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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『椿昇2004-2009』
で15分ほどのところに回転寿司屋2か所ある。方角は別だが、よく行く方の途中、昔で言う看板屋がある。



●『椿昇2004-2009』_d0053294_16553019.jpg今はどう言うのか、野外広告会社だろうか。とにかくその店、いや会社の小さなビルは、屋上に巨大なビニール製の立体キャラクターがあって、それが夜になると点灯するため、遠目によく目立つ。昔ならアド・バルーンというものがあった。大阪の町中ではビルがまだほとんどなかった頃、日曜日になるとよくそれがいくつも空に上がって、その下では新装開店があったり、特別の売り出しのあることがよくわかった。もちろんその頃にも新聞のチラシはあったが、赤一色で刷ったような地味なもので、宣伝というものは手段が限られていた。セスナ機がビラを空から撒く宣伝方法もあって、中には小さな落下傘に広告をくくりつけて落とす場合もあって、風に乗って遠くに運ばれるのを下から見上げながらそれを拾いに走ったものだ。空からビラを撒くなど、今のゴミ問題からすれば言語道断の行為だが、紙がまだまだ少なかった時代なので、それも許された。今は高層ビルがどこにでも建ち、アド・バルーンはもうとっくに死んだものだと思っていると、案外そうでもないようで、先日阪神電車に乗っていると、窓の向こうに黄色のアド・バルーンがひとつ上がっていた。その写真が撮れればよかったが、一瞬のことで無理であった。まだどうにかアド・バルーンはビルより高く上げることが出来る点で、これからもなくならないだろう。先に書いた広告会社ビル屋上の巨大立体キャラクターはアド・バルーンの進化形と言えばいいだろうか、いったいどのようにして膨らましているのか、またどのようにしてビニールを接着ないし縫合しているのか、アド・バルーンの複雑形を思えばよいから、別段不思議でも何でもないが、大きなものになるとアド・バルーンより桁外れに重要や容積があるから、ロープで結わえて空に浮かべることは無理なのであろう。いや、ロープをなくしたそれが飛行船であるから、空に浮かべるのは可能か。そういう変化形のアド・バルーンも見たような記憶があるな。さて、前置きが長くなった。この椿昇展は先日TVで少し紹介しているのを見た。筆者はこの作者の名前を知らないが、京都国立近美がこうした日本の現代美術作家の個展を開催することはきわめて珍しい。その分、意気込みがそうとうなものであるはずで、これはぜひとも見なければなるまい、とそう思って出かけた。副題に、「GOLD WHITE BLACK」とあって、会場からチラシに至るまでこの3色で地味かつシックに統一されている。館内に入ってまず驚いたのは、1階のフロアが白いビニール製のぐにゃりとしたビニール製のロケットで大半が占められていることだ。これは「mashroom」というタイトルで、2階の吹き抜けまで届いている。本当は野外で展示したかったのだろうと思うが、向かい側の京都市美術館前ならばどうにか可能でも、市が許可しなかったであろう。このビニール製ロケットをどのようにして作ったのか、また何の意味があるのかは、会場内を巡ると、おぼろげにわかって来る。とはいえ、それは鑑賞者個人の思いに委ねられているであろうし、どの見方もそれなりに正しくはあるだろう。空気で膨らんだビニール製の巨大ロケットに隠花植物の「きのこ」の題名を付すところに、作者のひねりもあるが、しかも表面にNIPPONの文字が書かれているのであれば、それが現代日本の巨大化しながらもどこか茫洋として力のない様子の端的な象徴に思えるのは誰しもであって、世界における日本の特殊性がそれによって露になっているとも言える。
 世界における日本の特殊性はよく言われる。TVではほとんどチンピラ顔をした評論家が、日本のブヨブヨした精神は憲法9条が原因であるといった意見を、下品な顔をして口尖らせて主張しているが、筆者からすればああいう連中を平気でTVに出演させ続けるところになおブヨブヨの日本の現状を思う。どうせTVであるし、またお笑いタレントと同席させての番組であるので、目くじら立てることはないと言えばそれまでだが、TVを毎日楽しみにどうにでも意見を変える、つまり個というものを自覚しない多くの人々にとっては、そうした連中の野卑な意見はうまく内面に刷り込まれ、それが大きな世論として拡張する危険も一方で考えておく必要はある。戦争で徹底して懲りたかと言えばそうではなく、妙な不満が燻り続けて、そこに先のようなろくでもない評論野郎たちが物知り顔でまた戦前同様の意見を平気で吐く。そういう姿は戦後の無責任主義のなれの果てでもあって、当人たちはお笑い芸人と同じように、自分の顔が売れて多くのギャラが入れば文句はないわけで、そこをよく見透かして、さっさとTVのスイッチを切る方が精神衛生上よい。さて、この展覧会は、そうした日本の現状に思いを馳せることにもなる点でなかなか印象深いものであったが、チラシ裏面に細かい文字でびっしりと書かれた椿昇氏の日記、そして会場内で配付されるパンフレットに書かれる同様の細かい文字による別の日記や、また館長の文章などに目を通すと、さらに展覧会の意図が見えて来る。いや、それは部分的であって、本当は図録を買って、そこに書かれている文章も読む必要がある。筆者は図録を買っていないので、チラシ、パンフレット、そして会場で感じたことの範囲でしか以下書くことが出来ないが、それもまたひとつの見方であるだろう。で、それらの文章を読んでわかったのは、椿氏は子どもの頃、プラモデル作りを趣味としていたこと、そしてガンダムに憧れたことで、その原体験のひとつと呼んでよいものがこの展覧会にそのまま反映していることだ。つまり、筆者より若い世代で、今のTVゲーム世代の精神構造をよく理解出来る立場にある。筆者は小さな頃にプラモデル作りをしたが、それほど熱中しなかった。それは完成作が最初から見えていることの面白味のなさだ。うまく作ったところでそれはプラモデルの設計者の技術を前提としたもので、とても創作とは言えない。確かに色を塗ったりする過程では創作も多少はあるだろうが、誰が作っても同じものになるというのは面白くない。小学校の3、4年生の頃に戦艦大和を作ってから筆者はぴたりとプラモデル遊びをしなくなった。次、ガンダムだが、これは前にもこのブログに書いたことがあるが、筆者はその世代ではなく、また関心もない。ところが、趣味の世界とはなかなかやっかいなもので、当の趣味のある人からすれば、その趣味を無視して何かを書く人物が許せない。つまり、筆者がガンダムに関心がないと書くだけで、もう筆者を敵と思うだろう。そういうことがよくわかるだけにまた筆者はなおさらガンダムに何の関心も持てないどころか嫌悪感を催すが、そういうガンダム世代が夢想する、あるいは現実把握というものは、未来における戦争というものもあるようで、それがつい現実世界において各地で勃発している諸問題と結びつけるなりして、選ばれた者のみが生き残る終末論のようなストーリーを組み立てて、その中で自慰行為に耽る。そこには現実と仮想世界を境界を限りなく曖昧にしてけっこうという「オタク」世代のゲーム感覚至上主義があるが、一歩進んで、世界各地を旅しながら、現実に横たわっている諸問題を見つめながら、そこに何らかの思いを造形によって示そうという人も当然あるだろうし、それがたとえば椿ということにきっとなるのだろう。
 そういう椿の思いは、筆者の想像だが、ニューヨークのツイン・タワーに旅客機が激突したり、また湾岸戦争などで、ハイテク技術によって、まるでゲームのように人間が標的にされて殺されたりした現実を受け止めてのこともあるだろう。たとえば、NHKの夜の番組で見たことがあるが、暗闇に停止するアメリカのヘリコプターが赤外線を使って、遠くの体温を関知し、そこに機関銃の標準を合わせて、一瞬のうちに兵士の肉体をこなごなにした。兵士は周囲が真っ暗であるから、まさか遠くの空にヘリコプターが浮かんでいて、そこから撃たれるとは夢にも思っていない。ひとりが撃たれたことを知って、もうひとりがそこから立ち去って物陰に走り去るが、現代のハイテク機器は、そのようにして隠れてもはっきりと人間の姿を捉え、また狙ったとおりに弾を打ち込むことが出来る。暗闇に人間の塊として見えていたものが、ほんの1、2秒後には、肉片となって散らばる様子がTV画面ではっきりとわかったが、それはまるでゲームを見ているような気分にさせる。実際の戦場がそのようであれば、現在の若者が熱中するTVゲームにもそういう平然とした殺戮主義が蔓延して不思議でないどころか、意識下に実現してみたいという欲求さえ生じるのもやむえ得ないだろう。そして、そういう若者がたとえば自衛隊員になる。日本はいつでもハイテク戦争に参加出来る心の準備は、TVゲームによってすっかり整っているというわけだ。そういう若者世代は、だいたいプラモデルからガンダムへという文化を受容もして来たであろうし、そういう流れは、筆者はよく理解出来る。筆者が小学生に頃に盛んに呼んだ月刊、週刊マンガには、戦争物が多かったし、またプラモデルの広告もいつものことであり、戦艦や戦車、戦闘機のイラストは毎号欠かせないものであった。そのため、限りなく仮想現実化しているTVゲームの愛好という趣味もよく理解出来る。一方、そうしたTVゲームには、リアルさの追求のために、各キャラクターや舞台がより精彩な表現へと進化し続けるが、そこにはコンピュータの発展が欠かせず、それに伴うあらゆる動画ソフトの登場もある。ここ10年ほどの現代芸術作家における大きなひとつの特徴は、コンピュータを駆使する能力を持つことで、これは写真家でも画家でも彫刻家でも同じで、ともかく従来の古典的技術のほかに、コンピュータが得意とする手法を併せ持つことで、作品の規模を大きく、また一見異質なものにしようとする。この傾向はおそらくますます進化して、やがてコンピュータを操る能力の方が大きくなるだろうが、その傾向はすでに始まっている。椿氏もその部類で、これはプラモデル趣味からガンダム世界への没入、そしてコンピュータ・ゲーム内部の手法など、ある意味ではその時代ごとの「オタク」的なものを吸収し続けて来た作家像を呈している。だが、椿氏は「オタク」が得意とする仮想現実よりもむしろ、現実を見つめ、そこから矛盾や人間としての普遍的諸問題を作品行為の俎上にのせ、それを「オタク」的手法で見せようとする。これは現在日本の一作家の姿としては当然あってしかるべき位置だが、世界各地で取材した写真や言葉などを作品化する際に、「オタク」的手法を使うあまり(それが氏の好みであり、また幼い頃からの趣味の延長としてそうするしか本人にとっては納得が行かないからだが)、作品にリアリ
ティがなくなって、何を主張したいかが曖昧に思えて来る。氏の思想が図録に詳細に文章で示されているかもしれないが、人間の欲望に起因する人間世界の矛盾を糾弾するというのではなく、また日本の世界から見た場合の異常とも言えるブヨブヨ感を再認識させるためでもないであろうし、それこそ先に書いたように、どのように見て感じてもらおうが自分はかまわないのかと言えば、そうとも言えないであろうから、何かつかみどころがなくて鑑賞者としては立ち往生してしまう。
 さて、会場に入ってすぐにあった白いビニールの巨大ロケットは、パフレットにその全体設計図が印刷されている。雑誌の付録によくあるような、切り取って糊づけすれば立体が完成するというやつを思えばよい。それは椿氏のプラモデル趣味の発展形で、技術的には最初に書いたように、アド・バルーンの進化形、複雑化したものだ。そういう技術を個人が持ち、また美術作品のひとつの造形手段として用いるのは別段不思議ではなく、日本におけるミニチュア作りの伝統から昭和のプラモデル全盛期を経ての、いかにも日本らしい手法とも言える。それにずんぐりとしたその空気で膨らませた形は、子どもが素直に喜ぶことが出来る具体的なものであって、ほとんど作家しか理解していない意味不明の抽象作品よりはるかに面白くてよい。続く3階の展示は、館内の広さと構造をよくにらんでの作品配置で、全体にすっきりと、また作品数も少数に限って、なるべる広々とした空間を感じさせようというのは、今までにないこの館の使い方で、その点はとても印象に残った。まずエレベーターで3階に行くと、暗がりとなっていて、幅2メートル、高さはその2、3倍の大きなパネルが12枚展示されている。それぞれヘルメットを被った鉱夫の写真だが、みな個性が剥奪されたような表情をしていて、これはコンピュータで合成してあえて匿名性に変化させたものだ。暗がりは鉱山内部を思わせるためだが、次の細長い大部屋には、この鉱夫らが掘った金属を直方体の塊にしたものという意味で、10個が台座に載せられ、スポットライトで照らされた。チラシの説明には、カバラの10個の球を意味するそうだが、先の鉱夫の写真の数とともに、これはヘブライ22字で書かれる何とかになるといった説明があるが、椿氏の博学ぶりはわかるとしても、そういう異国の秘教好みは、やはりゲーム感覚によるものなのか、ジョン・ゾーンのように、自分のユダヤという出自を明確に意識したうえのでの音楽家ならばそれもわかるが、さてブヨブヨ日本ではそれがどれだけ切実なものか、筆者にはひとまずどうでもいいことに思える。旧約聖書や密教との関連もあると説明にあるが、そうした宗教性に憧れのある氏は理解出来るとしても、それを氏の今回の作品がどれほど切実に表現し得ているかは、かなり眉唾のような気もする。だが、それほどに宗教もまた知識として捉えられ、あるいは簡単に作品で暗示可能なものとなるほどに、現在の日本は「軽チャー」全盛でもあるのだろう。10個の金属の塊の前の壁面には、巨大な砂漠の写真が4点あった。ユタ州で撮影された露天掘りの光景で、人間の欲望がつるはし一本で地下に巨大な逆さのバベルの塔を築かせるということを改めて認識させたいらしい。その見事な光景は、なるほど人間の欲ではあるが、「欲」とは何かという問題になるし、人間である限り、食べる必要があって、「欲」は「生」であるから、つるはしで地面をつくら掘り進もうが、それはしごく健全な行為とも言える。そのつるはしが今はロケットに変わって宇宙に飛び出ようとしているが、それを提示するのが3階フロアの最後の細長い大部屋だが、その前に、凹んだ部屋があって、そこには牛が屠殺されて血を流す大きな映像が映し出される中、床にはスターバックス・コーヒーのロゴをパロディにした「RADICAL DIALOGUE」と刻印された大きな金色の円盤がぐるぐると回転していた。屠殺映像はバングラデシュの祭りで撮影されたそうだが、チラシには「善が生産する巨大な負の遺産(宗教…)」と書かれている。現在の宗教戦争のことを言っているのだろうか、それにしては殺される牛の映像の意味がよくわからない。ここはショックを受ける人があるだろうが、全体に無機的な展示空間にあって、このバタイユ好みの設えはなかなか策略が効いて、展覧会を大きく印象づける見世物小屋的感覚としては優れたものと言える。そして、ここでまた1階のロケットを思い出すと、カフカが言った、人間が血の詰まったソーセージに過ぎないかという言葉からすれば、今の日本は針をプツリと刺すと、血が出ずに空気がプスッと抜けるだけの中身のないブヨブヨということになり、氏の今回の作品全体もまたそこに収斂する気もして来る。最後の縦長の部屋には宇宙に浮遊する巨大なロケットの油彩画が数点展示されていたが、パレスチナのラジオ番組が小さなスピーカーから流されていて、たまたま筆者がいた時には、アバの「ダンシング・クイーン」の断片が何度も流れていた。また、壁面の片隅には図録を置いた休憩用ソファがあり、そのすぐ隣りにはパレスチナで拾ったジョークを記した紙がピンで何枚も留められていたが、パレスチナ問題に関心のない筆者はあまり笑えなかった。コンピュータを知らない人々がそこにはいるようだが、そういう人々が信ずる宗教が、「善が生産する巨大な負の遺産」かどうかは、知識で宗教を理解しようとする人々に断定出来るのかどうか。そしてこの場合の「負」とは、「戦争」であって、それがそれらの人々にとって本当に「負」であるのかどうか。
by uuuzen | 2009-03-07 23:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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