待ち望んでいたドラマがKBS京都で放映されることになったのは嬉しかった。2年前、このドラマが面白いという評判をブログで知ったが、誰が出て、どういう内容か全く知らないまま見ることになり、全部見終わってなるほど評判どおりであると思った。
妹からDVDを借りることは出来るが、毎週1話ずつ見るのが楽しい。そして、その1週間の早いこと。このドラマは全16話だが、正月を挟んで4か月という計算だ。1年も要する長編ものもたまにはいいが、一季節で終わるというのが途中でだれなくてちょうどよい。それに、このドラマではぶどう畑のぶどうの成長が毎回異なってなお楽しかった。夏の美しさをあますところなく、カメラは捉え、ドラマの爽やかな印象をよく引き立てていた。ぶどうの色づきに合わせて若者の恋が進展するという古典的な筋立てで、第1話からして結末は誰の目にも明らかだが、その予定調和も韓国ドラマ特有の安心感と言ってよく、見ていて悪くはない。ただし、予定調和となると、ドラマの最終話近くになると、話の辻つま合わせなど、説明的で理屈っぽい場面が増える。あるいはあえてそれを避けるために、ハリウッド映画でさんざん見られるように、土壇場になっての危機というものを持ち出すことがあるが、それが時間不足のために表現が足りず、御つごう主義を感じさせる場合もままある。このドラマもその例に漏れなかったが、結局は最初からわかっているハッピーエンドの力がそれを圧倒して、妙なケチをつける気がしなくなる。それに、すべてを消化不良とせず、辻つま合わせをすると、そこにかえって御つごう主義が生まれるとも言えるから、ドラマというものは難しい。このドラマの邦題は韓国の題名を直訳したものかどうか知らないが、「男」とあるからには主人公が男かと早合点するが、「あの男」であるので、それは恋相手の女性の思いであって、やはり主人公は女性なのだ。それをユン・ウネ(ウンヘ)が演ずる。彼女主演のドラマ『宮』は、同じKBS京都で見たものの、感想は書かないでおいた。それは人気漫画を元にしたドラマで、その原作となった漫画を先頃あるところでちらりと見たが、描かれる主人公の女性は全くユン・ウネとは違った。漫画であるので実際の人間と比べることは無理だが、それにしても漫画はえらく月並みな漫画的顔で、これはドラマの方がはるかによいと思った。ユン・ウネは『宮』で人気を博し、この『ぶどう畑のあの男』は2作目、この次に『コーヒー・プリンス1号店』を撮ったと思うが、こちらの方もいつかKBS京都で放送してくれないものか。それはさておき、その旬であるユン・ウネの魅力満載のこのドラマは、ユン・ウネに演じているという感じはない。実際のユン・ウネのような若い女性が田舎に行った時はこうなるだろうなという現実感がとても強く、そのいかにも彼女に見合った役割がこのドラマを成功に導いた。韓国ドラマに登場する美人女性をいろいろと思い出しても、このドラマではユン・ウネしか思い浮かばない。まさに彼女あっての内容で、監督はよくぞ彼女を見つけたと思う。ブログで知ったが、監督は美人ではない女優を探していて、ユン・ウネに出会って閃きがあったそうだ。そして彼女にそのような女性を探していたと正直に言うと、彼女も自分を美人とは思っていないという返事を得たそうだが、そう言いながら、監督は彼女に独特の美があることに気づく。そして撮影中に彼女の魅力をさまざまに発見し、それがカメラに収まり切らないことを実感する。それは若い女性の成長期にありがちのことだ。日に日に変貌して行く動物としての女性の魅力に当てられたということだ。オ・マンソクは『恋するハイエナ』で見たが、このドラマが先であろうか。演技力はなかなかのもので、ぶどを畑を世話する青年のチャン・テッキ役は見事なはまり役だ。
そのことはこのドラマを見ているとよくわかる。最後に近い回であったが、チャン・テッキとユン・ウネ演ずるジヒョンが、逃げた豚を山の中に探しに出かけ、その夜は小さなテントで一緒に寝る場面がある。お互い好きであるにもかかわらず、いつも喧嘩ばかりしているふたりは、結局その夜も何事もないままに朝を迎えるが、ジヒョンは明るいテントの中でひとりでまどろみつつ目を覚ます。その時のカメラワークはとても印象深かった。ユン・ウネの美しさが実によく引き出されていたが、きっとそれはカメラを覗き込みながら監督が彼女の美しさをひしひしと感じていたからに違いない。その美しさは健康美と言い換えてよい。彼女は美人薄命型とは正反対のふくよかな顔つきで、筆者は中年以降の彼女をつい想像してしまう。そして、そういう世代になった時にどういう人物になっているかがよくわかる気がするが、その頃まだ女優をやっているとすれば、今とは全然違う意地悪な女性を演じていたりするかもしれない。それは筆者の全く勝手な想像だが、そういうことにならないように、若い今の時分だけ主役を張って芸能界を引退すればいいように思う。そして、そのことが図らずもこのドラマの結末に暗示されているのではないだろうか。それはさておいて、人気を得た彼女はそのスタイルを買われて、高級ブランドのモデルの仕事をしているが、そうした写真を見ると、足が細くて長く、その抜群のスタイルに日本ではちょっと似た女優はいないなと思わせられる。韓国の俳優は女も男も背の高いのが多いが、日本とは近くても、明らかに別の血が多く流れていることがそうしたことからわかる。そんな彼女は最初は歌手グループの一員としてデビューしたようだが、歌も踊りも上手となると、もう怖いものなしではないか。そう言えばこのドラマではチャン・テッキがギター片手にじっくり歌うシーンや、また村で開催される「ぶどうの女王コンテスト」の舞台に上がって、ドイツのディスコ・ヒット曲「ジンギスカン」を恥じらいながら歌うシーンがある。そのうまさにびっくりさせられたが、特に後者は、元来歌の上手なオ・マンソクが歌のヘタを様子を演ずるので、その難しさはよく想像出来るが、カメラワークも巧みであるし、またそのオ・マンソクの傍らでまるで漫才の相方のようにリズムを取りながら、恥じらう様子半分で踊るユン・ウネの演技を見た時にはさらに驚いた。あの大きな野外舞台は田舎でそのドラマのために設えたはずだが、架空のぶどう女王コンテストのステージにおいて、自分たちは人前ではとても恥ずかしく歌うことなど出来ませんという役柄を演じるのは、二重の難しさと言ってよい。それを両者は完璧にこなしていた。どこか0.1秒でも不自然なところがあると台無しになってしまう場面であるのに、それが微塵もないのは、監督と俳優の気力が合致しているからだ。ユン・ウネが踊る場面は『宮』ではあったのかどうか記憶にないが、彼女のそういう場面を見たいものだ。
ユン・ウネは最初見た時、下唇が腫れぼったくて中央が割れて凹んでいるので、家内はきっとこれは叶姉妹のように注射で膨らませていると言ったが、まだ若いのにそれはないだろう。その唇は彼女のふくよかさによく釣り合っている。その欠点にもなりかねない唇の形がまたチャーム・ポイントだ。監督の見所によって健康美を売りにする彼女であるから、どうしてもドラマは喜劇にならざるを得ないが、それはそれで得難い女優と言うべきで、同じ路線を当分やってほしい。涙の女王と言われるチェ・ジウも本当はユン・ウネのような演技は得意とするはずだが、やはり時代はより若い女優を求め続ける。ユン・ウネの後にはまた別の女優ということになるのは目に見えているが、それがどういうタイプであるかはまだ誰にもわからない。ともかく「ぶどう」という果物とユン・ウネは見事な対応で、生命力の永遠性を讃えるメタファーが隠れている。それが理屈抜きで誰が見ても面白いドラマとして成功させている理由だが、そのほかに韓国ドラマ特有の、社会問題を提示することによる一種教育的な側面はしっかりと押さえているので、現在の韓国の都会対田舎、そして学歴や職業観といった部分も知ることになる。田舎でぶどうを育てる男女の恋の物語であれば誰も注目しないが、ここではソウル育ちのジヒョンがひょんなことで田舎で暮らすというほとんどあり得ない設定によって、都会対田舎の対立を炙り出す。ジヒョンは服飾デザイナー志望で、ある会社に下働きとして勤務しているが、自分のデザインが上司に盗まれ、会社を追い出される。ドラマはこのことに対する復讐として進むかと思いきや、案外そうはならず、舞台はすぐに田舎に移る。ジヒョンの親類のおじいさんが、1年間自分のぶどう畑で仕事をすると、1万坪の畑をやると電話して来たのだ。1万坪は20億ウォンの時価だ。ジヒョンの両親や弟はその金額に目が眩んですぐにジヒョンを田舎にやる。ジヒョンもぶどう畑で1年間我慢すればまたソウルに戻り、畑を売って大金を手にしようと考える。そして、当然予想されるのは、都会育ちによるジヒョンの耐えられない田舎での生活だ。このドラマの前半はそうした慣れない生活に伴う不自由さを笑いに変える安易な手法でやや退屈に進む。だが、田舎にもよさがあることが次第にジヒョンにもわかって来る。それは1年だけという最初の条件があったためもあるが、ぶどう畑を世話しているチャン・テッキの魅力に知らず知らずのうちに魅せられるためだ。テッキはおじいさんと同居して離れの部屋に住んでいるが、おじいさんとは血のつながりはない。両親を亡くし、子どもの頃から孤独に生きて来たという設定だ。一方、おじいさんは息子を亡くしてひとり身で、テッキに畑を任せて隠居している。テッキは大学で農業を学んだが、有機栽培に目覚めて研究所を出、そしておじいさんのぶどう畑の世話をしているという設定だ。そしてテッキには大学生の頃交際していた彼女がいて、今は女医をしているが、彼女はテッキとよりを戻したいと思っている。そのほかに村にはテッキにぞっこんの年頃の娘がいて、ジヒョンがおじいさんの家にやって来ると、あからさまにジヒョンに敵愾心を燃やす。この娘はその後、2、3度出て来るが、ドラマの進展からは取り残された形となって、よく描けているとは言えない。同じように、せっかく登場するにもかかわらず中途半端で消える人物がこのドラマには多く、それが少々散漫な印象をもたらしているが、ジヒョンとテッキの関係に焦点が当て続けられることで、ついてそのことも忘れてしまう。それに面白い素材はほかにもいろいろとあって、たとえば村人たちがよく集まる大きな木があり、その下には大きな床几が置いてある。実際にそうなのかどうから知らないが、夏の朝にそこに寝転がってみたいと誰しも思うだろう。また、村人たちは俳優が何人か混じる以外は現地の一般人を使ったと思うが、それがまたよかった。カメラワークがなかなか巧みで、田舎ではあるが、ダイナミックな映像、そして当然のことながら、虫がよく飛んで田舎の風情がよく出ていた。それだけでも見る価値がある。
韓国ドラマの常套手段として、男女ともにふたりずつ登場して恋の鞘当てが繰り広げられるが、このドラマではジヒョンの彼として田舎の病院にたまたま赴任していたギョンミンがいる。いかにもソウルのおぼっちゃん育ちで、かつてジヒョンは憧れていた。それが偶然田舎で出会い、ギョンミンも美しくなったジヒョンの魅力に参ってしまい、ふたりの恋は進む。ジヒョンは内心、ギョンミンとテッキを比較し、当然都会育ちの医者の方がいいに決まっていると、デートを何度も重ねるが、ある日、ギョンミンの母と面会し、釘を刺される。田舎育ちの娘が大事な息子に近づくとは何事かというわけだ。これは韓国ドラマでは散々描かれる現実的な設定で、医者の社会的地位に非常に高く、その結婚相手はしかるべき人物であるはずという了解がそのまま描き出される。この母親を演じた女優はわずか1、2分の出番に過ぎないが、なかなかの美人で、ほかにどういうドラマに出ているのか、筆者個人としてはかなり気になった。ジヒョンはソウル育ちだが、医者に釣り合う学歴や家柄ではないため、全く反論もせずに母親のもとから去るが、ここには自由社会であるにもかかわらず、身分の差が厳然として存在する韓国社会を映し出す。反論しないジヒョンはそれだけでも大人であるが、ドラマを見ている方としては、そういう母親のいる息子と一緒になる必要はないと声援を送ることになる。ショックを受けたジヒョンはギョンミンを諦めようとする。だ、逆にギョンミンはその反対で燃え上がり、ジヒョンにプロポーズする。そういうふたりの恋の進展を傍で見ていたテッキはふたりにきつく当たるが、それ以上どうすることも出来ず、ジヒョンへの思いを胸に秘めながらもんもんと過ごす。いつも乱暴な口調のテッキをジヒョンは快く思っていないのに、ギョンミンの母親の反対にあってからはテッキへ傾斜し始める。これは打算的と思われるかもしれないが、現実的とも言える。ジヒョンはギョンミンと交際しながらも、テッキを無視していたのではなく、お互い似たところがあって、恋心を口にすることが出来なかっただけなのだ。そういうふたりの様子をおじいさんは最初から全部見通し、テッキにはジヒョンがぴったりだと思ったので、ジヒョンを呼び寄せたのであった。つまり、このドラマはおじいさんの人生を見通した読みのとおりに進むという内容で、おじいさんは自分のぶどう畑をそのまま保持するには、テッキを身内にする必要があり、そのためにはジヒョンと結婚させればよいと計画したのであった。おじいさんはテッキとジヒョンがいつも喧嘩しながらもぶどう畑の世話をすることに対して、最後はきっとふたりは一緒になると見込んだのであって、このドラマを見る者はそのおじいさんと同じ目になって、ふたりの行動を微笑ましく見つめることになる。ぶどうが色づいてたわわに実るのは、人間がしっかりと世話するからだが、テッキとジヒョンの恋も同様だ。ジヒョンが派手な格好で田舎にやって来た時、村人たちは笑いながら、すぐにテッキと一緒になるよと言う場面がある。大人たちには若い男女がお互い恋心を抱くのは、作物が実るのと同じほど自然なことで、その村人たちの言葉を実はおじいさんは最初からよくわかっていたのだ。結局あれやこれやといろいろ問題が生じながらも、誰しも予想するようにふたりは一緒になるが、そういう話を最初から面白くないと否定しまえば、すべての小説や映画は成立しない。人間にとっての普遍性を面白おかしく描くことにドラマの役割があって、その面白おかしいところに何らかの同意が発見出来ればドラマを見た意味がある。このドラマはおじいさんの思いのとおり、ジヒョンは田舎に嫁ぎ、そしてぶどう畑をテッキと一緒に世話しながらも、合間に服飾デザイナーの仕事もしっかりとやって、10年後だったか、雑誌に特集が組まれるほどになるという結末だ。子どもは4人も出来て、しかもまだぶどう畑の真ん中にある監視櫓の上では、昼間からジヒョンとテッキは重なり合っているという仲のよさだ。ぶどうは多産の象徴で、ユン・ウネはまさにそれに重なる容貌をしている。ジヒョンが子育てに追われながら、おろおろしている様子が最後に少しだけ映るが、そのことによっておじいさんの心配はなくなり、ひとまずの田舎に押し寄せる開発の波も食いとめることが出来るという理想的結論だ。ここからは、今の韓国において田舎の開発が進み、さまざまな問題が生じていることが想像出来る。そうした負の側面に光を当てたドラマを作ることは当然可能だが、それはまた別の話であって、ここではユン・ウネの魅力全開の明るい、それでいて決してあり得ない話ではない、田舎生活讃歌としてまとめている。好きになった相手があれば、人間はどこに住んでも都だ。その説明出来ない好きという感情をユン・ウネは純粋によく演じていた。実際の彼女もそういう相手を見つけて、温かい家庭を築いてほしいと思うは、筆者もまたこのドラマのおじいさんに近い年齢になっているからか。タイトル・バックは蛙のアニメと実写を重ねた凝った映像にヒップ・ホップのレゲエ曲を使って、このドラマの時代性をきわめてよく刻印していたが、数十年後に見た時、それがどのように認識されていることやら。