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●『中西勝展』
り広告で見て行くことに決めたが、ようやくその機会があったのは、ちょうど先週の12日のことだ。



●『中西勝展』_d0053294_17512172.jpgその5日前の日曜日にも神戸に行ったが、家内とふたりであるから電車代も倍になる。それにこの展覧会は、前に『石坂春生展』でも訪れたが、六甲アイランドの小磯良平の記念美術館での開催で、六甲ライナーに乗り換える必要があり、これが短い距離なのにかなり高い。それに美術館の周囲が殺風景なのが気に食わない。だが、見ようと決めたからには行く。そしてここにその記録を残しておく。当日は神戸市立博物館で先にひとつ展覧会を見て、その足で阪神沿線の魚崎に出たが、美術館に到着すると閉館まで25分しかなく、かなり焦って見た。図録も買わなかったので、以下に書くことは粗い感想だ。まず、電車内のポスターを見た時、そのメキシコだろうか、母子を正面から描いた作品「大地の聖母子」の左右対称形に目が行った。逞しい母が小さな子を膝に抱いていて、4つの目がこっちを凝視する。鑑賞者との間に3角関係が成立するこの状況は、見ていてたじたじとなる。その迫力がこの絵の魅力だが、画家は実際のその様子を目の当たりにしてこれを描いたのだろう。そこには物事に動じない母と、そしてそれを全面的に受け止める画家がいて、その拮抗を鑑賞者は感じて、この絵を忘れられなくなる。筆者は名前が左右対称の字面をしているせいか、この左右対称形には関心がある。今は休んでいるが、以前は切り絵も毎月作っていた。強烈な印象を与える中西のその絵がどういう経験から来たものか、また別にどのような作品を描くのか、それが気になり、その1点のみを知る状態で出かけた。また、小磯良平の画風とは全く異なるが、小磯記念美術館で開催されるのは、兵庫に因んだ画家であることが想像出来たが、世の中には筆者の知らない、実力のある画家がたくさんいることを改めて思った。さて、中西は大正13年(1924)、大阪に生まれた。確か四条綴であったと思うが、画家になろうとしたきっかけは、中学生の頃、剣道部に所属していたのに、同級生の女性から画家になった方がよいとの意見を耳にしたからだ。これはなかなか面白いエピソードだ。本人は当然絵は好きであったろうが、周囲はよりその才能を高く買っていて、本人はそのおだてにそのまま乗ったというのがその後の人生を決定した。何になろうかと少しでも早く決心することがその道での大成を導くが、大多数の青少年はそのような自信を得ることが出来ないまま大人になり、そのまま別段好きでもない仕事に向かう。どんな仕事でも好きでやらねば長続きしないし、また続けば今度は心身を壊す。「仕事とはいやなもの」と以前友人が言っていたが、筆者はそれに反対した。いやなことをやって生きるのは人に自慢出来たことではないどころか、えらく格好悪いことで、人からはなぜ好きな仕事を選ばないのかと問われるだろう。いやな仕事であっても、やっているからには、人に向かってはいやだとは言わない方がよい。またいやだという素振りを見せると、ろくな仕事は出来ないもので、自然と会社から排除される。それが社会の論理であるし、昨今の不況ならばなおさらそうで、いやで仕事している人は、結局そこから開放される機会が増えて、本当は感謝すべきかもしれない。
 中西は画家になることを決めて中之島洋画研究所や東京の川端画学校で学び、昭和18年(1943)に帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入る。このあたりはごくまともで真面目な画学生の経歴で、今でも同じような人は毎年何千何万も湧いて出る。そうした最初の仕事として今回最初に飾ってあったのが、昭和17年の「風景(枯野)」で、18歳の作品だが、油絵具のグニュグニュっとした感じをよく引き出した印象主義的な作品で、すでに才能のほとばしりがよく表われている。同じ年に書かれた鉛筆画の「風景(冬の月)」は、涙を流しながら感動して描いた冬の夜空に満月が浮かぶさびしい街路で、表現主義的な童画といった感じだ。今ならば絵本の原画といったところだが、なかなか情緒があってよい。次に武蔵野美に入学した当時の同じ場所を描いた2点の風景画も出ていたが、ごく普通の感じがするが、どこかに気配が漂って、印象に残る絵だ。中西のそうした画学生の活動は学徒出陣によって一気に中断される。中国大陸にやられ、家内に言わせると図録に書いてあったそうだが、そこでは脱走兵の疑いをかけられて監禁されるなど、悲惨な体験をした。大阪に戻って来て大阪市立美術研究所などでまた絵を学び始め、その頃に描いた女性像や自画像が次に7、8点並んでいたが、レンブラントの光を意識したり、またスーチンのような激しい色使いやタッチを思わせる絵など、さまざな大家の技法を意識し、習得しようというた様子がうかがえる。この傾向は中西のその後もずっと続くもので、古典と流行の先端の両方に目を配りながら、それらを器用に吸収しつつ、自分の描きたいものを描き続けたと言ってよい。そこには自我の独特の技法を見つけて余分なものを削ぎ落として行くという方向ではなく、常に周囲に目配りをし、何でも吸収しながら、それでも自分の個性を信ずるという立場で、多様な画風の変遷そのものが、中西の魅力と言うことが出来る。何だか結論めいたことをこうして書いてしまうと先に進めないが、中西のそのような雑多性とも言える手法は、筆者にはここ100年の日本のどのような表現者にもついて回る宿命であり、また大阪人であった中西はなおさらそうであったのではないかと思い、またそこに同調も出来る。戦争から帰って来て描かれた若い女性像は、みな温かみのあるものばかりで、中西の青春をよく示し、きっと中西は絵画と女性の両方に癒された。生きて帰って来ることが出来て、この先画家としてどのような絵を描いて行くか、中西は戦争以前にも増して考えたことだろう。そう思えば戦争の体験もまたよかったかもしれない。画家は結局は自分の人生が感じたことを描くしかないから、その感じるということは、外的な要因が大きければ大きいほど振幅を持ち、作品に強さが加わる気がする。強靱な精神があっても、時代によってはそれがそのまま発揮されずに腐ることはあろうし、あまり平和が続くとその反動でかえって作品は平和的を過ぎて、内部から腐敗が始まったものになるような気がする。だが、そうであっても当の作者にはどうしようもない。そのまま時代に正直に反応したまでのことであるからだ。だが、中西は戦後の日本をずっと見続けて来て、高度成長もよく知り、そうした日本の急激な変貌ぶりに対してどのようなアプローチをしようかと思ったはずで、そこに妻と一緒に世界旅行に出かけようという気持ちを起こしたのではないだろうか。
 これも図録に書いてあったそうだが、中西は最初の結婚が破綻し、2度目の妻を向かえてから世界旅行に出かける。昭和40年(1964)秋のことだ。その資金は、あるアメリカ人が中西の絵を買ってくれたことによるらしい。この点、さすがアメリカ人で、自分の信じた才能にぽんとお金を出す。日本ではまずそんなことはなく、どこかの大学の教授か、あるいは売れっ子の画家でもない限り、まず絵は売れないもので、絵を買う人は絵よりもその周りに貼りついている肩書のようなものに信頼を置き、そしていつかその価格が高騰すると、まるで不動産と同じように思う。もちろんアメリカにもそのように考える人はいるだろうが、まだ日本より少ないのではないか。それは個人主義がそれだけ発達し、自分を信じているからだ。芸術などもともと自分の好みにしたがって優劣をつければよいもので、いくら巨匠と目される人の作品でも、鑑賞者にとって少しも感動がなければ無視してよい。その芸術的価値がわからなくても全くかまわない。縁のないものはこの広い世界では無限にあるもので、世間的評価にそのまましたがった価値感を持つことほど面白くないことはない。旅行は4年半に及んだ。自家用車「かたつむり号」の運転は奥さんがしたそうだが、中西は当時40歳で、体力的にもまた作家としてもちょうどいい時期であった。車の命名からして、さして急ぐつもりはなく、のんびりと好きなところに行って好きなだけ描くという旅であったはずだが、円がまだ1ドルに対して360円の時代であり、これは当時としても珍しくも恵まれた経験であった。その世界旅行はたとえばフィレンツェやローマ、アメリカのブロードウェイなど、今の観光と変わらない場所もそこそこ行ったようだが、20数か国を回る中、画家として決定的な経験となったのはメキシコやモロッコで、気に入ったある村に1、2か月滞在することがあった。そこで出会うのは大地に根ざした人間や母子で、それが中西のひとつの大きな主題になった。だが、それは外国に出て初めて見つけたというものではない。中西は昭和24年(1949)に結婚し、まだ戦争から完全に立ち直っていなかった神戸の塩屋に転居し、中学の美術教諭となるが、当時の作品として、神戸三宮のジャンジャン横丁を描いた「無題」がある。これは宮本三郎、田村孝之介らが創立した第二紀会の第3回展に初出品して大賞を得たもので、全体に暗い画面の中に人物の群像を描き、画面右半分に光が当たる。静かだが力のこもった絵で、当時の逞しい女性たちをよく表現する。ここにすでに女性の動物的な逞しさというものに着眼した中西がある。結局中西は人間や女性に関心があって、そこが中西の人間的魅力の源になっているのだろう。だが、そんな中西も人物を具象的に捉える絵ばかりを描いたのではなく、ピカソ風のキュビスム的抽象画をその後描き、それはクレー風やエルンスト風、カンディンスキー風など、また色合いも白黒のモノクローム調もあれば、鮮烈な赤あるいは原色を主体にしたり、戦後押し寄せた抽象絵画の総ざらえ的画風の変化は60年代半ばまで続く。50年代半ばからは「日本の鳥(蘇生)」に代表されるように抽象的な鳥のモチーフが頻出するが、勾玉の形に触発されたのか、それをたくさん羅列したような「宴」は、外国旅行直前の作としては頂点にある大作で、迫力のある抽象画として忘れ難い味わいがある。
 世界旅行中のスケッチや小品など、一転してまた具象だが、メキシコのサボテンのある光景が気に入ったようであるのは、その未開ではあるが強烈な光や文化に魅せられてのことだろう。最初に書いた吊り広告(チケットも同じ)に印刷される「大地の聖母子」は、世界旅行から帰って来た翌年昭和46年(1971)に描き、安井賞を獲得して中西の名を一気に有名にするが、画家としての頂点はその前後にあると言ってよい。また、左右対称性はデザインの仕事で使用する方法として当人はあまり重視していなかったようだが、その厳格さが「聖母子」の「聖」ある面にぴったりだと思ったに違いない。だが、一度その手法で描くと、後はその繰り返しになる。これは画家として陥りやすい。実際中西は「大地の聖母子」の以前に同様の構図をいくつかの作品に使用した。まず、昭和28年(1953)の台風による伊勢の惨禍に取材した「母と子」がそうで、「大地の聖母子」と全く同じ格好をした母子像を描くが、中西が世界旅行で確信したことの原点が実は身近な日本での惨禍にすでにあったことがわかって興味深い。ならば世界旅行は無駄であったかと言えばそうではなく、「大地の聖母子」に醗酵するまでに20年近い歳月と世界旅行という経験を要したのだ。「やっぱりそうであったのか」というその「やっぱり」を確信するのに、人は一生を費やす。その「やっぱり」は予期されたことであるから、それが来た時には一種虚しい感慨を覚えることもあるかもしれないが、そのかたわらでかつて予期したことに確信を抱くことが出来たというありがたい充実感もある。中西はそれを世界旅行でつかんだ。そして、台風の惨禍に目を向けた中西の人間としての優しさには注目すべきだろう。それは現在の画家にはなかなか持てない視点だ。だが、中西は戦争での悲惨な体験を通して、逆境にある人間に同情出来る精神を忘れなかった。それがあるからこそ、「やっぱり」の「大地の聖母子」であったかもしれないが、その作品は人の心を激しく打つ。「大地の聖母子」の翌年には「黒い聖母子」を描くが、これはアフリカ人の母子で、その貫祿はまた「大地の聖母子」とは違って印象深い。同じ構図と画題であっても、また違って見えるのは、実体験の記憶がそれだけ鮮烈であったからだろう。1971年には川崎重工業健康保健組合の依頼で横長変形の500号の大作「愛と力」を描いている。これは体育館の落成記念作で壁画として描かれたが、阪神大震災で建物が被害を受け、長い間そのままになっていたらしいが、絵は無事であった。「大地の聖母子」と同じインディオの親子が横長画面の中央に描かれるもので、その両脇につるはしを担いだ黒い肌の男性を合計3人画面に向かって外側にを見つめるように横向きに描き、空には数人の天使が走る。また低く取られた地上には地球儀や本、器などを配置し、象徴的な意味合いを深めているが、天使が宙に浮くところは具象画にシャガール的な幻想味を加えた感じがあって、「大地の聖母子」のような土臭さとは別の洒落た感覚が強い。それは天使の浮かぶ空は白が基調となっているため、なおさらだが、この洒落た感覚はその後持続し、ごく近年の作品にはより顕著になっている。2000年に入ってからは、天上世界を意識しつつ、人を育む大地にしっかりと向き合う姿勢によって150号横向きの連作を描き続けているが、2008年の最新作「女人花果華」などは、色数の多いパステル調を使用した女性5人の立ち姿を描き、シャガールの世界の日本的変容と言ってよい。また、様式化したその描き方は、50年代半ばに培った抽象と具象の中間を行く産物であり、デザイン画、童話の挿絵にそのまま使える。そして、そこには油絵具を使用しはするが、日本画にも接する画風がある。初期の暗闇の中で蝋燭の光でぼんやりと浮かび上がる自画像からすれば、中西はかなり遠いところに到達したが、生涯にわたって筋が通っているのは、人間を温かく見つめるということであろう。「芸術家である前にまず人間でありたい」という言葉はそのことをはっきりと伝える。
●『中西勝展』_d0053294_1752879.jpg

by uuuzen | 2009-03-19 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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