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●『やなぎみわ マイ・グランドマザーズ』
比寿駅のプラットホームに去年の秋に立った時、眼前の壁面にYEBISUビールのロゴの入った黄色い広告灯の箱が等間隔に並んでいることに気づいた。



●『やなぎみわ マイ・グランドマザーズ』_d0053294_22165824.jpg恵比寿に因んだ広告で、JRも宣伝収入目当てになかなか思い切ったことを許可するなと思ったが、それはちょっと違うかもしれない。恵比寿駅の近くにはどうやらYEBISUビールの工場がかつてあり、そこを開発して新しく「恵比寿ガーデンプレイス」という施設を建てたらしく、その工場あっての恵比寿駅であるようだ。もうひとつよく覚えているのは、そのホームで電車を待っていると、反対側行きの電車が通過した時、急に地震が来たように揺れたことだ。それにいささか驚き、大きな地震が来れば真先にホームが倒壊するのが恵比寿駅ではないかと思った。その恵比寿駅のホームにまた半年後に立つとは予想しなかった。先月末の東京行きの際、どの美術展を見ようかとあれこれ考えながら、まだ行ったことのない東京都写真美術館を直枝さんとの対談の前に見ることに決めた。そして、ネットで調べると、最寄りの駅が恵比寿で、ジョン・レノン・ミュージアムを見た後、亥の刻で蕎麦を食べ、すぐに直行した。その時、京浜東北線で上野方面には出ずに池袋に回る何とか線に乗り換えたので、時間はかなり節約出来たと思う。駅を降りてガーデンプレイスに行く時、当然近い方の出口から下りて、地図片手に歩き始めたが、元来かなりの方向音痴の筆者は、京都のように碁盤の目状に街路が整然とはしていない道にかなり面食らい、また土地の高低差が大きいことにも違う街の情緒を味わった。『こっちでいいのだろうな』と内心多少の不安を抱きながら、ガーデンプレイス方面とおぼしき道を選んで歩いていると、右手上方に何やら長い建物内の通路のようなものが見える。何だろうかと不思議に思いながら、坂を上がり切ると交差点があり、前方に広がるガーデンプレイスが見えた。そこはどこか遊園地然とした区画で、信号をわたってすぐの出入口に相当する区域には青空の下でビールを飲ませる店があった。信号をわたる前、右手後ろを振り返ると、動く歩道の出入口が見え、それが先ほど見たばかりの長い建物内の通路の延長であることを知った。そして展覧会の後は、雨でも濡れずに構内までたどり着くことが出来るその動く歩道を使って駅に戻ったが、筆者が利用した恵比寿駅の改札口はまだガーデンプレイス寄りではなかったのだ。動く歩道は100メートルほどの長いものを6回ほど乗り継ぐ格好で連なっていたが、それを見上げながら下の街を歩くというのも1回は経験しておいてよい。それにしてもあの動く歩道は誰が費用を負担して造ったのだろう。東京都とJRとガーデンプレイスの3者が合同出資したのか、また電気代や修繕費はどこが持つのか、何だか気になった。便利になるのはいいとして、採算が採れての話であるし、東京が、いや日本が豊かになるというのはそうした施設によく現われている気がする。
 それを言えばガーデンプレイス全体がそうだ。左手前方に三越が見えたが、百貨店とすれば買物客が多いともさほど思えないが、高級な買物をする人が案外集まるのかもしれない。それはガーデンプレイス全体がヨーロッパの王宮庭園のイメージに沿って造られているようなところからも思える。広々とした中庭的な空間を囲んで連なる建物には、イタリア的な大きなアーチが目立ち、またその中庭の突き当たりの一角は、ヨーロッパ風庭園に見られる建築材をふんだんに用いた造形で、日本の金持ちぶりをよく示しているが、かなり作りものめいて、ディズニーランドを見るような風情がある。すぐそばには教会かホテルのような建物もあって、着飾った人々が出入りしていたが、同じような雰囲気のミニ版は日本中に今は蔓延している。洒落た場所であることはわかるが、時代遅れの筆者にはそれが白々しく見え、ガーデンプレイスでは写真を1枚も撮らなかった。今後100年して、美しく風化することなく、無残さを増すばかりであるように思うが、そこには先日の東京駅前の中央郵便局の建物を残すかどうかといった問題との関係もある。建築家から言わせれば、ガーデンプレイスは現代に見合った様式美があると言うに決まっているが、筆者はこうして書きながら、高松の栗林公園をぼんやりと思い出し、そこに漂う永遠性とは違って、ガーデンプレイスは歴史の時間の重みを積み重ねることが出来ないと思う。商業施設であるためそれは当然であろうし、また一方でお金の威力を見せつけるといっても、短期間で造る画割りめいた建物では、適当な年月が経てばまたその時代に合った新しいものを建てればよいという使い捨ての感覚があって、別段歴史の重みが付与されずともかまわない。すべては消費だ。そしてそのサイクルがうまく行かず、たとえばガーデンプレイスが100年後に廃墟となったとしても、その時はその時でそれをまた何らかの形で人々は楽しむだろう。そこからは東京駅前の中央郵便局が残すべき建物かどうかという人々の一致した意見を見ない現実を改めて認識させる。で、リッチではあるが、どこか安っぽいガーデンプレイスの奥に写真美術館がある。筆者は広い中庭的空間を左手に見ながら前方に進んで美術館のある建物に入り、展覧会を見た後は動く歩道の出入口の真正面に到達するガーデンプレイス南端を歩いたので、ガーデンプレイス南部の空気はだいたい感じることが出来たが、写真美術館がガーデンプレイスにあることは、現代の写真を使った芸術を考えるうえで実にふさわしいように思える。それは悪く言えば、消費時代にそさわしい使い捨てのアートであり、モノの形として残らず、写真集かいつでも見える形で出力可能なデータに還元出来る作品というもので、昔さながらの1点主義、ただ1点の作品のアウラというものとは無縁の、新時代の新しい芸術だ。
 芸術と美術という言葉が日本語にはあるが、美術は美を表現するものという、何となく狭い、限定的な、古臭い印象がすでにある。20世紀に入って以降、美術は美を表現して来たかとなると、必ずしもそうとは言えず、反語的に醜を表現し、その向こうに作家の考える美を感じさせるということが興ったとも言える。そして今はそれが全盛ではないだろうか。カラフルな絵具で形の整った何かを表現すると、たいていそれは嘘っぽく、真実味のない、絵空事、きれい事に過ぎないと言われる。そこには美を表面的に捉えたくないという作家の思いがあるが、その一方で、美しいものを美しいように表現することの気恥ずかしさがあって、それは規則違反だという思いが強い。かくて食べ物で言えば甘いものではなく、大人が酒の肴にして楽しむような苦みやえぐ味などの凝った味の作品が美術の代表とされるが、それはそうした人々が、作家にしろ、評論家にしろ、学芸員にしろ、美術界を牛耳っているからだ。そのため、たいていのそういう美術を理解しない人は美術館にますます足を運ばない。その一方で、世界的な流れというのがあって、国際的評価が高まると、その見方に左右されることがある。日本の美術家がそのようにして有名になる例はいつから始まったのだろうか。90年代の森村泰昌はその例だが、近年の村上隆もそうだ。森村の、自身が名画の人物に変装した「なり切り写真」シリーズの作品は、筆者から見れば、まさにカラオケ文化あっての産物だが、同じ京都市芸大を出たやなぎみわは、森村より15、6歳年下で、やはり同じ路線をたどっている。筆者が最初に印象深く見た作品はエレベーターガールを素材にした写真で、それはポール・デルヴォーが描く静謐な世界に似て、幻想絵画の世界を写真で表現したものだ。写真はかなり大きく、またコンピュータで合成加工してあるので、撮影場所は特定出来ないが、やなぎにはその必要は最初からなく、脳裏にあるイメージをそのまま焼きつけようとした結果だ。その点ではどの芸術とも変わらない。そのエレベーターガール・シリーズによってやなぎは国際的にも注目され、作品が売れ始めるが、写真を表現媒体に使って何かをやろうとする時、森村が一種の名画コンプレックスによって、思い切って自分を名画に同一視するという傲岸さを打ち出したところに、有名になるための大きな突破口があったとすれば、やなぎは森村よりもっと精神が強靱と言おうか、それは女性の強みであるかもしれないが、森村のように過去の名画と呼ばれるものに対する存在にさほど強い意識はなく、むしろ自分自身のことにより関心があるところから作品づくりを出発させたように思える。ただし、森村と共通するのは、他の存在への「なり切り」で、そこにはやはりカラオケを生んだ関西の気質が流れている。だが、森村の古典的評価の定まったものに対するコンプレックスゆえのそれへの「なり切り」願望とは違って、やなぎのそれは女性ということから逃れられない立場を踏まえての、したがって強い決心としての定めを前提として、その前に広がるあらゆる可能性を夢想するという、男から見れば、一種不気味ですらある女性性を感じさせ、現代の日本がオノ・ヨーコなどをひとつの先駆者として、女性が大胆に自己主張することの現実を一方でよく示していると思える。
 「マイ・グランドマザーズ」という2000年から始められたやなぎみわのシリーズが今回は新作も含めて全部展示されたが、筆者はこのシリーズを今回初めて知った。若い女性が50年後の自分を想像し、それを写真で表現したものだが、チラシ裏面下には「技法はすべて発色現像方式印画」とある。これはネガ・フィルムから焼き付けたという意味なのか、あるいはコンピュータで加工したデータをネガと同じように考えて引き伸ばしや焼き付けしたものか、筆者にはわからないが、写真をよく見ると、明らかに合成や映像の一部の加工があって、おそらく後者であろうと思う。つまりエレベーターガール・シリーズと同じで、シャッターを1回だけ押して、眼前にあったものをそのまま撮影したというのではなく、加工を施している。ここには現代美術の作家になるには、写真とコンピュータを自在に扱うことの出来る才能があれば近道であることを示して興味深い。だが、大半の写真は撮影したままではなかったかと思う。50年後の自分を想像するということで思い出すのは、70年代最初にサイモンとガーファンクルがアルバム『ブックエンド』で歌った1曲「オールド・フレンズ」だ。このアルバムには養老院の老人の声も含まれているが、ポール・サイモンは同曲の中で、70代になることは何と不思議で恐ろしいことかと歌っている。だが、そう言ったサイモンも後数年すればその年齢で、50年などあっと言う間に過ぎる。筆者のそのことを思い出しながら、「マイ・グランドマザーズ」はやはり若い人の作品だなと思う。それはいい意味にも悪い意味においてもだ。いい意味は、若い女性が将来の自分の姿を不安と期待混じりでいろいろと夢想することの限りない可能性、未定性で、やなぎがこのシリーズで扱うほどにたくさんの姿が想定されることの面白さだ。男性が同じシリーズを手がけても、やなぎのようには多様な将来像を思い描くことは出来ないだろうか。女性はかつてはほとんど名も与えられない存在であったが、現在の日本ではむしろ男性の方が飼い馴らされ、去勢されたかのように元気がなく、どういう職業に就いてどういう生活を送るかが見え過ぎている。また、悪い意味というのは、50年後の姿を想像してそれを写真として作品化するのは、夢想の視覚化としては映画か悪夢のようにそれなりに見世物にはなるが、若い人が50年後の姿を真剣に想像するということは、すでに老人化した兆しであって、筆者は好まない。「マイ・グランドマザーズ」に登場する老婆はみな世間離れした地位を持った典型ばかりを集めたところがあって、素朴にごく普通に老婆になったという人を紹介しない。やなぎは自分がなるかもしれない、あるいはなりたかった老婆を投影しているのかもしれないが、そこにはやなぎが芸術家であるという自覚を強く抱いていることゆえの選ばれた老婆たちばかりであって、筆者にはそこがあまりにSFめいて、嘘っぽく見え、そういう老婆がいても話をしたいとは思わない。各作品には作品内容を説明するための文章がついていて、それは散文であったり漢文であったり、和歌の様式を持っていたりするが、英訳もついている。読み比べるとなかなか的確な訳で、そこにはやなぎの文学的才能もよく示されているが、文章はよけいだなと思わせられる作品もままあった。チケットやチシラに印刷されるサイド・カーに乗った髪を赤く染めた老婆の作品は、70代になっても若い男性をはべらせて暴走族のように突っ走ることに快感を覚える女性の心理を表現しているが、油彩画では絶対に表現出来ない何か、それは文学性と言えば大体当たっているが、をこの写真を持ち、そこがこの作品の価値のひとつにもなっている。また、ムンクの「叫び」と同じとうに橋の上と透視図法的遠近法を持ち込むが、「叫び」の孤独をせせら笑うような現世肯定主義と速度感がある。それは刹那感でもあって、またそこからは「叫び」の孤独を思う人もあろう。ともかく女性の本音をこのように醜悪とも言える形で提示するところに、関西人のあくの強さと、女性ならではの強みを感じる。「マイ・グランドマザーズ」における文学性は、ホームページやブログが活発化した時代によく則した作品で、その私小説的部分は、若い世代により受容されやすいだろう。その意味で、誰でもやなぎみわになれると言ってよいが、ただしあのような大きな写真をモデルを使って撮影する作品への意欲と根性となると、そう簡単ではない。
 エレベーター・ガール・シリーズでもそうだったが、「マイ・グランドマザーズ」はモデルを使用する点で人間と大いに関わり合う必要がある。そこが森村の自己完結型の自己愛性とはいささか違い、どこか映画監督のような総合的手腕を強く感じさせる。写真はシャッターを押せば写るが、その写すべきものを思いどおりに眼前に整えるには、最初の着想は別としてもそれなりの準備が必要で、やなぎの作品を見るのはさらりと短時間で済むが、鑑賞者の頭には強く刻まれる。だがそれは筆者はストレートな美とは感じられず、むしろ全くの悪夢に思える。若い人が老人になった姿を想像するということの中にすでに悪夢があるが、誰しも老いるとしても、自分の老人と化した姿を見たい人はほとんどいない。老人になっても心中はさほど変化しないはずで、皺が増えた分、むしろ自分の姿をまじまじと見つめることに嫌悪感が生ずるのではないか。自己嫌悪と言うほどではないにしても、やはり心の中と同じように外見も若くありたいと思う。それを容赦なく皺の多い老婆として表現するやなぎは、かなり悪趣味の持ち主に見えるが、写真すなわちリアリズムという概念がまかり通っていることからすれば、若い女性にメーキャップを施して老婆に変装させて50年後の姿を撮るという行為は理解出来なくはない。そこには紋きり型に物事を夢見がちな、まだ世間を知らない少女の思いの反映があるし、そう思えば、「マイ・グランドマザーズ」は少女による将来の幾多の可能性のカタログとして微笑ましくもあるし、すでに老齢に達しようする筆者のような世代が何を書いても的外れになるかもしれない。また、50年後の将来という設定は、作品の中に別の時間軸を取り込み、写真が今現在を写すということとは異なる思想の産物となって、SF写真とでも言うべき新たなジャンルの誕生を予想させる。ところで、やなぎは男性をモチーフにして作品化しないのであろうか。女性が女性を表現する様子を見ていると、男性としてはよけいに門外に閉ざされた気分になる。それは男性がいなくても女性だけで子孫を残して行くことが出来るある種の昆虫を思わせ、そこに言い知れぬ不気味さがある。そう言えば、エレベーター・ガールのシリーズも「マイ・グランドマザーズ」からもう一度見直しをすべきであろう。今年1月の新聞にやなぎのインタヴューが出ていて、「マイ・グランドマザーズ」は今年6月から大阪の国立国際美術館でも開催が決まっている。そして同じ月にヴェネツィアのビエンナーレ展にやなぎは日本館に出品が決まっている。ジオラマの街の中に女性を6人登場させ、超現実の世界を現出させるそうだ。「マンガ」や「かわいい」に代表されるものだけが日本文化ではないことを示したいとのことだが、その点は筆者は大いに同感だ。
by uuuzen | 2009-04-12 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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