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●ブログ作成歩録36(訪問者数40000)
●ブログ作成歩録36(訪問者数40000)_d0053294_1802753.gifれ線グラフで1か月間、毎日の訪問者が示される。それはこのEXCITEブログでネーム・カードを設置する者の特典だが、今日気がついたことに、週単位で、しかも色を変えた折れ線グラフの重なりで訪問者を確認出来る機能がいつの間にか出来ていた。



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そのグラフによれば、1週間の訪問者数の変化傾向が把握出来る。だが、筆者はそのグラフで視覚的に確認するより以前に、訪問者数が曜日によってかなり異なることに気づいていた。必ず毎週金曜日が最低になるが、花の金曜日と言われるように、みんな家にこもってパソコンとにらめっこどころではないのだろう。そして、わずか1週間でもそのように変化のあることが折れ線グラフで改めて知るのは面白いと思う。これが毎日同じ数値で折れ線にならなければ退屈だろう。昨日より今日が下がったり上がったりする変化こそが正常な日常で、決して上り調子が続くはずがないし、また逆にどんどん下がり続けることも、まあ今の段階ではないであろうから、日々の訪問者数の変化を見ることは毎朝歯を磨くことと同じような習慣になっている。だが、以前のようにある金曜日が極端に訪問者が少なくなっても何も思わないようになっている。自動的に計算されるから見ているだけであって、訪問者が増えようが減ろうが筆者の書く内容も意欲も変化はない。それはいいとして、昨日の深夜、ブログを初めて訪問者数が4万になった。それもたまたま先日気づいて、4万到達の日には、『おにおにっ記』を1日休んでそのことを書こうと決めた。1から2万に到達するより、その倍の4万になるまでの年月の方が14か月と短かったのは、それだけこのブログがより知られるようになったからだが、次の6万に至るのに14か月より少なくなるという保証はない。何事も先のことはわからない。14か月先にはEXCITEが倒産して、ブログが出来なくなっているかもしれないし、筆者も事情によってどうなっているやらだ。それはそれとして、ただ今現在があって、こうして書いていることだけが何となく永遠であるような気もする。だが、その永遠も筆者の思いの中にだけあって、これを読む人に同じ気分を味わってほしいと望むのは無理だろう。また、そうなってもらったところで、筆者はそのことを知ることは出来ず、また知ったところでどうなるものでもない。これが本にでもなって、印税が発生するのであれば、生活の資に足してまた新たな何かを新たな気分で書くというよい連鎖が生まれもするだろうが、ブログというものは全く無償のものであるし、その無償を前提として書き手は知るだけに、かえっていやらしさのようなものがまとわりつく恐れが多分にある。印税が発生する文章と何だか逆のようだが、人からお金をいただく行為となると、そこにはそれなりの真剣さが込められるし、そうでないようなブログというのは、ただの書き散らしで、その分わめき度が大きく、読んでも面白くないというものになりがちだ。ま、そうしたことをよく自覚したうえで、筆者は書いているつもりはあるが。
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 昨日今日とえらく寒いが、昨日は珍しくも朝早く起きて、ひどい雨の中、バスを乗り継いで図書館に行って来た。9時に開館することを調べ、その時間に一番乗りしようと思って、結局そう出来たが、5分ほど早く着いたところ、もう2、3人が玄関の庇の下で雨宿りをして待っていた。その図書館は同じ京都市内にもかかわらず、自宅を出て徒歩とバスで2時間近くかかるところにあるが、朝が早かったためか、バスは快適に走り、乗車中にこの調子では開館30分前には着くことがわかった。そう思った途端、バスは聞き覚えのあるバス停をアナウンスしたが、筆者は濡れた傘を持ち、混雑をかき分けながら、下車する人の後について急いで下りた。バスは1日乗車券を買っているので、何度でも乗り下り出来るのだ。下車してすぐ、筆者は方向が一瞬わからず、面食らった。そして、辺りを見回し、ようやく進むべき方向に体を回転させ、大雨の中、ある場所に向かった。普段ならそれほど激しい雨ならば、絶対に外を歩かないが、すぐにズボンの下半分がずぶ濡れになったので、もう仕方がないと諦めた。筆者が向かったのは母が育った家のあったところだ。母は東京で生まれたが、すぐに京都に来て育ったのだ。その家が今は公共施設が建て変わったと随分昔に聞いたが、まだ見ていなかったので、ひとつその前を通ってやろうと考えたのだ。その道はもう30年ほど歩いたことがない。京都にいながら、案外そういうものだ。周囲もかなり変わってはいるが、道幅は同じで、また全く変化のない場所があったりもして、筆者は急に幼い頃の空気を吸う気分になった。場所とは不思議なものだ。どんどん建物が変わるにもかかわらず、昔と少しも変わらない固有の空気がそこには漂っている。それで想像するのは、一帯が完全に焼け野原になって新たな建物が占めるようになっても、やはりそれ以前の空気は残るのではないかということだ。すでに知る人がひとりもいない場所でもあるにもかかわらず、その場所には母やその兄弟、そしてその場所を見たかつての筆者のの記憶が積み重なっていて、その記憶の堆積があるからこそ、そこに行ってみようという気になるのだが、それは案外老化の証拠でもあるだろう。行ったところで、たいていは行かなかった時に想像したとおりのはずで、別段その後の人生が変化することは何もないことがよくわかっているのだが、行けば行ったでその時の新たな記憶がまた堆積するから、それはそれで何分かの意義はあるだろう。そして、そんなどうでもいいようなちょっとした経験こそが人間の存在理由である気もする。さらに、たとえばこのブログで、筆者がこの世からいなくなれば、更新も出来ず、すぐにネット上からも消えるが、このブログを読んだ人は、ブログというものを思い出す時に、わずかでも筆者の書いたことを想起することがあるかもしれないし、その記憶というものだけが人間にとって永遠なものではないかと思ったりもする。
 雨の中、筆者は母の生まれた家の辺りを歩きながら、一度も立ち止まることをせず、またバス停に向かった。そして、バスが来ない間に写真を1枚撮った。別段何とも言うほどの風景でもないが、筆者にすればそこは初めて地面に立って見つめる場所で、一瞬旅行気分にも浸れたからだ。そして、向こう側が下り坂でしかも道が曲がっていることが何だかとても珍しかった。すぐにバスはやって来て、それに乗ってまた図書館に向かったが、バスを急に下りることにして、しばし散歩したのは、咄嗟の判断としてはなかなかよかった。図書館の前で30分ぼんやりと待つことを思えば、その方が断然有意義であるし、また、図書館の前にそのように早く到着する見込みがないのであれば、絶対にそのような行動を起こさない筆者であるので、前から次々とやって来る人生というものに対し、いつも咄嗟の判断というような態度を忘れずにおいた方がよいと思い返しもした。人間はその咄嗟の判断をあまりしないものであり、またしたとしてもよく間違えて後悔することも多いが、その時はその時でまた進むべき道を修正すればよい。それで、家を出た時には全く予期しなかったのにもかかわらず母の生家の前を歩いたことは、前後に何の脈絡もない突発的行為で、しかもバスに乗る他人は誰もそのことを知らず、また家のあった辺りを歩いた時には、誰ひとりとして出会わなったので、筆者にすればあたかも夢の中の出来事に思えるが、人生には時としてそういう脈絡のない行為があり、またそれは必要である。これは以前に書いたが、昔筆者が大阪に住んでいた時、お隣さんの旦那さんが毎朝毎夕まるでハンコを押したようにぴたりと同じ時間に出勤と帰宅を繰り返すを、母は嘲笑していた。男がそんなことではどうするというのであったが、その頃筆者はまだ小学生で、その意味もよくわからなかったが、母にすれば伝書鳩のように精確に出勤と帰宅を繰り返す主人というものは、面白味のない男の典型であったのだ。これは別に飲んで帰宅することを奨励しているのではない。決まった時間に会社に行って、決まった時間に帰って来るような男は、どうせ会社でもたいして重要な仕事をしておらず、きっと家の中でもそうなのだという思いだ。母のその言葉が影響したのではないだろうが、筆者は全く自由気儘な生活を送るようになり、眠りたい時に眠り、起きたい時に起きるという始末だが、そんな筆者でも仕事のことを始終考えいるため、目覚める直前に考え事に対する閃きのあることがしばしばある。昨日朝早く起きて、図書館に一番に到着しようと思ったのも、実は夢から目覚めて思いついたことがあったからだ。自由気儘な生活とはいえ、筆者は眠っている時でも、起きている間に気になっていることについてずっと考え続けている。これは伝書鳩的人生とは違うが、何事かに対しての精確さというものには強い関心があり、それに囚われ続けていることには違いはない。重要なことは、決まり切った時間に出勤と退社を繰り返すことではなく、仕事の成果だが、一方でその仕事日々の生活の律動に深く関係するから、自由気儘も過ぎると、仕事の成果なるものの根本からねじ曲がってしまう恐れのあることを自覚しておく必要はある。
 咄嗟に経験した昔の記憶への旅とでも言うようなバスからの途中下車は、このカテゴリーに本当に久しぶりに書くことに似るが、本来は毎日の投稿においても可能だろう。それは毎日行き当たりばったりに書くことだ。本当はそれこそが日記であるし、ブログの利点の効用だが、筆者はほとんどブログを過去の経験の記録として認識し、古い内容であっても頓着していない。それは、記憶には新しいも古いもさしてないという思いと、毎日の新鮮な考えを投稿せずとも、古い記憶や日記を披露することで、自分の辿って来た道を再確認出来る思いがあるからで、よく書くように、どうせこれを読む読者はまるで新聞のように最新の筆者の経験を読むとは限らないからでもあるからだ。先日古紙回収のために、古新聞を読み返して紐で括ったが、いつも面白く思うことは、1か月や2か月前のことが、今日の出来事とたいして変わらないと感じる。つまり「旧聞」であっても「新聞」に思える。文字どおりの「新聞」の役目は、今ではネットもしくはTVのニュース番組で充分であり、筆者はもう毎日配達される「新聞」にほとんど関心はない。目を通すのは文化欄か書評程度だが、それならば「旧聞」でも充分面白く、今は「新聞」はそう自称してはまずい時代になったと思う。「新聞」の即報性の思想は、どうあがいてもネットにはかなうはずがなく、文化記事や書評を毎日配達される新聞で読みたいのであれば、もっと別の新聞が登場すべきだ。今後そうした人向けの、現在の新聞が細分化される時代が来る気もするが、広告主がつきにくく、雑誌という形になるしかないか。ネットの効用と思うことのひとつに、たとえば今は連絡が途絶えている人が筆者の動静をこのブログで知ってくれるだろうという淡い予想がある。それは筆者に注目する他者を想定することであり、一種のロマンと言えるが、そういう人がいるかいないかわらなくてもちっともかまわない。いるかもしれない期待がひとつの言動の原動力になる。何かを綴るということはたいていそのような動機があるだろうし、そういう思いがなければ長く続けることは出来ない。また、これは効用かどうかわからないが、このブログを「新聞」のように読んでもらいたいと思っている。毎日投稿ということからして「新聞」的であるし、たとえば『おにおにっ記』は連載マンガのようなものだと自分では位置づけている。しかもブログ特有の新しい特徴や形態を持ったもので、そういう実験をしているという気持ちが多少はある。ほとんど書き散らし同然の文章ではあっても、数が溜まれば見えて来ることがあるし、そこからまた別の何かが生まれて来るかもしれない。筆者はそういう可能性を信じているところがある。まずは書いてみること、そして書き続けることが大切で、そうした自発性を突きつけているところにブログのよさも怖さもある。さて、このカテゴリーに次に投稿するのはいつのことか決めていないが、どのような先が待っているのか。
by uuuzen | 2009-04-26 23:59 | ●ブログ作成歩録
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