几帳面そうな筆跡の泉晴紀さんから年賀状をもらうようになったのは、『大ザッパ論』を出してからだった。同時期にユリイカにザッパ特集号があって、そこに有名人のひとりとして泉さんのコメントが載った。
それを見て筆者は何か書き送った気もするが、もう記憶が定かではない。その泉さんから5月上旬にお便りがあり、その返事を出さないまま、先週は東京の普遊舎から献本として泉さんの最新漫画本が1冊送られて来た。それで慌てて出版社と泉さんにはがきを書いて出した。だが、この1、2日はちょっとした時間を作ることが出来たので、溜まっていた長文をこなす一方で、泉さんの漫画について何か書こうと思う。とはいえ、筆者は小学校卒業以来全く漫画ファンではないし、どういう漫画に人気があるのかもわからず、またたまに見る漫画でも興味の持てるものには出会わない。こう書くと、最初から色眼鏡で漫画について書くことになりそうだ。泉さんから5月に手紙が届いたのは、実は3月下旬に東京で対談があった時、そのチラシが手元にたくさんあったこともあって、泉さんにも送り、いわばその返事だ。会えるとは思わなかったが、年賀状だけではなく、たまにはそういう報せもいいだろうと判断した。だが、送ったのは確か対談の2日前で、泉さんに届いたのは早くて当日だったろう。実際手紙には対談の翌々日に届いたとあって、間に合わなかった。泉さんの住居は武蔵野市の吉祥寺というところで、筆者には土地勘がなく、都心からどれほど離れているのか、またどういう雰囲気の町かも知らない。それに、泉さんがどの県の出身で、何歳で、どういう顔をしているかも知らない。ザッパの音楽に関心があるということだけで筆者と共通するが、そのザッパに関心のある人々もまた多様で、全く性質が正反対な場合もあるはずで、会ってもザッパ観が違って話が噛み合わない場合も多いと思う。そのためかどうか、筆者はほとんど、いや全くザッパについて誰かと話をしたことがない。となれば、泉さんと会っても話がどう合うのか合わないのか、さっぱり見当がつかないし、まず会うにしてもその作品に全部目を通してからということにしたいにもかかわらず、泉さんの漫画は7、8年前に確か1冊買った程度だ。漫画に深い関心のない筆者はごくたまに漫画専門の古書店に行くようなことがあっても、漫画以外のコーナーで時間を過ごし、泉さんの単行本がどれほどあるのかないのかも知らない。これでは会うのは失礼だ。それでも辛うじて知る作品から、今日はお礼がてらに何か書こうと決めた。

筆者が泉さんの漫画を初めて知ったのは、息子コマニに毎月買い与えていた小学館の月刊誌だ。それらを全部手元に置いておけばよかったが、本の多いわが家ではそれは無理な話で、ほとんど破棄するつもりでそうならないままに無造作に保管されている『小学五年生』の1年分ほどがある。先ほどそれを10数年ぶりに引っ張り出した。それを捨てないでいたのは、泉さんの『キッチョメン! 石神井先生』が連載されていたからでもある。当時息子とこの漫画を特に面白がって読んだものだ。これは間違っているかもしれないが、このシリーズ漫画は以前は『小学四年生』に連載されていて、年が変わって同じファンに読ませるために『小学五年生』に連載になったと思う。ともかく少なくとも2年ほどは続いた。筆者が面白いと思ったのは、「キッチョメン」という主役の名前だ。このあまりにベタな表現がおやじギャクそのもので、筆者好みであったことと、それに「石神井(しゃくじい)」という東京の実際の地名が名前に与えられていることも東京をよく伝えて、それがまた未知の世界という感じがしてよかった。石神井には行ったことがないので想像するしかないが、筆者の古い年配の知り合いに、東京から出て来てしばらく筆者の近くに住んだのに、また東京に帰った人がいた。その人は数年前まで毎年年賀状をくれたが、住まいは石神井のアパートであった。その人の弟はアメリカの一流企業にいてとても優秀であったようだが、その人は立教大学を出た金持ち育ちで品がよかったが、世を捨てたようなところがあって、また筆者から見ればとても甘い考えをする持ち主でもあった。年賀状を送ってこなくなって今はどうしているかと思う。ともかく、石神井の字面を見るとその人を思い出す。そこは住みやすい町であるようだが、東京都民ならばある一定のイメージが湧くのだろう。そういうイメージに則しての「石神井先生」という命名で、この漫画は東京の人向きだったと言えるだろう。内容は、その先生を中心とした日常よくあるような事柄を毎回取り上げるもので、主人公の先生は下駄のような四角い顔をしている。そこがまた几帳面な性質をそのまま示しているが、そういうストレートなギャグは漫画のもっとも面白い本質のひとつであって、筆者は好きだ。今1993年8月号の『小学五年生』を見ているが、同じ号には連載漫画は10本ある。だが、筆者の記憶にあるのは『キッチョメン!』のみで、そのほかは見事に忘れている。いや、正確に言えば、当時は見ることすらしなかった。この差は大きい。まず読む気、見る気を起こさせるかどうかが問題で、その気さえ生じさせないようなものは、内容批判以前の問題だ。また面白いのは、小学5年生を対象にした漫画であるのに、なぜ『キッチョメン!』だけが筆者の目にとまったかだ。簡単に言えば筆者の性に合っていたからだが、大人が読んでも面白いと思える要素があったからとも言える。あるいは筆者が小学5年生並みの精神であったかだ。おそらくそのどちらも当たっていて、さらに言えば、泉さんも大人でありながら、小学5年生の気持ちをより理解してもいたからだ。そうした漫画は大人が書くものであるし、また10本はヴァラエティを旨に選ばれているはずで、そのうち筆者が『キッチョメン!』だけを印象にとどめたということは、見事に小学館の戦略にはまったことになる。それほどにこうした月刊誌は多様な読者の好みをよく調べ上げている。筆者のようにほとんど漫画を読まない人にも10本のうち1本ほどはおやっと思わせるものがあるとなれば、これは漫画全体を無視するにはもったいない理屈になるが、その1本に出会うのに10本を読むという時間も根気も筆者にはない。

さて、『キッチョメン!』は8ページで、作が久住昌之、画が泉晴紀となっていて、物語の作者と実際の作画が分担されている。これは『キッチョメン!』を読んだ当時から知っていたが、漫画におけるそうした分担作業は珍しくはないとしても、こうしたギャグものではどこまでそれが可能なのか少し気になる。つまり、うまく分担出来るのかどうかという点だ。ふたりは個々の名前を別に記す場合と、「泉昌之」としてひとりの名前に合成する場合とがあるが、後者は前者の場合と違って何か事情があって、また作品の種類に区別があるのかないのか、そのあたりのことは知らない。だが、このちょっとややこしい状態は、ふたりにとっていい方に働いているのか、そうでないのかが気になる。久住さんも泉さんのように単独で漫画を描くことがあると思うが、筆者はそれをまだ見ていないので、両者の画風の差、あるいは内容の差についてはわからないでいるが、泉さんが単独で描く作品の掲載を、5月に泉さんから手紙をもらった時に知って、すぐに買って読んだ。手紙が届いた日、ちょうど息子が滋賀から帰宅していて、ふたりで大阪に出たのだ。その時梅田の大きな書店で、手紙に書いてあった『コミックビーム』5月号を買った。その中に「和泉晴紀」という名前で30ページほどの『夢の旅人』が掲載されているが、まず不思議に思ったのはその名前だ。「和泉」は大阪人なら誰でも府南部の和泉地方を思い出す。泉さんはそれを知ってこのような名前にしたのだろうか。「泉晴紀」でいいようなものを、わざわざ「和」を入れたところに、何となく和風にこだわる姿勢が見られないでもないが、実際『夢の旅人』は松尾芭蕉を主人公として、そこにザッパも登場するという一種の歴史物になっている。そして、その物語は『キッチョメン!』とはかなり違う。大人向きと子ども向きの差というのではなく、作者の興味の向き方が違う。芭蕉を題材にするところにすでにギャグ漫画とは別の指向が見えるし、そこに異質な外国人を登場させるという点では、歴史ドラマ好みがうかがえる。とはいえ、『夢の旅人』はよくあるような、歴史上の人物の生涯を絵解きするような漫画では全くなく、言葉遊びや歴史の隙間のあり得るような事柄を散りばめながら、そして落語的な言い回しや筋運びを用いながら、どこか求道的な内容にもなっている。そこには『キッチョメン!』にあったようなエロっぽいネタやあるいはシモネタ話、食にまつわる笑いは使用されない。つまり「泉昌之」の作品とは一線を画している。それでは、筆者が『キッチョメン!』の面白いと思った本質は、久住さんの持ち味で、泉さんのものではなかったということになりそうだが、筆者がよく記憶する『キッチョメン!』の面白さは、ギャグの内容よりも主人公の顔など、その作画にある。
どの漫画家もそれなりの個性があるから、漫画をよく知る人が見れば、即座に誰それのものかわかるだろうが、筆者はかつてこんなことを感じたことがある。それは筆者が中学生になった頃だったが、ある人の漫画をてっきり有名な作家のものだと思っていると、実はその弟子筋に当たる人の作で、そのキャラクターなどの描き方がそっくりなことに驚き、そして失望した。そしてそのようにして見ると、その後は続々とそのような個性に乏しい漫画が目立った。このことは、60年代までに出揃うべき描き手の個性が出尽くしたという事実を示していた。漫画は単純な省略した表現であるから、ある程度の型が出揃うとと、後はどうしてもそれらの組み合わせや模倣に近くなる。いや、それもまた漫画ファンにすれば各作家に明瞭な個性の差があるだろうが、大きな枠からすれば、それらは同じ枠内にとどまるもので、秀逸な個性の産物とは決して言えない。つまり、大物が出た後の小物の群れといった感じで、筆者が中学生になって漫画を読まなくなったのはそういう理由もある。漫画の作画に創造性の衰退を感じたのだ。これが正しいかどうかは別にして、そういう漫画が目立ち始めたとこは確かだ。そして、画風のよく似た作家の細部のわずかな差を楽しむ時間があれば、もっと別の未知の楽しみはいっぱいあるから、やがてそっちに気が向く。最初に書いたように、そういう漫画に対する見方は筆者の偏見かもしれないが、近年よく京都の漫画ミュージアムを訪れて、現在の作家の作品原画などを見るにつけ、やはり同じ思いでいる。ある若手の作品は、どこを取ってもみな先人の型を巧みに習得して組み合わせた感があまりにも強く、筆者にはさっぱり面白くないどころか、見ていてその節操のなさと無自覚に腹が立って来る。だが、そういう人々の作品は今では世界をマーケットにして売れ、収入もがっぽりなのだろう。それがまた筆者を立腹させる。いや、それを言えばビートルズも同じことをやったわけで、黒人ミュージシャンがいなければビートルズは存在しなかった。それはさておいて、筆者が『キッチョメン!』の主人公を面白いと思ったのは、その表現がいかにもギャグ漫画でありながら、作画においてどういう先人に範を取ったものかわからないことであった。おそらく影響を受けた先輩漫画家はいるはずだが、そういうところがよく見えず、筆者にはオリジナルなものに映った。これは少なくとも作者がそういうものを指向しているからこそ生まれて来るもので、そういうところに身を置く様子に好感が持てた。話を戻して、『コミックビーム』という雑誌があることを初めて知ったが、そこに収められる漫画のうち、3分の1は読む気がついに起こらず、もう3分の1は何の面白味も感じなかった。そして残り3分の1の9割は読んだ途端に忘れた。そこで思うには、もう漫画の時代ではないのではということだ。政府がお金を出して漫画を保存するとか言っているが、漫画が世界で売れているからという理由だけでそんなことをしていいのだろうか。漫画というものは、国家や政府から最も遠いところに置いておくべきものだ。

さて『天食』について書いておく。届いたその日に一気に全部読んだが、内容はもっとも古いものが1984年で、それ以後1996年から2004年までのさまざまなところで発表されたものが1冊にまとめられている。全部で23編だ。このうちシリーズとなった作品の、『天食』に収録されないものを、前述した単行本で読んだ記憶があるが、その本はどこかにしまってあるはずだが、今すぐには探せない。『天食』の後半に、『ブギ・ウギ・オヤジ』と題する漫画が6作収められている。それはほとんど『キッチョメン!』そのものを中年サラリーマンに置き換えたもので、主人公の描き方もよく似ている。こういうサラリーマン・ネタは、そういう人を身近に知る必要があると思うが、部下を持つ平均的中年サラリーマンの生態の細かい部分をよく見つめている。誰でも経験のあるような日常の些細なことの描写に徹しているが、それは『天食』全体に言えるし、また泉昌之作品全部に言えるのだろう。そうそう、本の帯に奥田民生の写真と推薦文が掲載されているが、『天食』と奥田民生作品とがどう似ているのか、筆者は奥田民生の音楽を聴いたことがないのでわからない。『天食』とはどういう意味かと言えば、これは単行本の最初に掲載される作品のタイトルで、簡単に言えば、天麩羅を食べる男の話だ。その男はハンフリー・ボガードのようなトレンチ・コートとハットに身を固め、いわゆる格好いいという様式性をまとったキャラクターで、その存在自体には『キッチョメン!』や『ブギ・ウギ・オヤジ』のように生活感は全く感じられないが、その人物が列車に乗って見知らぬ町を旅し、そして地元の安い食堂に入って通ぶって食事をするが、予想がみな見事に外れるという落ちだ。つまり格好いいはずの男が全く卑近過ぎる現実の中で、さまざまなことを自問しつつ、徹底して期待を覆されるのだが、これは男なら誰でも経験したことのある話で、その小市民性に同調して笑えるという寸法だ。これはフランス料理に舌づつみを打つといったグルメ漫画であれば、おそらく誰も読まないだろう。このハンフリー・ボガード的な主人公はさまざまなタイトルの作品に使い回しされたようで、いわば泉昌之の代表作になるのだろうが、『天食』には『食い改め候』と題するシリーズが半分ほど占める。これは江戸時代の浪人が現代に登場して同じように安っぽい食事をいろいろとする話だ。帯刀した浪人が東京の街に出現するというのは、ボギーの和風化であって、結局主人公は自分を孤高の存在と思っていることを示すためだ。だが、その孤高性はいつも分厚い現実の壁の前でへし折られる。浪人といい、ボギーといい、こうした遺物的異物を主人公とするところは、『夢の旅人』におけるザッパに若干通ずる。また、『天食』を読んでなかなか巧みと感じたのは、コマ割りとその運びが、漫画ならではの利点を見事に消化している点だ。同じような物語は、小説や漫才、あるいは実写の映画でもほとんど可能なものだが、それらを越えるものとしてコマ割りという漫画独自の特性がある。そのコマ割りは、映画ならばカットの集積になぞらえることが出来るようなものだが、切れ目なしに連続する映画とは違って、漫画は見開きとそしてページという単位があって、それを物語の運びの利点として活用出来るし、またしなければならない。そのあたりまえの制約を『天食』はよく計算し尽くしている。近年の流行漫画や実験漫画を全く知らない筆者であるのでよくはわからないが、それは古典的と言えるものなのだろう。『天食』は13年ぶりの単行本というが、そうなったのは、古典的な構成美があるからではないだろうか。そして、筆者はそうしたものを愛する。