木版画家の川西英の「兵庫百景」を中心にした展覧会で入場料は200円。常設展扱いということだ。神戸についでがあり、また川西英の作品がまとめて見られるので出かけた。
会場の神戸市立博物館は昔は南蛮美術館と言ったそうだが、その頃は建物は違ってもっと小さかったはずだ。また神戸には市立美術館がかつてあったが、それがどこにあったかは知らない。20代に神戸市役所には仕事でよく通い、また県庁も訪れたことがあるが、神戸の街はよく知っているようであまり知らない。いつも動く範囲が同じだからだ。先日は昼食をいつもの中華街ではなく、TVで取り上げられていた有名な店に行こうと思って山側に向かって歩いた。店の名前はわかっていたが、正確な住所がわからず、3本ほどある南北に走る通りを順に折り返して歩くことにした。結果は見つからなかった。帰宅後ネットで調べると、ここではないだろうと踏んで歩かなかった細い道沿いにその店はあった。また、元町の裏手の山側をうろうろとしていると、前から40代半ばほどの小太りのサラリーマンとその部下のようなごくごく普通の20代前半女性が手をつないでやって来た。筆者と目が合い、その直後ふたりは筆者が通り過ぎたばかりのラヴ・ホテルに消えた。正午前だというのに、そして人目もかなりあるというのに、今時の若い女性は恥ずかしいという気持ちがないどころか、期待の喜びに顔を少し紅潮させているように見えたが、それがやけに印象に残った。それはそうと、元町界隈のその裏側、つまり山手側をずっとのぼって浜側を見下ろすと、なかなか大阪京都にはない風景で、ちょっとした旅行気分になれる。芦屋やそのほか兵庫の街にもない雰囲気で、それは坂が急であるためかもしれない。京都はそれほど急なところはほとんどない。大阪も天王寺辺りの寺の多い場所には多少そんな場所はあるが、もっとさびれている、あるいは静かで店がない。本当に神戸は海から山がすぐで、南北に街は発達せず、湾に沿って東西に広がるしかない。そういう地形が大地震の発生と関係があるのかないのか知らないが、大震災後、その復旧ぶりはさすが経済大国で、今ではどこにもそんな影はない。むしろ、博物館や美術館が震災の跡をどこかに区切るなりして記念にして保存しなければならない。そういう場所はメリケン波止場に少しあるが、そこをわざわざ訪れる人はあまりない。また、震災後に建てられた県美術館にしても、安藤忠雄の業績が前面に押し出され、震災の負の面は強調されない。これは自然災害や戦争など、大きな変革の時期があればそこに活躍の場を見出す作家が出るということで、そのことによって経済も活性化する側面があり、負の面のみ強調して思う必要はないのだろう。そして、そうした災害などがない場合、人々は退屈して今度は博覧会をひっきりなしに実施する。それも人を多く集めて経済の活況を生じさせる意味合いがあるが、神戸なら震災後のルミナリエがその代表的祭り事で、今では資金難と言いながら、風物詩として定着したと言ってよい。
神戸とモダニズムの言葉はよく似合う。関東大震災後、谷崎潤一郎は芦屋にやって来て『細雪』を書くが、そこには二科展のことや、岸田劉生の絵、あるいは神戸の小出楢重の絵について触れられる。絵に関心のない人はそういう部分は記憶に残らないが、『細雪』が古典として風格を保つのは、同時代のそうした他の芸術に配る目もあるからだ。それはまた簡単に言えばモダニズムの時代をよく描いているということになるが、神戸がモダニズムで売るとすれば、大阪はさて何で売ればよいだろう。お笑いだけではあまりにさびしいではないか。自らを戯画化するのもけっこうとはいえ、そればかりではピエロのように悲しい。大阪もかつては大大阪と自ら呼んでモダニズムを標榜した時期があったが、今ではそれはほとんど忘れ去られ、神戸に株を奪われた格好だ。中之島の川の上空に沿う高速道路の下を潜るたびに、何と大阪はつまらないことをしたのかと筆者はいつも思うが、空から車の排気ガスが降り注ぐ光景のどこがモダニズムであろう。大阪に金があれば、まず真先にやるべきは、ああいう無粋な高速道路をすべて地下に通し直し、空をもっと広くし、川面を強調することだ。だが、それは夢のまた夢で、数百年先の話だろう。その高速道路を神戸は湾岸沿いに走らせる。そのため山手を歩いていても全く目に入らない。狭い土地であるから、それは仕方のない方法であったのだが、それがかえってよかった。本当ははモダニズムという言葉は新しい施設がどんどん増え、しかもそのデザイン性に優れているものに対して与えられるべきだが、その新しいものを日本はかなり誤解して来た。当初石や煉瓦造りの建物をどんどん増やすのはよかったが、ある一線を越えてスピード化時代に突入した時、高速道路と車が氾濫した。それはもはやモダニズムという一種郷愁を帯びた言葉とは無縁の、機能最優先で人間性を見失ったものだ。それを100年後の人々はどう呼ぶだろう。神戸のモダニズムと言う場合、それは大正から昭和初期にかけて人々の生活様式の洋風化が定着し、しかもそれ以前の日本の生活とさほど違和感のないものとして捉えられるものであった。似た言葉にレトロがある。つまり、モダニズムは今から見ればモダンではなく、むしろ回顧趣味に彩られた古臭いものだ。だが、その骨董趣味漂うものの中に温かみを感じ、そして美を感じる人は多いだろう。それは機能優先でビルがただの真四角の箱になってしまった現代とは違い、角は曲線を使い、そして窓枠やファサードに彫刻があったりして、手作りの凝った要素が多いことによる。それは心の余裕の産物で、その随所に見られる曲線に人々は気持ちを和ませることが出来る。そう考えれば、戦後は物が溢れて豊かになったとはいえ、むしろ逆に安っぽいものが充満して貧しくなったと言えまいか。何事もきっちりと、そしてギスギスし、隙間というものがなくなった。自殺者が年間3万人というのはそれをよく象徴している。人々は少しずつ逃げ場を失って来たのだ。そしてそういう時代になると、かつてのモダニズム時代のあらゆる作品が輝きを増して見える。すでにモダニズムという言葉も使い古されて、今さら何をという感があるが、今頃になって見えて来る歴史や文化というものがある。
川西英の木版画は昔から知っていた。原色を使用し、ぼかしを施さないその作品はほとんど京都のローケツ染作家の作品と同じに見えるが、実際京都では木版画家は染色作家と近い地位で見られる。それは染色というものの工芸における位置をいろんな意味で示しているが、ひとつは、染色の一技法である型染が木版画の複数生産性と同じであるからだ。ローケツ染は1点ずつ手で初めるのでそうではないが、キモノ以外の染色となれば、絵画的表現をするのが前提であり、それはどうしても型染かローケツ染という技法を採用する作家がほとんどで、両者は本来は異なる技法ながら、作家の位置としては同格に見られている。そこに木版画家が対峙するが、京都ではキモノを染めていた作家が版画家ないし木版画家に転身することがままあり、その意味でも木版画は染色を連想させる。そして川西英の作品はさらにそれが顕著だ。ところで、神戸ゆかりの美術館という施設があり、そこで先日までやっていた企画展のチラシが手元にある。そこに大きく印刷される川西英の作品は、赤と青の二版を使用する木版画で、セロファンを重ねたように見える表現は、ほとんど染色の、そしてローケツ染の世界に等しい。川西はそれをよく知っていたであろうか。川西は明治27年(1894)生まれで昭和40年(1965)に死んだが、大阪の版画家前田藤四郎より10歳年長だ。川西の経歴を詳しく知らないが、創作版画運動の洗礼を受けたのは間違いがなく、その一方で京都のモダニズムの洗礼を受けた染色作家たちを意識していたと想像する。木版画は浮世絵からの伝統のつながりもあって、同じような仕事をしても染色作家より世間的な地位は高い。それは世界的視野で見れば、木版画の方が圧倒的に染色より有名であることにもよる。そのため、絵で生きて行くことを目指す人は、位が上と見られる分野を目指す方がよい。同じ努力をするならば、その方がはるかに名前が人々の記憶に残る。たとえばの話、二、三流の日本画家は超一流の染色家よりはるかに価値があると見られる。人々はある作品をその作品のみで見るのではなしに、それに付属する周囲のもろもろをひっくるめて見る。それは仕方のないことなのだ。そうした人々の眼差しを川西はどう思っていたろう。日本の木版画はモダニズムの時代に自分で描いた絵を自分で彫って摺ることを始める。そうした創作版画運動に登場した作家たちは高度成長期前にひとまず区切りを迎えたと言ってよい。川西には大正12年生まれの息子祐三郎がいて、同じ木版画の道を歩んでいるが、画題が世界に広がっただけで父と作風はそっくりだ。それほどに父の作風の完成度が高いのだが、これは自刻自摺の木版画のひとつの限界を示している気もする。モダニズムの時代に照らして川西の作品を見ると、それは当時とてもモダンに見えたに違いないが、その作風を模して今作るならば、レトロ感覚が先に立って川西が意図したものとは違う世界が現出する。それはそれで面白いかもしれないが、二義的な仕事に思える。今は今の時代にふさわしい版画の技法や様式があるはずで、また作家はそれを目指してこそ芸術家を自称することが許される。だが、一方では技術保存の観点もあって、昔に完成されたものをそのまま踏襲する動きもまた理解出来る。そうした伝統的技法の伝達の中から何かまた新しいものが出て来るということもあり得るからだ。だが、染色の話に戻すならば、筆者には今の型染やローケツ染は先人作家の域を出ず、モダニズム文化の中で育まれたものをそのまま繰り返しているように見える。簡単に言えば後ろ向きの姿勢だ。そういう現在につながる視野を前提にして川西の作品を改めて見ると、そこには様式にこだわった姿勢が見え、その頑固さはそれなりにひとつの魅力だが、川西本人は退屈してはいなかったかとやや同情する。
『神戸百景』は、兵庫県下の名所を各地からまんべんなく百か所選んで描いたものだ。そこに川西の見事なサービス精神と郷土愛、バランス感覚があるが、これは木版画ではなく、肉筆画だ。そして木版画の下絵になるように描いた作品で、印刷を見ればおそらく彼の木版画と区別がつかない。川西はなぜそのように描いたのだろう。もっと素描的な表現にすれば、川西の写生観がわかって面白かったが、木版画のフラットな色面構成である完成作と同じ表現で画用紙に色が塗られている。そこに何か不自然さを感じてならなかった。数点見るのはよいが、100点見るのはしんどい。確かに風景や構図、配色は変化に富むが、どれもこれも同じ川西の木版画調で、木版画ならまだよくても、それを模した絵画というのはあまり意味がない。それは浮世絵における肉筆画ともまた違うもので、完成した木版画技法に囚われ過ぎたことによるほとんど機械的な作業ではないだろうか。何だか包装紙を見ているような気分になるのだ。木版画は木版画、別の技法ならまた異なる技法でというのが人間味のある考えだと思うが、川西は律儀過ぎたのか頑固過ぎたのか、繰り返せば、肉筆画が版下原稿に見える。いや、実際『神戸百景』は1962年から2年間にわたって新聞にカラーで連載されたので、版下の意味合いがあったとも言えるが、一方では版画にする時間がなかったからでもあろう。『神戸百景』には川西の短い文章が添えられていた。会場では最初それを全部読んだが、後半は絵を見ただけであった。絵に文章を添えることはあまり意味がないことを痛感した。川西の描く風景画ではなおさらで、それらは名所の絵はがきと同様に位置づけてよいもので、説明は不要なのだ。また、文章をどうしても添えたいのであれば、絵と補完的なものにする必要がある。単なる説明ではかえって邪魔だ。そして川西は文章を添えて初めて意味を持つような絵を描く人ではなかった。そういう人であれば風景画家にはならない。さて、川西の『神戸百景』以外に、神戸に取材した他の風景画家の作品がたくさん並んだが、神戸を描いたということで評価される画家たちであって、一般的知名度があるのではない。だが、そうした画家の絵を一点ずつ見て行くと、それなりに神戸という街が持っている空気がよく伝わる。郷土の人なら誰でもわかる風景を描くという行為は永遠になくならない。そうした画家を地方の美術館は憲章し、そして美術館に飾る。それはそれでとてもいいことだが、そういうことに背を向ける画家もいることを人々はよく知っている。川西の『神戸百景』の現在版を誰かが目指す時代が来るだろうが、その時、モダニズムという言葉がどのように理解されていて、またそれに代わる何か新しい時代に則した言葉が生まれているだろうか。