蔵ざらえ的な企画となっている『LUMPY MONEY』は、PROJECT/OBJECTシリーズの第2弾と命名されているが、このプロジェクト・オブジェクトは生前のザッパが考えた名前だ。
その実態は謎めいていて、インタヴュアーの質問に対してザッパは煙に巻いていたところがあった。そのプロジェクト・オブジェクトを今度は元ザッパ・バンドのメンバーがバンド名としてザッパの曲を演奏するステージを断続的にやっていて、これをザッパ・ファミリーは快く思っていない。それはいいとして、ザッパが考えていたプロジェクト・オブジェクトは蔵入りの音源を系統立てて編集、発売するものであったと思うが、そのようなことはザッパはVERVE時代から絶えず考えていて、大なり小なり、生きている間に意図は達せられたが、何せ膨大な音源を抱えるかたわらで、さらに新曲が生まれるから、いつまで経っても完成がない。死という区切り、また別の人間の介在によって、ようやく回顧作業が本格化し、その最たるものが、オフィシャル・アルバムの発売に沿って、それを補遺の形で埋める40周年記念のPROJECT/OBJECTシリーズということだ。これは数年以上前に出た海賊盤音源といかに差別化を図るかという難しい編集を迫られているが、さすがザッパの地下テープ保管庫には、まだ誰も聴いたことのない音がたくさん眠っていて、それらを整理してなるべくCD3枚や4枚組という大部なものにして発売しようとし、そのことは今回の『LUMPY MONEY』からもよくわかる。不思議なもので、こうした決定的なものを手にすると巷に溢れる海賊盤がさらにいかがわしく目にするのもいやなものに感じられるが、海賊盤でしか聴くことの出来ないものは永遠に存在するはずで、いたち野郎ごっこはNEVER STOPSだ。で、一昨日までで『LUMPY MONEY』についてはもう書くのはやめようと決めていながら、この文章の後に続ける6年前の日記の区切りが悪いので今日と明日書くことにする。
ところで、ビートルズの『SGT. PEPPER』のパロディ・ジャケである『WE‘RE ONLY IN……』は、どれほどビートルズ・ファンに知られているのだろう。『LUMPY MONEY』にはザッパのなかなかいい表情の写真があるが、リンダ・マッカートニーのクレジットがある。これはリンダ・イーストマン時代の撮影のはずで、そう書くべきだが、それはいいとして、そんなつながりからザッパに関心を持つビートルズ・ファンが少しはいるだろうか。筆者はビートルズ・ファンの第1世代だが、ビートルズをリアル・タイムで聴き始めた中学生当時はザッパの音楽は知らなかったし、その後ビートルズ以外の曲を聴き始めるようになってからもザッパについては20歳を過ぎるまで知らなかった。そのため、今のビートルズしか聴かないというビートルズ・ファンはなおさらザッパを知らず、『WE‘RE ONLY……』にも関心がないであろうと想像する。別段それはどうでもいいことだが、ザッパはビートルズの足元にも及ばないといったアホな意見に接すると辟易する。だが、その反対も同じで、ザッパを称えるあまり、ビートルズを否定する意見は面白くない。それぞれ異なる場でいい仕事をしたのであり、そういうことをヨーコ・オノは実によく理解している。ザッパを理解するには、ある程度のクラシックから現代音楽にかけての知識が必要で、その立場をよく示すのが『LUMPY GRAVY』だ。それと密接に関係する『WE‘RE ONLY……』は、ビートルズ的なポップス曲を基調にしつつ、1曲中に変拍子や全く別の素材を切り貼りするというトンデモ編集のため、『SGT. PEPPER』を聴くようには楽しめないだろうが、そのあらゆる音の混合物からははっとするメロディの断片が散りばめられている。それは何度も繰り返し聴くことで誰にでもわかるものと、そうでない場合がある。後者は、そうしたものに関係する音楽に耳馴染んでいないからで、ポップス性とはひとまず無縁と言えるものはある程度さまざまな音楽に通じていなければ理解出来ない。そのわかりにくさからその音楽を否定する人は、いつまで経っても同じような音楽しか理解出来ない。それもそれであって、筆者にはどうでもいいことだが、面白くない人や面白くないものに筆者は興味はない。若い熱烈なビートルズ・ファンがいたとして、筆者は少しもそういう人と話をしたく思わないのは、海賊盤を徹底して集めて、ビートルズ曲に関する隅々のデータを知っていながら、ほかに存在するあらゆる音楽に関心を示さない心の狭さによる。ただビートルズ賛美をするのは、どこか新興宗教への熱狂に似て、とても不気味だ。
ザッパ・ファンにもそれはあって、そうした先鋒者として筆者は思われているかもしれないが、全くそれは誤解で、ビートルズにしてもザッパにしても務めて冷静に見つめているつもりだ。そうした態度は一般に批評精神と言われるが、ザッパのアルバムにはみなそういう側面があり、その最たるものが『WE‘RE ONLY……』だ。だが、今のビートルズ・ファンの中で『WE‘RE ONLY……』を正しく理解し、またそれを愛好出来るほどの人は1000人にひとりもいないだろう。筆者はよく書くように、1000人のうちのひとりは筆者の書くような文章に頼らず、きっと独力でザッパの神髄を理解するはずで、筆者がザッパについて書くのは他人から理解されたいと思うからではない。こう書けばまた誤解もあるかもしれないが、ザッパの音楽の楽しさを伝えるためでもないだろう。繰り返すが、わかる人は勝手にわかるし、また自分でわかったものでない限り、骨のある人間は何事も信じないものなのだ。そのことをザッパは最初からよく知っていた。そしてそういう立場で音楽を書いて食って行くのは大変なことであったろう。人を信じない、だがどこかで信じている部分もあるというのがザッパであったが、そういう性質はヒッピーのラヴ・アンド・ピースの旗印の前にあっては陰に置かれやすく、多くの賛同者(浮き草のような)は得られない。『WE‘RE ONLY……』はヒッピーを徹底的に戯画化した曲がある。当時そのようなはっきりとした意見を吐くことは敵を作りやすく、誤解もされやすかったであろう。だが、それを貫いたことろにその後のザッパがある。『WE‘RE ONLY……』にはいくつかの聴きどころの山場がある。その中にひとつに、A面の9曲目「ABSOLUTELY FREE」がある。ピアノの静かなソロから始まるこの曲は変化に富み、そしてザッパのリード・ヴァーカルも含めて全体が実に美しい。こうした1曲を何度も繰り返し聴き、そして改めて『WE‘RE ONLY……』の1曲として聴くと、同アルバムの全体像の魅力はわかりやすい。だが、今さら60年代の曲でもあるまいし、根気よくアルバムを何度も聴く殊勝な人は1000人にひとりもいないだろう。世にはもっとたくさんの魅力あるように思えるアルバムが溢れている。そして、ザッパはそのことを知っていた。「誰がこれを聴くのか?」 それでも作らずにはおれなかったこと知っておくのがいい。
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●2003年3月22日(土)夜 その1深夜にはまだ間がある夜の10時ちょうどだ。先日ネット・オークションで本をまとめて20冊ほど落札したが、その中で最もほしかったのは、たかむら牛人という水墨画家の画集だ。『日本の古本屋』で早速調べてみると2000円で1冊出ていた。これをネット・オークションで競争相手ひとりと競り合って1100円で落札できたから、ちょっと得した気分だ。「たかむら」という字は先日にも書いた上村松こうの「こう」と同じ、つまり竹がんむりに皇だ。この字はパソンコンでは出るようだが、ここでは旧式のワープロで書いていることもあってそのままにしておく。さて、この牛人という名前をオークション出品リストの中に見た時、どこかで知った名前だなと思った。それでその出品の一行をクリックすると、画集の中の1、2ページが現われ、ただちにそれが昔展覧会で作品を観て印象が今もなお強烈にある日本画家であることがわかった。すぐに当時買ったカタログを引っ張り出した。B5サイズほどで厚さ4ミリのうすいもので、安価に仕上げるためと、それに水墨画であるためか、カラー・ページはない。牛人の絵は10数点が載っている。それは1981年7月に京都国立近美で開催された『異色の水墨画家』と題する展覧会のもので、3人の画家が採り上げられ、その中のひとりとして牛人が選ばれた。その後立派に建て替えられる今の同館とは違って、当時はもっと狭く、しかも2階建てであったと記憶するが、そこで観た70年代半ばから80年頃までの展覧会には印象的なものが少なくない。それは筆者が今よりもっと収入も少なく、そして年齢も少なかったからに違いないし、どれもこれも初めて観る作品でもあったことも理由のひとつだ。牛人の大きな六曲屏風の作品は、濃い墨のベタと細い線描が相まって独特の個性を撒き散らしていた。他のふたりの水墨画はほぼ全く記憶がないのに引き換え、今もありありと思い浮かべることができる。23年前にたった一度実物を観ただけであるのに、作品が強烈に脳裏に焼きついているのは、それほどに牛人の作品が尋常でなかったからだ。その後10年ほど経って東京のある画家と親しく話す機会があり、牛人の名前を出したところ、その画家は知らなかった。「異色の」といった表現でひとまとめにされるのは本当は牛人の望むところではないだろう。画家など本当はみな異色であるべきで、異色でなければ最初から見る価値などなきに等しい。異色と賞されるのは最高の讃辞でもある。世間はそうは見まいが、それはひとまずどうでもよい。その牛人のことを先日のオークションで画集を発見したことで22年ぶりに鮮やかに思い出した。画集は牛人美術館が故郷の富山市内に設立され、それを記念してまず第1集が編まれた。2集目が出ているのかどうかは知らないが、たぶん出てはいないだろう。牛人は最初工芸図案を描いていて木工家として何度も受賞していたが、1940年の40歳頃から画家になることを目指す。その後従軍して捕虜になるなどし、50歳前から本格的に絵を描くようになる。その後25年間が牛人の水墨画制作の全期間で、晩年の10年は病の床に伏したままであった。50近い年齢からの25年でどれほどの強靱な芸術が可能かを、牛人の作品は最高の例でもって示している。このことから思い出すのは、若冲ひとりと言ってよい。もちろん若冲は50歳前に大きな仕事を成しているが、それ以後の水墨画の作品はまた全然別の味わいがあって、50から85までの若冲は真の意味で自由自在の境地にあった。牛人は若い時からピカソを尊敬していた。1940年にはすでに『ゲルニカ』に影響されていたというから、同時代の最先端の外国の絵画に対する視野の広さをも得ていた。そんな牛人の作品は名前から思わせるようなでっぷりとした動物や人物を描き、そのデフォルメの巧みさは図案家で培った手腕がものを言っていると思わせる。若冲の絵もまた図案的なところ大だが、それは若冲以前の光琳もそうであったし、宗達もそうだ。江戸期の絵画は図案との境目が明確ではない。