霧はあまり出ない京都市内だが、冬至の頃は日が暮れるのが早く、また寒くもあるのはどこでも同じで、そういう中、人影のない道を往復1時間ほど歩いて遠くのスーパーに毎日買物に出かけるのは、それなりの思い切り、覚悟がいる。

それに筆者の着ているものは秋か春先の薄手のジャンパーひとつにマフラーで、大きな橋をわたる時の突風には身を縮め上げてしまう。だが、その寒さがかえっていい。冬は寒いのがあたりまえで、1年のうちにそういう寒さを経験してこそ、体内のリズムも正常に保たれる。江戸時代はもっと寒かったはずで、人々のそうした生活を想像するたびに、現代はあまりに寒さ暑さに耐えられない精神になってしまったのではないかと思う。地球温暖化がどうのこうの言っているが、みんなが暖房の温度を2、3度下げればうんと改善される話で、今の日本は贅沢にどっぷり浸り切り、きっと感性も鈍化している。派遣社員の首切りが一気に多くなっていることにしても、今までの景気がよすぎたのだ。景気が毎年上向くことはあり得ず、たまには落ちてこそ正常だ。100年に一度の不況などと騒いでいるが、今のように車が売れない時代が今後ずっと続くとの前提に立ったうえでの生活を日本は本来考え、意識も改革すべきだ。母と先日話をしたが、戦後の食料難からすれば、今はホームレスが増加するとはいえ、どうにか漁る残飯も豊富にあって、食生活はまだはるかにましということだ。母は戦時中、京都市内の道ばたでよく餓死して死んでいる人を見かけたそうだが、今はそんなことはない。確かにサラリーマンがリストラされることは死亡宣告されたことに等しいとは思うが、もともとサラリーマンとはそういう可能性を心のどこかに留めて働くことであって、会社がなくなればいつでも失業という自覚をしておき、そうなった時のことを考えて日々蓄えるなり、自衛手段を講じておくべきだ。それがいやな人は自営すればいい。だが、自営業は首の心配はなくても、仕事がないのは失業状態で、その恐れを心に常に抱いているから、まだサラリーマンより慎ましい心がけで生きている。そこで自営かつ人々から注目されるというのに芸能人という道があるが、昨日は飯島愛が自室で死んでいるのが発見された。あれほど世間から注目を浴びても心は満たされなかったのだろう。彼女の底なしのロンリー・ハートを見せつけられるような話だ。話を元に戻すと、寒くて暗い中を遠くのスーパーまで歩いて行くのは運動のためと、そのスーパーの商品が安いからだ。質のよくない野菜や果物を多く売っているが、悪い箇所は除去して料理すればどうにかなる。100歳以上生きた画家の小倉遊亀は若い頃の一時期とても貧しく、腐った野菜のきれ端をもらってくるなどして食べたそうだが、筆者はよくそのことを思い出す。それに比べると、見切り商品の安物野菜を買う筆者はまだ何と贅沢かと思う。だが、もはや若くはないのであるから、他人から見ればそれはただの惨めかもしれないが、「まだ若い」からこそそういう苦労も出来ると思えるのであれば、これはひとつの生き方として誰に揶揄されることもない幸福とも言える。
そのスーパーを往復する時、筆者はよく歌う。それは自然と脳裏に浮かんでハミングする自作曲と筆者が好きな曲との半々だが、自作曲は何かに書きとめておきたいと思いながら、それをしないため、後で思い出すことがなかなか出来ない。それでもまた次の日、同じ時間帯に同じように歩いていると、同じように蘇り、少しずつ先のメロディを思い浮かべる。楽譜にするのが面倒なので、何か手っ取り早い手段はないものかと思うが、きっと高級なパソコンを使えばそういう作曲に便利なソフトがあるに違いない。そんなソフトがあれば、2、3年費やして交響曲と言えるような長くて複雑な曲を作ってみたいなとふと考える。作曲は何でも構成したくなる人には誰でも出来ることと思う。自作曲はいいとして、夜道をひとり歩いて突如思い浮かぶ曲の中に、「霧の中のロンリー・シティ」がある。この曲のシングル盤は20歳頃に思い出したようにレコード店が買ったが、20年後の一時期、レコードを処分したことがあって、その時一緒に売り払ってしまった。ところが、またほしくなった。そしてネット・オークションで入手したが、便利な世の中になったもので、筆者が20歳頃に買った、歌手のジョン・レイトンがライフルをかまえている写真を使用したカラー印刷のジャケットとは違って、最初に発売された白黒ジャケットのものが手に入った。発売は1962年秋で、筆者が11歳になったばかりの頃だ。筆者はラジオを聴いてすでに数歳頃からの音楽が記憶にあるが、「霧の中のロンリー・シティ」はビートルズ登場前夜の曲としてとても好きな1曲であった。その半年ほど前のレイトンの大ヒット曲「霧の中のジョニー」もよく記憶していて、双方の曲は甲乙つけがたい出来ばえだが、20歳頃に思い出したようにレイトンのレコードを買おうと思った時は、「霧の中のジョニー」は手に入らなかった。今も所有しないが、ネット・オークションでいつでも入手出来ると思うと、つい買いそびれる。それにいわば代わりに買った「霧の中のロンリー・シティ」は結局筆者の体内に深く染み込んでいて、これで充分という思いがある。ビートルスは今でも若い世代に聴き継がれているが、日本ではビートルズ登場以前にアメリカだけではなく、イギリスやヨーロッパのさまざまな歌手、あるいは楽団のレコードがそれなりにヒットしていたことを再認識しておく方がよい。10代前半の筆者がビートルズにたちまち心酔出来たのは、たとえば「霧の中のロンリー・シティ」が耳奥でしっかりと記憶されていたからだ。大きな存在の前には必ずそれを用意する土壌があって、それを忘れて大きな存在だけを云々することは、その大きな存在の本質を誤解することにつながる。筆者が筆者以降の世代のビートルズ・ファンを見ていて、いかに知識が豊富であっても何とも思わないのは、ビートルズ登場前夜を体験出来なかったことによる視野の狭さを感ずるからだ。この時代感ばかりは後で追ってもどうしようもない。知識としてたとえばジョン・レイトンを知ったとしても、ヒット当時の空気を吸うことは出来ない。そして流行歌というものは、その時代の空気というものがとても重要で、当時のあらゆるものとつながっている。
以前水木しげるの展覧会があった時、水木が60年代初頭に確か「霧の中のジョニー」と題する漫画を世に出したことを知った。水木がレイトンのこの曲を知っていたとしてもそれは当然だが、漫画の題名にするほどであったというのは認識を新たにすべきだ。当時洋楽は日本でジャケットを作り、盤をプレスして出すことのほかに、ほとんど必ず日本の歌手がカヴァーしたが、ジョン・レイトンは克美しげるが担当したと思う。克美はその後愛人を殺すかして懲役刑に服し、出所した今も健在のはずだが、そのセンセーショナルな事件は筆者のような50代後半の人ならばよく記憶している。当時の克美は角刈りのいかにも日本人的な醤油顔で、今でははやらない顔つきをしていて、なぜあんなに人気があったのか理解に苦しむところがあるが、それが時代の空気というもので、60年代初めのロカビリーがまだ盛んだった頃は、レイトンの日本版とでも評価された。そこから逆に日本人がレイトンのような歌手をどう評価していたかが見える。当然レイトンの登場はアメリカのエルヴィス・プレスリーの向こうを張った形であったが、必ずしもそうとは言えない部分もある。黒人フィーリングを強調するプレスリーとは違って、イギリスやヨーロッパではオペラの伝統からつながる、あるいはそれに対抗する民衆の歌手の脈絡があって、男性ヴォーカリストは不良崩れを前面に押し出すばかりではなく、紳士的なイメージも求められた。もちろんアメリカでもそうで、プレスリー以前のペリー・コモなどはその代表だが、時代の好みが変わって、プレスリー全盛となると、イギリスもその影響を受け、ペリー・コモ的な歌手ではなく、もっとリズリカルに歌うシンガーが好まれるようになる。ビートルズはその系列上に登場したが、レイトンはその直前に、イギリスのプレスリー版の期待を背負って出現したとも言える。つまり、どこかワイルドで危険な雰囲気を保ったシンガーだが、それを理解した日本市場は克美しげるにそれを見出して売り出したと言ってよい。だが、実際に殺人事件を犯すほどの「ワルイド」であってはどうしようもなく、人々に「やっぱりああいう音楽を聴く連中は」と言わしめることになった。世の中が表面的には強固に正常に動いている時代は、流行歌手にはワイルドさが求められる。人々はそういう脱社会的存在を見てうさ晴らしをするから、どこか危険な雰囲気のある芸能人は、ある意味では政府にとっては利用出来る価値のある存在だ。それが政府の予想を越えて大きな力を人々に対して持つようになるのが、ビートルズ解散頃以降の話で、ジョン・レイトンはそういう時代や思想とは全く関係のない、単なる一流行歌手で、多少のヒットを飛ばした後は俳優業に専念し、今は全く忘れ去られている。
寒い夜空も下を歩いていると、歩くリズムによく乗る音楽が思う浮かぶ。「霧の中のロンリー・シティ」は、原題は「霧の中の」を省いたもので、ジョン・レイトンと言えば「霧」が決まり文句となった。当時の邦題はこうしたいくつかの典型的な言葉がよく使用された。当然ビートルズ時代になってもそうで、若いビートルズ・ファンは知らないと思うが、アルバム『ラバー・ソウル』収録の曲名は、60年代初頭の洋楽の邦題をつけた人々の担当、ないしはその影響が明らかにわかる。今では映画でもそうだが、原題そのままを片仮名表記することが常識と化しているが、日本独自の脚色による邦題はそれはそれで時代色があってよかった。国際基準とやらで、英語表記のみが大手を振るうのは考えもので、日本には日本向きに作品名を少々変える方が作品の中身をかえってよく伝えることもあにくことを今一度認識し直す方がよい。さて、この曲はさびしい街にさびしく悲しい心を持ったひとりの男が、同じようにさびしい女性に出会い、自分のさびしさを忘れさせてくれると歌うもので、歌詞はたいした内容ではない。今の日本のほとんどすべての流行歌と同じように、使用されている言葉はみな月並みで、詩と呼べるほどのものでは全くない。だが、こうした月並みなラヴ・ソングは、月並みで平凡な人々や世代が一瞬ともとどまらず、永遠に生産され続けられるので、絶えず供給する必要がある。その時、時代に趣味にあったルックスや声が求められるだけのことで、変化と言えば、歌の本質そのものよりも、それにまとわりつく見せ方や聴かせ方に過ぎない。だが、このわずか2分間の短い曲をなぜ筆者は長年好み続けるかと言えば、たとえば2行目の「all alone」の節回しだ。これを複雑にしたのがビートルズの『サージェント・ペパー』収録の同アルバム・タイトル曲のリプライズ・ヴァージョンにおける「one and only lonely」の下りで、韻を踏むというほどでもないが、ゴロ合わせのように耳馴染むのが面白い。この「霧の中のロンリー・シティ」は日本の歌謡曲に似た節回しが多いと言ってよいが、話は逆で、日本の洋楽風の歌謡曲はこうした曲から多くを学んだのだ。筆者はこの曲を想像の中でジョン・レノンに歌わせてみるが、それが見事にフィットし、ジョン・レノンもまたこうした男性シンガーの系譜上に置くことが出来るとつくづく思う。そこにはニルソンも当然含まれるが、実際この曲のB面「恋の約束」はニルソンが歌っているかのように錯覚をするほどだ。そのことからもわかるように、演奏は弦楽器のオーケストラをリズリカルに使用し、そこに電気ベースとドラムスが加わるもので、ジョン・レノンはそれをアルバム『イマジン』でやることになる。今、メロディを少し拾ってみたが、Fマイナー(ヘ短調)だが、5音しか使っていなくて、そこが日本の歌謡曲に似ていると思わせるゆえんだ。サビの部分はA♯の5音音階に転調し、やや唐突に感じるが、それも耳馴染むとなかなかよい。最初のサビが終わった直後、半音上がってF♯マイナーになるが、やはりそれに続くサビも半音上昇する。この技法は珍しくなく、ジョージ・ハリソンの「マイ・スウィート・ロード」も倣っていた。ま、こういう古い思い出の曲を口ずさみながら、寒空の下を買物に行くのもなかなかよいもので、一流行歌とはいえ、こうして人々の記憶に残り続けるのは、レイトンにとっても歌手冥利に尽きるのではないだろうか。