岡崎は京都の東にあって、四条河原町からゆっくり歩いて30分ほどのところにあるが、徒歩でなければバスしかないため、陸の孤島に思われている。

この岡崎の地は江戸時代は一面の畑であったが、平安遷都1100年記念祭が1895年に開催された時、平安神宮も出来て、そこから開発が始まった。当時の写真が残っており、今回の展覧会ではそれが縦横数メートルの大きさに拡大して展示された。現在の平安神宮前の鉄筋コンクリート製の赤い鳥居は、当時は高さ12メートルの木製だったか、形が少し違って同じ場所にあったことがわかる。そして、鳥居のすぐ西側には、現在この展覧会をやっている京都国立近代美術館が建つが、当時はまだ空き地同然で、しかもずっとその奥には広々とした平野が広がっていて、まだ江戸時代さながらの畑同然の地であった様子が見える。今はこの岡崎の地には市バスが走るが、平安神宮が出来た当時から市電が走り、それは戦前までそうではなかったと思う。筆者は幼い頃に京都によく来ていたが、岡崎は用がなく、したがってその付近に市電で行ったことがないのでわからないが、おそらく疏水べりの道路にはすでに市電は走っていなかったと思う。そこで思うのは、市電が残っていれば、岡崎は陸の孤島とも思われず、また観光客にとっても情緒があってよかったのではないか。市電は京都が最初で、京都の先進性、革新性の象徴でもあったが、その日本初の市電は今は平安神宮の庭園の片隅に飾られている。それがまた現代に見合ったもので復活ということになってほしいが、岡崎の玄関口と言ってよい京阪三条駅前から蹴上や山科方面に向けて延びていた路上を走る京滋電鉄も結局地下に潜って、京都も地下鉄社会になった。路面電車は自動車の走行に邪魔だという理由で市電は廃止されたが、京都に多くの自動車を走らせることになった途端、空気は汚れ、京都らしさはどんどん少なくなった。その自動車を今はエコ・ブームとやらで、電気自動車を見直すことになっているが、今回の展示で面白かったのは、京都の島津製作所の社長がかつて通勤に使っていた電気自動車のデトロイト号だ。保存されていたそれを、今回解体修理を徹底的に行ない、1階ホールに展示した。その車ひとつとっても、大正時代はえらくモダンで、一部の金持ちは前衛的な生活をしていたことがよくわかる。「前衛」や「モダニズム」という言葉は、かなりレトロを雰囲気がつきまとうようになったが、実際そのとおりで、100年前にふさわしい限定的な使用のされ方をする。今回の展覧会はまさにそれだ。ならば今この現実は100年後にどのように呼ばれるのかと興味も湧く。はたして「前衛」的な取り組みや人々の意識が日本、あるいは京都に限ってもいいが、あるのかどうか。何となく意気消沈したムードが支配的で、「京都学」という呼称が出来ていること自体、すでに京都は過去の遺物的な扱いだ。だが、残念なことにそれは正しい。金もなく、人もなく、また指導者もなく、ただ古びて行くだけの一地方観光都市だ。であるから、せめて過去の栄光をしのぶ意味で今回の展覧会が開催された。
それにしてもえらく長いタイトルで、焦点がぼけているが、絵画を中心に明治半ばから戦前の古い資料を見せ、京都が前衛であった頃を回顧しようという内容は、本当は向かい側の京都市美術館がやるべきことに思うが、国立の近代美術館がやるというところに、いかにも京都市の財政の乏しさも表われている。地味な内容で入場者数もさほど期待出来ないものであることもわかるが、京都はほとんど奈良と同じく観光で細々と食いつなぐだけで、修学旅行生だけが命の綱のようなところがある。その修学旅行生にしても、新型インフルエンザに感染した患者が出ると、ぴたりと来なくなるというまことに頼りない存在だ。日本は東京であり、いっそのこと東京都だけ残して、他は全部どこかの国に売ってもいいのではないだろうか。いや、心の底では本当にそう思っているのが日本の政治家たちであろう。でなければ、今の日本の地方の貧しさがあるはずはない。淫行で名を馳せたタレントやまた弁護士兼タレントが地方の知事になるというマンガ時代に、各地方はもっと活性化とあがいているが、京都のような過去の栄光の遺産を持つ地方とそうでない地方とでは思いの差は大きく、地方と一語でくくり得ないところがあって、なかなか足並みが揃わない。そうこうしている間にも日本は東京一局集中が加速化し、いずれ人口3000万ほどになるだろうが、そうして東京大地震が生じて本当に日本が沈没するというのが筆者の予想だ。だが、そうならないためにも、もういい加減地方をもっと浮上させた方がよい。そういう動きにほんの少しの勇気といったものをこの展覧会が与えるのかどうか、とにかく栄光の時代が京都にもあったことを再確認しようというわけだ。だが、前にも書いたと思うが、平安遷都1100年記念で建った平安神宮は、建物の規模を3分の2だったかに縮小したもので、そこにすでに京都の威光の萎縮傾向が見られたし、その後100年の遷都1200年には同様規模の記念になる建物など何も建たず、いかに京都が100年で衰退したかを見せつけた気がする。確かに京都に地下鉄が走り、また南部には高速道路が進入したが、それが必要だったのかどうか、それが100年前に前衛と呼ばれたことの延長の産物としてふさわしいものだったのかどうか、京都に住む者にとっては、一部の業者だけを潤し、しかも税金を投入し続けなければならない重荷以外の何物でもないように思えるが、それをあまり言うのはタブーだ。信仰の自由がある世の中に、また大きな神社を建てる必要は全くないし、また芸術だけが盛んになって、一般の人々の便利さがないがしろにされるのは考えものだが、誇るべき芸術の動きもさっぱりないでは、京都が魅力ある都市とはならず、したがって人々が喜んで訪れることもない。ただの普通の地方都市に過ぎなくなるのは明白で、すでにそうなっているが、これは大阪でも同じことだ。今安藤忠雄が天保山のサントリー・ミュージアムで大阪とヴェニスを対比する展覧会をしているが、筆者は傍目でそれを見つめながら、白けるばかりだ。大阪のどこかヴェニスのように美しいと言うのだろう。川沿いに桜を植えてごまかした程度で街が国際的に地名度が上がるはずがない。大阪は街の美しさなど全く考えずに増殖と破壊を繰り返して来ただけで、ヴェニスに匹敵させるには、時代を150年ほど戻す覚悟で、徹底的に都市改造をする必要がある。そしてそのためには東京を首都とせずに、大阪を首都にするほどの覚悟がいるが、そのためには大阪から総理大臣を出す必要がある。
さて、京都だ。この展覧会は京都新聞創刊130年記念と銘打ってある。京都新聞の全身は日出新聞だ。これに日日新聞というのもあった気がするが、合併などを経て京都新聞が出来た。筆者は京都に住んで30年近いが、京都新聞は取ったことがない。地元京都人は京都新聞を取る一方で、全国紙を取るのが普通だが、筆者はどうも京都新聞に馴染めないまま来た。もちろんしばしば目を通すが、京都のことはいろいろと書いてあるようでそうでもないことがある。はははは、それは筆者が新聞で取り上げられた何度かの機会、どういうわけか京都新聞からは一切取材がやって来なかったという個人的恨みもあるかもしれない。これは京都新聞が京都に本拠地がありながら、目配りが徹底しておらず、しかも全国のニュースにほどよく目を配っているかと言うとそうでもないといういかにも中途半端な状態を筆者に認識させたが、これはとんでもない偏見であるかもしれず、これ以上は書かないでおく。さて、展覧会の内容は昨今の不況を反映してでもあるが、あまり経費の要しない資料を中心に、今までに見たことのあるよく知られた絵画が目立ったが、それでもおやっと思わせるものがあった。絵画ではまず田村宗立の作品や肖像画があった。田村は京都の洋画の先駆者として個人に焦点を当てた展覧会の開催があってよい。その全貌を筆者は知らないが、時々見る作品は日本画と洋画という問題を改めて考えさせる。だが、どうしても洋画の先駆者となると、高橋由一がまず真先に思い起こされる。これは江戸時代から江戸が洋風画を発展させて来たからだが、そういう江戸一辺倒の見方をもう少し視点を変えて見つめてみようというのが今回の展覧会でもあるようだが、そのところはあまり強調はされてない。京都学は京都のことを学問することだとしても、本当は江戸と対比して、京都あるいは上方がどのような不当な扱いを明治になって受け続けて来たかを大きく問題にすべきで、京都や上方の成果も結局は江戸のものとして塗り変えられていることが多い。前にも書いたが、江戸の人々は京都や大阪を敵視しているところがあって、それは江戸時代に胚胎しながら、明治時代に一挙に吹き出たものではないだろうか。初代の三遊亭円朝の落語に出て来る上方人は必ず悪どい人間とされるが、そういう紋切り型の偏見がなぜ江戸そして東京に芽生えたかと言えば、ひとつは歴史の長さと経済的優勢に対する嫉妬だが、天皇が東京に住むようになってからはそれが決定的になった。そしてそれはその後ずっと続き、今では京都や大阪は東京の足元にも及ばない貧乏都市になってしまった。天皇がいなくなってしまった京都がなぜ平安遷都1100年記念頃に大きな博覧会をしたり、平安神宮を建てるほどの資金があったかだが、国立の博物館を建てるのも東京に遅れたし、その程度の資本投下が京都にあったのは当時としてはさほど驚くべきことでもない。当時の日本の美術界を牛耳っていた文部次官で国立博物館の九鬼隆一は三田藩の出で、上方に目を注ぐ意識が大きかったと思えるし、一方では明治政府が殖産のために海外に優れた工芸品を売る必要があって、そうした工芸技術は東京にはなく、京都に頼らざるを得なかったから、京都が重視されたのには意味があった。だが、京都の工芸品がもはや輸出品として珍しいものではなくなった途端、京都の前衛都市の部分は忘れ去られ、観光都市として進むしかなかった。現在も京都では各工芸が盛んだが、東京発信の現代芸術に押されて見る影はない。ここは京都の美術工芸界を引っ張る有名知識人が何人も必要だが、そういう才能はさっさと関西人であることを隠して東京進出だろう。なぜなら、京都にいてても食べることが出来ないからだ。
今回の展示は、1「明治モダニズム都市・京都」、2「第4回内国勧業博覧会の波紋」、3「工芸の新展開・ワグネルの遺産」、4「前衛都市・モダニズムの京都」の4部門から成っていた。1では疏水と平安神宮、そして現在の京都国立博物館の建立を主に取り上げたが、どちらも京都にまだ家もあまり建て込んでおらず、開発の余地があったからこそ可能であった事業だ。今では土地買収だけでも同規模の何かを作ることは数十年の長い年月を要するだろうし、また何をどこにどう建てればよいのか、この狭い京都では名案も浮かばない。博物館の展示で驚いたのは、破風の彫刻の原寸大の紋章や二体の木彫りの型だ。実際は紋章は少し形を変えて作られたようだが、普段は頭上高くある石彫りのその原型を間近で見ると、その細部の作りの微妙さがよく計算されていて、その技術の巧みさに感心した。また、同館付近は京都市内でも有名な劣悪な環境の地区であったが、それを少しでも阻止緩和するために国立のそうした施設を建てるのがよいと判断されたとのことだが、これは地元の住民でなければなかなか実感出来ないエピソードだろう。また、琵琶湖から水を引く疏水をよくぞ造ったと思うが、今なら滋賀県はきっとそんな計画を許さないだろう。これが道州制にでもなればまた話は違って来るかもしれず、明治維新から百数十年経って、そろそろ日本全体のあらゆる面を見直す段階に来ているように思う。2では日清戦争にまつわる展示も多少出ていたが、その中で九鬼隆一が、中国からいかに戦利品として美術品を略奪して来るかを示唆している様子など、歴史の闇の部分が垣間見える展示であったのは好感が持てた。これが戦前ではとてもそういうことにはならなかった。また先に書いた田村宗立や、黒田清輝や浅井忠、そのほか珍しい絵画も展示されたが、時代を経て有名画家の有名な作品だけが特別視されるのではなく、その現在特別視される作品が描かれた当時はどういう他の作品に取り囲まれていたのかをたまに振り返ってみることはよい。埋もれて忘れ去られたような作品も、新たな世代の新たな読み取りにみって、意外に斬新さが指摘されることはある。芸術作品は常に多面を備えており、またその多面の一部だけで評価されている事実を知るべきだ。黒田清輝や浅井忠は東京の画家で、黒田と違って浅井は晩年を京都に過ごして京都を牽引したため、京都の美術界では大きな存在になっているが、そこで思うのは、意外にも京都と東京の往来があって、東京人が京都に住んで活躍し、またその反対もあったことだ。これは東京と京都というふたつの極を日本が当時はまだ持っていたからだが、それから考えれば、今はとにかく東京のみとなって問題がある。3はワグネルの紹介だ。ワグネルを記念する肖像レリーフを嵌め込んだ大きな碑は、今も岡崎の近代美術館北隣の府立図書館の北の小さな公園に忘れ去られたように建つが、そこにはかつて舎密局(せいみきょく)があった。これはケミストリーに由来する言葉で、筆字によるその木製看板が今回展示されたが、その建物に代わって図書館が出来た。ワグネルはお雇い外人で、当初の役割と違って化学を教えるために京都に呼ばれた。島津製作所の創業者も舎密局に学んだというから、京都の化学や七宝などの工芸の恩人ということになる。この七宝は、京都では有名な店が10数年前にはあったが、その後閉鎖し、もう京都の七宝は明治時代並みに盛んになることはないだろう。染織品もそうだが、手の込んだ工芸品というもの自体がもう採算が取れないものになった。戦後はますます人件費が高騰したからだが、一方では欧米の工業的ブランド品崇拝ブームにもよる。手によって精緻に作られた、それこそ宝と呼んでいいものの価値をまともに判断出来る世代がなくなり、マスコミによって作り上げられたイメージに人々が群がる。本当の、そして最後の贅沢は、ある名人が精根込めて手作りしたものであるはずなのに、それをむしろ嘲笑する向きがある。そして、高級ブランド品を持てばセレブの仲間入りと錯覚する無粋な人が多い。4は牧野省三の映画と島津製作所社長の先に述べた電気自動車などの紹介で、また今年1月から2月にかけて同じ館で開催された『上野伊三郎+リチコレクション展』で展示された資料の抜粋も飾られた。同展についてはこのカテゴリーに書く機会を逸したが、リチの素晴らしい壁紙などについては以前に別のカテゴリーに書いておいた。牧野省三については、京都は日本のハリウッドと称されたことも知らない世代が多くなった今、どれほどの人がその顔を知り、また映画を見たことがあるだろう。偉そうに言う筆者もまた知識に乏しいが、京都が、いや日本が映画全盛期をとっくに過ぎ、もう二度と物理的(景色がもう存在しない)に良質の時代劇も作ることが出来なくなってしまったことを、古い映画をたまに見るたびに筆者は大きな溜め息をつきながら実感する。そして、今回の展示の1から4まで、どれを取っても京都がその後を受け継いで日本を代表する存在を形成していないことに愕然し、まさに滅びの京都を思う。