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●『皇室侍医ベルツ博士の眼 江戸と明治の華』
室侍医のベルツについては詳しく知らなかった。大阪歴史博物館で8日まで開催されたこの展覧会は、そのドイツ人医師のベルツが収集した幕末から明治にかけての絵画や工芸品の里帰り展で、たとえば京都国立博物館とはひと味違った美術品に物珍しさと違和感を覚えた。



●『皇室侍医ベルツ博士の眼 江戸と明治の華』_d0053294_17315768.jpg展示品のうち、漆器に関しては先週書いた『JAPAN 蒔絵』展のちょうど続編としていいような内容で、明治期に海外に流出した作品が意外に日本で知られず、研究も進んでいないことがわかる。だいたい美術を論じて人気を博したり、それを金儲けにつなげようと考えるほど的外れなことはなく、評論家にしても人気の定まった時代のごく一部の作家しか採り上げない。その意味で、研究が進んでいない分野は数多くあるが、作品を前にするのがまず研究の第一であるから、文学と違ってなかなか研究といっても一般人は参入しにくい。そのため、たとえば今回展示された明治期の工芸、しかも外国人が喜びそうなものは、骨董店の主が価値を決め、それに沿うわずかな一般愛好家が購入するという経路で知られるのみで、博物館に展示されて箔がつくのは、もっと時代を経て、価値を積極的に認めて論じる書く人々が出ない限り無理だ。どちらが先か、つまり博物館が最初に展示することで骨董店も注目し始めるのか、それともその逆かだが、これはもう完全に後者であろう。博物館の権威が認めて公に展示するのは、まず民間の一部でかなり流通して人気を博した後のことだ。権威は世俗を後追いして、あたかもそうではなかったかのような素振りを見せるが、実際は世間が何でもリードする。明治期の骨董品と呼べるものは博物館で見る機会はあまりないが、その理由は日本にあまり残らないからではなく、今の趣味に合わないからでもある。なぜ合わないかだが、それは明治時代を懐かしむという空気に乏しいからだ。明治と聞いて何をイメージするかと言えば、国粋主義や軍国主義が先に立ち、しかもいきなり西洋文化を摂取したので、当然芸術も混沌とした味わいが先に立って、江戸時代のようなゆったりとした気分はない。ここで思い出されるのがまた漱石の小説にある「日本は滅びる」という予感だが、明治はそれほどに文化的には危機の状態にあったと見るべきではないだろうか。明治の工芸は万国博覧会を通じて海外に大いに宣伝され、日本の外貨獲得の大きな武器になったが、そこには純粋な日本というよりも、外国人好みを優先し、とにかくこれでもかという手間暇かけた精緻なものが目立つ。それは中国の清時代でも同じで、その究極の人間技の披露というものは、時代の必然でもあったが、今そうした工芸品を見ると、とにかく息苦しく、過剰な文様の手仕事ぶりには必然性を感じない。おおよそどの分野の工芸でもそういうものが生まれたが、そうしたものは現在はことごとく廃れた。変わって何が生まれたかと言えば、いわゆる作家ものと称するものだ。それが明治の工芸と比べてどうなのかは、まだ歴史が浅いので云々しにくいが、悪く言えば技術の完璧性を失って、見るも無残なシロモノばかりであって、もう日本は工芸の国ではない。そして大正以降の民藝の脈絡もすっかり絶たれた。日本は手仕事を評価しない国になり、また評価するとしても外国のブランド品ばかりで、やはり工芸に関しては「日本は滅びる」は正しかった。
 侍医が雇われのドイツ人医師であったという事実が明治政府の特質をよく表わしている。江戸時代までは天皇は京都にいて、京都は医学の中心、しかも京都の医者が天皇を医療をした。それが明治になると、もう時代遅れだ。洋書で学び、解剖も実施していた日本の医者よりも、外国人の方がストレートでいいというわけだ。何でもかんでも西洋崇拝の精神はここに始まった。時代遅れ、野蛮なそれまでの日本を恥じるというわけで、もっと遅れている他のアジア諸国を率先して日本が立ち上がらねば、日本も植民地になるぞと考えた政治家や思想家が多かった。だが、千年や二千年も続いた文化をそんなに一夜にして簡単にばっさりと捨て去った民族はかつてなかったかもしれない。それが植民地化されたのであれば理解も出来るが、そうではなく、自ら捨てたのだ。とはいえ、すべての人間が明日から全く別の仕事に就くことは出来ないから、明治の物を作る職人たちは、その器用さを徹底させつつ、新しい西洋の要素をこれまでの型に接ぎ木しようと考えた。つまり、変化はある程度はなだらかで、その意味において明治の工芸と呼ばれるひとつの様式が生まれた。だが、それが単なる珍奇以上の思想の産物であったかどうかはまだ保証の限りではない。西洋人が好むようなものを予測し、そういうものを作り上げることの出来た才能は、それはそれで見上げたものだが、そうした工芸品を眼力のある西洋人がどう評価していたかが問題だ。一方で日本には画家を中心として作家精神は存在したが、ひとまず無名性のものでありながら、西洋人が喜び、なおかつ日本の伝統に立脚もするという作品に、どういう見所があるのか、正直なところ、筆者は今なおわからない。そうした作品は、今でも存在するお土産品な高級なものを連想させ、第1級の工芸品とは到底呼べない気がする。そして、そういう無名性の凝った工芸の数々がベルツ博士が収集したものであった。ベルツ博士はフェノロサや岡倉天心のように権威主義は持ち合わせず、比較的簡単にどこででも買える高価で手の凝った工芸品を買い求めたようで、それはそれでフェノロサの収集品とは全く違う、明治の特徴を大きく保つものとなったが、どちから一方では駄目で、両者の収集品をともに見ることで明治の美術の位置が理解出来るような気もする。だが、とにかくベルツ博士が集めたような作品は、これまで系統立てて博物館で展示されたことがあまりなく、大抵は会場の最後に明治を少し紹介する文脈において少しが示されるに過ぎない。しかも、各工芸に分けてのことで、さまざまな工芸品、しかも同時代の絵画もとなると、ほとんど展覧会はない、あるいはあっても人が集まらないのが実情だ。話がまた逆戻りしそうだが、その理由は、明治の工芸そのものが威圧感があってあまり楽しめないということと、良質のものが展示されないことにもよる。たとえば、今回は女性のキモノが10点少々展示されたが、説明にあったように、それらは当時大量に武家社会向けに作られ、しかも外国に流出したものに属し、同じような作、あるいはもっと良質のものが日本の各地の博物館などに収集されており、今さら見るまでもないと思わせられるものばかりであった。これはベルツに眼力がなかったというのではない。キモノは江戸の文化を示すものとしては最適の工芸品のひとつであるし、その異国風の文様のついた衣装を他の工芸品と同様に集めるのは当然のことで、そこにたとえば重要文化財的な豪華な友禅の振袖を含めることは、ベルツとしては当時もう困難であったように思う。
 図録を買わなかったうえ、会場には最近どの美術館でも用意される作品目録もなかったので、どういう作品が何点展示されたか正確をことは書けないが、染織としてのキモノのほかに、陶磁、漆器、金工、七宝などがあった。陶磁は薩摩焼をベルツは好んだらしく、驚くべき細かい模様をびっしりと金彩を中心に描き込んだものが目立った。もともと薩摩焼はそうした特徴があるが、ベルツは特に緻密なものを好んだのか、どこかアール・ヌーヴォーを感じさせる和洋折衷のさまざまな形の器は、清時代のものに劣らないほどに特徴的かつ完璧な仕事ぶりを伝え、これはもっと作品を発掘して、本格的な薩摩焼展を全国的に開催する必要があるのではないか。京都には京焼きがあるので、どうしても薩摩といった地方のやきものを軽視しがちだが、藩ごとに違った国でもあるかのように、江戸時代から明治にかけてはまでそうした独特の工芸品を作っていたことは、現在見習うべき何かを宿す。いや、このように書けば薩摩焼はもう廃れたようだが、決してそうではないし、明治以降もそれなりに作風は変化して来ているはずで、それをもっと全国に知らせる必要があるのではないかということだ。漆器は、ベルツは印籠や根付けなど比較的小さなものをよく集めた。日本人の手先の器用さと、小さな器に対する愛情といったものを理解するには最適と考えたのであろう。だが、そうした小さな漆器はそれこそ骨董品として市場でもよく見る機会があり、独創的な作家の精神を理解する作品にはなり難い。とはいえ、はっとするような面白い形やそれによく釣り合う意匠を施したものがあって、そうした精神的余裕と洒落をベルツは国民性の一端をよく示すと考えたのであろう。金属工芸は、日本では漆器に比べるとかなり特殊な工芸と今でも認識されているように思うが、明治時代は写実的に動物を表現したものが多く作られた。手足が動いたりする細工物もあるが、どのように鋳造、あるいは組み立てかのか、門外漢にはなかなか理解の及ばない作品で、そのためにもつい鑑賞の仕方がわからず、印象にうすくなる。それは、そうした置物を置くべき床の間がなくなり、現在の日本の家屋では単なる邪魔ものになるだけという思いがあるからとも言える。だが、そうした置物は作られた当時から金持ちの愛好家相手のものであって、置き場所に困るといったことを考えずに、とにかく変わった形のものをていねいに作れば売れると見込んだ。七宝もまた今の日本ではすっかり廃れた工芸と言ってよい。京都には有名な七宝の店があったが(今もあるのだろうか)、10年ほど前に特徴ある看板を下ろした。人件費の点からしてもう明治に作られたような七宝の壺や皿の力作を生むことは不可能になった。いくら高くなってもかまわないからという注文があれば別の話でもあろうが、そういう粋な人物はおらず、また技術もなくなったというが実情だ。需要が極端に減少すれば、仕事の競争相手がなくなる。そうなれば、どうしても技術の退歩は避けられない。莫大な資金を投入出来たところで、明治の力作を凌駕する作品を作ることは無理なのだ。それにようやく人々が気づいた頃に、明治の工芸は単に骨董的価値を越えて、博物館に展示される美術品となる。工芸技術とは、その当の技術をもってしか表現出来ない何かがあるからこそ長らく伝え続けて行くべきものだが、その表現物が作られた時代に違和感なく歓迎されるべきものでない限り、それは鬼っ子のような意味のない存在となる。明治の工芸はまだ外国人を喜ばせようとする目的があったが、現在の工芸作家はなかなか売れないものを、個人のつぶやきとして作り続けるのみで、そこには明治の工芸が置かれていた以上に深刻な問題が横たわっている。ベルツのような人物が現在の日本に住んだとして、さて現代の日本の絵画や工芸のどういうものに眼を向けて購入したかを考えると、まことに心もとない。
 ベルツは日本画も買い集めた。会場に入ってすぐに景文の6曲1双の屏風があった。後に書くが、洒脱な京都の四条派の絵画よりも、もっと毒気のある作品を好んだようで、そこには画家の名前にこだわらない自分の意思をはっきり示す態度があってよい。今となってはほとんど評価されない画家の名前が目立ったが、チラシにカラーで大きく印刷された中村晩山の「牡丹孔雀図」は、そのまま明治の磁器に描かれてもよさそうな細かさと色合いで、それはそれで豪華な感じがあっていいのだが、やはり江戸時代中期以前の絵画を見慣れた眼からすると、あまりに形骸化した印象が没個性を連想させてしまう。ここには精緻に描けば描くほど、個性がなくなって面白くなくなるという事実が横たわっているかのようだ。だが、この晩山の作品も2、300年後には、それなりに明治の空気をたたえた面白い作として評価されることだろう。名前は忘れたが、ある画家が描いた鹿の淡彩図は、地面に鹿の影がはっきりと描かれていた。それもまた西洋の写実を模すあまりの伝統から外れた作品だが、それを現在一風変わった作品以上に見ることか出来るかと言えば、かなりあやしい。それまでの伝統に、思いつきでしかもほとんど無思想で西洋風を加味しただけであり、同じ考えは当時のあらゆる工芸に大なり小なり見えていることは先に書いた。だが、その明治の実験とすら呼べないような態度は、今なお日本画では際限なく繰り返されており、しかも一種の開き直りが見えるようになって来ているが、その発端が実は明治にあったことを思えば、先の鹿図は今後先駆作のひとつとして脚光を浴びるかもしれない。ベルツがそこまで日本の先を見通していたかどうかはわからないが、おそらく予感はしたであろう。『このまま明治の西洋化が100年続けば日本はどのような姿になるか』。それがまさに現在なのだが、楽観的に見ることも出来る。たとえば明治の日本は西洋に追いつこうとして必死に技術を導入し、科学と技術が別物であることもあまり考えなかったが、先頃ノーベル賞を日本の学者が3名受賞したように、日本が科学を重視して来たことの成果を得ている事実もあって、ようやくその点において西洋並みになり、芸術もまた独特の世界に誇るものを生んでいると言えるかもしれない。だが、技術は国民性に左右されるものであり、実際日本は明治の工芸で発揮した手先の器用さによって戦後は世界に冠たる位置を次第に占めて来たが、科学や芸術の根本の思想には宗教や歴史の複雑な要素が絡み、それを日本がどこまで深く自覚しているかとなれば眉唾ものだ。そして、そういう時にたとえばベルツが集めた明治の作品を見ると、現在と共有出来る問題が内蔵されてもいるように思える。ベルツは絵画では河鍋暁斎を特に好んだようで、今回絵画部門では最も作品が多かった。東京を本拠地としたベルツが暁斎を好むは当然に思えるし、それは会場の最初に景文が飾られたことと好対照をなす。筆者は暁斎の才能は認めるが、明治の工芸を見るような気分に襲われ、作品を好まない。抜群の技術はわかるとしても、表現したものはみな以前の画題の焼き直しに見える。それは明治が背負った必然だが、「暁斎」の「きょう」が時代に先駆ける文字どおりの「暁」であったというよりも、むしろ「狂」の意味に捉えたくなる。それもまたベルツはよく知っていたのではないだろうか。会場の最後にベルツの年譜があった。長らく連れ添った日本人と正式に結婚式を挙げるなど、かなり律儀な人柄がうかがえ、それは死後遺産から東京大学に1万マルク、そしてすぐに2万マルクを追加して寄贈されたことからもわかる。日本とドイツを結ぶ重要人物として、その書いたものを一度じっくり読む必要を感じている。
by uuuzen | 2008-12-13 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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