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●アルバム『LUMPY MONEY』解説、その3
撃という点では、ネット時代になって音源が簡単にコピー出来るようになったことは、ミュージシャンにすれば大きいだろう。



何かで読んだが、高校のあるクラスでは誰かが1枚CDを買うと、それをマスターと称して、後はみんながコピーするらしい。先日TZADIKのホームページを見ていると、ロシアや東欧はTZADIK発売のCDの海賊盤を盛んに作り、それがE-BAYで堂々と売られているので、ジョン・ゾーンは買わないようにと呼びかけていた。TZADIKのCDはどれも珍しい音楽のため、売れ行きが芳しくないであろうことはよく想像出来るが、そうしたものが安価な海賊盤としてコピーされると、弱小企業はたまったものではない。たとえば筆者はアルヴィン・カランの音楽を好むが、カランは前衛的な音楽をやるあまり生活に困り、ついには生活保護を受けなければならないほどに追い込まれた。還暦過ぎの世界的な音楽家にしてそうだが、アメリカでは本当の芸術が育ちにくいたことをよく示してもいる。それはさておいて、そうしたカランの生活を知ってかどうか、ジョン・ゾーンはカランにアルバムを作ってTZADIKから発売する話を持ちかけ、カランはひとまず生活苦から脱した。それでもわずかな印税だろう。それが海賊盤でコピーされると、カランは作家活動が出来なくなる。つまり、芸術を殺すのは無法のコピーだ。WINNYその他のソフトを介して、他人のパソコンから瞬時にして聴きたい音楽を無料でダウンロードする人がいて、おそらく『ランピー・マニー』も同じようにして、予約して買った人の数倍は無料で聴くのだろうが、それで得をしたと思うのはお金だけで、その一方では確実に内面の何かがさもしく荒廃している。ひとつ言えるのは、現代は「礼」というものが失われることだ。顔の見えないネット社会がそれを加速化しているが、IPアドレスで即座にどこの誰かわかるようなシステムが今後は作られるかもしれない。それもさておき、『ランピー・マニー』のディスク3前半に収録される25分にのぼる「HOW DID THAT GET IN HERE?」は、ディスク1の『LUMPY GRAVY』のさらなるオリジナル演奏で、後年の、たとえばワズー・オーケストラによるジャズ演奏そっくりでびっくりさせられる。このテープからごく一部が『LUMPY GRAVY』に使われることになるが、全体に即興的な部分がカットされたのは納得が行く。そうした部分はステージのLIVEで聴くにはよくても、片面15分程度のLPでは、密度を高めて圧縮せねばならず、結果的に『LUMPY GRAVY』はこの演奏をさらに煮詰めた演奏を元に、そこに会話をつぎ足して作られることになるが、それは究極の圧縮で、それがあまりに過ぎるため、ザッパのアルバムでも最も難解に感じられるものとなる。これはザッパが1967年の春以降8、9か月のアルバム発売までの間に急速に思いを変えたことを示し、当時のザッパの成熟の速さがわかる。
●アルバム『LUMPY MONEY』解説、その3_d0053294_012776.jpg

 ディスク3はいわばザッパの素材集であって、『LUMPY GRAVY』や『WE‘RE ONLY……』のように圧縮感が欠ける分、通して聴くにはあまりに散漫な内容で、生前のザッパならもっと工夫を施したに違いない。ここで明らかになることは、やはりザッパの編集の重要性ということになるが、ディスク3には面白いザッパのインタヴュー素材がある。そこでザッパはジョン・ケージの仕事に言及し、自分の作品もまた偶然の要素を用いるものだと語ることだ。ジョン・ケージは中国の古典書『易』を学び、そこからチャンス・オペレーションという方法論を導く。これはベートーヴェンやモーツァルトのように、書かれた音楽が最初から最後までいつも決まったように演奏されるのではなく、一刻一刻とやって来る未知の時間に呼応して偶然の要素を取り入れて演奏を変化させることで、この考えは先のジョン・ゾーンにも大きな影響を与え、また当初はその方法に反対を唱えていたピエール・ブーレーズも独自の解釈で同じ方法論を組み込むことになるほど、20世紀後半の音楽には圧倒的な影響を及ぼしたが、ザッパもそれに着目して『LUMPY GRAVY』を作ったというのだ。そして、その考えは同アルバムのみならず、ザッパの全アルバムに適用されるものとも言える。CD時代になって、アルバムの曲をランダムで演奏出来ることが簡単になったから、時代はジョン・ケージの思いどおりに進んでいるとも言えるが、このランダムという思想をザッパの音楽にどこまで適用出来るだろうか。昨日書いたように、確かに『LUMPY GRAVY』のLPのそれぞれ片面は、あまりに多様な素材がつぎはぎされて、どこをどう変化させてもたいして差を感じることは出来ないだろうが、作品がそのように不安定不定型であれば、それは聴き手に確固とした印象を残さず、それは作品として完成度が低いということにはならないか。だが、ここにザッパの曲を解くひとつの鍵が隠れている。ザッパは作品の完成度というものをあえて否定するようなことをよくした。アルバム全体でもそうだ。どれも未完成的と言えるが、それでもなおそこには確固とした作品観は表出しており、ザッパの作品態度から見れば、完成度の高く見える作品こそが逆に陳腐なものに思えて来る。この逆説をザッパはジョン・ケージから学んだのであろうか。そうではなく、ザッパの資質に本来備わったもので、それが何であるかはザッパのひとつの本質を解明する論になるだろう。『LUMPY GRAVY』はとてもジョン・ケージの作品とは似ておらず、また方法論の模倣の点でもそれはかなり疑わしい。にもかかわらず、ザッパが同時代のアメリカの巨匠を意識してこうしたオーケストラ・アルバムを作ったことは考えてみる価値のある問題だ。そして、もっと言うならば、ザッパは『LUMPY GRAVY』でいみじくも示したように、純然たる現代音楽の場で活動するのではなく、そこにはポップス界への媚びの意識が濃厚にあった。そのいかがわしさをザッパはVERVE時代以降もっと顕在化させるが、『LUMPY GRAVY』から見ればそこには一抹の嘘やさびしさが漂う。ザッパは本当にやりたいことをやり続けたのだろうか。『CIVILIZATIN PHAZE Ⅲ』においてふたたびザッパは『LUMPY GRAVY』の世界を呼び戻すが、それが発売されたのは死後であった。アメリカで芸術が育ちにくい理由はヴァレーズの例を出さずとも、ザッパからもよくわかる。『おれたちは金のためにやっているんだ』というアルバム・タイトルはまさにザッパの本音であり、そのことでザッパは自縛され続けた。

●2003年3月21日(金)深夜 その2
●アルバム『LUMPY MONEY』解説、その3_d0053294_021354.jpgこの中古セールでは平均1枚600円前後で売られるので、いきおい大量買いしてしまいやすい。いつもどおり、たいていの人は1万円札を数枚出している。それでも人の肩越しに遠慮気味に探し、手に取ったものをじっと眺めてはまた戻ししている学生をひとり見かけた。手に持ったカゴにはまだ1枚しか入っていない。おそらく苦学生か。世の中は不公平だ。よくよく吟味してクラシックCDを選ぶ彼の様子には好感が持てた。金欠のそんな時代が一番楽しいのかもしれない。少ない予算でゆっくりと選んだものはきっと大事に何度も聴く気になるだろうし、そんな行為が本当の心の栄養となる。レジの机の上に1メートルもCDを積み上げるような奴とは表情が全然違っていた。そんなことを思いながらワゴンの中を順に見ていたところ、肩をぽんと叩いて「大山さん」と話しかける者があった。メガネをかけているので誰かわからなかったが、5秒ほどしてようやく、たまに行く中古CD店の店員であることがわかった。30枚ほど手にしていて、まだぽんぽんと選んで行く。「その中の何枚かは店で転売するのですか?」「いえ、そういうわけではないです」。彼の確保しているのはポピュラーのCDばかりだが、得意そうに示してくれたCDは全く聞いたこともないミュージシャンのものであった。開店前から待っていた30人ほどの多くはクラシック・ファンであったが、今回のジャズ・コーナーは新品の見切りはあっても、中古はなかった。現代音楽と同様、それだけ盤を売る人がいなくなっているのだろう。そんなことを出会った中古店の店員と少し話をした。不況とそれがどういう関係があるのどうか、いずれにせに時代が変わって来ているのをそんなところからも実感する。また今回の中古セールを開催したレコード店の姉妹店が四条烏丸のビルの地下にあったのが、先月ついに閉店となった。そこはなかなか便利な場所にあって品揃えもよかったのだが、ここ1、2年はがらがら状態で、ついに持ち堪えられなくなったようだ。それほどにCDが売れなくなっている。パソコンで簡単にコピーできる時代が来たことが大きな原因でもあろう。さて、午前中は中古CD漁りで時間を潰し、午後は茨木の万博公園に行って、展覧会をふたつ観て来た。どちらもなかなかよかった。おとといの午後にも京都市内で展覧会をふたつ観たのだが、それもよかった。あさってもまた展覧会を観る計画がある。そんな展覧会の感想を中心にこの日記をまとめることもできるが、何もかも書くほどの時間がない。そうそう、もしホームページを持つとすれば、よくホームページがどういう構造になっているのかただちには把握できない特性を逆手に取って、迷路のような構造にするのがいいかなと今日は電車の中で思いついた。それはまず最初のページからいくつかの別のページに飛べるようにし、その各ページからさらにいくつかに派生させ、これらの各ページを決して堂々巡りさせないように設定する。パソコン画面大の1ページ毎に区切りをつけた内容で、それらの各ページがどのページともつながっているという仕組みだ。そんなフロー・チャートを描くのは困難であるし、読み手にとっても複雑に入り組んだ全体のどこをさまよっているかがわからず、誰も全部は読めないかもしれないが、それこそが目的という思いもある。そんな風にして文書や絵を含んだアメーバ的増殖構成物は、直線的に読み進む一冊のまとまった本には決して収まりようがない。適当なページを自由に繙く百科事典に似てはいても、アイウエオやABC順に各ページを並べてはいないから、最初や最後の観念が含まれにくい。そうした形式のホームページがもうすでにあるのかどうかは知らないが、そんな膨大なページの迷宮的構成を日々拡張し続けるにはそれだけに没頭する必要がある。どの最新ページにもどこかへ飛ぶべき指示を与えて最後のページというものがない構造とは、一昨日かに書いた花の蕾のあり方の模倣で、物事には終わりがなく循環があるだけという考えだ。『大論』もおおよそそんなことを念頭に置いて書いた。この日記もある程度はそう言える。ある日のある思考が別の日の別の思考とつながっていて、時間的流れの直線的把握だけでは理解が深まらない。で、ここで宣伝になるが、この再開日記の前に書いたダウンロード・ブック『本当の物語』を読んでいただかなければ、ここでの話の展開などの面白さは見えない。ホームページはその主宰者が死ねばやがて消える運命にあるから、今はまだやはり本の方が優れた媒体とも思える。そう思えば、この日記も一冊の本にできる形式ではありつつも、内容は先に書いたアメーバ的増殖構造を意識しているから、ホームページの作り方も知らない目下のところは筆者の一応の最適な文章発表の場であろう。もう少し書いて寝よう。今日は天気がとてもよく、万博公園の太陽の塔付近から見上げる空には一片の雲もなかった。そんな空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。どんな青空でも必ず地平線の片隅には小さな雲が漂っているものだが、今日はそうではなかった。子ども連れのたくさんの若い夫婦や、フリー・マーケットに出店していた若者たちが公園を訪れていて、スーラの大作『グランドジャッド島の日曜日』を思わせる光景があちこちに見られた。今日の春分の日の祝日から3連休であるので、そんな人の多さも当然だ。隣りのエキスポランドの駐車場は珍しくも車やバスでいっぱいであった。春の日差しが眩しく、今年初めてサングラスをかけた。公園の梅林は白やピンク、赤の花が満開の盛りをやや過ぎていたが、それでもあたり一面に香りが漂って気持ちがよかった。人口池のほとりには芽吹いた柳の枝の黄緑が鮮やかで、名の知らぬ野鳥が芝生の上をチョンチョンと歩きながら日向ぼっこしていた。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。昨夜はストーヴをつけての日記であったのが、今日はもう春そのものの陽気だ。そんな春本番の訪れの一応は天下泰平の日本だが、バクダッドでは爆弾がどっと花咲く前線を待ち受けている。世の中は不公平なものだ。
by uuuzen | 2009-02-17 00:02 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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時々ドキドキよき予告

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