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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『ノリタケデザイン 100年の歴史』
リタケ展が京都文化博物館で開催されることを知った時、1、2年前に細見美術館で見たことを思い出した。



●『ノリタケデザイン 100年の歴史』_d0053294_1355869.jpg行かないでおこうかと考えたが、文博は同じチケットで3階で日本の古い映画をついでに見ることが出来るので、ほとんどそれを目当てに出かけた。映画は昼の1時と5時にあり、また上映作品は日変わりであるので、前もってプログラムを調べてから出かけるが、筆者はすでに老化が始まっているのか、なかなか今日が何日か、また何曜日かを覚えることが出来ず、いや覚える気になれず、いつもたいてい間違える。映画は『大阪物語』というのを見たかったのに、上映が始まってからようやく1日ずれていたことに気づいた始末で、それでも仕方なしに2時間近い映画を見たが、それはそれでよかったので、いや癪に触るからよけいによかったと思いたいだけなのかもしれないが、ともかくその映画についてまた書くことがあるかもしれない。さて、そんな忘れやすい、あるいは関心のないことはさっぱり覚えようとしない筆者であるから、1、2年前に見た内容とおそらく大差ない展覧会であっても、もう一度見ていい加減であろうし、ほとんど最終日近い今日行って来た。それで、これを書き始める前に、かつて細見美術館で見た時、確かメモを取ったはずだと思ってそれを探したが、あるべきところにない。というのはメモをしなかったということになりそうだが、した記憶はある。いったいどちらが正しいのか、今ではもうおぼろ気だが、ともかく今回は確実にメモをし、それが手元にあるので、それを元に以下書く。細見美術館ではオールド・ノリタケの展示であったのが、今回は副題が「オールドノリタケからディナーウェアまで」ということで、会場の広さも手伝って出品数は多く、戦前のノリタケ製品だけではなく、現在に至るまでの推移がわかるという仕組みだ。確か細見美術館ではオールド・ノリタケの熱狂的なコレクターの収集品が展示されたが、近年骨董的価値が高まり、美術品扱いを受けている。これはTVの骨董番組で高値をつけたりすることも影響しているだろう。品物がけっこうアメリカを中心にたくさんあり、しかも大量生産品であったので、そこそこの状態のものであればサラリーマンでも充分に買えるという価格のはずで、そうしたこともあって収集熱が広がっていると思うが、筆者は正直な話、オールドノリタケをほとんど美しいとは思わない。それらは日本の陶磁器の伝統のうえに、欧米好みをよく反映した戦略的輸出品であって、その点は歴史的産物としてとても興味深いテーマを与えてくれる存在ではあるが、日本的伝統のデザインや色合い、技法と欧米のそれが出会った時、どこまでインターナショナルなものになり得て、グロテスクさをかもし出さないで済むかとなれば、オールドノリタケは全くの国籍不明の陶磁器で、また金や派手な色合い、精緻なデザインを駆使するあまりのその金持ちに媚びたような様子には物哀しさを覚える。それは明治以降、現在もまだ続く日本の物作りのひとつの特性をよく示しているが、明治では特に欧米を追い越そうという一種の執念が強かった。そして、今度はそのような陶磁器を「オールド」ものと称して珍重する人の意識をうかがってみるが、きっと日本とも欧米ともつかない家屋に住んで、えせロココ調の家具に囲まれて暮らしているのだと思うが、それは戦前のアメリカの中産階級の姿と言ってよく、日本の相変わらずの田舎国家的意識を根に持った卑屈感を思ってしまう。それならばいっそ逞しい民藝品に囲まれて生活した方がうんといいように筆者は感じる。
●『ノリタケデザイン 100年の歴史』_d0053294_1362551.jpg さて、メモを頼りに書くと、第1章は「モリムラブラザーズの創業」で、ノリタケの基礎を築いた人の紹介だ。天保10年(1839)に江戸に生まれた武具や袋物商を営む諸大名の出入り商人森村市左衛門は、開港後間もない横浜から良質な金が大量に流出することを危惧して貿易商を志した、とある。これは当人の日記などが残っているのだろうが、会社が日本を救うために商売を続けたということを主張したいかのようで、確かに理念のひとつにそういうことはあったにせよ、早い話が貿易によって金儲けすれば、それが国家のためにもなるという理屈を信じたのであって、何も国家優先ではなく、あくまでもまずは自分たちが金儲けしたいという商人根性だ。現在のノリタケがどれほどたとえば各方面に寄付やボランティア、芸術家たちへの援助をしているのかどうか知らないが、この創業者の美しい思いをまずこうした展覧会で掲げるのであれば、現在の会社の姿が問われるのは必至であろう。江戸時代に日本が金や銀をせっせと海外に輸出して、逆に日本にないものを輸入し続け、しかもそれが問題となって幕府がいろいろと政策を打ち出すが結局は幕府が傾くことになった歴史からすれば、市左衛門が相変わらず日本から金が流出するのを歯ぎしりして、もっとそれに代わる輸出品をと考えるのは無理もないが、当初扱ったのは骨董品や陶磁器、漆器、屏風などで、これは江戸時代と同じで、日本が得意とする手仕事品を外国のブームに乗って売ろうとするものであって、良質の金の流出云々の話は貿易商になることへのひとつの自分を納得させる言い訳であったと思える。豊臣秀吉以前にも上方では東南アジアに進出して貿易をする者がいたが、そのことからすれば開港間もない頃に市左衛門のような人物が登場するのは驚くに当たらないが、明治9年(1876)に弟の豊とともに東京銀座に輸出貿易業の森村組を創業し、同年に早速弟の豊がニューヨークに行って「日の出商会」を設立するのは、やはり明治になって日本の商人が一気に欧米を向いているところが面白い。豊は同商会を5年後に友人らとともに「モリムラ・ブラザーズ」と改称し、その店の写真が残っているが、そこには何よりもアメリカの開かれた国という印象がまずある。人種差別は当然あったろうが、それよりも珍しい日本の骨董品を扱うという点で金持ちや知識人、趣味人から店は評価されたのであろう。商売を初めて間もなく豊は日本風の絵つけのある陶磁器の人気が高いことを知り、ならば日本でオリジナルのものを作ろうとと決心する。そして森村組は明治15年(1882)から小売から卸売業に転換し、陶磁器作りを始めるが、それは瀬戸の素地を使って、そこに東京や京都、名古屋の絵つけ工場で生産するというもので、窯元や絵つけ工場と専属契約を結ぶ。同じような陶磁器の輸出は伊万里焼きにもあったから、これはその延長上のこととして捉えられる。つまり、日本のお家芸だ。次にややこしい話になるが、その後の発展を導いた人物として、日本橋で絵草紙屋の錦栄堂を営んでいた大倉孫兵衛の紹介があった。彼は開港間もない横浜で市左衛門と知り合い、森村組の商品仕入れを手伝うが、森村組が陶磁器作りを始めた際、孫兵衛の息子和親はモリムラ・ブラザーズに勤務し、その後1904年29歳で「日本陶器」の社長に就任し、親子は終生森村組の発展に努め、「東洋陶器」「日本碍子」「大倉陶園」などを設立して森村グループの発展を導くことになる。「東洋陶器」は
あのTOTOであるから、その発展ぶりにはうなってしまう。なお錦栄堂は「大倉書店」を経て現在は「新生紙パルプ商事」となっているとのことだが、開港に伴う貿易が現在の大会社までつながっている様子がよくわかる。この展覧会の『ノリタケデザイン 100年の歴史』という題名には、そういう歴史が含まれているということだが、ここでもうひとつの決定的な事項があった。万博だ。大倉孫兵衛は明治26年(1893)にシカゴ万博をでヨーロッパの陶磁器の絵つけを見て愕然とする。アメリカではそうした絵つけに根強い人気があり、日本風では駄目だと感じて洋風絵つけへと転向を決意し、早速見本として買い求めたものを携えて帰国、各地に依頼生産し、それをアメリカで販売する。これが「ドレスデン風」と呼ばれて大人気を博し、森村組の画風を決定づけた。つまり、売れるものを模倣して作ろうということで、ここには商人の逞しさがあるが、これは現在の貿易でも何ら変わらない。また、先に書いたように、アメリカはヨーロッパの貴族的な部分に憧れがあり、それを模した代用品としての花瓶や食器類に飛びついたというわけで、オールバノリタケ愛好家はアメリカの中産階級と同じ感覚を持ち合わせていると見ることが出来るし、またそこには日本が100年かかってアメリカの中産階級になり得たことを示してもいる。
 展示の第2章は「オールドノリタケの世界」だ。洋風絵つけを模して作ったとはいえ、そこには日本的な感性が入り、他国では真似の出来ないものを生み出そうという思いから、日本で長い間培われたさまざまな陶磁器の技法が駆使され、そして明治という時代もあって、精緻の限りを尽くしたものが作られる。人件費が安かった時代であるから、凝った手仕事はお手のものであったし、またそれをごく自然とする工芸意識が当時は強かった。それは今でも日本にあると言えるが、全体に国が豊かになって、また工芸作家として名前を売り出そうということから、同じような仕事をしても1個当たりの単価ははるかに高くなり、日用品ではなく、芸術品として自己主張することになった。つまり、オールドノリタケと同じものを現在作ろうとすると、おそらく明治時代の価格を現在に換算したものより何倍も高いものにならざるを得ないはずだ。それは陶磁器に限らず、他の工芸を見てもわかる。また、ノリタケは1点ずつ手で絵つけするばかりではなく、ドイツあたりから輸入した女性像などの転写紙を用いて絵つけする時代が1891年から1921年まで続いたが、それは職人の手描きより高価であったというから、手描きが最も高価であったのではなく、当時は人件費よりも輸入に頼る稀少なものの方が高かった。これは転写紙が安価に入手出来るのであれば当然逆転するものだが、ドイツとしては自分たちが得意とする商品を独占し、ノリタケに容易にまねをさせないでおこうとしたのであろう。転写紙を使った、つまり印刷を部分的に使用した当時の珍しいノリタケは、全部手描きで作ったものより、それはそれとして人気があるのだろう。また、陶磁器は消耗品であるし、また絵つけとはいえ、基本的には文様の世界であるから、ハンコを作って、それを押して絵つけするという方法が当然採られるし、それらは量産品ではあっても、熟練した職人が作ったものとなれば、ハンコである同一性が手描きの不揃いよりも整然としてそれなりの味わいがあったりして、やはりオールドノリタケではひとつの特徴となっていると思える。また、量産ということは、素地は型抜きが基本であって、絵つけにハンコや転写紙が使われるのは当然の趨勢であった。オールドノリタケの大きな特徴は、明治28年(1895)にモリムラ・ブラザーズがニューヨークに図案部を設置し、アール・ヌーヴォーやジャポニズムの最新の流行を取り入れたデザイン画を日本に送り、それを忠実に製品化し、それが当時のヨーロッパ製品を凌いで人気を得たこと、「ノリタケ」の名前にもあるように、絵つけ工場を同31年名古屋の則武に集約したこと、そして同37年に洋食器に適した素地作りを目指して則武の地に「日本陶器合名会社」を設立、最新工場を建て、現在まで続く「ノリタケチャイナ」の製造が本格化したことによって形成されるが、制作の技法的には「金盛」「白盛」「モールド」といった独自の特徴がある。「金盛」は「金点盛」を含むが、これらは素地からレリーフ状に盛られたもので、「金点盛」は微細な金の粒が面をびっしりと覆うという豪華さで、日本画で言う盛り上げ胡粉を思えばよい。「モールド」も同じようなもので、本物の貝や植物などが器に貼りつけられたように見える。またその彩色がぼかしを施し、絵具の多色そのものを自在に駆使したもので、ある意味で陶磁器の頂点を成すものと言ってよいが、その凝り具合がキッチュ性を露にし、筆者にはどうにも安物が化粧をして精いっぱい背伸びしているように見える。早い話が、中産階級の悪趣味で無学な連中にぴったりの品物に見える。そうしたオールドノリタケの豪華なデザインは注文を
取るために当時はそっくりそのまま肉筆で紙に描かれた。その最古のものとして明治37年のものが展示されていたが、大正期までそのように手描きしたそうだ。紙の描かれたものと全く同じ文様がそのまま立体化して生産されたが、これはキモノの雛形にも見られるものと言ってよく、やはり日本の伝統工芸ではごく普通にあったこととしてよい。
 第3章は「ディナーウェアの誕生」。明治36年(1903)ようやく白色硬質磁器の焼成に成功し、大正2年(1913)に開発期間20年を要して、難関であった直径25センチのディナー皿の焼成に成功する。翌年日本初のディナーセットSEDANが誕生し、アメリカで販売されるが、このSEDANというのは、現在まで5000点以上のデザインがあって、その中から代表的な皿が200枚ほどだろうか、壁面にびっしりと飾られていた。アメリカで万単位のセット受注を受け、大量生産の糸口となったのは、通販で石鹸などを扱う家庭用品販売のラーキン社が景品にドイツ製からモリムラ製に切り換えたことで、ラーキン社から提供されたアゼリア・パターンの食器は大人気を博した。これは赤いつつじの花を大きくデザインしたもので、そのファンシーさは今でもさほど古さを感じさせず、若い世代には受けるだろう。1920年代はディナーセットを中心にさらに多くの品目が増えるが、大量消費国家アメリカにうまく乗ったことがノリタケの大いなる発展につながった。ディナーセットの国内販売は明治42年からだが、また同30年に開業した宮内省御用達の洋食屋「東洋軒」からの注文もあるなど、日本のごく一部の金持ちにはすでに知られた存在であった。第4章は「ノリタケ・アール・デコ」で、イギリス人のデザイナー、シリル・レイがモリムラに提供したアール・デコ・デザイン画を用いたものが1920年代にアメリカ全土で高い人気を獲得、そしてラスター彩も多用するが、1929年の世界恐慌でアメリカへの輸出は激減したため生産は終了、ラスター彩も作られなくなる。第5章は「テーブル・ウェアの変遷」で、大正7年のボーン・チャイナの開発から戦後、現在に至るノリタケの紹介となっていた。アジアに向けて輸出、また国内では分割購入によって1年ほどかけてテーブル・ウェアが揃うという仕組みを作ったり、さらには宋の白磁に匹敵するかのような、最高の技術によって芸術的価値のあるものを目指すなど作りも販売も多用化している。
by uuuzen | 2009-03-13 23:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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