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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『南画って何だ?!』
画は今では死語と言ってよく、「難画」の言葉を連想する若い人は少なくないだろう。この展覧会は兵庫県立美術館で去年4月下旬から6月上旬にかけて開催された。



●『南画って何だ?!』_d0053294_11385845.jpg馬鹿でかい展示面積の同館にすれば、掛軸作品のみで会場を埋めるのは初めてのことであろう。その意味からもよい企画であったが、チラシにあるように、地元の画家であった村上華岳と水越松南のふたりを顕彰する意味合いがまずあり、ついでに日本の南画の流れを網羅しようという企画だ。南画は南州画を略した言葉で、これは中国の南方の絵を本来指す。日本は昔から中国の南と交流が深かった。そして中国は北と南に分けるとして、その文化は大いに違うこれは日本の北海道と沖縄の差を考えれば容易にわかる。北京は北の京だが、それは北方民族が元時代に作った首都で、それまでは南京が都であった。北と南は絵画においても全く違うが、これはヨーロッパの北方とアルプス以南のイタリアを思い浮かべればよい。太陽の光の輝きの度合いによって、同じ中国でもその絵画の好みの色合いや画題はがらりと違う。「南画」とほとんど同じような言葉として「文人画」がある。これも中国で生まれたもので、日本は江戸時代になって流行した。その代表が池大雅や与謝蕪村で、どちらも京都出身であることを留意しておくべきだ。また、大雅や蕪村は漢詩を作る才能があり、書も絵も巧みであったが、中国の本来の文人画家とは違って、絵を売ることで生計を立てた。中国の文人画は国政を司るほどの役人が政治に嫌気がさし、田舎に引っ込んで絵画や作詩三昧の生活を送り、またその絵を金銭に変える必要もなかった人の絵のことを言う。確かにそれは金銭云々から遠いところで描かれるので清い雰囲気を湛えるものになろうが、そこにはかなり理想論が混じる。文人は自作を直接金には変えなかったが、それが何らかの経済的価値を持つことはよく知っていたはずで、間接的に品物に変え、それをお金に換金するという行為は大なり小なりあった。ただ金銭の授受が露骨に晒されないだけの話だ。絵画や書でお金を得る作家は清貧に甘んずるものが純粋と思っている人があるが、出来れば仙人のようにがつがつしないでありたかっても、誰しも霞だけを食って生きて行くことは出来ない。事情は中国の昔の文人画家も、また大雅や蕪村ば同じであったことだろう。ただし、大きな襖絵であっても墨と筆でほとんど1日か数日で描いてしまえる絵であれば、量産はある程度可能で、緻密な職人のようには時間を細かく使う必要に迫られることはなかった。つまり、数分でさっと掛軸を1点描くと、贅沢をしなければ数日程度は何もせずに生きて行くことの出来るほどの画料はもらえた。これは農夫や職人から見れば暴利に思えるかもしれないが、では同じ技術と才能があるかと言えば、当の画家しかないのであるから文句は言えない。だが、ここには確かに尊敬もされるが、やっかみもそうとう混じる。今でこそ画家を輩出すれば一家の名誉とも思う人があるが、実際は半分ヤクザな稼業で、まともな人間がやるべき仕事ではないというのが相場であったろう。
 さて、今回の展示は全4章仕立てで、会場は第1章の1「先駆者たちと大雅と蕪村」、第1章の2「南画の展開」、第2章の1「幕末から明治にかけての南画」、第2章の2「巨星、富岡鉄斎」、第3章の1「新南画 南画の新たな展開」、第3章の2「異色の南画 水越松南」、第3章の3「心象の絵画 村上華岳」、4章「洋画家たちと南画」と展示が分けられた。最初の「先駆者たちと大雅と蕪村」のコーナーでおやっと思わせられたのは、大雅、蕪村の次に木村蒹葭堂と岡田米山人の作品が並べられたことだ。蒹葭堂が大雅、蕪村と同格のような形で展示されるのは今回が初めてのことではないだろうか。それだけ近年は蒹葭堂の再評価が高まっているが、蒹葭堂がいなければ大雅の今の評価もなかったとの説明は、大阪人としては嬉しい。米山人も大阪の画人だ。その独特の楽しい絵がもっと広く評価されてよいはずなのに、大阪はさっぱり経済的に浮上出来ず、文化予算は削られる一方、ましてや江戸時代の地味な南画家ともなれば、まだ数十年は今のような扱いに甘んじるしかない。南画は上方が最初にリードして展開を見たが、それは経済的文化的に力を増して上方を圧倒して行った江戸に対抗し、上方が反骨精神を根強く持ったからでもある。江戸は武士が威張っているが、上方はまだそれがましであった。そのために蒹葭堂のようなとてつもない趣味的で博物学的な人物が生まれたが、出過ぎる商人が武士からばっさりとやられるのは元禄時代の淀屋の例にあるように、経済力をつけた上方の商人はとかく江戸の武士から目の仇にされた。だが、武士は借りっ放しでそれを支払わず、難癖をつけて追放するというのであるから、まるでヤクザと一緒だ。よく武士の魂といかにも清いものの代表のように言うが、武士とヤクザがどう違うのか歴史を見ていると時々わからなくなる。もともと下克上でのし上がった武士は、各地元のヤクザの親分的存在で、それが国政を司るようになると、つまり世代を重ねて、それなりに公家のような独自の規律や文化を新たに生んだだけの話ではないか。それはともかく、文人画や南画は本来上方のもので、それが今はほとんど忘れ去られた格好にあっているのは、天皇が東京に住むようになり、上方がもはやただの一地方になり下がったからだ。それと同時に南画も時代遅れのものとみなされるようになった。だが、夏目漱石の絵は南画であったし、明治まではまだ南画は健在であった。それが衰退するのは、腕のさほどない南画家が地方の金持ちを回ってつまらぬ絵を量産するなどし、南画本来の精神を忘れ去ったからだ。どんな形式や流派の絵でも長年続いて変化をひととおり示すと、また一方に生活様式の変化もあって、衰退はよぎなくされる。神髄を使い果たしてしまうのだ。それで今度はその本来の精神性は別の形式や流派に乗り移る。それが今回の展示における「新南画」、あるいは洋画に見られる南画の精神性だ。それをいみじくも示すものとしてチケットに印刷される麥僊の掛軸「雨後図」がある。一見して江戸時代の南画とは大違いで、まず画面に余白がなく、洋画のように見え、樹木は表現主義的に描かれる。麥僊は江戸時代の、たとえば呉春がさんざん描き尽くした自然の中の点景としての農夫といっか画題はそのままに、色も形もみな独自の様式に変えて描いた。これは大正時代に洋風の写実表現が流行したことと関係もある。つまり、西洋美術を一方に見据えながら、日本の伝統性を革新しようとした。この麥僊の絵を大雅や蕪村が見ればひっくり返ったことと思うが、時代が進むと自ずと表現は変化せざるを得ない。ましてや自由を標榜する芸術であるから、これはこれで新しい南画というべきものなのだ。同じようなことは他の上方の画家にも見られる。たとえば筆者の好きな冨田溪仙も麥僊と同じ新南画として位置づけられて展示されたが、溪仙は江戸時代の仙厓の奔放な画風を学ぶかたわら、ドイツ表現主義の彩色法とでも言える斬新な画風を混ぜた。そうした新たな試みは水越松南に受け継がれるが、筆者はこの形態も彩色もあまりに崩した画家の作を好まない。ヨハネス・イッテンとの関連で評価されたりするが、今見ると斬新さより古臭さがかえって目立つ。華岳については書くまでもないだろう。鉄斎も同じで、ともに京都の画家としてよいが、兵庫にも関係が深い。
 筆者にとって今回の展示は第3章の1までが見物であったが、意外な発見があったのは「南画の展開」における谷文晁の「連山春色図」であった。文晁は江戸で活躍した文人画家で、蒹葭堂の有名な肖像を描いたことでも知られるが、筆者は伝わる文晁の肖像画を見て、どうにもこの人物が好きになれない。だが、文晁の苦悩はわかる。時代が下がった南画家はみなそうだが、それまでの南画を越えるために新たな何かを獲得する必要がある。それはそれまでの南画が持っていた技術は当然凌駕し、しかも表現が新しくなければならない。これは実は大変なことだ。その大変なことをやり遂げ、しかも優れた仕事を多く残した点において文晁の今の評価があるが、より凝った画面になったその点が筆者には息苦しくてたまらない。洋風表現をすでに充分知って描いたうのような「連山春色図」は驚くべき作品だ。その大画面に緻密な表現を繰り広げるさまは、それまでのどの画家もなし得なかったもので、油絵のしつっこさに匹敵しているほどだが、すでに半分明治以降の空気を表現している先駆性をそこに見て、筆者は江戸から明治維新への文化的断絶は実はさほどではなかったのではないかとさえ思ってしまう。器用過ぎると言ってよい文晁の個人展覧会は開催されたことがあまりないが、80年代に筆者は尼崎で見たことがある。その時の記憶はさっぱり欠落しているが、それほどに文晁の作品は素人には理解し難い。それが今回はようやく理解の端緒を得た気分がする。続いて展示された中村竹洞、浦上春琴、岡田半江、山本梅逸と有名画家は、南画に関心のない人からすればどれも同じ絵に見えることだろう。それほど忘却された、あるいは特殊化して位置にあるのは、美術館が南画を積極的に収集展示しないからと言ってよい。地味でしかも小さな画面ではとても大会場向きではなく、個人が愛玩するにふさわしいからだ。もともと南画はそうした個人対個人という立場で鑑賞されるべきものであったとも言える。ところで、掛軸は床の間の芸術で、その小ささを川端龍子は否定して会場芸術を提唱し、巨大な日本画をどんどんと描いた。龍子ほどの実力があればそれもまたよかったが、日本画がそのように巨大化したためもあって、日本の美術館はどれも巨大なものが建設されるようになった。そうなればその場に見合う作品こそが常識とばかりに、公募展でも100号以上の大画面が前提となり、全く力量も何もない連中がみなその大画面を絵具と労力の無駄使いをすることになった。龍子は罪深いことをしたものだ。龍子は画家として本格的にデビューする前に雑誌の挿絵で充分力をつけた。今の若い日本画家の卵たちはそういう実力すらもないくせに、そういう賃仕事を否定し、また写生や素描の基礎の何たるかもわからぬまま大画面に描いて大作をものにしたと大いなる勘違いをする。絵を描くことの歴史において自分がどういう位置にいて、どういうことをなすべきかをたまには振り返ってみるのは必要であろう。
 以下は支離滅裂になるかもしれないが、また正月早々毒舌を吐く。いつも書くように、芸術は自由の最後の砦と言ってよい証の行動であるから、盲目的に右へ習えの行為はもうその時点で不自由になっている。龍子の大画面は時としてとても大味で、大画面に描く必然性を思わせない場合があるが、絵によって何を表現したいかを考えた時、大画面ならではの迫力はあるから、大画面がよくないとは全く言えないが、小画面で表現出来るものをそのままただ拡大しただけのほとんど無思想の誇大誇張好みの癖は、画面を拡大した分にしたがって内容が空疎化して見える。だが、床の間が消失した現在の日本の家屋では、龍子が思ったように、それこそ掛軸など無用の長物になった。巻けば小さくなるという掛軸は日本に見合った合理的な絵画の形式であったのに、いつでも大きく重い額縁に収まった小品の絵画というものは、壁にある時はまだしもとしても、それを外した時にはすぐに置き場に困る。とにかく芸術は美術館が一手に司ることになった結果、学芸員たちはその神殿の司祭となり、かくて人々は通常の自宅での生活においては美術とはほとんど無縁でよしと思わせられる、思い込むことになった。「生活と芸術」の文脈で語られるのは、高級化した民藝品か骨董品であり、それらは神殿としての美術館には本来飾られるべきものではない雑器という暗黙の了解が出来上がり、ますます美術館は人々を実生活から芸術を隔離する働きをすることに向かう。そうなれば美術館向きの巨大な画面を精力的に描く画家だけが芸術家の称号を得、そうした人が一般人とは隔離したところに住んで活動しているからこそ、アウラもより輝くと思われる。つまり、戦前の映画スターの地位が今は大画面を描く一部の流行作家が持つようになったかのようだ。美術館がたくさん出来ることは一見芸術花盛りでいいように見えるが、実はごく一部の、つまり美術館向きのものにしか光を当てず、むしろ戦前に比べれば美術は一般から遠くなって生活から隔絶した。美術館などなくても絵を描くという人こそ本当の芸術家だろうが、江戸時代ではあれば大寺院や公家の屋敷を飾った襖絵が巨大画面とすれば、ごく普通の人の家の床の間を飾る幅30センチほどの掛軸の需要の方がはるかに多く、画家は小品を精力的に描く必要があった。現在も有名画家は小品を描くが、そうした作品はほとんどが巨大な作の合間のいわば気のさほど乗らないパンの仕事だ。それは絵で食うには南画家になるのがいいという時代があったことに対する批判と同調が混じり合ったアンビヴァレントな思いかもしれない。広く売れることを芸術行為との関連でどう捉えるかはそれぞれの画家の思いによって大きく異なる。南画がかつては社会の表舞台にあった偉くて有名な人物が隠遁して描くものであったという中国の概念からすれば、日本は最初からそれを模倣するにも「どう食べるか」という不純さがつきまとい、初期の南画家はまだ自己をよく律していたにしても、明治には単なる金儲け手段になり下がり、その画家における有名かつ金持ちになりたがり病は、今は村上龍に代表的に見られるように全面的に肯定され、南画の本来の精神はすっかり忘れ去られた格好にある。これは美術館が入場者数を増加させ、その収益によって運営しなければ自治体から文句を言われるといった、美術がすっかり商売と同列に考えられることになったからでもあって、隠遁者の、そして無名の芸術など無価値もはなはだしいという暗黙の了解が世を支配している。だが、ここで思い出しておくべきことは、南画家は最初から全く無名の人が描くものではなかったことだ。かつては国を代表するほどの著名な知識人が世を捨てるというところが肝心だ。だが、そのようにして描いた作品が、それを模して巧みに描く人の作品とどこがどう違うのかという問題は当初からあったはずで、そこを突けば知識人でなくても、また無名に終わる人でも南画を描くことは出来るし、しかもそうした安価な作を求めてさまざまに活用する人々はいつの時代でもあるから、南画が日本的発展を遂げて、そして衰退して行ったのも歴史の必然であった。筆者が思うに、南画の最初の精神性は芸術の根本で、地位や名誉を越えた以上の何かを訴えるものだ。その観点に立てばたとえばゴッホはまさに南画家であったし、今でも無名であってもそういう人物は社会の隅々に多くいるはずだ。そんな広義の意味で南画家を定義し直す時代がもうそろそろ来てもいい。
by uuuzen | 2009-01-02 11:40 | ●展覧会SOON評SO ON
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