度合いとその質の問題が何事においても当てはまることを、誰しもよく知っているかと言えば、これがなかなか難しく、自惚れが常にある。
そして、知っていることの度合いが少ないものに興味を抱くことが出来る間は人間はまだ若い。とはいえ、それは興味のある分野においての話で、そうでない場合は、知らないことすら意識せずに生涯無縁で終わるし、年齢を重ねればそのことを別段残念とも恥とも思わなくなる。それを縁がなかったと諦める人はまだ物事のわかった人で、たいていの人は自分が関心のある以外の世界が存在することすら想像出来ない。それを世間が狭いとは誰にも批判出来ない。狭い範囲内でそれなりに幅広く、奥深くあることは出来るからだ。人間、生きて行くのにそんなに多くのことに興味を持たずとも平気であり、知識や教養など何の腹の足しにもならないどころか、時間とお金の大いなる無駄使いであるから、知識人や教養の深い人を尊敬するという気など毛頭ない人はむしろ多い。それはそれでいいとして、筆者が嫌うのは退屈なことだ。昨日このブログに久しぶりにコメントが書き込まれたが、匿名でしかも「あほ」呼ばわりだ。無神経で無教養な輩は退屈な言葉しか発することが出来ないことのいい見本だ。さて、筆者にとって退屈を少しでも除いてくれるのが自分の関心ある分野の未知の何かだ。さきほど家内にケストナーの話を少ししたのでその勢いで書くが、ケストナーの父は腕のいいランドセル職人で、あまりに頑丈に作って長持ちするため、注文が少なかったそうだ。その父の兄か弟に、とても逞しく金を稼ぐ人物がいて、戦争で資産を一気に失いながら、また復活して大金持ちになった。ケストナーはその人物についてはそれ以上のことを書かず、小説の題材に採り上げなかった。おそらく金儲けの能力は認めたが、それ以外の性質や行動は退屈であったのだ。あるいはその人物はわけのわからない文章を書くケストナーを人生の落伍者と思っていたかもしれない。だが、その人物の存在が伝わるのは、ケストナーがわずか数行に満たない文章で書くからだ。おそらくその人物は後世の記憶に残ることなど考えもせずに充分満足して生きたが、金儲けをした話など、いつどこでもある退屈なことで、後世に伝える価値などない。金は空気や水のようなものだ。それをどういうように使ったかが問題で、たとえば公共財産となるような何か大きなものを建てるなどすると、銅像でも作ってもらって末長く人々に記憶されるが、それはそういう行為が本来稀で、したがって人々にとって退屈ではないからだ。中には退屈なものもあるが、退屈でない稀な何かが最も顕著に見られるのは芸術だ。それはある人物による一回限りの行為の産物で、こうして一回限りの人生を瞬時瞬時に消化している筆者がそれに対峙する時には、見る見られるの関係に一回限りの火花が散る。その経験の記録をこうした雑文でとどめておこうとするのは、いわば退屈しのぎとも言えるが、同じく退屈しのぎにこうした文章を読んで共感する人がいるかもという思いがある。また、長文を退屈させないで読ませるには、迫力を保って書く姿勢が大切だが、筆者はそれをこうして瞬時瞬時に思いつつまま連ねながら、絵画では言えば、練習としての素描の役目を負うものと考えている。
さて、この『ライオネル・ファイニンガー展』は関西では開催がない。そのため会期の最終日近い頃、名古屋まで久しぶりに出かけた。この展覧会のみでは交通費がもったいないので、もうひとつ見た。筆者は10代からドイツの近代美術は大好きで、ファイニンガー展は開催されることを知った時点で見ることを決めた。ファイニンガーの名前を知る人はさほど多くはないだろう。筆者がその作品を初めて見たのは、図録を調べると、1976年9月の『パウル・クレーとその友だち展』が最初のようだ。もっと以前に名前は知っていたが、その程度であり、名前と作品が即座に結びつくほどではなかった。日本では実作品が展示される機会はとても少なく、美術の洋書を漁る人しかファイニンガーの個性はよくわからない。手元にもう1冊図録を持ち出した。1984年の『ドイツ表現派展』で、同展は『パウル・クレーとその友だち展』と同じく、数点のファイニンガーの作品が出品された。これは姫路に行って見た。どうも京都大阪ではドイツの近現代美術は人気がないようで、周辺の地に巡回する。今回のファイニンガー展も同じことだ。最初から客入りの悪いはずの展覧会を開催しようという美術館がないのだろう。それはさておき、今回は日本初のファイニンガー展で、チラシによると、ファイニンガー研究の第一人者である、ハンブルク・クンストハレのウルリヒ・ルックハルトの監修だ。ファイニンガー没後半世紀を経て、ようやく本格的な再評価が始まったと言えそうだ。ちなみに先のふたつの展覧会では、ファイニンガーと同程度に名前が知られる画家としてオスカー・シュレンマーやヤウレンスキー、ミュンター、フェリックスミュラー、マッケなどがいるが、さらにマイナーな人物も含めて、彼らはまだ日本では回顧展が開催されず、クレーやカンディンスキーの紹介に合わせてたまにごくわずかな作品が展示されるだけだ。そのため、ほとんど断片とも言えないほどのわずかな知識のまま長年とどまるが、関心はあっても日本で展覧会が開催されない限り、生涯それ以上の出会いはない。そういう中にあって、今回はまたとない機会で、断片でしか知られなかった作家像が一挙に巨大なものとして全面的に提示された。それは同時に過去に埋もれたままの宝石のような芸術が無数にあることを再認識させる。現時点での世間的評価、あるいは個人においての思いなど、ほとんど何の根拠もないもので、そのようなものはいつでも塗り変えられることを思わずにはいられない。知っているようで、何も知らぬことがいかに過去にも現在にも多いことか。そして、そんなことを最初からうすうす勘づいている人は、もとよりそんなことには何の関心も抱かず、退屈をそうとも思わずに生きて行くが、退屈病を患う筆者は未知なるものが開示されたことの喜びに一時を忘れる。
ファイニンガーはまるで刃物か鋸を扱う職人のようだ。実際に鋸を使って自作した、レゴに似た木製着色玩具が各地から集められて123ピース出品され、ひとつの街のように構成された。それらはみな掌に乗る小さなサイズで、ファイニンガーが描く絵に登場する様式を持っているが、特に面白いのは樹木であった。直方体の木っ端にあちこちの方角から鋸をわずかに稲光型に入れるだけで葉の固まり部分をよく表現している。手元にあった木っ端を片っ端から簡単に削っては彩色したという感じだ。子どものための玩具でありつつ、形態の勉強のために作ったものであろう。立体と平面の差はあるが、そこで見られる様式は木版画にも同じように見られるからだ。人物は家に比べてかなり大きく、縮尺は統一されていないが、老若男女入り混じり、しかも立ち姿だけではなく、岸壁に腰かけるように置くとバランスを取る形のものもあって、町のあらゆる様相の表現を想定して作ったものであることがわかる。また、人物が多いのは、ファイニンガーの人間に対する強い関心を示し、同じことは絵画や版画からもよく伝わる。その人間に対する関心は、いくぶんクレーに似ている。初期のクレーには風刺の強い作品が目立つが、ファイニンガーもそうで、アメリカの新聞『シカゴ・サンデイ・トリビューン』の付録としてカラー版漫画を連載し、風刺とユーモアの精神をよく表現した。今回は第1室にこれが一部翻訳したカラー・コピーとともに25点展示されたが、じっくり見るならばこの部屋だけで2時間ほど必要であろう。ファイニンガーのその後の創作を知るうえで、この最初期の仕事は大きな意味を持つ。ファイニンガーはドイツ系のアメリカ人として1871年にニューヨークに生まれたが、両親は音楽家であった。ファイニンガーは父にヴァイオリンを学び、12歳で演奏会、15歳でフーガを作曲する。その翌年音楽を学ぶためにハンブルクに渡航するが、師とする人物に出会えず、美術工芸学校に入学した。その後ベルリンやパリを舞台に挿絵画家として成功を収め、結婚もし、先の『シカゴ・サンデイ・トリビューン』にも挿絵を送ったりする。1908年からは風刺画の仕事から離れ始め、絵画に専念するが、その初期はやはり風刺画で培った表現が大きく前面に出ている。ただし、絵画として空間をもっと純粋にまとめようという意識は強烈に発揮され、造形面での学習や関心が急速に増したことがわかる。これは画家と交流したからだ。新聞雑誌の挿絵画家よりもキャンヴァス地に描く画家の方が収入に結びつかず、生活は大変であろうが、世間的な評価としては断然上であり、アメリカ人のファイニンガーがヨーロッパで同時代の芸術家たちから触発されてそのグループに加わって行く様子は、当時のアメリカの置かれた位置を示すようで面白い。ファイニンガーは細面のかなりの大男で、その知的な表情は一見してこの人物が巨匠と呼ばれるにふさわしい風格を持っていることをよく伝える。大男である点は、初期の新聞挿絵に登場する人物や、あるいは絵画における様式化された人物表現にそのまま見られるもので、これはもっと小柄なクレーにはない。1920年代半ば、ファイニンガーはクレーと一緒に音楽を演奏する機会を持った。筆者は昔からファイニンガーのことをクレーの亜流とぼんやり思っていたが、それはたとえば先の『ドイツ表現派展』に出品された童画的表現の水彩画を見てのことだ。1920年の「青い橋」と題され、ドイツの「青騎士」のグループに参加した時期の作だ。ファイニンガーが好きなアーチ型の「橋」と「青」を合体させ、しかもそれをクレー風に描くが、今回の展覧会でよくわかったのは、ファイニンガーにはクレーを連想させる部分はむしろ少ない。また、先に書いたようにファイニンガーの表現には刃物や鋸を思わせる鋭利さがあるが、それはキルヒナーのようなヒリヒリする感じを与えず、むしろ温かみや逞しさを思わせる。確かにヒトラーが政権を握って頽廃芸術とみなされてからは、北ドイツ特有の冷たい空気とも相まって、初期に見られた活動的な人物描写は姿を消し、冷厳な風景画を次々と描くようになるが、それは大男の力強さを背景にした貫祿をまず感じさせ、キルヒナーのような脆い鋭敏さといったものとは違う。
ファイニンガーは第1次世界大戦時にヨーロッパにとどまり、1919年にはヴァイマールのバウハウスの最初の教授として招かれる。筆者は10代半ばからバウハウスに関心があり、その関連でクレー好きにもなって、バウハウス関連の書物を20歳前後にあれこれ読んだものだが、ファイニンガーの名前はバウハウス関連で最初に知ったことを思い出す。バウハウスでファイニンガーは絵画と版画を教える。ファイニンガーの木版画はどれも木製玩具以上に刃物の跡をよく示したもので、完成度がとても高いことが今回の展示からよくわかった。特にバウハウスの機関誌の表紙を飾った1点は、その最高傑作のひとつと数えてよいが、キルヒナーその他のドイツ表現派の誰よりもファイニンガーが木版画において卓越した技術と独自の表現を持っていたことがよくわかる。これは交友のあったクレーやカンディンスキー、ヤウレンスキーにもなかった才能としてよいが、ファイニンガーのそうした立体派と未来派を合体させたような表現は、1911年にパリでドローネーに出会ったことから最初に影響を受けたものだ。立体派ではなくまた未来派でもない折衷性において、ファイニンガーの二流性が云々されかねないが、その直線好みは初期の風刺画の切り口に内在したもので、ファイニンガーの体質から生まれた。筆者はドローネーの形態と色彩を大いに好むが、ファイニンガーがそのいかにもパリのエスプリから触発されたことはよく理解出来る気がする。だがパリからベルリンに戻り、木製玩具で表現する北ドイツの街並みに住んだことが、体質と相まってそれを変容させ、刃物や鋸を連想させる「切子細工」のような形態表現を導いた。そのことを今回のチラシでは「光のクリスタル」と形容するが、この言葉を叙情性に囚われ過ぎてよくないと思える。今回特に圧巻であったのは、その「光のクリスタル」様式の、1937年にアメリカに帰国する直前に描かれた数点の油彩画が並ぶ部屋だ。筆者はその密度の高い壁面を見わたしながら、ドイツの美術館にいるような錯覚をした。フリードリヒを思わせるようなドイツ・ロマン的表現を見せるそれらはファイニンガーの代表作で、今まで日本では見ることが出来なかった。そこには、ナチに追われてドイツを出る辛さが露でもあり、ファイニンガーの魂が無言で冷たく凍って輝くように見える。若い頃ならばそれを風刺画でもっと直接的に表現したが、ここでは言葉に頼らず、絵画の自立する強靱さを守ろうとしている。それは1個の芸術作品が歴史の嵐を越えると信ずる精神の賜物で、その裏にはファイニンガーの苦渋が透けて見えている。アメリカに帰ったファイニンガーは無名であったため経済的苦境にも立たされるが、キルヒナーのように自殺することはなかった。だが、何よりも表現する対象をアメリカに見出し得ないことが苦しかったと思える。帰国する寸前の様式を摩天楼を画題に用いることで表現するが、そこに見える狭い空にはロマンが感じられない。帰国後、1939年から翌年にかけてのニューヨーク万博に2点の注文を受け、1956年に亡くなるまでニューヨークで続けるが、それらの仕事は30年代の仕事の余波という印象が強い。両親がドイツ人、しかも16歳でハンブルクに行ったファイニンガーはアメリカよりもドイツ人画家として見る方がよい。アメリカはその後ヨーロッパとは違う新たな芸術を生み、もはやファイニンガーのヨーロッパ仕込みは継承者を作らなかった。