直枝さんとの対談が決まってから、中心となるそのこと以外に、誰とどこで会って、またひとりでどこへ行こうかといろいろと考えた。
次に東京へ行くのがいつになるかわからず、ひょっとすればもう死ぬまで行くことがないかもしれないとも考え、それでまだ行ったことのない場所を選んだ。会おうと思えば会える人は都内だけでも年賀状を思い出すと何人もあるが、もう1泊しないことには時間が取れそうにもない。気になりつつも見送ることにした。それで前もって対談をメールで何人かに知らせ、対談の会場で会うか、また時間があればその後に会うのもいいかと思ったが、連絡のつかない人もあった。また出かける前日の深夜になって行こうと決めた場所もあるなど、時間単位で動く必要があるスケジュールとなり、結果ほとんどそのとおりに物事が運んだが、ひとつ困ったのは携帯電話を持っていないことで、これは会う人ごとに電話を借りて、また次に会う人にかけるということをした。公衆電話をあちこちで見かけたので、それを使えばどうにかなるし、また母からもらったテレフォン・カードが数十枚もあるなど、まだ筆者は家の固定電話と公衆電話でどうにか間に合わせている。今の若い人たちは、ある場所での待ち合わせをあまりしないそうだが、それは携帯電話で移動しながら合う場所を確認出来るからだ。便利だが、その便利が時として味気ない。文明の利器は何事も味気なくすることで、それをそうと思わない人が先進的文化人ということだ。小説に電話が登場するかどうかで、書かれた時代がわかるが、これだけ携帯電話が普及すると、固定電話しかなかった時代のことを人々が理解出来なくなるのは時間の問題で、何事も急速に古びて行くのが現代だ。テレフォン・カードが出た当時、えらく斬新なものが出たと思えたし、それをコレクションする人がイタリアにも大勢いることをTVで知ったが、今ではもうほとんど誰も注目せず、まだそんなものがあったのかというほどの古い印象を持つ。使われなくなると、年月に関係なくそれは遠い過去に埋没する。それを絶えず新しい古典として認識するには、世代を越えて伝達して行く必要がある。そこには放っておいても人々に受け入れられるものもある一方、儲かるからというドライな経済論理もまた大きく支配する。この点はザッパもよく言っていたことで、クラシック音楽で相変わらずバッハやベートーヴェンがもてはやされるのは、それを演奏しても、また録音したものを売ろうとも、作曲家に著作権を支払わなくてもいいからだ。それは現場で誰の援助も受けずに音楽活動をしている者の意見として一聴に値する。またザッパは、助成金目当てにせっせと作曲してどこかに応募するような連中も哀れんでいたが、それはある意味では芸術がわからないくせに金で芸術家を屈伏させようとする権力を持つ連中への当てこすりと、へりくだって金をもらおうとする作曲家連中に対する勝ち誇りで、この後者は自分でどうにか好きなことを長年やり遂げて来た商売人としての誇りたい気持ちが反映している。だが、ザッパの理想としてのアブソルートリー・フリー(完全なる自由)はレコードを売って、あるいは毎年コンサートにかけつけてくれるファンのお陰によって獲得、持続が出来たにしても、それもザッパが死んでしまえばどうなるかわかったものではない。それをザッパはよく自覚していたはずで、それもあって墓は素朴なものでけっこう、銅像的名誉なんぞ不要と思った。芸術家は崇高な理念を持つとしても、霞を食ってばかりで生きて行くことが出来ない。ザッパの経済に対するさまざまな思いと行動は、下品な話として退けられがちだが、結局世の中の表面上の関係はお金で動くことが大半であり、それは実に大切なことだ。わたしは少なくてけっこう、欲などありませんといった顔をしていると実際相手のいいようにされて、霞しかもらえないというのが現実であり、それは陰で馬鹿者と認識されることだ。
ロック・ミュージシャンで名誉や経済的成功の大きさからしてダントツに大きな存在がビートルズだが、あまり大きく儲けたので、ほとんどジョン・レノンにしてもポール・マッカートニーにしても、お金には淡白に見える。それがまた頂点に立つ者の貫祿ということであり、そのためになおさら現在の若者たちも崇拝の度を高める。それに大ヒットをたくさん飛ばしたという事実がより貫祿の度合いを高めているが、オノ・ヨーコがレノンのことを、もしビートルズとして成功しなかったら、リヴァプールのうらぶれた酒場でちょっとこましな詩を書いてギターで演奏する才能に終わったと言っているのは、なかなか正直な意見でよい。そして、レノンは運によって大成功したが、その運によってまた殺されたのであり、そこに人々が心酔するロマンがあり、永遠のヒーローの座を獲得した。その点ザッパは前立腺癌で死んだが、それは仕事中毒のザッパに実にふさわしい象徴であるし、レノンのように有名税のような形でファンから殺されるということと比べると、何だかえらく格好悪いところもある。だが、それだけザッパは人間臭くあると言えるし、また仕事に熱心であり続けたのは若い頃に食えなかったという一種の強迫観念が生涯つきまとったためではないだろうか。ザッパは「今日の芸術家は死を拒否する」と繰り返し言いつつ、その呪文によって殺されたようなものだ。そして53歳になったばかりの死は、やはり早かったとしても、レノンの死に比べれば充分か。そして50代半ばを越えた筆者は自分をもう「翁」と呼ぶにふさわしい年齢と感じているが、自分はどのような自分にふさわしい死が待っているのいかとも思う。話を戻して、レノンがビートルズの幸運をつかんだとすれば、ザッパはマザーズということになるが、それはビートルズのお陰もあったろうか。ボブ・ディランはこれだけロック音楽で有名になる人物が増えたことは、ビートルズのお陰で、銅像を建てて讃えるべきだと公言したが、それは正直な意見で、その点からすればザッパもまたビートルズが作ったブームに便乗したと言える。だが、重要なことは、ビートルズ現象があったからザッパという才能が開花したのではないことだ。確かにレコード・ビジネスはやりやすくなったが、ザッパはビートルズがいなければ別の方向の音楽に進んだであろうし、その方面でも立派に名を残したに違いない。つまり、ザッパはビートルズ現象というものもまたひとつの自分の周囲の音楽とみなしたに過ぎず、そこから奪えるものは奪い、皮肉の対象にしたいものはそうしたまでのことで、ザッパにとってビートルズはひとつの利用出来る駒に過ぎなかった。だが、ビートルズがさすが凄いと思わせられるのは、レノンの出自がポールのそれとは大いに違い、その両者が共作したことの強みだ。これは直枝さんとの対談でも言ったが、筆者は中学生の頃からビートルズをリアル・タイムで聴きながら、断然レノンの曲が好きであったが、その理由は、ポールもそうだが、特にレノンの叫びとささやきの大きな落差だ。なぜレノンがそのように叫ぶのか、10代半ばの筆者はほとんど本能的にその理由を把握していた。叫ばずにはいられない何かがレノンにはあったのだ。それは簡単に言えば少年期の恵まれない肉親愛で、当人にとっては穴埋め出来ない大きな不幸を抱えていたことによる叫びは、説明がなくても筆者には伝わった。そしてその点において筆者はジョンに大いに同調したが、筆者がレノンと全く同じ愛情不足であったというのではない。筆者なりに別の叫びたくなる事情があって、それは今も持続しているが、そのことが筆者の現在の生き方の理由をよく説明するとも思う。もっと言えば、芸術行為には2種の方向があって、ひとつは何か不幸と呼べる事柄を内面に大きく持っていること、もうひとつは、そういうものはあまりなく、ただ幸福感を人一倍感じ、それを表現したくてたまらないことだ。だいたい誰でもその2種を持つとしても、どちらか一方に多く傾く。そしてレノンは前者で、マッカートニーは後者だが、筆者は紛れなく前者と自覚している。そして、直枝さんは、その音楽を聴くと、後者に思える。ザッパはどうなのだろう。そのどちらでもないようなところがある。
さて、もう行くことがない東京かもしれず、ならば行っておきたいところとしてジョン・レノン・ミュージアムをと思った。同じ沿線に亥の刻があって、そこで昼食を取ろうと計画した。亥の刻には黙って行くつもりであったが、宇田川さんに2日前にメールすると、筆者が訪れることを亥の刻に伝えてくれた。新幹線で朝の10時頃に東京駅に着き、どのようにして埼玉に行くのか構内を歩いていると、すぐに京浜東北線の文字が見え、階段を上がった。初めて乗る線だが、予めネットで調べていたのがよかった。柱の路線図を見ると、大宮まで確か43分とあった。かなりの距離だ。電車に乗ると、座席が大きく空いているのでそこに座ると、何と左側すぐに黒人男性がベッドで横になるような格好で、しかもヘッドフォンから車内全体に鳴り響く大きな音量でヒップホップを流しながら、鼾高々に眠っている。それを見て誰も近くへ寄ろうとしないどころか、前に座っている人も隣の車両に席が空くとそこへ移って行く。筆者はそのままずっと隣に座りながら埼玉新都心駅まで行ったが、結局その男は目を覚ますことはなかった。都内を出る頃に入って来た白人男性がそれを見兼ねたのか、いくつか先の駅で下りる際、黒人の肩を大きく揺すったが、それでも目を覚まさなかった。埼玉新都心駅はほとんど予想したとおりで、ジョン・レノン・ミュージアムまで全く迷わず、そのまま導かれるように到着した。展示場はさいまたアリーナ内にあって、このアリーナはロック・コンサートにも使用されるが、何もないだだっ広い場所に出来たという感じで、周辺に古い町はなさそうだった。電車でずっと窓の外を眺めていたが、川口辺りは古い町並みもまだ残っていそうだが、概して大阪の郊外と大差なく、また日本のどこにでもある風景だ。なぜレノン・ミュージアムが埼玉に誘致されたのか知らないが、オノ・ヨーコの心象をよくする出来事があったのか、あるいは入札によって最も高額をつけたためであろうか。貴重な品々を展示するとなると、それなりに保険もかけ、またしっかりとした建物も必要であり、さらに観客動員数が大きい方がいいので、本当は都内が理想だが、そうならなかったのはなぜだろう。埼玉がレノンと何らかの縁があればまだしもだが、案外アリーナに来る大勢の人を当てにしたのかもしれない。開館時間の11時を少し過ぎて館内に入ると、すでに10名ほどいた。チケット売場など、制服姿の若い女性が数人いて、人件費も馬鹿にならず、それが賄えるのだろうかといささか心配になる。会場は4階と5階にあって、5階にエスカレータで上がるともう下には戻れない仕組みだ。1時間の予定で見たが、西川口の亥の刻に12時半頃には到着したいと思ったので、50分ほどで済ました。もっとゆっくり見ると2、3時間は費やすことが出来るし、また本当はそうすべきであろう。第32号という小さなパンフレットをもらったが、季節毎に多少企画を替え、そうした印刷物を作っているようだ。生誕60年の2000年10月9日にオープンしたとのことで、ヨーコからの正式な許可を得ただけあって、5階は全部ジョンとヨーコのふたりの軌跡に与えられている。4階は売店などを除くと区切られた展示ゾーンは3つあって、「少年時代の記憶」「ロックンロールとの出会い」「ビートルズ」だが、ビートルズ・ファンからすれば、ポールやジョージ、リンゴに関してはほとんど何も説明されていないも同然で、多少不満が残る。だが、間違ってはならないのは、これはビートルズ・ミュージアムではないことだ。ゾーン1の「少年時代」で初めて知ったが、ジョンの父親は孤児であった。さびしく育った父親の血をそのまま受け継ぐように、ジョンは両親の愛情をもらうことが出来なかった。そういう子にありがちだが、感受性豊かに育ち、絵が上手で、何かを表現せずにはいられない子になった。2代続いた親の愛情不足は、ジョンの息子のショーンにも繰り返されたことになるが、ヨーコが上手に育てたし、また生まれてすぐジョンはショーンを大いにかわいがって世話をたので、愛情不足の度合いはジョンの父やジョンよりかはましであったかもしれない。だが、父がピストルで殺されたという記憶はどれほどショーンの内面に影を落としているかと思う。ショーンをTVなどで見るたびにそう感じる。
ゾーン1に入る前、7分ほどのフィルムを見せられた。こうした映像は「ビートルズ・アンソロジー」やまたジョンの映像集が何度も見ているもので新鮮味はないが、あまり詳しくない人には必要であるし、またこうした施設では映画館の雰囲気を楽しませることは、今は不可欠とも言える。ジョンが使ったギターの数々、また衣装、そして歌詞を書き留めた紙、少年時代のノートなど全部で約130点の遺品は、すべてヨーコが遺産として手元に確保したものだが、時々展示替えがあるのだろうか。レプリカの展示も目立ったが、近頃の複製は精巧であるので、あまりそうとはわからない。5階のヨーコと出会って以降の展示は6つのゾーンに分けられ、また各ゾーンの面積は4階の比ではないほど大きいが、そのゆったり感は、ちょうどアルバム『イマジン』とよく似て、広々としていいが、やけに空疎な印象も強い。ゾーン4では、壁際に天上に達する階段があったので上ったところ、最上部に達すると、天井にインスタント・レタリングで黒く、小さく「yes」と記してあった。その文字の周囲は擦られて黒く、またかなり傷んでいたところ、きっと何度もその文字が剥がされたに違いない。そのたびにまた「yes」の文字を貼っているのだが、そのいたちごっこがやけに生々しい。その文字を見た後は下り専用の階段で下りることになる。このアイデアは実際の当時のロンドンのインディカ・ギャラリーでの展示方法とは異なるが、どうにかジョンとヨーコの出会いを体験させるという意味ではいい企画だ。ゾーン7「ニューヨーク・シティ」では、パネルに「フランク・ザッパ」の文字が一度だけ登場する。永住権取得のために戦ったことや、反戦活動の紹介がメインで、この辺りまで来ると早足になる。ゾーン8「失われた週末」は記憶にない。メイ・パンとの浮気、またニルソンと毎夜飲んだくれたことなどの説明はなかったように思うが、ジョンとヨーコの夫婦生活の危機の時期で、展示面積もかなり小さかった。ゾーン9「ハウスハズバンド」は、当時ジョンは主夫業などして、音楽を忘れてけしからんとえらく批判を受けたが、ヒーローになれば、生き方までそれ以前の理想と合わさねばならず、全くしんどい話だ。75年以降数年の空白期間は確かに当時筆者は物足りなくはあったが、すでにザッパの音楽に深くはまっていたので、ジョンが幸福に家庭生活を営んでいればそれで充分という思いがした。自分の期待どおりに音楽活動をしてくれると思い込むのは傲慢というもので、またそれほどジョンは活動が予期出来るほどの小さな存在でもなかった。ジョン以降ではないだろうか。主夫業というのが流行し始めたのは。男が台所に立ったり、また子どもの世話をすることはいい。とにかく常に時代の先端に立ち続けたことをジョンはよく示した。ゾーン9からは最後の広い空間に至るが、そこは狭い通路になっていて、ジョンが銃殺されることを予期しながら歩く仕掛けが凝らされている。それは展示効果としてはよく考えられたものだが、銃殺されたこともまた劇的な展示効果としてみなされるところに、死までもが見世物になっているジョンの神格化を思う。それはもうほとんどキリストに近い。そして、親の愛情を知らずに育ったジョンが、それほど有名になり、またヨーコの愛に包まれて幸福であったことをファンは安堵して会場を去ることになる。