常設展示が美術館や博物館の基本だが、京都国立博物館はその用に当てていた新館をこの企画展の終了後に建て替えることになった。

新しい「新館」が出来るのは数年後のことになるが、古い「新館」の、あのうす暗い空気がもう味わえないと思うとちょっとさびしい。建物は時代を映すひとつの大きな鏡だが、昭和時代までの鉄筋コンクリート造りは地震に弱い場合が多く、国宝など重要な器物を展示する建物としては充分にそうした災害に耐えるものでなければならないのはわかる。さて、この企画展はチラシやチケットの中央にマリー・アントワネットの肖像画が印刷され、しかも展覧会のタイトルの最初に「JAPAN」とあることから、ヨーロッパにある蒔絵の作品が里帰りしたものであることがまず伝わる。海外から見れば、日本と言えば漆芸が代表的芸術であると、たいていの人は子どもの頃に教わる。その漆の質感が今では一般庶民にとってはほぼ無縁のものとなり、その一方で生活はプラスティック製品に満ち溢れて、昔の漆を使った製品はみなプラスティックで模造されている。掛軸に使う軸先の象牙もかなり精巧なものがプラスティックで作られていて、素人には判断がつかないほどだ。プラスティックは型を使って量産するものであるし、表面が傷つきやすかったりするので、安物の感覚があるが、イタリアのあるデザイナーは積極的にプラスティックのよさを見定めて、大きな椅子など、デザインに優れたものを作って人気を博している。つまり、プラスティックは単なる素材であるので、使い方によって100円ショップ用の安物にもなれば、その何万倍もの高額の商品にもなる。だが、漆は植物から採取した液を原料にするため、材料の段階ですら人手を多く要し、最初から高額な商品にならざるを得ない。そういう漆芸商品が頑丈かと言えば、プラスティックのように、あるいはそれ以上に脆いもので、手荒な扱いは許されず、また保存にも気をつけなければならない。よく骨董市で漆の椀やお膳が売られているが、必ずどこかめくれ上がっていたり、欠けがある。それは漆職人の手によって補修することが可能だが、それは安くはない。それでどうしても使い捨てのプラスティックを日常的に使用することになるが、本当はほとんどの人はそれがいいこととは思ってはいないだろう。モノを大切にするという観点からすれば、脆いものを日常使うことに意義があり、そこに心の優しさも育まれる。安物を使い捨てすればよいという生活は、何が重要でありがたいかという観念を少しずつ風化させて行くように思う。そうしたことを今回の展覧会が感じさせてくれたかと言えばそうではない。漆は昔から高価な材料で、それを使った蒔絵はごく一部の金持ちが所有出来るものであった。ほとんどプラスティックの滑らかさに見える蒔絵細工の品物は、全く人間技とは思えないほど精緻な技術を駆使したものであり、それを前にして、どういう素材をどのように使って作ったかの知識がない人々は、ただ呆れるばかりで、とても日常使えるものではないと感ずる。
交通が発達して世界が小さくなった現在だが、それは大航海時代にすでに始まったことで、海を狭しとヨーロッパの各国がヨーロッパにはない珍しいものを求めてアジアにやって来た時、まずそこに商売が成立した。身近にないものを入手したいという願望は、特に権力を持った人間にとっては普遍的なものであり、周囲をそうしたもので飾り立てて庶民とは違う豪華さを演出する。その最たるものは衣裳だが、その次に「住」に関するものとなる。16世紀の桃山時代に日本にやって来た西洋人は日本の蒔絵に魅せられた。それが今回の展覧会のテーマだ。最初の部屋では、それ以前の平安、鎌倉、室町時代の蒔絵が展示された。当然そこには国宝が含まれる。サントリー美術館がそうした時代の蒔絵を少なからず収集しており、この企画展は東京の同館に巡回するが、そこには同館が西洋の近代絵画を収集するのではなく、日本の古い工芸品に着目する姿勢が見られて好ましい。日本の中世の蒔絵は梨地を始め、文様も細かく、精緻な趣に味わいがあるが、桃山時代になるとこれががらりと一変する。高台寺蒔絵がそれだ。京都に住んでいると、その高台寺が所蔵する蒔絵を誰しも一度は見たことがあるが、赤瀬川原平が書いていたように、まるで板チョコそのものに見える赤みがかった焦茶色の滑らかな表面に秋草が金で蒔絵されていて、繊細緻密ではあるが、どこかに豪放さもある独特の様式が印象的だ。そうした蒔絵を西洋人が見て、いったいどのようにして作ったものか不思議でならなかったのは充分想像出来る。それは今でもそうだ。西洋では日本と言えば漆芸と思われているにもかかわらず、実際にそれを作っている職人を目の当たりにした人はごく少ないのではないだろうか。漆を何重にも塗るには、埃は禁物で、しかも塗りと乾燥を繰り返す必要上、何十日、あるいは何か月も要する。それに漆を塗ることとは別にその器物の下地を作る木工職人の工程もあるし、さらには漆を使う蒔絵にもさまざまな技法がある。漆がプラスティックと大きく違うのは、漆は接着剤であることだ。それを塗り重ねることで強度や艶を持たせること以外に、何でも表面に貼りつけることで別の豪華さを発揮することが出来る。その貼りつけるものの代表は金粉や金箔であり、また金泥で描くこともするが、銀は酸化して黒ずむため、金のようには歓迎されなかった。同じく光沢を意図したものとして、貝の七色の輝きを利用した螺鈿がある。これは鰒などの貝柄の内側を利用するが、南洋のもっと光沢の強い貝を使用することもある。そうした貝を鎖国時代の日本がどうして入手したかと言えば、交易を通じて入って来ていたのであろう。だが、そうした実態はよくわかっていないのが現状と思える。実際、日本の代名詞である漆芸に関しては隅々まで研究が進んでいるかと言えば全くその反対で、日本にはほとんど存在しない独特の作品が種々あって、外国に赴かないと本格的にわからなくなっていることが多々ある。今回の企画展は、「何を今さら蒔絵か」と思う人は少なくないだろうし、実際展示の半分ほどはよく知られるものだが、ヨーロッパの各国から持って来られて初展示されるものもあって、そのことでようやく解明したことがある点において、実は日本の漆芸の本格的な見直しの機会であった。これはどういうことかと言えば、鎖国に入る以前の日本は、充分大航海時代の歴史に組み込まれて国際的であったということと、その動きは実はその後江戸時代になっても変わらず、そのまま明治になってまた新たな漆芸を通じた日本の国際的評価があって、漆が日本の代名詞と言われるゆえんの全貌を伝える機会であったことだ。
話を戻して、桃山時代の漆工芸で特異なものは南蛮漆器と呼ばれるものだ。これは西洋からの注文品で、西洋人が用いる器具にびっしりと豪華な螺鈿な施したものがほとんどだ。とても日本で作られたとは思えないものもあるが、それを作った職人は京都を中心にいたはずで、注文作品であるため、作った品物は手元に残らないから、ほとんど人の目にも触れることなく、工房から直接西洋人の手にわたったのであろう。だが、それにしてもそういう西洋趣味が何らかの形で職人の感性に影響を与え、日本で用いるその後の漆器にも何らかの形に表現されたのではないかということを考えたくなる。だが、すぐにキリシタン弾圧の嵐が吹き、そうした影響も鳴りをひそめることになったかもしれない。今回知ったが、そうした西洋人の注文品は、日本だけではなく、インドや東南アジアなど、各地に発注され、その国々の素材と技術を使って同じ形の器具が作られたことだ。つまり、インドでは象牙を使用して南蛮漆器と同じようなデザインの箱が作られたりした。器具の形は同じで、そこに施す装飾の素材と技術が国々によって異なったわけだが、これは当時の西洋人がそれだけアジア諸国にそれぞれ独自に発展した工芸があることを知り、それらのよさを発揮させながら競合させたと言ってよく、そうした品々を集めた展示があれば、大航海時代におけるアジアの工芸がよくわかって面白いだろう。南蛮漆器を通じて西洋では日本を漆の国とみなし、鎖国に入ってからも日本に注文する態勢が続くが、発注者はポルトガルからオランダに変わり、名称も「南蛮」から「紅毛」に変わる。そして価格の点、あるいは日本での流行などもあって、桃山時代のような隙間なしに貝殻を埋める螺鈿とは違って、黒地の空間を広く取った表現に変化する。これは日本における絵画観を基本に、需要が多く、量産にも対応したからであろうが、そうした黒地と金色の蒔絵部分の対照性が顕著な漆器はとてもシックで、西洋人の美意識にかなった。そこでマリー・アントワネットにつながるが、彼女は金細工より蒔絵がよいと思った。何しろ遠い異国でどのようにして作られたかわからない、そして怪しげとも言える色調と、異国情緒たっぷりな異国の風景を表現した蒔絵となると、価格は王侯貴族だけが賄えるほどに高かったから、王侯貴族は競ってそれで部屋を飾ろうとする。その一方で、磁器と同じように製法を解明しようとする動きも出て来るが、何しろ漆は植物であり、西洋では産出せず、またそれが入手出来たとしても表現は同じものにはならなかったろう。そこで生じたことは大きくふたつある。ひとつは、西洋の家具に合わせて日本の漆器を表面から数ミリ剥ぎ取り、それを曲面の多い家具に貼りつけたり、あるいは日本製の器の形をそのまま重視してそこに別の素材で別の装飾的部材を結合することだ。後者は磁器でも同じことが行なわれたが、日本の素っ気ないとも言える器具の形は西洋人には物足りなかったのであろう。猫足でしかもゴテゴテと飾り立てた家具は、表面に日本で施した蒔絵文様があるため、何とも装飾過剰の悪趣味に見えるが、西洋の王宮ではその程度に飾らなくては威厳の度合いも少なかった。また、もうひとつは、漆芸の再現は困難であるとしてもその代用の技術が生まれたことだ。そこには、黒と金という色彩の対比以外の色合いを求める西洋人の感覚が作用したこともあろう。青色に金泥で装飾した漆器紛いの器具が展示されていたが、やはり表面の艶やかさは漆に遠く及ばない。だが、日本の漆芸に触発されて西洋では新たな装飾家具が出現したとも言える。
漆は日本の特産ではない。中国や朝鮮にもある。いや、世界最古の漆芸作品は中国にあって、それは現在でもよく古代の墓の副葬品として出土する。そうした中国から日本に伝播した経緯は今回は完全に無視されたが、あるいは研究がさほど進んでいないのかもしれない。また、朝鮮には漆と牛の角を薄く剥いだ板を使用した独特の家具の装飾がある。そこからわかることは、漆の接着剤と絵具としての用途だ。特に接着剤としての用途を重視すると、漆を高く盛り上げるという蒔絵の方向ではなく、漆やあるいは生地の木や螺鈿の貝以外のものを用いることに目が向くのは必然で、それは芝山象嵌と呼んで、幕末から明治にかけて横浜で流行した。象嵌する素材はさまざまで、卵の殻やわざわざ作った陶磁片であったりもするし、また生地を木ではなく、七宝と同じように銅などの金属を使用したりもした。こうなると、ミックスト・メディアと呼ぶにふさわしい作品になるが、蒔絵以上に浮き彫りの立体感が強調されて、いかにも外国人が好んだことがわかる。そうしたものはほとんどが外国に買われたため、日本ではあまり優品が残っていない。今回の展示では最後の部屋の江戸末期から明治にかけての作品でそうしたものが紹介されたが、規模は小さく、今後はその時代のそうした部分だけを採り上げて企画すべきであろう。今でも長崎は鼈甲の工芸で有名だが、鼈甲の表面に象嵌した作品も作られた。芝山象嵌も含めて、そうした作品を今見ると、いかにも確固とした思想が欠如した、精緻で豪華であればよしとする安易な明治の工芸意識が見えて、とても鑑賞には耐えがたいと個人的には思えるが、それは江戸に比べると明治はまだ新しく、歴史時代にはなっていないと感ずるせいかもしれない。そして、評価からすればまず江戸が先であるし、その江戸の漆芸がまだよく解明されていないとなれば、なかなか明治まで一気に評価することが難しいのであろう。今回の展示で最も大きな成果と呼べるのは、その江戸期の漆芸がどのようなものであったかだ。だいたいどの分野の芸術でも、作品は時代性を保つが、漆芸に関して言えば、江戸か明治の判別は困難であるらしい。それは、あまり大きな流行になることもなく、一部の職人と一部の買い手という関係に置いて充足して来たからで、流行の変遷がほとんどなかったからであろう。だが、明治になると、江戸より技術は向上した。これは中国の清時代になぞらえることが出来る。一定の需要がありながら時代が下がると、技術はより精緻になって行く。そのため、同じような意匠を用いつつも、明治の漆芸の方が江戸よりきれいに仕上がっている。さて、その江戸時代の京都で作られ、京都の富裕層が購入した小さな箱などの蒔絵が、そのまま出島を通じて西洋にかなりの数がわたっていたことが判明した。それらは王侯貴族が注文したものではない。なぜそれがわかるかと言えば、全く同じものが日本の武士の嫁入り道具の中に含まれているからだ。そうした商品は、注文ではなく、レディ・メイドの商品として京都の業者が盛んに作っていたものだ。京漆器は今でも伝統産業として残るが、江戸時代は規模がもっと違って、裕福な町人や武士、そして海外にまで輸出される商品であった。これは南蛮漆器の時代からの伝統とも言えるだろう。そしてその伝統は明治になっても続き、芝山象嵌などに発展した。その一方で柴田是真のような漆芸作家が江戸末期には登場し、今回の企画展はそうした作家の登場を示すことで区切りをつけていた。その作家の系譜はまた別の話で、昭和になって人間国宝である松田権六、あるいはそのまま手で漆を椀の中にぐるりと一回なでつける表現をした角偉三郎など、民藝との交差の観点も含めて、いくつもの見方を今後して行くべきと思える。