良質のポップスは世代を越えて受け継がれるということなのだろう。最近TVの宣伝をよく見るが、メリル・ストリープ主演のABBA(アバ)の曲を揃えるミュージカル映画『マンマ・ミーア』が封切られるようだ。

アバの曲でミュージカルを作るという発想は、それだけ万人向きの曲をたくさん書いたグループとしての評価が定まって久しいからだ。アバの人気が出た1970年代半ばは、筆者はラジオのFM放送をよく聴いてはいたものの、ヒットパレードに関心はなく、アバの人気は当然知ってはいても、さして関心を持たずに過ごした。だが、大ヒットというのは不思議なもので、曲がいいからそうなるのか、あるいは宣伝によって普通の曲でもそのようになるのか、その辺りのことはよくわからないが、あまり関心がなくてもメロディは脳裏にしっかりと刻まれる。そうした時代最先端の流行は、それを作り出す者があっての話で、その創造者はそれ以前に苦労した下積み時代がそれなりに必ずあるから、時代の先端を担う者は常にその時代より何年か前に遡る流行をしっかりと体内に染み込ませて実力としたうえで登場して来る。そのようにしている連中の中から才能と幸運のある者に番が回って来るのだが、トップに長く君臨出来ることはごく稀であり、苦労の度合いに応じて誰でもそうなれるとは限らない。むしろ、その可能性の方はほとんどゼロに等しい。だが、時代の先端を担う華やかな流行なるものは、そうした裏面の厳しさをあまり表立っては言わないし、人もそう思いたくない。多くの人々に現実の辛さを忘れさせるのがポップスの役割であるとすればなおさらで、ただ接して楽しいのであればそれでよい。ポップスの刹那性は、有名になることは努力とは無関係であると人々に思わせかねないが、流行の先端を担う存在は必ずそれに先立つ先端に多くのものを負い、なにがしかの努力を強いる。そのことがわかるのが本当の意味での大人で、もうポップスを必要としない年齢に達している。だが、過去の遺産なるものを全部学習してからでないと新しいものが生まれないとなれば、誰もそんな面倒くさいことに挑戦する者はないから、いつの時代でも若者は直観と粘りでやすやすと頂点に上り詰めることが出来るはずと高をくくるし、またそのような気持ちこそがポップスの世界では最も重要なものと言ってよい。そのため、自分を信ずると言えば聞こえがいいが、ただの世間知らずの無謀によって、一気に人気者になる場合はいつの時代でも少なくないだろう。ポップスの世界にはそうした浮き草的流行先端の存在と、雌伏期間が長くてしっかり実力をつけてから世に出る場合とが混在するが、レコード産業が単なる金儲け本位の場であることを隠さなくなった時、レコード会社は次から次へと浮き草めいた人気歌手を製造することになる。そういう時代からは本当の意味で良質の曲は生まれるだろうか。確かに作詩作曲と歌い手が別々になって専門家すれば、質の高いものが生まれるように誰しも思うが、流行とはそんなに計算づくで生まれるものではない。常に意外性が求められていて、そういう要求に応えるのは、やはり下積みがあって、いつかは有名になるぞと研究や努力を怠らない存在から出て来るだろう。偉大なポップスとは、いかに売れたかで決まるという面がある。その売れたことによる世間席巻の雰囲気を共有したがるのがまた人間でもあるので、本当に時代を越えて残るほどのいい曲かどうかわからないのに、懐メロという名目で、日本では80年代以降の歌謡ポップスを回顧する番組が相変わらず作り続けられる。そうした番組で見る曲や歌手に関してほとんど筆者は関心も知識もないが、それは80年代以降TVで歌番組を全く見なくなったからで、つまり時代共有感を持てないからだ。先日もそんな番組があって、BGM代わりに見るともなく見ていたが、初めて聴く曲が多かった。
アバは筆者にとってラジオからよく耳にした最後の人気グループに属する。70年代半ばは、筆者はラジオをあまり聴かず、もっぱら自分の好きなアルバムを買って聴くという生活を送り始め、日本における時代の先端を形成しているポップスに関する興味はもうなかったからだ。周りで何がどう騒いでいても、自分が好きなものを好きなように吸収するだけでよく、そのことが流行から乗り遅れることであってもちっともかまわない思いであった。そのまま現在に至っているので、筆者がこのカテゴリーで取り上げる曲は、どうしても古いものが中心となる。アバは30数年前のグループだが、当時盛んにヒット曲を飛ばし、良質のメロディが枯渇した近年、古典的ポップスとみなされるようになっている。これはスウェーデン出身ということが、もうローカリズムとしての欠点とは思われなくなったことにもよるだろう。アバは早い段階でアメリカ市場をにらんで英語で歌ったが、そこにはそれなりの苦労があったに違いない。まず、歌詞は単純なものとなるはずであるし、最初からメロディと歌声で勝負という腹のくくり方を強いたと思える。アメリカにとってのスウェーデンのイメージがどういうものかは知らないが、日本のそれとさほど差はないのではあるまいか。日本での同国のイメージは、人によるが、概して貧弱なもので、アメリカ風のポップスを歌うグループがあるのかという思いが先に立つ。アバは夫婦2組の男女4人として登場し、当時の筆者の貧相なイメージからして、そのことは同国のフリー・セックスの風潮とだぶって、何かえらく大人びたセクシーなものに見えた。別段男前と美女というほどでもない一種の無名性が、さらにその思いを増加させた。ABBAは4人の名前の頭文字を並べたようだが、ひとつのBを裏返しにしたその綴りは、記号的表現であり、そのために人々に記憶されやすく、その反面、実態が謎めくということがあった。だが、ふたりの女性は髪の色も顔立ちもかなり違って、特にブロンド髪の女性の印象深い顔であったため、その視覚性において、アバは記憶によく留められた。後年これらの夫婦は離婚するが、人気が衰えてからであったろうか。それはそれで夢が冷めた、あるいは壊れたという意味合いにおいて、実にポップ・グループとしてはふさわしい事実ではあったろう。アバのヒット曲はみな明るいイメージに彩られている。そういう背景に離婚を誘うさまざまな葛藤もあったということで、それであるからこそ物事の辻つまが合っている。アバの曲を書いたのは、2組の夫婦の夫たちふたりで、アバというグループを名乗る前はビョルンとベニーと称して日本でもヒット曲を放った。筆者はその曲をよく記憶しているので、いつかこのカテゴリーに取り上げるのもいいかと思っているが、ふたりは妻を巻き込んで4人グループを画策し、それが見事に世界制覇を遂げることになった。
だが、先にも書いたように、アバはいきなり世に出たのはなく、しっかりと曲を書くというふたりの男の出会いがあったからで、しかもそれ以前に多くのポップスを学んだ準備期間があった。アバに最も影響を与えたグループは誰か知らないが、70年代半ばの成功からすれば、当然ビートルズは手本のひとつであったろう。しかもジョンではなく、ポールの明るい曲だ。この明るさはスウェーデンに似つかわしくない気がするが、北欧であるのでよけいにイタリア的明るさを求めたというのが実情か。「マンマ・ミーア」はアバのヒット曲のタイトルだが、アバが欧米のどのような曲からインスピレーションを得たのか、それはそれで興味深いテーマだ。だが、アバの曲の面白さは、歌の主旋律というよりも、それを含めたゴージャスなサウンド全体にある。そのレコーディングのテクニックは明らかにビートルズを通過してこそ得られるもので、細部のちょっとした音が無駄なくきらきらと光っている。そして、それらの細部のちょっとした味つけ的なメロディの断片が、歌そのものよりも時として強く印象に残るが、それもまた良質のポップスの条件だ。そして、そうした味つけというものは、歌詞が出来て、それに伴うメロディが完成しただけではまだまだ獲得出来ないもので、わずか2、3分のレコードに収めるに当たって、無駄を削ぎ落としつつ、一方で盛れるものはすべて盛るという思い、そして敏感な音のセンスを通じて、しかも幸運も幾分作用することで達せられる。そして、過去の膨大なポップスのサウンドを知り尽くしてはいても、そこから時代の先端を行く斬新なものを生み出せるとは限らない。ポップスにおいて大人気を獲得することの難しさはそこにある。簡単に言えば、この曲「ダンシング・クイーン」は、歌と演奏が一体化していて、歌だけを切り離して別の楽器による別のアレンジでは大ヒットはしなかったということだ。ここには歌のメロディにふさわしいサウンドがあり、そのサウンドを構成するために、彼らは日々蓄えていたアイデアを大量に投入したはずで、一見単純に見える曲であっても、そこには膨大長大の蓄積が背景にあるだろう。これをプロと言い換えることも出来るが、単なるプロならどこにでもいるから、そうした職人的プロ技術と、しかも歌って演奏するという表現力が合わさったところにヒットを次々と放つことが出来た理由があった。この曲は歌詞カードを見ると、3分50秒とやや長めで、ディスコ・ブームを先取りしたところがある。なぜそのような中途半端な長さにしたかは、曲を聴くとその構成から納得させられる。何だかABBAみたいだが、通常ポップ・ソングはABAB形式であるところを、この曲はいきなりB、つまりサビの一部を持って来て、気分をまずぐっと高めてから改めてABABを演奏する。これは今すぐには思い出せないが、似たようなことはビートルズにもあった。だが、アバはこのダンス・ナンバーの考えるに当たって、最初から気分を盛り上げるためには、そしてレコードを繰り返し鳴らして不自然にしないためには、曲を途中から始めることがふさわしいと考えたのだ。そこには綿密な計画がある。それは長年ポップスを作って来た者だけが獲得出来るアイデアだ。
先にポール・マッカートニーと書いたが、アバの曲はマッカートニーのものとは近いだろうが、やはり異なっている。アバのサウンドはフィル・スペクターに学んだのか、広がりのあるものが多い。これは北欧好みであるのかどうか、その広がりの感覚は清潔なイメージや寒い地方の音楽のイメージを引き起こしがちだが、アバはそのことをよく心得てそうしたサウンドにしたのであろう。売るための戦略だが、そうとも言えない微妙なところがまた面白い。この曲では、オルガンとピアノが特徴的なメロディを奏で、そこにドラムスとベースが始終鳴り響くが、意外にもギターはなく、代わってストリングスが軽やかに踊る。エレキ・ギターの音を大きくすると、どうしても人々は即座にロックと思うから、それを避けたかったのかもしれない。70年代半ばはロックのイメージはすでに麻薬やドラッグで良識派にとっては好ましいものではなかったが、アバはそういう人々からも歓迎されるような健康的なイメージを戦略として立てたのであろう。それが見事に功を奏したというところか。大ヒットを狙うのであれば、また歴史に長く残る名曲を目指すのであれば、そういう戦略的立場はよく理解出来る。それがつまらないと思う人はあるだろうが、それはそれの話だ。結局アバのサウンドを通じて人々はスウェーデンをイメージし、それが従来から持っているイメージとうまく合体することに安心するが、そう思えば単なる流行曲として侮れないどころか、それは国のイメージを決定するほどの重要な何かであって、ある国の実態を把握するには、その国の先端にある流行を見ればよいことになる。先にも書いたように、先端の流行は決して先端部分だけで存在しているのではなく、それ以前の長い年月の蓄積から生まれ出ている部分が大きく、そういう蓄積のないところでは、普遍性を内蔵した流行は生まれ得ない。アバの再評価がなされ、今若い世代がその音楽を楽しむというのは、そこに時代を越える何か良質のものを感じるからで、その良質の部分はそれなりにスウェーデンの伝統と言えるものの中から出現したものだ。アバに国を背負って立つ気概があったかどうかは知らないが、アメリカやイギリスの最先端のロックを見つめながら、自分たちに出来ることをやろうとしたのは間違いがない。アバとディスコの関係がどのように深いかそうでないかは知らないが、この曲はタイトルからしてまさにディスコを連想させ、同じ女性の歌声ながら、アメリカのドナ・サマーのようなセクシーさを売り物にした、より痙攣的な音楽とは違って、もっとメロディアスでハーモニー豊か、そして何より健康を感じさせる点において、まだビートルズ的な古い部分を濃厚にたたえた音楽になっている。そして、アバのヒット曲にはブギやブルースなど、アメリカの黒人音楽からの影響はほとんどないと思うが、そういう部分はビートルズ以降のイギリスのロックが担い続けたので、アバにすれば自分たちの出る幕ではないと考えたのかもしれない。この曲は基音はCだが、メロディはGシャープに乗る5音音階的なもので、その単純なようでいて凝ったところがヒットした理由でもあるだろう。
この曲が筆者にとって近年新たに蘇ったのは、韓国ドラマの『冬のソナタ』でチェ・ジウが高校の放送室でこの曲に合わせて踊る場面を見てからであった。日本では著作権の関係でその部分は別の音に差し替えられたが、実に残念なことだ。チェ・ジウは踊りが得意というので、ユン・ソクホ監督はこの曲に合わせて踊らせることにしたのであろうが、実際チェ・ジウはこの曲の壺をよく押さえて踊っていた。特に上手だと思ったのは、A部分の2行目の最後に出て来る「GO」や「HIGH」の単語を長く伸ばして歌う部分。で、そこはこの曲のアレンジ上の巧みさをよく表現した箇所だ。その部分でチェ・ジウは音に合わせた身振りを実にうまこなし、それが即興であったとすれば、やはり踊りの才能は天性のもので、この曲の題名どおり、ダンシング・クイーンであろう。そして、この曲がそのように冬の温かい物語に使用されたため、筆者の記憶の中で、再編が行なわれて、この曲と言えば冬の中の明るい陽射しを思い出してしまう。それほどに『冬のソナタ』での使い方がぴたりとはまっていたのだが、それはこの曲の前奏が始まった途端、ペ・ヨンジュンは放送室の方に向かって歩いて行くところにも言えることで、前奏から伝わる期待感が、実際のユジンの踊りを目撃するまでの伏線に見事に対応していた。で、またこの曲に戻ると、はねるようなピアノの連打と流れるようなオルガンの重なりによる前奏は、曲の随所で繰り返されてこの曲の歌以上に印象深い聞きものとなっている。歌のメロディを作る一方で、伴奏のメロディを対位法的にどう特徴あるものを導き出すか。そうした一種の交響楽的な思考の産物がこの曲で、単なるポップスに過ぎないとはいえ、そこには個性あるよいものを生み出そうとする作曲家の万全の思いがこもる。レコード・ジャケットの裏面を見ると、「レコード発明100年記念」のロゴが右上隅にあって、この曲は1977年の4月にアメリカでヒットしたようだ。やはりディスコ・ブームを狙っての曲であったか。それにしても当時韓国でもヒットしたのであろうか。韓国における欧米のポップスの受容に関しては日本ではさっぱり情報がなく、どのように韓国のポップスが生まれて来たのか、それもよくわからない。ネット時代とはいえ、どんな情報でも簡単に手に入るわけではないことを痛感する。