催し物の案内メールが久しくドイツ文化センターから届かなかったが、メール・アドレスを変更したことを伝えると最近また届くようになった。
同センターの椅子の座り心地はよくないが、ごくたまに上映されるドイツ映画は、通常の映画館とは違って商業主義的ではない分、きりりとした印象がある。同センターで映画を見なくなった分、京都文化博物館の映像ホールで昔の邦画を見ることが多くなったが、やはり座り心地のよくない椅子だが、封切り館ではやらない古い名画を、常設展の安価な料金で見ることが出来るので、筆者にとってはとても楽しい空間になっている。そうした名画はDVDと大型TVによって自宅で鑑賞出来る時代になったが、やはり時間のつごうをつけ、わざわざ足を運び、しかも見知らぬ他人と一緒に安楽ではない椅子に座ってというのがよい。家で見るとどうしても気分が弛緩し、また見逃した箇所をもう一度見ればよいという安心感が、一回限りの緊張感を奪う。文化博物館の映画はどれを見ても当たり外れはない。そのため、見たことのないものであれば何でもよく、どういう予め詳しく内容を知らない方が楽しい。眼前に何がどう繰り広げられるかわからないのが人生であり、映画もその事実にしたがったように見るのが面白いではないか。常設展チケットが2枚あったので、家内と一緒に待ち合わせをして見ることにしたが、ネットで調べると長谷川一夫特集をやっていた。この俳優を筆者は子どもの頃からよく知っているが、別段好きでも嫌いでもなく、また演技を記憶しているということもない。記憶の度合いからすれば大友柳太郎や片岡千恵蔵の方がはるかに顔や声が覚えやすかった。また、10代以前の筆者は時代劇をあまり好まなかったから、なおさら当時の俳優には関心がなく、それは今もあまり変わらないが、年齢を重ねた分、邦画の、しかも時代劇の面白さがよくわかる。わかるどころか、戦前のそうした映画はまとめて国宝指定すべきほどだと思っている。今のうちにフィルムを全部収集し、劣化部分を修復するなど、封切り当時の状態を永遠に保存しておくべきだ。これは高速道路を作るよりもっと大切なことで、今のうちにやっておかねば取り返しがつかなくなる。映画会社がDVDに変換する過程でそうしたことを大なり小なりやってはいるが、それでも有名監督の人気映画だけに限るであろうし、低予算ではきっと限界がある。日本映画が全盛の頃は、次から次へと作品を作って、ほとんど映画は消耗品と思われていた。だが、半世紀以上経って、フィルムに刻印された内容がもう永遠に日本では再現不可能な、それこそ芸術と呼べるべきものを定着していたことを改めて深く知ることになっている。
映画は商業主義の産物であるので、みんながお金を払っただけの面白味はあったと思わせるものでなければならない。TVのバラエティ番組が面白くないのはわざわざお金を払わなくても見ることの出来るという理由が大きい。それは空気のようにいつでもスイッチを入れれば放送されているもので、一回限りのありがたみに乏しい。映画はその気になれば映画館で何度も見ることが出来る複製芸術であるので、TVとかなり似た媒体と言うことも出来るが、それを言えば江戸時代の歌舞伎や文楽でもそうであったことになる。だが、実際の人間が人の前で演ずるものは、見せるべき人々の息遣いがあって演者の心の動きが即座に反応するから、同じ演目であっても1回限りのものだ。芸術の核となるべきものは、作者と切り離せない人柄で、作品を通じて人はその作者の工夫、そしてそれを獲得するまでの精進といったものを見て感動する。もちろんさまざまな見方があって、そうしたものを舞台上の役者の色気、あるいはもっと進んでセックス・アピールと同一とみなす人もある。音楽でもそうだが、演奏者に色気がなければやはり楽しくない。だが、それを妙に勘違いして、「わたし美人でしょ」といった表情でチラシやCDジャケットに演奏家の顔写真が載る場合が多い。それはどんな分野でも同じで、小説家や俳人にもまるでモデルのようにつんと澄ました表情で新聞雑誌に顔が出る女性が少なくないが、女優とするには中途半端なそうした女性を見ると、筆者はついその才能を疑りたくなる。天は二物を与えずと昔から言うが、昔は美人や男前は俳優になるのが普通で、しかもそういう美人や男前から一世を風靡する才能がよく出た。それは二物と言うのかどうか知らないが、美人や男前の俳優であれば主役を演ずるし、そうなれば責任重大で、周囲の視線を浴び、自ずと演技の才能も備わらせようとする環境があったのだろう。それは今も同じと言えるが、日々垂れ流しのTVという強敵が出現し、映画作りをする方も、また鑑賞者も映画観というものが変わって来た。今でもTVドラマに出演しない映画俳優は少なくないが、その孤高感が昔のスターと呼ばれた俳優たちの貫祿に匹敵するかと言えば、そうではなく、単に狭い枠内に囲まれた目立たぬ存在に過ぎず、名演技を発揮するにもその場がないのが現実だ。最近の新聞に大森一樹がコラムを何回か担当していた。このたび中島貞夫の後を受けて大阪芸術大学の教授に収まったのだが、映画監督が映画を撮らずに大学で教えることの意義について書いていた。映画を1本だけ撮るという監督が毎年1000人以上もいるそうで、大森は映画監督はもはや珍しい存在ではなく、むしろ大学で映画を教える方が得難い才能と考えたらしい。大森の映画を見たことはないが、中島貞夫と同じく商業映画に携わっていたから、学生たちにそうした商業映画界の監督になるにはどうすれは早道かを教えるのかどうか、ともかく映画を大学で教えることになったために、簡単に映画作りが出来て年間1000人以上も監督を輩出するに至ったのであるから、その点だけ見れば映画が一部の人間だけのものではなく、絵や彫刻と同じように個人のものとなった感があってすこぶる歓迎すべきといわねばならない。だが、まだ60歳にならない大森が次々に映画を撮ることをせず、あるいは出来ず、大学の教授に収まって教える生活を選ぶという現実を学生たちはどう見るか。大学で映画を学んでも、そのうちひとりかふたりがまた将来大学で教授になるだけの話で、ほとんどは映画を1本だけ撮って消えて行く。ここにはもはやかつての日本の映画の黄金時代の再現など絶対に不可能な現実が口を広げている。それはそれで新しい映画の時代が到来しているのであるから、誰も何も困ることはないが、昔の映画を見てその迫力に唸ってしまうと、今の映画より昔のものをという気になる。
本論に入ろう。11日の午後5時から見た。文化博物館の映像ホール入口では必ず映像ホールの解説つきプログラムが用意してある。ネット時代とはいえ、これがけっこう資料として役立つ。ありがたい話だ。長谷川一夫は1908年、京都の伏見区六地蔵の生まれで、道理で大阪弁が上手だと思った。今の大阪京都からはもうこんな才能は出て来ないし、あっても認められない。『藤十郎の恋』は昭和13年(1938)の東宝の作品で、モノクロ96分と、ちょうど長さも現代的でよい。ネットで調べると122分とあるが、それが完全版とすれば筆者が見たのは3割りほど短いことになる。監督は山本嘉次郎、制作主任の名には黒澤明が見える。長谷川25歳の時の作品で、松竹から東宝に移籍後の第一弾であった。当時長谷川は悪漢に頬をカミソリで切られる事件に遇い、手術とメイクでその傷を隠した。そう言われなければわからないほどだが、それよりもさすがにその全身から発散する若い色気のオーラは、戦後のアメリカナイズされた男前とは正反対の、日本の正統的なもので、つくづく日本が戦後がらりと顔の好みまで変わってしまったことを思う。原作は菊池寛だ。京都が舞台だが、近松門左衛門の書斎も登場し、そこだけは大坂ということになる。ところで、浮世絵の版画を今の若い人が見て、色気を感ずるということはあまりないと思うが、それは自分たちの生活とあまりにかけ離れて見えるからだ。キモノや髪型だけならまだしも、顔がまず全然違う。浮世絵の美人を見ても、その顔を美しいと実感出来る若い人は皆無で、むしろ醜いとさえ思うのではないだろうか。ところが、『藤十郎の恋』に出演する入江たか子の、まるで浮世絵がそのまま動くようなキモノ姿を見ると、初めて浮世絵の意味がわかると言ってよいほどに艶めかしい。入江たか子は当時の代表的美人と呼ばれた女優で、映画で見ると、いわゆる今風の美人とは全く違う顔立ちだ。そこから想像出来ることは、戦前まではまだ浮世絵に描かれる美人をそのまま体現する女優が日本にはいたことだ。ところが、戦後はほとんどそれが冗談のようになってしまい、いくら美人でもキモノが全く似合わないことが普通になった。そこからしても日本はすでに時代劇を作っても現実感が伴わない世の中になったと言えるが、半世紀やそこらでここまで女性の体形が変化し、美人の基準が変わった国は世界中を探してもない。筆者がこの映画で最も印象に残った場面は、映画のほとんど最後、藤十郎が若い頃の恋を入江たか子演ずる、かつては祇園一の歌妓と呼ばれ、今は芝居茶屋を経営するお梶に打ち明ける時の回想シーンだ。それは藤十郎とお梶が花見に御室に繰り出た時の、藤十郎が三味線を引き、お梶がそれを見ているといったわずか20秒ほどの短いものであったが、モノクロながら、そこには浮世絵どころではない、実際に当時の現場にいあわせた気にさせるほどの春の宵の艶めかしい色合いが溢れていた。その回想シーンはセットで撮影されたと思うが、映画にとっては重要な場面で、わざわざ若作りの化粧と衣裳をして撮っただけのことはある。その遠い記憶を辿ってお梶は昔から藤十郎に恋心を抱かれていたことを知る。この恋の告白場面の大半は芝居茶屋のある離れの一室での出来事だが、カメラはノーカットでずっと藤十郎がお梶に言い寄る場面を撮影し続ける。それは長谷川と入江という名優があってこそ可能な場面で、いったいどのように練習したのだろうかと、その迫真性に驚かずにはいられない。
この映画の面白いことは実はその迫真性だ。つまり、演技と言い変えてもよい。藤十郎とは、当時の京都を代表する坂田藤十郎のことで、歌舞伎役者として大人気を誇っていた。そこに江戸から顔見せとして人気歌舞伎役者の中村七三郎が真向かいの小屋で芝居をする。当初は京都好みではないということでさっぱりの人気で、藤十郎の小屋では高を括っていたが、次第に人気を博し出し、ついに藤十郎の相変わらずの古臭い演目は逆に人気を失い始め、芝居茶屋にいた人物までも向かいの小屋に引き抜かれてしまう。藤十郎は当初から江戸の役者を侮らず、実験的なことをあえてするその度胸を認めていたが、人気が逆転したため、今度は自分が何らかの新工夫をする必要に迫られる。そこで近松門左衛門のもとに行って事情を打ち明け、新しい狂言を書いてもらう約束を取りつける。そして2、3か月ほど待った頃、ようやく新作の書き物が届く。ところが、その内容はおさんと茂兵衛の実話に基づいた「大経師昔話」で、藤十郎ははたと困ってしまう。濡れ場が写実的で、それをどう演じてよいのか妙案が浮かばないのだ。一方、芝居小屋の主は巻き返しを早速図ることを考え、新年早々にその芝居で幕を開けようと藤十郎をせっつく。また、藤十郎の地元のファンたちも小屋を訪れては藤十郎に励ましの言葉を送る。この映画では大人数の顔がろくに映らないエキストラが動員されるが、それも大きな見物で、金のかけ方が当時は違ったことを改めて知る。さて、藤十郎は役作りのためにもう1か月ほどほしいと言うが、その時間はない。そしてある夜、茶屋の座敷で役者たちの宴会が開かれるが、藤十郎は中座して離れの部屋でうたた寝をする。そこにお梶が入って来るのだが、にわかに藤十郎は起き上がってお梶に昔からの恋心を打ち明ける。そして、ついにお梶はその気になって、逆に藤十郎に向かって、それは本心かと詰め寄るが、その真剣さに恐れをなした藤十郎は即座に立ち上がって部屋をひとり出て、宴会をやっている役者連中に向かって、今から練習だと告げる。お梶に恋心を打ち明けたことで、ようやく迫真的な演技のこつを見出したのだ。そこには名優の執念が込められていて、どのような芸も共通するが、何かを表現して人に感動を与えるには、自分自身が一度は本気にそのことに対して納得出来る経験の裏打ちが必要であることを思い知らされる。それだけ凄まじい根性があってこそ、名優の名演技が生まれる。そのことをよく知る藤十郎は、かつてお梶に対して本気で恋心を抱き、そして今それを打ち明けはしても、とにかく京都の歌舞伎を背負って立つ身として迫真的な演技をする必要上、ひとまず、あるいは永遠にかもしれないが、お梶との恋は成就させるわけには行かない立場にあり、いわばお梶を騙した恰好で芝居の稽古に猛進する。相手にされないお梶は言い寄られた時に藤十郎が部屋に落として行った印籠を手に、芝居初日の無料公開日に舞台下の奈落の柱で首を括って死ぬ。映画の最後は雪が降りしきる中、無数の蛇の目傘が芝居小屋の前にびっしりと埋まっている場面だ。それは初日の演技の直前にお梶に死なれたことを知った藤十郎がさらに迫真的な演技をし、そのためにも人が大勢詰めかけたことを伝えるもので、藤十郎の人生と近松の脚本の世界を交差させる映画ならでは結末として実に堪能出来るものであった。お梶の自殺の心理が今ひとつ描き切れていない感もあるが、そこは長谷川の迫真的な演技が補っていた。近松のこうした情死の話はドライになった今の日本では受けないかもしれないが、芸人の魂とはどういうものであるべきかをまず見せつけられた思いがした。それは簡単に言えば命がけということなのだ。そういう根性があって、しかもそれを見事になし遂げる才能のある者のみを世間は持てはやす。それは元禄であろうが現代であろうが変わらないはずだが、身分社会ではなくなり、簡単に映画監督になれる時代となって、何が高い峰としての才能か、誰もわからなくなってしまった。売れるが勝ち、受けるが勝ちはこの映画がいみじくも示すのと同じだが、現代の邦画において迫真という言葉は何だかとても白々しい。この映画ではキモノや髪型だけではなく、芝居小屋内部の様子、部屋の小道具など、元禄時代はまさにこんな感じであったに違いないという迫真性があった。これもまた今では時代考証その他、どんな監督に無理な話となってしまった。