他人が作曲した曲をカヴァー演奏する時、オリジナルをどれだけ編曲していいのか何か決まりがあるのだろうか。ザッパは1988年のロック活動最後のツアーでは、ビートルズを数曲選んで演奏したが、全部没になった。

その理由のひとつは、ある曲では歌詞をすっかり変えたことによるだろう。マイケル・ジャクソンがビートルズ曲の権利を有していて、ザッパがかつてマイケルを風刺した曲を演奏したこともあって、許可が出なかったことも考えられるが、真相はわからない。歌詞を新たに書き、それを原曲のメロディに乗せて歌うことは、レコードによくある気がするが、ステージで歌うのとレコードにするのとでは、曲の権利所有者から許可事情は違うのであろう。また、歌詞を変えるにしても、全体と部分とではまた事情が異なると思えるが、その一方で思うことは、オリジナル曲をカヴァー演奏するのは元来原曲を違う人が違う時と場所で違う歌声や楽器で演奏することから、必然的に原曲とは違ったものになるという事実で、その差の程度をどこで判断するかという問題だ。それに原曲でさえもいくつもヴァージョンがあったりするから、カヴァー演奏を許可するしないの問題は線引きが難しい。それはさておき、カヴァー演奏は日本では筆者が物心ついた頃から盛んにあった。50年代後半頃のラジオから流れていた曲を筆者はよく記憶するが、洋楽を日本語に置き換えて歌うことはあたりまえのように存在し、アメリカの男女の人気歌手の日本人版が必ずいた。昨今は中国が模倣天国とばかりに世界中から揶揄されているが、それは本来は日本のお家芸と言ってよいもので、それはすでに江戸時代に絶頂を迎えていたが、戦後はアメリカ文化を模倣する段階に変わった。その端的な例が洋楽のカヴァー演奏だったが、そういう土壌上にビートルズが出現し、それもまた模倣して日本ではグループ・サウンズというミーハーが喜ぶエレキ・バンドが雨後の筍のように出現した。そういう、いわゆる音量の大きなうるさい音楽と同時にフォーク・ブームも始まるが、それもまたアメリカの模倣であった。つまり、演歌以外はみな模倣の産物だが、その演歌も日韓併合時代に韓国に存在した歌を模倣したものと言ってよい。もちろんそこにはアメリカのブルースが流れ込んで微妙に混じった部分もある。また、日本の演歌はよくヨナ抜きを特徴とすると言われるが、それも明治になって作られたもので、日本の伝統と呼ぶべきものではない。ともかく日本の本質を追求することは、らっきょうや玉葱の皮を剥くのに似て、剥けば剥くほど本質の核が見当たらないということになって、中国を模倣天国と笑えない事情があることを認識しておいた方がよい。ただしその模倣の限度が問題だ。ブランドのコピー商品のように、本物と区別がつかないようなものから、ある部分を模倣しながら、独自の主張を盛り込んだものまで、模倣にはさまざまな種類と段階があって、模倣が即よくないものとは断定出来ないし、何を模倣と判断するかは容易ではない。たとえばジョージ・ハリソンは「マイ・スウィート・ロード」を模倣であるとして訴えられ、結局高額を支払うことで決着がついたが、その元となった曲「フィール・ソー・ファイン」だったか、聴き比べてみると、確かに模倣と言われても仕方のない部分はあって、模倣問題の微妙さを認識させるが、ジョージの同曲の模倣とまでは言わずとも、似たようなことはポップスの世界に限らず無数にある。つまり、ジョージが訴えられたのは、単に儲け過ぎたことからその分け前をよこせという言いがかりのようなものであったと思える。
筆者が中学生だった頃、近所に数歳年長のお兄さんがいて、洋楽を盛んに聴いていた。ある日、ビートルズのある曲のある箇所が、別のミュージシャンのある曲のある部分にそっくりだと言われた。筆者にはどう聴いても似ているとは思えなかったが、今なら判断は違うかもしれない。というのは、筆者はこの歳になってから、ビートルズの曲のある部分がそれに遡る数年から十数年前のある曲にとてもよく似ていることをよく発見するからだ。そうした例をこのカテゴリーで少しずつ紹介したいと思うが、その似ている部分のメロディを比較する時、調性が同じかどうかを判断するだけでは意味がない。それより特徴的に使用されている音程や転調の仕組みを比較する必要がある。それは何度も聴き比べて多少の時間を要することなので、頭の中で思うだけでなかなか実際の行動に移せないでいるが、漠然と思うことは、ビートルズは先立つあらゆるポップスから影響を受けているという事実だ。これはたとえば60年代末期頃からのロックだけを好んで聴いて来た世代、あるいは現在のそういう人々には絶対にわからない。ビートルズの4人が仮に平均して1940年生まれだとすれば、同年にリヴァプールで生まれ育った人々でなければ、ビートルズの音楽がどういう音楽を模倣して生まれて来たかは把握出来ないはずだ。つまり、ビートルズの根源を理解するには、1940年当時とそれ以降数年にイギリスでよく聴くことの出来た音楽をまず知る必要がある。これは常識であろうが、そのことがなかなか実感出来にくい。筆者がこのカテゴリーで取り上げている曲は、筆者の原体験的音楽を再確認するためで、その意味で筆者にはビートルズが解散するかどうか騒いでいた以降の音楽にはあまり関心がない。もうその時期には筆者は成人に達しようとしていたから、音楽の原体験は終わっていたも同然であるからだ。幼児や少年期の原体験以後の経験は、好みによる選択がかなり入り込んで来て、それは個人によって大きく差が出る。そうした個人的好みについてあれこれ書かれたものを読むのはそれなりに面白いが、筆者はそういうものを読むよりもっとほかのものを読むのに時間を費やしたい。そういう思いもあって、筆者は音楽雑誌なるものをほとんどまともに読んだたためしがない。それは簡単に言えば他人の趣味を覗き込む趣味はないからという理由による。話を少し戻すと、ビートルズの音楽が先人の音楽にどれほど多くを負っているかの研究はきっとあれこれなされていると思うが、その影響の源にロックだけを据え置くととんでもない的外れを仕出かす恐れがあるだろう。たとえばホワイト・アルバムに収録された「オブ・ラディ・オブ・ラダ」は発売当時からカリプソ・ソングと言われたが、当時の筆者はそうした音楽を漠然とは想像出来ても、実際のカリプソのヒット曲に関する知識がなく、ポール・マッカートニーがどこをどう影響を受けて同曲を書いたのかわからなかった。ところがCD時代になってカリプソの名曲を揃えたアルバムが安価で入手出来るようになり、筆者の眼前にようやくカリプソなるものの本体が見えた。驚いたことは、そのカリプソ音楽の豊穰さだが、ポールがカリプソから模倣ないし学んだのは「オブ・ラディ・オブ・ラダ」だけに限らない。もっと本質的なメロディの個性と言うべきものに、そうとう大きなものを負っている。だが、ポールの偉大なところは、その影響だけに染まらず、賛美歌や民謡など、身の周りにあったあらゆる音楽の良質なものを渾然一体化させたことだ。模倣から始まって模倣とは思えない産物に作り変えたのだ。
前置きが長くなった。本題に入ろう。先日散歩中に急にこのスリー・ドッグ・ナイトの曲を思い出した。特にそのサビの部分で、「One I’m sure they wrote for you and me(ぼくと君のために作曲されたものだ)」という下りだ。それを思い出した理由と言えば、ザッパの『フィルモア・ライヴ』を思い出して
いたところ、同アルバムに彼らの名前が出て来るからだが、どうやら筆者の脳裏には71年と言えばスリー・ドッグ・ナイトの「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」が強く刻印されているらしい。彼らは1968年のデビューだったと思うが、71年の演奏になる『フィルモア・ライヴ』で言及されるところ、その全盛は当時であったと言ってよいだろう。「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」は同年の大ヒット曲で、ラジオからはさんざん流れた。それ以前にすでに数曲の大ヒットがあって、それらもよく記憶しているが、この曲はタイトルが特に印象深く、また曲もなかなかしみじみした味わいに勢いも加わって大ヒットした理由がよくわかる。当時のラジオのDJは、スリー・ドッグ・ナイトのnightはknightの意味であるととんちんかんなことを言っていたが、「3匹の犬の夜」では意味がよくわからなかったからだろう。筆者にも理解出来なかったが、今ではネットで簡単に理由がわかる。それはいいとして、3人というのは、ヴォーカル担当の3人の白人男性のことで、バックの演奏に4人が加わった7人バンドだ。歌中心に聴かせるバンドという方向は、当時のザッパもそうであって、ヒットを飛ばすにはそれはひとつの大きな必然であった。じっと座って演奏を楽しむというジャズ世代とは違って、ロックでは歌が中心となって、しかもその歌のメロディが印象に残りやすいものがヒットした。それにスリー・ドッグ・ナイトはアメリカならではのパワフルな歌声を売り物として、その黒っぽいフィーリングが70年代によく受けたのは、ビートルズ以後のグループの傾向をよく示しているようにも思える。筆者が記憶する彼らの曲は、全くラジオでよくかかった曲のみで、アルバムまでは知らないし、またその関心もなかった。最初によく聴いた曲は「ワン」で、これは1969年のヒットであったが、その原曲がニルソンのものであることを知り、そして実際にニルソンの同曲をアルバム中の1曲として聴いたのは、80年代に入ってからだ。そして驚いたのは、ニルソンの原曲のソフトな調子を、スリー・ドッグ・ナイトはがらりと作り変えていることであった。これは模倣しながら、その域にはなく、ある意味では原曲を超えている。ニルソンはスリー・ドッグ・ナイトと同じアメリカ西海岸を基盤にするが、ここまで違った印象の編曲がよくぞ出来るものだという思いがしたものだ。ニルソンの同曲はなかなかよい演奏だが、ヒットしなかったと思う。だが、スリー・ドッグ・ナイトのカヴァー演奏は大ヒットした。そのお蔭でニルソンの原曲に光が当たったほどではなかったろうか。ところで、ニルソンのビッグ・ヒットはこのカテゴリーでも取り上げた「ウィズアウト・ユー」だが、これも面白いことにカヴァー演奏で、原曲のロックをオーケストラをバックにするなど著しくアレンジを施している。筆者が面白いと思うはそこだ。
結局曲で何が一番大切かとなると、メロデということになるようだが、静かに歌われる原曲が激しく歌われてヒットし、またその逆もあって、何がヒットするかは予想がつかない。その捉えどころのなさは音楽が本来持つ捉えどころのなさをよく象徴している。原曲のメロディだけがいいとしても、それでヒットするとは限らず、曲のオリジナリティというものは、それを演奏する人があってこそ初めて立つものである事実をよく知っておく方がよい。つまり、音楽は人間的な部分に負う。これはあたりまえのことのようで、忘れられやすい。スリー・ドッグ・ナイトはニルソンにどのように許可を得て「ワン」をカヴァー演奏したのかは知らないが、カヴァー演奏をよく行なったニルソンであるので、そこは他人の同じ行為にも寛容であったのだろう。60年代末期から70年代初頭にかけてのカヴァー演奏の事例がそれ以外の時期に比べてどれほど多いのか少ないのか知らないが、スリー・ドッグ・ナイトはロック・グループとしては珍しく、同時代の佳曲をいち早く発見して取り上げた存在で目立っていたと思える。「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」といったかなり大味な曲のカヴァー・ヒットを見ると、その好みに必ずしも筆者は賛同しないが、「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」のようにそこそこ哀調を帯びた曲はなかなか印象深く、歌詞を分析してなおさらよく計算されていることを知る。日本盤シングルのジャケットは、銀色地の印刷にカラーでメンバーの7人の写真を載せるが、ヴォーカルの3人を全面に配する。髪型や衣服から紛れもなく70年代初頭のオールド・ファッションを感じさせるところが面白いが、海岸べりで写るのはロサンゼルスのバンドであることの主張からか、サーフィンのイメージにつながっているのも時代を感じさせつつ、また赤い車に乗る様子はザッパのアルバム・ジャケットにもつながるようで興味深い。B面は「ジャム」という曲で、これはステージではのりのりになって楽しめる曲であるのだろうが、シングル盤の3分程度の長さで切り取って収録するにはかなり無茶を感じさせる。ほとんど黒人の演奏かと思わせられるリズムと歌声で、似たような音楽は基礎として当時の西海岸のどのようなバンドでも演奏することが出来たはずだし、また似たような曲はアルバムに1曲は含めたと思える。話を戻して、「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」はまず題名がよい。筆者が「オールド・ファッションド」という言葉を初めて記憶に刻んだのはこの曲による。これは実に意味深い言葉で、そこにまつわる「回顧」性は、すでに当時のロックがそういう思想を持っていたことを再認識させる。70年代になって、急速に60年代とは一線を画す気分に満ちていた記憶があるが、10年ごとに更新される新旧の区別の意識は、その60年代と70年代の間が最も大きかったのではないだろうか。
この曲の歌詞は、「ラジオから古めかしいラヴ・ソングが鳴っている。演奏にくるまれて、絶対に別れないと誰かが約束している歌声が聞こえる。以前聴いたことがあると言うだろう。けれど、それはいつもどこかで漂っているもので、決して消えることがないから、取り戻そうとする必要はないんだ。古めかしいラヴ・ソング。それはきっとぼくと君のために書かれたんだ。古めかしラヴ・ソング。今3人がハモっている。ぼくたちの夢を保つことを、そして日が暮れたいつもの夕方にそれを聞くことを、優しさと思い溢れるぼくたちの愛を壊さないことを、ぼくたちは知った。」といったことになるが、ちょっとややこしくて、また大きな意味を持つのは、2番目のヴァース「以前聴いたことがあると言うだろう。けれど、それはいつもどこかで漂っているもので、決して消えることがないから、取り戻そうとする必要はないんだ。」だ。これは日本語訳してカヴァーする時に最も難しい部分だ。「You swear you’ve heard it before」の「it」が何を指すかは、その前段で歌われるラジオから流れる古いラヴ・ソングということになるが、本曲「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」を歌う者、すなわち恋人を目の前にした男性は、恋人が「あら、わたし、この曲前に聴いたことがあってよ」と言うのに対して、内心はその曲の歌詞こそは相手に対する思いそのものであって、しかもそれはラジオからしきりに流れるように(it slowly rambles on)、普遍的つまり不変的なものであるから、決して消えることがないから、取り戻そうとする必要はない(No need in bringin’it back ’Cause it never really gone)と相手に向かってささやいているわけだ。これはラヴ・ソング讃歌に引っ掛けた恋人への告白の歌だ。つまり、いつの時代でもラヴ・ソングが絶対になくならないように、自分の思いもなくならないということなのだが、そのどこか陳腐な様子は、最初のサビ部分を過ぎた、全体としては3番目のヴァースに相当する下りで最高頂に達する。それがまた夕暮れのラジオから流れるラヴ・ソングを想像させ、なかなかいい情景を描いているが、歌詞としてとても巧みな構成になっている。その歌詞の巧みさが歌と見事に呼応している箇所は、「今3人がハモっている(Comin’down in three part harmony)」の部分だ。この箇所はスリー・ドッグ・ナイトの3人のヴォーカリストが3声のハーモニーで歌い、ラジオから流れる往年のラヴ・ソングを一応模している。そこがこの曲の聴きどころにもなっていて、歌詞と編曲が切り離せない形になっている。そうした細部の磨き上げはほかにもあるが、70年代に入ってのヒット曲であるから、演奏は3分23秒と、60年代より1分ほども長い。それは曲の最後のリフレインの長さにもより、このグループがレコード向きではなく、ステージで興に乗って延々と演奏することを得意とする様子をよく示している。それは70年代のロック・バンドの大きな特徴でもあるが、古めかしいラヴ・ソングと自分たちのやっていることは本質的には変わらないと言いたげなこの曲は、40年を経た今から見れば、結果的そのとおりであって、ロック・グループとはいえ、往年の歌手がマイルドに愛をささやいたのと同じことを、時代に則して大声で主張しただけであって、この曲もまた「オールド・ファッションド」の仲間入りをしていることを知る。いや、スリー・ドッグ・ナイトの連中はそのことをよく見越して、この曲を歌ったのであろう。歌詞カードの解説には、カーペンターズによく曲を提供したポール・ウィリアムスの作詩作曲とあるが、書き下ろしてもらったのであろうか。スリー・ドッグ・ナイトは当然オリジナル曲も歌ったが、ヒットしたのは大抵は他人の曲で、それを特徴ある3人のヴォーカルで彩った。そういう態度は本当のロックではないと見る向きもあるかもしれない。だが、彼らによって名曲となったものがあることからすれば、そういうグループにもオリジナリティと見てもよい力量があったのではないだろうか。模倣に止まるとしても、その模倣を全くそうではないほどに個性的なものとして提出出来る才能は、ポップスの世界では案外最も尊重されるべきものだ。そういう才能やそういう曲は、「it slowly rambles on,No need in bringin’it back, ’Cause it never really gone」であって、そうしたちょっとした流行物は、まさに「私や君」のために作られたもの(One I’m sure they wrote for you and me)なのだ。