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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『アジアとヨーロッパの肖像』
像画に的を絞った展覧会のように思えるが、実際はもう少し広い意味で捉えて、洋の東西でどのように他国の人物像を想像していたか、またしているかを絵画を中心にして見直すという企画だ。



●『アジアとヨーロッパの肖像』_d0053294_1323313.jpgこの展覧会は大阪では2か所で同時開催された。アジア美術に力を入れている福岡では全部を一同に展示したが、大阪ではそれほど広い会場がなかったのか、あるいは期間を分けて展示し直すよりも会場を分けた方がいいと考えたのであろう。筆者は月日を置いて2か所とも見た。最初が中之島の国立国際美術館、そして万博公園の「みんぱく」だ。みんぱくは秋は無料公開の日が何日かあり、文化の日がそうであったので、その日に出かけた。どうせなら無料の方がいいからだ。話は変わるが、政府が国民ひとり当たり1万円少々のお金をくれるらしいが、あれはよく映画にあるように、成金が酒場などで札束をばら撒き、それをみんなが必死に争って拾う姿を思わせ、とても悪趣味だ。そんなことで経済が活性化するだろうか。完全に政府は末期症状を呈している。また、政府にそんな金があるならば、税金の徴り過ぎというものだ。何年後かにはまた消費税を上げるというが、消費税がいくら上がっても生活は変わらず、その上げた分がどこへ消えているのか、もういい加減みんなが気づいてもよさそうなではないか。昔からそうであったように、きっと10年後、20年後、いや永遠に政府は税金を上げ続け、その一方で金がないと言っているに決まっている。みんぱくは国立だが、時には無料というのは、お金のばら撒きと似ていなくもないが、もともと万博公園にそこだけ見に出かけるほどの暇な人はごくわずかであって、無料にしたところでたいした損はないに決まっている。前にも書いたが、日本では美術館や博物館をすべて無料にしても、かえって行く人はごく一部であるから、せいぜい宣伝して高い入場料を取る方がいい。いつも無料となると、ありがたみがなく、誰も見ようとはしない。このブログとて同じかもしれない。話を戻して、2か所を訪れて感じたのは、作品をほぼ均等によく分けていることだ。これはたとえば数点でセットのものがあればそれを半々に分けていることで、作品量がもともと水増しされていたと言うことも出来るが、中にはそうしたセットものではないものがあって、それはどちらかの会場に振り分けるしかなく、やはり2か所見てちょうどいいという感じもした。また、作品のだぶりはないが、ほとんど同じような内容であるので、ふたつ目の会場では前に見た内容を反芻することが出来て、よりわかりやすかった。逆に言うと、どちらの会場も散漫であったという印象もないではないが、それは作品数の問題ではなく、複製が少々目立ったからであろう。みんぱくでは、会場を入ってすぐに老齢の女性が近寄って来て説明をしてくれた。ボランティアだ。だが、筆者は説明を受けるまでもないし、結局逆にその人にあれこれ説明することになって、「専門家ですか?」などと質問される始末であった。
 最近は美術館でボランティアをする人が増えて、それなりのテストというか、資格のようなものがあるようだが、筆者のように数千の展覧会を見続けて来た人はあまりいないと思うし、そうした人の知識の程度は高がしれているであろう。先の人に筆者が説明したのは複製の話だ。朝鮮時代の儒学者夫婦の像だったか、かなりの大幅の掛軸がアクリルのケースに収まって展示されていて、近くで見るとすぐに複製であることがわかった。非常に精巧に出来てはいても、顔料の質感は表現出来ない。そういう複製をなぜアクリルのケースで保護するのかわからないが、掛軸は脆弱であるし、また複製を作るにしてもかなり費用がかかったからであろう。となると、そうした掛軸の本物はほとんどそういう会場で展示されることはない。その隣にヴァン・ダイクかの大きな肖像画があって、ケースに収まらずに展示されていた。油彩画は表面が堅牢であるから、本物であっても防護の必要はさほどないということなのだ。複製がケース入り、本物が裸とはなかなか面白い対比で、その解説者はケース入りの作品も本物と思っていたのだ。また、どちらの絵も顔料は同じで、ただ膠で絵具を溶くか、油を使うかだけの差だが、そういう基本的なことも理解していなかったようだ。以上のことから想像出来ると思うが、今回の展覧会は絵だけでもさまざまな国のさまざまな時代のものがあり、そのほかに工芸も含んで、多彩さの点ではこれ以上はないという感じがあった。また日本の各地に所蔵されているものが大半なので、筆者にとっては今までに見たことがあるものが中心で、その点では面白味が少なかった。だが、ベトナムやインドネシアの油彩画がまとまって来ていたのは新鮮で、これはほとんど初めて見るものであった。いずれそうした東南アジアの近代現代の作品の紹介が日本で行なわれるようになると思うが、日本はアジアでは最も先に近代化した自負があって、今さらそうした後進国の芸術の近代化過程を見ても仕方がないと思っているから、展覧会を開いても誰も関心を持たない。そのため、税金を投入するときっと文句を言う人がたくさんあって、それでいつもルノワール展やルーヴル展に落ち着く。それこそが後進国的な哀れな西洋崇拝主義そのものなのだが、そういう劣等意識と高慢意識が混ざった時代はまだ200年や300年は今後続く。話が脱線気味のようだが、実は今回のこの2か所の展覧会は、そうしたことを充分考えさせてくれる点において意義のあるもので、脱線気味どころではなく、中心的問題とさえ言える。アジアとヨーロッパの肖像とは、アジアとヨーロッパの人々と置き換えてもよいが、結局アジアとヨーロッパがどう関係して来たかだ。そこには植民地問題、そして奴隷や戦争、文化の優劣の観念などさまざまな切り口が含まれる。この展覧会はアジアとヨーロッパ18か国の美術館、博物館が共同して作った国際巡回展で、18か国すべてが同じ内容なのかどうか知らないが、もし同じ内容とすれば、圧倒的に日本とヨーロッパが中心で、結局日本がヨーロッパとわたり合って来たことが美術の国際化を招いたという自負を示したいかのような内容になっている。そこに国力(経済力)の差というものを如実に思わせられる。だが、筆者の予想では各国の展示はそれぞれ内容が異なって、自国で開催する時は自国の作品を多く並べるのではないだろうか。
●『アジアとヨーロッパの肖像』_d0053294_13234430.jpg 展示作品から想像すると、18か国の中でアジアは日本と中国、韓国、ベトナム、インドネシア、そしてタイと思うが、中国や朝鮮の扱いはごく少なく、またインド美術もないので、国際展とはいってもかなり偏りがある。そのためもあって、みんぱくでの開催は実に意味があった。常設展を見ると、そこには世界中の民族の文物の紹介がされているからだ。その意味からすれば、国立国際美術館での展示は思い切って現代作品ばかりにしてもよかった。だが、そうなれば別に展覧会を企画する必要があった。見る人によって何か着目すればよいという考えのもとに作品が選ばれたのかどうか、あるいは作品はもともとある国のある場所で生まれたとはいえ、時空を越えて生きるし、また見る人によって感得の度合いは異なるから、今回のような、悪く言えば散漫な展示項目と作品の集め方であっても全くかまわないと割り切った考えがあったのか、結果的にはなかなか戸惑いのある内容であったと言ってよい。それは何も美術品のみが洋の東西の交流をよく示すとは言えないからで、そこにはやはり文字による説明が欠かせない。となれば美術品だけでは限界がある。映画や小説、歴史本から見ればもっとわかりやすいかもしれず、実際今回はそういうことも考えて、そうしたジャンルからもわずかに紹介している点において、なおさらとりとめのない内容であった。だが、こうした展覧会は近年の特徴でもある。これは展覧会がおおがかりになって来たことと、今まで散々あらゆるものを展示して来たので、切り口を変えて、多くの老若男女に会場に足を運んでもらうためだ。つまり、間口を広げた展示内容にしておく必要があるし、そこには誰もが多少は気になる作品があるはずだという思いがあってのことだ。となると、こうした展覧会の見所は、個々の作品がどうのではなく、企画者の裏の意図も含めての背景事情ということになる。であるからこそ前述したように先進国と後進国の関係に思いを馳せてしまうが、ちょうどうまい具合に先日は自衛隊のトップにいるような人物が日本はアジアを侵略しなかった、むしろ感謝されているといったことを論文に書いて問題になった。そういう日本人における拭い去ることの出来ないアジア、いや世界における劣等意識が裏に隠れた優等意識がどのように今回の展覧会と関係しているかを考えずにおれないことに気づく。芸術を完全に経済に飲み込まれたものと考えるかどうかは人の自由だが、筆者の考えを言えば、個人の呟きで充分と思っているし、またそうでなければならないと思っているから、日本がアジアを代表する国であるから芸術でもそうであるというようには全く思わない。国が違えば風土の違いもあって違う考えの人がいて、そこには違う芸術がある。それだけのことだ。どちらがいいか悪いかなどはない。優劣など好みの問題で、むしろ経済に飲み込まれて自由が利かなくなったところで制作している連中の芸術ほど筆者は貧困な内容と思う。芸術が人類最後の聖なるよりどころとすれば、そしてそれを信ずるのであれば、そこには経済活動云々の話の入り込む余地はない。ここでは金がなければ不自由という立場を採らない。金があればあったで人間はより不自由になる。精神の自由は経済とは無関係で、むしろそれにまみれない方がよい。その意味において、経済的な意味においての後進国の芸術が面白くないとは全く言えない。ところが人は経済的に豊かになりたいと思いがちで、そのために豊かなところで生まれる芸術を好む。だが、その一方で芸術にとって本当に大切な何かを忘れてやしませんかということだ。もう一度言うと、芸術の存在意味があるとすれば、それは精神の自由であり、それは経済問題とは無縁のところになければならない。
 さて、2会場とも章立ては当然同じで、順にそれを書くと、1「それぞれの肖像」、2「接触以前-想像された他者」、3「接触以降-自己の手法で描く」、4「近代の眼-他者の手法を取り入れる」、5「現代における自己と他者」だが、これはそれぞれのみでひとつの大きな展覧会が出来る内容で、やはりあまりにも企画の規模が大き過ぎる。1「それぞれの肖像」の面白いところは、清時代の文官の肖像から日本の浮世絵、そしてヨーロッパの写実的な肖像画が並んだことで、平面的な日本と立体的なヨーロッパの違いが一目瞭然にわかる。なぜそうなったかの説明はなかったが、これは太陽の光の差やまた人相の違いによる。日本人の鼻の低いのっぺりとした表情は、浮世絵で描かれるような平面性によく馴染んだ。それが戦後はデカ眼の女性が好まれるようになって、欧米化も極致に達したが、そういう顔を浮世絵にしたり、あるいは時代劇の映画に使用すると、どうにも滑稽で、様にならない。TVコマーシャルで優香がお姫さんの姿をして出るのがあるが、洋服ではとてもセクシーな優香が、その姫姿ではまるで下品な賤民上がりに見えてしまう。それは江戸時代の姫のキモノなるものが、当時の眼の細い美人が着用したからで、顔と衣装は釣合いが取れていたのだ。当時の上品な顔はデカ眼では決してなかったが、戦後は整形してまで欧米に近づこうという努力が涙ぐましいほどに続けられ、ついに浮世絵やキモノが全く似合わない顔を日本女性は獲得した。そこには今回の展覧会の第6章として、「限りなく西洋顔になった日本」という項目を立てて紹介すべき問題が横たわっている。話を戻すと、清時代の肖像画は浮世絵的に平面性が強調されるのに、顔には陰影があって、その点においては西洋にとても近い。ヨーロッパと陸続きである中国では人物をそのように表現することは自然の成り行きであったのだ。西洋と中国と日本のどの表現がいいとか悪いとかではない。そのようにさまざまな表現が地域によってあるというだ。2「接触以前-想像された他者」は説明は不要だろう。お互い情報が限られていた頃は、人々の言い伝えから想像するしかなく、そこには幻想が入り込み、今となっては奇妙だが面白い表現がいろいろと行なわれた。そこには未知のものに恐怖を抱く、あるいは蔑視するという思いもある。3「接触以降-自己の手法で描く」は外来の文化が入って来た時の戸惑いとどう合理的にそれを消化するかの格闘だ。伝統の中に出現する異物とも言えるが、やがてそれもまた伝統に組み込まれる。これは永遠に繰り返されることと言えるが、次第にそれが加速化され、一方で伝統を保持しようという反動もあって、伝統は絶えず新しくなるようでいて、また古い形態のままにとどまる。これはなかなか壮大な問題を抱えており、またあらゆる文化、芸術に当てはめて論じることが出来るので、ここではこれ以上書かない。
 4「近代の眼-他者の手法を取り入れる」はそのことに関連しながら、より時代の着眼は前方を向き、欧米化するアジア、あるいは日本、中国趣味を取り入れたヨーロッパの芸術を紹介する。だが、ここには対等の意識があったかどうかは疑問で、アジアにおける欧米化の波の嵐は植民地問題と関係してあまりに徹底していたため、描かれる顔を除けばアジア人とは思えないかもしれない。ここでも面白いのは中国だ。中国は長い絵画の伝統があったが、日本と戦った後は日本画から影響を受けた絵が一時描かれた。それとは別にコマーシャルな世界ではアメリカのピンナップ・ガールを模した中国の若い女性を描くイラストが盛んに生産され、それが妙に艶めかしいのは、日本におけるビールの宣伝絵を描いた浮世絵の伝統を引く日本画家たちの作品と同じ傾向で、そうした絵もまた歴史主義の中で論じられる時代が来ていることを実感させる。また、この章で展示された岸田劉生の麗子を描いた油絵が他の17か国で展示されるのかどうか知らないが、いったいどのように受けとめられるだろうか。最後の5「現代における自己と他者」は国立国際美術館向きで、簡単に言えば現代美術における人物の顔を主題にした作品だ。パキスタンのラシッド・ラーナの「パレードの間、すべての目は空を仰ぐ」は縦横数メートルの大きなデジタル・プリントの作品で、遠目には群衆だが、近寄って見ると、数センチ角の全く別の映像の無数の集合体であることがわかる。アイデア勝負と言えばそれまでだが、驚くべき労力を伴った、したがってコンピュータ時代にふさわしい作品。映像作品として上海のツァオ・フェイによる「コスプレイヤー」は日本のアニメ文化の世界への浸透をまざまざと知らしてくれる。ごく普通の若い男女がある日ある場所にアニメ・ヒーローの格好をして集まってアニメの物語を思い出しながら「なりきりの行動」をする。それが終わるとまた家に戻って普通に生活する様子をドキュメンタリー的にまとめたものだが、そうした若者の空想と現実の交差は充分予期出来るものでありながら、そこには切なさと不気味さがない混ぜになっている。さて、見る人がどうにでも考えてくれと、多くの作品をぽんと放り出されたような内容の展覧会であっただけに、ここで書く内容もまとまりのつきようがない。図録は買わなかった。
●『アジアとヨーロッパの肖像』_d0053294_14175974.jpg

by uuuzen | 2008-11-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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