人間も同じで、「味のある」といった人はほとんどいない。先に辰秋の風貌のことを書いたが、昭和半ばまでなら彼に似たたとえば伊藤雄之助のような男優がいたのに今は絶無だ。「味のある」人が求められないうえに、そもそもそういう人は生まれようがない。今は今の味があって、現在を代表する「味のある」人が有名人に含まれていると言うことも出来るはずだが、筆者の思いは少し違う。前述したように大工や左官が携わった建築は設計者が誰であっても手作りの味わいが自ずと出る。建材その他が工場で規格品として作られる現在、どの家も似たものとなり、手作りの個性が出る場面がない。となれば内部に住む人もそれに応じ、みな似た考えで生活を送り、没個性となる。そこで稀にそのことに抵抗して個性的に生きる人があって、画一化された住宅を苦々しく思うが、それはほとんど無駄な抵抗であること知ったうえでの趣味への埋没だ。もちろん大金持ちであれば奈良の東大寺の大仏殿のような建築物を建て、そこに住むことも出来るが、そのような桁外れの大物を日本は生み得ず、またいたとしてもその大家屋の中をどのような家具調度で満たすかという別の大きな問題がある。大仏殿並みは非現実的として、金持ちはいつの時代でもまず家にこだわり、次に家具を吟味する。
 そのような金持ちは設計士と相談しながらたとえば東京の土地価格が高いところに斬新なデザインのものを建てることが今ではごく普通になっているが、家具は大塚家具から買うか、外国の高級家具を入手するにしても、辰秋の作品のように作家に任せて誂えることはさほど多くはないだろう。つまり家具職人はいても家具作家と呼べる人は存在が難しいと想像するが、金持ち相手の若手の建築家はそれなりに多くいるはずであるから、家具作家もいないはずはないだろう。ただし金持ちにも種類があって、ただのブランド好きの成金から作家の才能に惚れ込んで製作費にほとんど糸目をつけずに製作を一任するパトロン的金持ちまでいて、後者は現在の日本では100年前に比べて少なくなっている気がする。筆者の周囲に金持ちはいるが、趣味のない成金ばかりだ。また作家への援助を惜しまない人がいても財力がない。そう思うと辰秋は若い頃に柳に出会い、一方では柳の思想に共鳴した大金持ちが作家に作品を注文し、そうした幸福な人と人との出会いが辰秋の作品を世に残す最大の原因になった。現在の大金持ちの審美眼にかなう作品を提供する美術作家がいるのは当然として、そこに辰秋風と言えば語弊があるが、重厚でしかも優しく、華麗な雰囲気をたたえた作品を作り得る家具作家は望めるのだろうか。また辰秋の家具が似合う建物が新たに設計され得るのか。建物の素材やデザインとその内部空間にふさわしい家具調度を筆者はあまりに狭く考えているのかもしれない。これは以前に書いたと思うが、TVの番組で40歳前後の主婦が自宅内部を紹介していて、それは茶色の太い木材を梁や柱に使用した重厚な雰囲気で、その壁面の一部にウィリアム・モリスの壁紙を貼っているのが自慢であった。柳は若い頃にモリスの作品を知り、本まで書いたので日本の民藝とモリスの作品は隣接しているが、それでも筆者はそのTV番組で見た若い主婦の趣味が中途半端に思えた。彼女は本当はイギリスの19世紀風の建物に住み、その内部をモリスの壁紙で埋め尽くしたいのだろう。それがかなわないのでその一部を模した空間を作ったのだが、日本の古民家のほうがよほど味わいがあるように思えた。だがそういう家屋を東京の都心に移築することはよほどの経済力がなければ無理だ。日本の家は耐久年数がほとんど望めないとして、家具調度は大事にしさえすれば何百年でも古びない。辰秋がそう考えたかとなれば1982年まで生きたのできっとそうだろう。大工や左官の腕のある人が作った家屋の大半は消えたが、家具ならその憂き目には合わない。これが正しいかと言えばそうとは限らない。古い家具をただ同然の価格で入手した詐欺同然の商人がヨーロッパにもいて、情報や知識に疎い田舎者は何世代も使って来た家具をデコラ張りの安物と交換することを何とも思わなかった。
 さて、本展チラシに次のような説明がある。「京都の塗師屋(ぬしや)に生まれた黒田辰秋は、早くから木漆工芸の制作過程における分業制に疑問を抱き、一人で素地から塗りや加飾、仕上げまでを行う一貫制作を志します。柳宗悦や河井寛次郎の知遇を得たことで民藝運動と関わり、1927年「上加茂民藝協団」を結成して志を同じくする青年らと共同制作を送りながら制作に邁進しました。」ここにはふたつの注目すべき点がある。まず塗師の家柄に生まれて分業制度を拒否したことだ。工程の多さは友禅染と同じで、全工程を作家ひとりがこなすことは京都では珍しい。柳はそういう名のある作家を否定し、無名の職人による逞しい造形を民藝として賞賛したが、一方で柳の周囲には天才的な工芸作家が集まり、民藝の精神はそうした作家の名声とともにより拡大した。無名の職人による分業作品のすべてが健康であると思うのは考えが浅い。腕のない職人はいつの時代でもごまんといて、彼らの作る作品は見るに堪えない場合が多々ある。友禅染で筆者はさんざんそういう作品を見て来た。そのことを柳も知っていたであろう。民藝と呼んでよい作品も質はさまざまで、後世にほとんど残す意味のないものは多い。時代を経ればそうした作品でもそれなりの味わいが出て愛玩者も出て来るだろうが、それはまた別の文脈で語るべきことであって、柳の考えた民藝と同時代の民藝的作家は日本独自のひとつの芸術の流派と呼べるべきものとして現在まで伝わっている。また柳は琉球や朝鮮の民藝にも視野を広げ、作品も精力的に収集紹介したので、民藝的作家はその柳の影響を強く受け、辰秋の作品も日本の木漆工芸に留まらず、朝鮮の木工芸に感化されたものがあることは当然でもある。本展のチケットやチラシに紹介された「貝象嵌色字筥」は辰秋が24歳頃に作ったもので、貝による螺鈿細工は朝鮮の同様の作品からの影響が強いことを思わせる。またそうした緻密な細工が出来るのは塗師の家柄に生まれたからには当然として、素地の箱や蓋の中心にある「色」の一字のデザインなど、辰秋がさまざまな方向の美の表現に巧みであったことを思わせる。通常なら箱を職人に作らせ、そこに作家が螺鈿を施すが、木材の選定と加工から螺鈿までを辰秋が仕上げたと知ると、その作業に要する時間や才能に誰でも驚くだろう。またこうした比較的小さい作品であれば木工はさほど困難ではないと思うが、「山手館」で展示された同じ年の制作になる楕円形のテーブルと2種計6脚の椅子を見ると、テーブルの脚部や椅子の背もたれにほどこされた「井」の文字をデザインした透かし彫りなどを含めて頑丈かつ端正に作られた様にほとんどの人はプロの仕事とはどういうものかを突きつけられた気になる。作品が大がかりであっても掌サイズであっても辰秋は同じように力を込めた。そして前者の作品は器用な人が趣味で作り得るものではとうていない。
 次に「上加茂民藝協団」は、「山本記念展示室」内の説明パネルを一読して筆者は書き留めなかったが、幸いWIKIPEDIAに簡単な説明がある。京都にいた柳宗悦に傾倒した青田五良という染織家によって辰秋も柳のもとに通うことになり、やがて工芸家が集まって上賀茂の屋敷を借りて共同生活を営むことになった。青田七良は五良の弟か、金工の作家で、それに鈴木実という染色家もいたが、家賃などを賄うために設けた会費の捻出に辰秋は苦労したと説明パネルにあった。広い屋敷なので家賃は嵩み、一方で若手の工芸品は辰秋のものしかほとんど売れなかったようで、同会は2年で解散した。辰秋は後に人間国宝になったが、同協団の他の作家は名前も作品もほとんど紹介されたことがないだろう。関係者は大事にしていると思うので、染織や染色の作品を筆者は見たいが、辰秋のように個人で全工程を手がけるとなるとおおよそどういう作品かは想像がつく。それに柳の思想に共鳴したのであれば友禅染のような繊細な作品ではあり得ず、大きな模様をざっくりと蝋や糊で防染したものだろう。そうした作品はデザイン力が勝負で、技術的には素人でも作り得るから、京都ではなかなか売れなかったと思う。辰秋の作品は「山手館」で展示されたテーブルや椅子のように金持ち向きに高額で、所蔵者は大事に使う。その点ほとんど消耗品と言ってよい、材質的に脆弱な染めや織りの作品は不利だ。金工の作品は陶磁と違ってそのままの形で長持ちしやすいが、日本の現代生活の中で金工の美術工芸品を使う場面は乏しく、柳のもとに集まった若手からも作家を輩出しなかったであろう。上加茂民藝協団が解散になって辰秋は制作の場所をどこに確保したのか知らないが、工芸作家は画家以上に広い制作の場所を必要とするから、辰秋が別の場所に移ったとしても収入につながる作品を次々に制作する必要はあった。ただしそれは発注者がいての話で、同協団時代にそれなりに売れ始めていたことが幸運を招いたと言ってよい。チラシの説明によれば、同協団解散の翌年、「1928年、御大礼記念国産振興東京博覧会に出品されたパビリオン「民藝館」で、初期の代表作である欅拭漆のテーブルセットをはじめ多くの家具什器を手がけました。」この欅拭漆のテーブルセットが前述の「山手館」に展示された作品で、これは大山崎山荘美術館が蔵する。というのは「民藝館は、運動の支援者であったアサヒビール初代社長山本爲三郎が建物と什器を買い取り、博覧会終了後に大阪・三国の自邸に移築し、「三國荘」とよばれるようになります」とチラシの説明が続くように、現在の同館をアサヒビールの会社が所有するからだ。山荘を建てたのは実業家の加賀正太郎で、彼は山本爲三郎と交友があり、同館は民藝作品の展示目的が当初からあったのではないが、それが似合う内部のしつらえになっている。
 「三國荘」は写真だけが伝わる。阪急の三国駅はサラリーマン時代の会社が地下鉄の東三国駅から近かったこともあっておおよそどこかはわかるが、ずっと後年に三国駅で下車して駅前の革島商店街を歩いた時の雰囲気からして、実業家で成功した山本爲三郎が三国のどこに住んでいたのかと思う。宅地跡に小さな石碑でもあればわかるが、たぶんそれはない。写真で見る三國荘は和風で、内部は欅拭漆のテーブルセットが置かれても違和感がないように造られたようだ。本展では山本の子どもか孫か、小さな机と椅子も展示された。とても頑丈に見え、そういうものを使う子どもはどのような将来を夢想するのかと筆者は思った。というのは子どもの頃に筆者はミカン箱を机代わりに使っていたからでもあるが、昭和30年代初頭まではそういう子どものほうが多かったのではないか。小学校の机と椅子はぱっと見は辰秋の先の子ども用のものとよく似てどちらも直線ばかりの立方体的で、もちろん漆は使われずにあちこち傷だらけの古びた白木で、また乾燥し過ぎてか、子ども心にも軽くて扱いやすかった。それはそれのよさはあった。掃除の際に移動しやすくなければ子どもは困るからでもある。その点辰秋が作った子ども用の机は頻繁に動かすことを前提としていないように見える。中学校では鉄パイプと木材を使った椅子や机で、それは現在まで続いている。木材製よりも頑丈ではあるが、木のぬくもりはなくなった。辰秋の初期の代表作が無傷の状態で保存され、現在の木工職人に影響を与えているとして、現在の大金持ちがそのような重厚な家具をほしがるだろうか。大金持ちの品位がまず変化したように思うし、ましてや新興の芸術的運動を支える気概はないだろう。金だけ儲けても名前は決して後世に伝わらない。いかに金を使ったかであって、才能のある者を援助した場合は長く記憶される。だが金持ちの質が変わって来たとすれば才能のある者のその才能も時代につれて変質して来たと見るべきで、今は辰秋のようにひとりで木を切り削って漆を塗るという作家の出番はほとんどないだろう。人間国宝でも辰秋以降に同じ分野での指定はないと思う。辰秋の作品は京都市内では二か所で今もいつでも誰でも目の当たりに出来る。ひとつは百万遍にある進々堂の喫茶店で、店内に分厚いテーブルは表面が傷だらけだが今も使われている。もうひとつは八坂神社前の鍵善の玄関の装飾扉だ。全体を赤く塗り、また透かし文様が目立つ。それは八坂神社前にはふさわしい華やかさだが、店内では同じく辰秋が作った螺鈿の器が今も使われていると思う。筆者は20代で家内と同店に入ってくずきりを食べて以降、同店を利用したことがないが、店の前を通るたびに辰秋のことを思い出す。京都では民藝作家は河井寛次郎が最も有名だが、彼の木製の壁掛け用の抽象作品は、材木の選定などを辰秋に助言を仰いだのではないだろうか。
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# by uuuzen | 2023-05-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON

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