脚本家の依田義賢が生誕100年を迎えた今年、京都文化博物館の映像ホールで2月から3月にかけて9本の映画が上映された。
韓国ドラマでもそうだが、普段脚本家はめったに注目されない。俳優がまず最優先でその次に映画の面白さといった具合で、脚本家の名前まで知るというのは、かなりの映画通ということになるだろう。筆者は全く脚本家については知識がなく、依田義賢という名前もはじめた知ったが、ホールでもらって来たプログラムには、依田は京都木屋町生まれで、140作品以上のシナリオを手がけ、20年近く溝口健二監督の脚本を担当し、「溝口あっての依田」「依田あっての溝口」と評されるとある。脚本は原作とは違う。映画はまず製作者、つまり出資者の名前が真先に書かれ、次に原作者が来るが、これがたとえば溝口の場合もあれば、溝口がヒントを得た井原西鶴の場合もあったりする。その次に監督や構成者、そして脚本家の名前が出て来る。原作と脚本がどう違うかと言えば、脚本はより映画に則して、場面やセリフなどが書かれている。思うに、映画の脚本家は、古今のさまざまな小説などを下敷きにしながら物語を書くが、それがどう演じられ、また撮影されるかをよく知ったうえで、つまり映画の仕上がりをある程度意識した書く場合がほとんどだと思うが、そのあたりは監督とのコンビ、あるいはカメラマンや俳優とどの程度既知の間柄であるかも関係するのであろう。脚本家は映画作り集団のひとつの駒であって、脚本自体が文学作品として通用することはないが、原作からいかにエキスを抽出して物語を組み立てるかは、原作からただ抜き書きして済む問題ではなく、全く違う言葉なりを用いて作り変えることであって、やはり脚本家独特の才能が必要だ。また、ある脚本を土台に、監督や俳優その他、脚本家以外の関係者が違えば、出来上がる作品もまた全然違ったものになるから、脚本を生かすも殺すも他の関係者の腕次第ということになるが、名脚本家となると、その物語の山場なりが、どの監督や俳優にもよくわかり、また時には脚本家の方が監督より有名という場合もあるだろう。
筆者は韓国ドラマを見ていて最近よく思うのは、その裏方的存在の脚本が意外にも大きな役割を持っている点だ。そんなことはあまり考えたことがなかったが、韓国ドラマ特有の決まり切ったストーリーを形成する内容、つまり記憶喪失や交通事故、貧富の極端な差とそれに伴う暴力団や社会的地位の高い職業との対比、あるいは画された出生の秘密など、ドラマ作りに欠かせないと思われている数々の様式をどううまく組み合わせ、従来のものとはひと味違ったものを組み立てるか、あるいはそういう様式を無視して全く斬新な物語を作り上げるかなど、ドラマの組み立て方によく目が行く。そして、見ていて毎回退屈させない作品に高得点を与えたくなるが、韓国での視聴率の高低はやはりそのドラマの質をよく示しているようで、脚本のしっかりしているものほど人気があると見てよい。俳優人気だけに頼ったような、そして以前どこかで見たような筋立てのつぎはぎでは、とにかく一応惰性で見ることは見ても、その後見事に内容の細部を覚えていない。だが、本来TVドラマはそういうものでいいかもしれず、それはそれでまた分析する価値のあることに思えもするが。おそらく日本の映画もそうだったのだろう。たとえばある作品がヒットすると、その続編が作られ、時にはそれがシリーズ化される。そうなれば内容がうすくなって行くのは必然で、映画も見たその時が楽しければそれで充分役割を果たすというものだ。元来娯楽とはすべてそういうものだ。ただ、演劇と違って映画は何十年後にそのまま同じ形で伝わるから、俳優や監督、脚本家の知名度については無知な人々が見る場合が多い。そして名作と呼ばれた、あるいはそうでない作品が新たに解釈されるが、それはすでに小説などと同じように、ひとつの芸術作品であり、時空を経た分、理解されにくくなったところもあれば、かえってよく見えるようになったところもある。そして、特に映画を小説や音楽などと同じように、ひとつの構成物である点を特に楽しみたい人にとっては、映画をそのまま全体として味わいつつ、脚本や照明、音楽、俳優の演技といったように、あらゆる面から分析的にも見ることになる。これは現在の映画やドラマを見てもそうだろうが、年齢を重ねた者にとっては、現在よりもむしろ過去の作品の方が見えやすい部分がある。また一方では古い映画を見る時に、それが自分たちの両親の世代が楽しんだものということが予めわかっているから、何か大事なものという、一種の尊敬心を抱きがちになるし、そういう年齢に達しているからこそ、映画の細部までに目が行き届くことも実感することになる。つまり、歳を重ねた大人になることによって、より古いものの本質を見る機会が増え、しかも新しいものがつまらなくなりがちだが、それは恐らくどの時代でもそうであったのだろう。
さて、手元に文化博物館の映像ホールでもらって来た依田作品9本を紹介したプログラムがある。筆者が3月に見たのは『荷車の歌』で、この感想については書かなかった。144分の1959年製作のもので、当時筆者は8歳であったが、もちろん見ていないし、そういう映画があることさえ知らなかった。その感想はここに書かないが、最も感じたのは日本の田舎の風景だ。昨今観光地で有名になり、また開発問題で揉めている鞆の浦が少し映ったが、そこは今は開発の波が押し寄せ、しかもこの40年で周辺の風景はかなり変化しただろう。いつも書くように、そういう日本のすでに見ることの出来ない景色が刻印されていることでも娯楽映画は貴重だ。コンピュータ・グラフィックスで再現出来るとはいえ、それは真実味がない。9本の中で筆者が最も見たかったのは『大阪物語』だ。つごうがつかずに見なかったが、幸いなことにすぐにKBS京都で放送してくれた。小さなTV画面ではあるが、途中でCMが入らずに一挙放送されたので、感興がそがれなかった。『荷車の歌』より2年前の作品で、モノクロ96分、大映京都作品だ。筆者が見たかった理由は、「大阪」に因む物語ということと、中村雁次郎が出演するからだ。だが、この映画は大映が市川雷蔵を売り出すために、雷蔵の名前を最初に掲げた。実際は雁次郎が主演で、雷蔵はわずかしか出演しないが、そういう名前の序列に関して当時の雁次郎がどう思ったのかは知らないが、雁次郎の演技はどの作品を見てももう天才と呼ぶしかないほどのもので、この作品でも強烈な印象を与える。原作は溝口健二で、西鶴の「日本永代蔵」「世間胸算用」「万の文反古」だが、西鶴ものから想像出来るような大阪商人の物語で、現代にどこまで通用するのかしないのか、その悲喜劇ぶりは、後のTV番組でがめつい婆さんシリーズの源になったと思える。また、正直な話、大阪と言えば紋切り型でこのような徹底した吝嗇な人物を主役に置くのは、大阪出身の者としてはあまり嬉しくない話だが、そこは映画の中でちゃとフォローしている場面がある。それは「大阪商人は汚く稼いできれいに使う」という精神だ。この精神は今も生きているのかどうか知らないが、始末出来るところは徹底的に始末し、使う時にはそれを全部ぽんと差し出すというところは大阪人にはあると思う。これはそれだけ合理的であるからだ。無駄を省くというのは、昨今のエコ・ブームの本質であるし、また、ただお金を貯め込むことに生き甲斐を見出すのではなく、それを使うべき場があれば喜んでそうするというのは、市民精神の発達ぶりをよく示す。江戸時代の大阪は武士が支配する江戸からは遠く、その分自治の精神がよく発達し、またお上に対して一種の反骨の思いを抱きがちであった。そのため江戸幕府は大阪を目の敵にしたところがあるが、そういう立場に置かれていた大阪は、お金の威力というものをよく知っていた。そして、ひたすらお金を貯めると今度はそれを目当てに日本中の武士が借りにやって来る。大名貸しというやつだが、それをすると結局武士に踏み倒され、店が潰れる。あるいはそうでなければ、因縁をつけられて店を強制的に壊される。自分たちのつごうが悪くなれば商人を消してしまうというこの手段は、武士の本質をよく示していて、今の暴力団と全く同じと言ってよい。つまり、幕府なるものは大暴力団みたいなもので、それに首ねっこを押さえられていたのが農民たちで、作柄の出来にかかわらず、毎年年貢を収める必要があったから、ちょっとした天候の不純で娘を身売りさせるか、一家揃って夜逃げということになったが、当然幕府は用意周到に農民を生かさず殺さず管理し、五人組の組織を作って相互監視をさせ、夜逃げを防いだりもした。
この映画の主役は東近江の貧農一家で、主役は雁次郎演ずる仁兵衛だ。代官の取立てに根を上げて、ついに夫婦と子どもふたりは大阪に逃亡する。近江出身としているところがミソだが、近江商人の歩いた後は草も生えないと言われるように、近江商人はとにかく懸命に商売し、大阪にも多くが移住した。これは大阪が淀川で琵琶湖とつながり、大昔から近江と難波が密接に関係したことによる。大阪商人のかなりの部分は近江人が形成したのだ。仁兵衛一家は大阪の船着き場、つまり八軒家のようなところに辿り着き、乞食同然に暮らし始める。そのような家族がなぜお上に訴えられなかったと言えば、大阪はそれほどの大都会で、乞食もまた多かったからだろう。いかに管理された社会でも、人間の動きをすべて把握出来ないことは現在でも同じで、まして江戸時代では他人のそのような暮らしにいちいち注目する人もいなかった。それに商売がうまく行っていても、一夜にして店をたたむことになり、乞食に没落する人もあったから、仁兵衛一家はさほど怪しまれることもなく、どうにかその日暮らしから始めることになった。あちこちの大きな店を訪ねては雇ってくれと懇願するが、そのような店があるはずはなく、番頭に蹴散らされるばかりだ。ある夜、荷上げ場近くの米蔵の前にわずかな米が落ちていることを仁兵衛の子どもが知る。そこに行くには柵を越す必要があるが、子どもの小さな体ではするりとそれを抜けることが出来る。そしてふたりの子どもは毎夜そこに行って米を拾う。だが、同じことをする乞食は多い。そしてそんな乞食を監視して追い払う人物もいるが、仁兵衛の妻は袖の下をわたして、米拾いを見過ごしてもらい、おまけに独占権を得る。そのようにして拾った米を換金して食いつなぐのだが、そうこうしている間に10年が過ぎ、「近江屋」ののれんを掲げ、丁稚(これを雷蔵が演じる)をひとり抱えて両替商や茶舗を経営している。こつこつと地面にこぼれた米拾いを続けた結果、10年でひとかどの大阪商人になったのだ。これはあり得ることだ。茶舗は茶の葉を売るのだが、何とそれはあちこちの店を回って使い古した茶の葉を乾燥させ、それを新品の葉にかなり多く混ぜたものだ。これと同じようなことが現在の日本のかちこちの企業が密かにやっていて、たまにそれが発覚することは誰しも知るとおりだが、娘にたしなめられる仁兵衛の返す言葉は、「どこの酒屋も水を混ぜている」で、商人の本質を暴露して恥じることがない。仁兵衛の徹底した始末ぶりがこの映画の見所で、また喜劇たる部分だが、それは常に悲しみを帯びて見えるのは、かつて水呑み百姓で、さんざん武士に痛めつけられた記憶があって、そのためにそのようなけちになったと思わせるからだ。だが、のれんを持つような商人ともなれば近隣の交際も出来るし、武士に用立てる必要も出て来る。だが、仁兵衛はそれも可能な限り、かかわり合うことをせず、ついにある日、間口10間以上もあろうかという大きな店を手に入れる。その店は仁兵衛がかつて近江から出て来て、雇ってくれと懇願した店だが、当時名字帯刀が許されたばかりで上昇機運にあったその店は、やがて武士への信用貸しが嵩み、ついには武士から闕所のうきめに遇ったのだ。そうなると、店はそのままに店の者はすべて追放だ。幕府から売りに出されたその店を仁兵衛は買い、10年の間に仁兵衛とは地位が逆転したのだ。
以上までが物語の前半だ。そうして成功した仁兵衛がその後どのような人生を歩むか。それが見所で、そこには教訓と呼ぶべきものが描かれている。それをどう読み取るかは、大阪人によっても、また時代によっても違うだろうが、お金を始末して貯め込むことにどのような意味があるかという人間の本質を突いて、お金という存在がある限り、いつまでも通用する物語になっている。大阪生まれの大阪育ちの上田秋成もお金についてはしばしば書いているが、当の秋成はほとんど餓死のような状態で死んだから、商人根性からは遠く、お金には縁がなかった。そのような人物にありがちの考えを秋成は持っていて、銭はいいが、金は貯め込むほどにそれに執着してよくないとしている。小銭は日々の糧を得るのに必要なものであるし、またあちこち人の手をわたって甲斐がいしいものだが、小判などの高額のお金は、一旦ある場所に貯め込まれるとなかなかそこを動かず、所有者はひたすらそれを増やすことだけに囚われてしまうと言うのだ。金持ちになると、金を使うことよりも金を貯めることに喜びを見出し、ますます金が増えるが、さらにけちになるという循環は、現代でも多く見られるだろう。この映画が描くのも仁兵衛のそのような性癖だ。救われるのは、仁兵衛の妻やふたりの子どもはそうではなく、ほどほどにお金がたまればよく、それを使って楽しむという考えを持っていることだ。その限度もまた難しい問題で、使うことに楽しみを覚え始めるとやがて金は底をつく。だが、それはまた別の話で、この映画はそこまで描かない。とはいえ、放蕩については肯定的で、仁兵衛の息子は遊廓で遊ぶことを覚え、あまりにけちな親を見限って家を出てしまう。また娘も父を見捨てて雇用人(雷蔵)と駆け落ちしてしまう。ひとりぽっちになった仁兵衛はそれでもお金をいとおしく思う。お金の話はいつの時代でも人間の本質に強く関係しているので、物語としては面白く仕上げやすい。まして大阪商人のそれとなれば、この映画のような話はきっと本当に存在したと思わせる。貧しい農民の仁兵衛が10年我慢に我慢を重ねて小さな店を持つことになったのはいいが、人生を楽しむという目的がお金をひたすらためることになったところに家族の悲劇があった。お金がたくさんあればあれもこれも買いたい、あそこにも行きたい、これを食べたいなどと、欲望に限りはないし、実際それに近い生活をしている人はいつの時代でもそりなりに大勢いる。だが、そういう物に満ち溢れた生活もまた退屈な話であるし、しまいに体も精神も壊れる。貧乏は金持ちになる夢があるが、金持ちは貧乏になる恐怖の夢がある。それに「幸福は何と退屈なことか。」 これはある作家が言った言葉と思うが、貧乏人はせめてそういう言葉をよく念じて生きて行くしかない。そうそう、秋成は、豊富にあるお金もいつの間にやらきれいになくなることがあるとも書いている。