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●『山本太郎展~ニッポン画物見遊山~』
密めいたところが日本画にはある。それは顔料を膠で溶いたり、金箔を張ったりするなど、義務教育では学ばないことがいろいろとあるからだ。



●『山本太郎展~ニッポン画物見遊山~』_d0053294_17541444.jpgそれらを本格的に学ぶには美術大学でなければならず、独学では無理だと、かつて筆者の友人の日本画家は言ったことがあった。だが、筆者は反論した。技術本は無数同然にあるうえ、NHKのTVでも日本画講座があるなど、今は誰にも教わらずにひとりで日本画を描くことは出来る。だが、それはそれだけの話で、それで有名になることは不可能だ。日本画で有名になるには必ず美術大学を出て、しかるべき有名な先生に就かねばならない。つまり、その点が秘教的部分と言ってよい。だが、そういう世界からはもはや真の正当的な意味での斬新な才能は生まれ得ないだろう。
 山本太郎という名前と作品を初めて知ったのは去年か2年前だったか、大阪長堀の市立近代美術館心斎橋展示室においてであった。青い朝顔が電線の地面への固定棒に絡みついている様子を屏風にしたものが1点と、今回も展示されたアメリカの自由の女神を阿弥陀如来に見立てた描き表装の掛軸1点が展示されていて、そうしたマンガ的作品が大阪市が買い取ったことに驚いた。古典的日本画に現代の風俗を混ぜた山本の画風は、悪趣味と言えば紛れもなくそうだが、そのような現代の風物を描く日本画は玉村方久斗にもあったもので、珍しくはない。だが、筆者も含めてだが、戦後のアメリカ文化の中で育った世代は、いわゆる日本画らしい日本画の詩情というものを感じにくい都市環境をよく実感しており、そうした日本画らしい画題を描くことにいささか気恥ずかしさと嘘を感じないわけには行かない。またそうした画題はさんざん描き継がれて来て、もはや新鮮味がない、あるいは抱いたとしても先人画家がすべて描いてしまっているということをよく知っている。それでもなお、大多数の日本画家は相変わらず同じような日本画を描いているが、少しでも批判的精神のある者ならば、そういう状態に満足出来ることは決してなく、何か今までにない新しい、そして身近で現実的な画題を描きたいと思う。だが、そもそも現在の都市で見受けられるあらゆるものは、江戸時代にはなかったものであり、それらをその当時の技法で描いても、当時にあったような詩情を盛ることはまず出来ない。いや、そういう実験をした者がある。たとえば加山又造がそうだ。背景にビルを林立させたいわゆる花鳥画と呼んでいいものを描いた。それが現在の日本の姿であり、真実でもあるから、そうした一種の開き直りの態度は理解出来なくはないが、日本画として見る場合、人々は独特の詩情という枠を予め持っているから、それに不適合な画題を見つけると、たちまちその絵に対して拒否感を覚える。あるいは、ビル群の谷間に公園があって、そこにはそれなりの江戸時代と何ら変わらぬ詩情は漂っているから、加山の先の絵を現代の日本画の詩情の表現としてそれなりに歓迎する人もあるだろうし、また実際そうして評価もされているはずだが、筆者はそこに日本画家の置かれた哀れな姿と言うべきものを見てしまう。この点、同じ表現者としても、写真家などはそれが現代的な技術であるだけに、ビルでも何でもありで、あらゆるものを相手にすることが出来る。その分表現に嘘も混じりにくいと思う。つまり、日本画は現代の人工物という風物を全く無視して、江戸時代と変わらない自然の一部を切り取って、それを上品に、詩情を感じさせるように描けばよいというする態度と、そういう上品さを排して、画題に出来ないものはないという考えによって画面を表現主義的にまとめるかの両極端があると言えるが、その中間と言うのでもないのが山本太郎の作品だ。それはアメリカ文化を生まれた時からあたりまえのものと受け入れなながら、あくまでも技法は純粋な日本画に頼ろうとするもので、画材からは日本画らしさはあるが、描かれるものは日本画的詩情とは全く無関係で、アメリカのポップアートそのものと言ってよく、そこには風刺という毒さえももはやない突き抜けた明るさがある。それが1970年代であれば、きっと文明風刺といった文脈で語られるだろうが、山本にはそういう態度はおそらく皆無のはずで、学校で学んだものと身の周りにあるものをただぶつけてみましたという表現に見える。そうした一種の節操のなさを非難するには当たらない。そういう世代が生まれて来る時代なのだ。これは面白ければそれでよい、描いて楽しいといったマンガ的感性のなせる技であって、日本画にもマンガ、しかもアメリカ文化を経たそれが接ぎ木可能なことをよく証明していて、日本画の歴史の文脈で語るべきものではなく、むしろマンガの一派として捉えるべきものに思える。
 会場を一巡してまず思ったのは、「山本太郎」という、まさに日本人の普通名詞的な名前で、このどこにでもあるようなあっけらかんとした名前は、名は体を表わすであって、実体がそもそも空疎であることを伝えるようであるし、それが作品内容と実にぴったりと一致している点で、お見事と言うほかない。山本は1974年熊本生まれで、京都造形大学の美術科を出たが、京都市芸ではないところに、いささか山本の画風がよく出ているとも思える。反対から見れば、京都市芸出であれば山本のような絵を描くだろうかということだ。描いたとしても教授たちが認めないのではないだろうか。それはいいとして、たとえばこの画家がもっと特徴のある難しい漢字の並んだ名前であれば、このような絵を描いたであろうかと思うし、また描いたとしてもこれほど話題にはならなかったであろう。次に驚くのは、金箔や銀箔を全面に使った大きな屏風が多いことだ。これは材料費もかなり高くついていて、若い世代がそう簡単に出来ることではない。そのうえ、そういう画面にマンガ的な内容を描くのであるから、なおさら勇気がいる。その豪華な画面にマンガ的安っぽさが乗っている思い切りのよさが、まさにまた「山本太郎」の字面がよく示している。これがもしただの安い画用紙に描かれていれば、きっと誰も注目しない。まず、日本画特有の形式と画材でドンと豪華に見せ、そこに意表を突くマンガ的表現を用いることでその意表を倍加させているが山本の絵だ。であるから、金や銀箔を貼りつめた屏風に、真面目な伝統的日本画らしいものを描いたしても、これまた誰もおそらく注目しない。そういう作品はいくらでもあるし、今の山本の技術ではとうていそういう表現には耐えない。つまり、山本のまだまだ稚拙な技術は、今の作品に見られるマンガ的表現にはふさわしくても、伝統的で詩情溢れるものを描くには全く力量不足な状態にある。その豪華画材主義と得意とするマンガ的表現の合体は、多少は切羽詰まったところから思いついたものであろうが、素直に周囲を見わたしたところ、そういう表現しかしっくり来ない日本の状態を改めて発見してのことであって、その点では正直さがよく伝わる。だが、それとは裏腹に一発当ててやろうという若い世代特有の傲慢さも見える。その傲慢さは決して悪くはない。むしろ好ましいものだ。だが、会場を見わたしながら、この先、山本がどういう方向に進むのか、また進み得るのかを思うと、かなり同情的にならざるを得ない。山本の描くものは、日本画として今までよく描かれて来た画題を用いながら、そこに現代の風物を混在させることだが、そうした表現はすでに百年前の漫画にあったと言ってよいもので、珍しいものではない。たとえば山本の作品に、加山又造も取り上げた室町時代の屏風で山と海、月日を配したものがあるが、山本は、その山には舗装された道路が走っている現状を示すために、松の木でびっしりと埋まる山に灰色の横段の帯を何本を走らせる。まるで小学生が考えて描きそうな内容で、それを面白いと見るかそうでないかは人によってさまざまだが、漫画ならばちょっとしたカットで充分であるのに、山本は金箔代だけでも何万、何十万円と費やしてそういう状態をこつこつと描く。そういう絵が売れるのかと思うと、これがかなり売れているようで、金箔代を心配する筆者はもうその時点で貧乏丸だしで失格なわけだ。
 山本の絵がどういうところに売れているかだが、たとえばジェット旅客機を描いた六曲屏風がある。これはANAに売れたようだ。また、ケンタッキー・フライド・チキンのあのおじさんのロゴ・マークを画面中央に大きく描いた六曲屏風は、やはりケンタッキー・フライド・チキンに売れて、毎年の入社式に使われるという。そのためもあるだろう。同作はすでにあちこち絵具が剥落するなど汚れも目立った。だが、屏風など元来そうした使用に供するもので、そうした使用の跡が明確な点は、山本の作品の勲章だ。修復不可能なほどに汚れが目立てはまた新たに描けばよいのであって、山本の作はそのように簡単に新たに蘇る雰囲気を持っている。それもまたコンピュータ世代の作品で、歴史的な垢というものには馴染まない。また、企業に売れるという手を覚えると、山本はせっせと企業相手にロゴを描き込んで売り込むことが出来るが、なかなかうまい手を思いついたものであるし、描いても全くどこへどう売れて展示されるのか皆目検討もつかない大多数の今の日本画に比べて、経済に直結している点がまたマンガ的そのものであって、なかなかよい。また企業の意識もここまで変わって来たかと思わせられるが、山本の描く像はコンピュータで簡単に作ることが出来るはずであるのに、やはり手間暇かけて昔からあるのと同じような金箔の屏風に顔料で描くという本格好みが歓迎されるのだ。これは何を意味するかと言えば、ひとつには、日本画という長い伝統を持つものの強みが厳然と存在することと、もうひとつはそのうえ、時代が変わっても材料費をふんだんに使ったものはそれなりに豪華に見え、商品価値が高まるという事実だ。前者は、たとえば公募展に日本画を出品する人が、写真やマンガ、あるいはその他の素人が比較的簡単に始めることの出来る表現媒体より位が高くて何か神々しいものに携わっていると錯覚することを思い起こさせるが、実はそれは個人的錯覚に過ぎないとしても、一方では世間の見方としてやはり日本画を美術の上位に置く感覚は確実にあり、絵の才能を持つ人は、なるべくならそういう世界に入ろうとする。だが、これも時代によって少しずつ変化して来ているし、有名になるには日本画家でなくても写真の方がもっと手っ取り早いと思う若者は多い。後者の、表現に必要となる諸費用は、媒体によって、また取り組み方によって異なるもので、一概に分野で言い切れるものではない。だが、複製生産可能な写真はやはり1点ずつ描く日本画よりかは経済性は有利かもしれない。話が少し変わるが、先日書いたように、杉本博司展をその後もう一度見に行って来たが、今度は杉本が話す映像を30分ほど見た。そこで面白かったのは、杉本がアメリカの自然史博物館で古世代のアンモナイトなどの泳ぐ海を再現するジオラマを見て、それをそのまま写真に撮ると、本物の海中を撮ったように見えるのではないかと考えたことで、前回の杉本展の感想で、杉本がそのジオラマを作ったと書いたのは実は筆者の大きな間違いで、杉本はただあるものを撮っただけであった。つまり、その点はいかにも安易だが、着想がよかったということだ。人間が作ったものを写真に撮るということに杉本はひとつの執着があり、今はロンドンのマダム・タッソーの蝋人形を白黒で撮っているが、そうして出来る写真は、半分本物の人間を撮ったように見えて、かなり面白い作品になっている。杉本は決して生きた人間のポートレートは撮影しないそうだ。そうすれば金になるのはわかっているが、そこは作家のこだわりというものだ。で、書いておきたいことは、杉本は大型のフィルムで写真を撮っているが、必ず小さな塵がフィルムに付着し、それが焼付けの時に大きな白い点となって見える。杉本は昔撮った作品も美術館用に今は大きく拡大して焼いているが、その時問題となるのが写り込んだ塵だ。10枚焼いて1枚ほどが使用に耐えるものになるが,その1枚には塵が写り込んでいるから、それを手作業で雇った数人の人物に墨で消す作業を担当させている。つまり、写真はシャッターを押せば簡単に作品が出来るとはいえ、それを展示して人に見せるためには、それなりの費用や努力が必要で、これは絵を描くのと大差ないと思ったのだ。だが、一旦写して完成したネガは、何百枚でも焼きつけることが出来るから、やはり1点制作の絵画より分はいいだろう。その意味で絵画はもはや時代遅れかと言えばそうではない。
 山本太郎の絵画は、狩野派がよく描きそうな勇壮な松樹を始め、若冲の鶏から、町中を歩いていて見つけた電柱に絡まる朝顔の花まで、かいにも日本画的な古典的画題をよく選んでいるが、背景に抱えるものとして、京都在住ということと、芸術大学を出たという点は大きい。これが芸術大学を出ておらず、また京都に住まなければ、今と同じ評価があったとは決して思えない。人は作品そのものより、むしろその周りにくっついているもので判断する。そして、よく言われるように、伝統の長い京都であるからこそ、革新的なものも生まれるし、それは歓迎されやすい。山本の絵画は、古典的画題に現代のアメリカナイズされた異質な何かをぶつけるところに特徴があるが、そういう冗談半分の遊びをどこかで許容するほどに、びくともしない大きな岩のような伝統が京都にはある。それはさておき、山本の描く画題はみな画題は個々に分解出来る。そして、それらの組み合わせを変化させることで、同工異曲的な作品を半ば無限に作ることが出来る。実際山本の手法はそういうものであって、画題を少しずつ増やしながらも、過去に描いた画題を忘れずに、それを持ち出して組み合わせをする。そのため、1点制作とはいえ、デジャヴ感が絶えずつきまとい、それがまた山本を即座に思い出させる記号として役立っている。そのため、山本は今後画題を増加させるのは間違いないとしても、すでに描いて充分に自分なりの様式と化したものを基本として忘れず、それと一緒に描く行為をやめないだろう。それは山本にアイデアが乏しいからではなく、むしろきわめて戦略的で、市場や人の思いをよく知っていることによる。先に筆者は今後の山本がどう進み得るのか、かなり同情的であると書いたが、おそらく山本はマンネリと思われる手法をえんえんと駆使続けるだろう。変に技能を示したいかのように、また自分と格闘する様子を人に示したいかのように、毎年画題を豊かにして行く方法は、本当は画家の理想で、それは眩しい姿だが、山本はそんな冒険をしないだろう。すでに大きな会社に売れているという立場からして、その期待を裏切ることはまずしない。その裏切り方には2種あって、いい意味と悪い意味があるが、いい意味での裏切りはしんどい話であるし、なかなかエネルギーを要する。山本があえてそういうことをするとは思えない。また悪い意味の裏切りとは、技術の減退や自己模倣だが、仮に山本が顕著にそういう仕事をしたとしても、それは絵を売る立場からすれば、今までに培った山本ブランドの保持には好都合でもあって、それは悪い意味での冒険とは決して世間からは見られないに違いない。筆者が同情的になるというのはまさにそうした点で、若い時に売れてしまったことに起因する退屈さを山本の内面にも見、また作品の1点制作でありながら、どれもみな同じことの繰り返しに見える事実を思うからだ。だが、売れなければ有名になれないし、有名にならなければ金箔を買う費用も捻出出来ない。芸術家は好きなことをしているので、元来貧乏であるが、売れてしまった途端、それはみな金の色を帯びて、均質に見えて来る。作り手にとっても鑑賞者にとっても、そういうことの退屈さはあるものだ。おそらくどのうよな芸術家も、その最も良質な作品は、まだ売れる前のごく一時期にしかないだろう。それを逃れるには、金銭から遠ざかっていることだが、なかなかそれは難しい。
by uuuzen | 2009-06-05 23:50 | ●展覧会SOON評SO ON
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