渋く深まり行く晩秋にコローはよく似合う。コロー展は今まで何度か見たと思ったのでカタログは買わなかったが、帰宅して調べると、たいていはミレーやバルビゾン派と一緒に扱われて、単独展はどうやら今回が初めてだ。

だが、確かにコローの絵が図録の表紙に大きく印刷されたものがあったはずと思ってさらに図録棚を見わたすと、『ボストン美術館秘蔵展 フランス絵画の巨匠たち』と題する、何とも印象のうすい題名の展覧会図録の表紙がそれであった。同展は1979年の開催であるから、もう30年前のことになるが、表紙の絵は「花環を編む若い女」で、その銀色を背景にした沈んだ下向き顔が原寸大以上に拡大されて印刷されている。別段美人ではないので、コローと言われなければ見過ごしてしまうような絵だが、心の底にずっと残っているところを見ると、やはりコローの並みならない才能を示す作品と言える。ボストン美術館は日本と縁が深いこともあって、その後は名古屋に美術館の出張所が出来て、常時あれこれ作品を持って来て展示するまでになったから、日本の金の力がさすが世界有数になったことがそういうところからもよくわかる。そのためもあって、今回のような大規模なコロー展が開催されもするが、今回は筆者は珍しくも楽しみにした。というのは、20歳頃に美術全集でよく知っていたコローの名作が来るからで、当時は生涯その絵を見ることは出来ないと思っていたが、長生きはするもので、日本にいながらにして遭遇の機会があった。その絵とは、「青い服の婦人」だ。小さな図版からでも、美しい女の香りがぷんぷん湧き立っていて、見れば見るほど惚れるといった文句なしの名作だ。特に目を引くのが、女の着る青いドレスだ。その青はイヴ・クラインが愛したあの真っ青なウルトラ・マリンではなく、もっと沈んだ、日本の使い古した藍染めの布のような渋い青で、印刷ではなかなか再現出来ず、実際この絵のあった部屋にソファがあり、しかも図録が置いてあったので比較することが出来たが、色調はかなり違った。そして、この青があってのこの名画で、またコローなのだが、同じ青でもフェルメールの青とは少し違う。藍染めの青は田舎臭いが、このコローの名画も美人ではあってもパリではなく、どこか田舎っぽい。それがまたよい。ちゃらちゃらした美しさとは無縁の美で、コローがほとんど外出しなくなって、アトリエで絵を構成して描いていた晩年の、しかも亡くなる1年前の78歳の時の絵であることをうなずかせる。そのような老齢に至って、なおこのような瑞々しい絵を描くことの出来たコローの絵画の本当の味わいは、老齢になるにしたがってよくわかるものではないかと思う。若い頃はとにかく派手で目立つもの、ぱっと見て即座に驚くものに興味が行きがちだが、そういうものはたいていはごく詰まらない。「芸術は驚きだ」と言ったところで、本当の名画をあまり見たことも感じたこともない若い頃は、真に驚くに値しないものに驚いたりしがちなのだ。
「青い服の婦人」のような芳しい絵を描くことの出来たコローがなぜもっと同じような美人を美しく描く人物画を残さなかったのかと疑問に思うが、そういうモデルに出会わなかったか、あるいは地味な「花環を編む若い女」を改めて見ると、美人ではなくてもそこに紛れもないコローの美があることに気づいて、結局美人であるかどうかは気にならなくなる。それが本当の絵の見方というものかもしれない。女をいかにも美人、あるいはかわいく描く画家は評判がよい。たとえばルノワールだ。黒々とした目がぱちりと描かれたルノワールのそうした若い女性を描いた絵を見ていると、その女性に吸い込まれそうな気がして落ち着かない一方、そういうタイプの絵ばかり見ていると、真実らしさを感じなくなる。その意味においてコローの場合は、「青い服の婦人」はコローにとって全くの例外であり、しかもモデルは横向きに描かれて瞳をこちらと合わせない。また、ルノワールのような美の誇張はなく、ほとんどクールベそのままと言ってよい写実で、美人を美人に描こうという意識がない。78歳の老人コローがこのような若い女性を前にしてどのように感じたのか興味のあるところだが、コローと女性との間には目に見えない距離があって、その一線を置いたコローの思いがモデルの女性に乗り移って、この絵をとても清潔で近寄り難いものにしている。だが、その近寄り難い女性美というのは筆者は大いに好む。あまりに美しいものはみなそういう恐れのようなものを抱かせる。コローは生涯独身を通したが、金持ちでしかも各地を盛んに旅し、ある時は女性画家と一緒に画架を並べて描いたこともあって、それなりに女性関係はあったろうが、結局結婚しなかったところにコローの女性観をあれこれ想像してみたくなり、そのためのひとつの素材として「青い服の婦人」は格好のものだ。今回はもうひとつコローの女性を描いた代表作が同じくルーヴルから初めて来た。「真珠の女」だ。この絵は女の額に真珠の一粒が見えるようだが、実際はそうではなく、小さな草花の影だ。神戸市立美術館はルーヴル展を毎年のように開催しているが、そのコネクションがあってこのような名画が今回は特別に持ち出しが許可されたのだろう。「真珠の女」は明らかに「モナ・リザ」を意識した作品で、若い女性の上半身を描き、両手が特に「モナ・リザ」を思わせる。だが、茶褐色を中心とした渋い色合いや衣装は田舎の女性そのもので、貴族的な華美さはあい。だが、顔は彫刻のように凛々しく、どこか冷たく沈んでいる。清潔であるのは「青い服の婦人」と同じだが、ここではもっと固まった硬さがある。それをコローは自覚していたらしく、女の向かって左の胸元を少しはだけ気味に描き直したそうだ。それで色気が若干出たようではあるが、顔の表情からは相変わらず近寄り難さが伝わる。それをコローの持ち味として好む人は好むが、案外そうではない人が多いのではないかと思う。特に昨今の日本ではコローのような渋い絵はあまりに目立ちにくく、ほとんど無視されると思える。何でも目立つが勝ちの世の中になって、コローのようなあまりにも控え目で、庶民的なようでいて貴族的で高貴な絵はしみじみと鑑賞されにくくなった。

今回コローの絵をたくさんまとめて見て思ったのは、コローの文人画家的心境だ。そのためにも晩秋にコローは似合うと思うのだが、そのコロー・スタイルは写実から出発して、晩年は幻想との境がおぼろとなり、その自在に絵を「作り上げる」、またその様式性が、日本のあるいは中国の文人画家にそっくりだと思える。どんな画家でもそのようなところがあるとは言えるが、コローのいぶし銀のような空と樹木の重なり具合の表現は、コローが作り上げた独創的様式として、それだけでも歴史に名をとどめるにふさわしい。だが、その様式はあまりに特徴的で模倣がしやすく、コローが生きている時からすでに贋作が出回り始めた。コローは絵を売らずとも生活が出来るほどの一定額の年金を親から若い時に受け取り、しかも親が亡くなってからは遺産を受け継いだので、経済的な心配は全くなかった。面白いことに、そういう経済的に恵まれた境遇にある者ほど絵の人気が出るもので、コローの絵はサロンで入選し、名を知られて売れ始める。そんなコローは貧しい画家がたくさんいることをよく知っており、ドーミエに家をぽんと買ってやったり、ミレーの奥さんに大金をあげたり、周囲の画家を経済的に援助したこと有名だ。コローはドーミエのような痛烈な政治風刺は好まず、全くノンポリとして生きたが、ドン底の貧しいドーミエを援助したところに、自分はノンポリではあっても政治に強い関心のある画家を否定しなかったところが見え、そこにまたコローの結婚しなかったことと同じくらいの謎を筆者は思ってしまう。金はいくらあっても困らないから、死ぬ間際になってもケチな人はケチだが、金はいかによく使ったかでその人の価値が決まる。コローが周囲の画家たちを援助しなかったとしてもコローの絵の価値は変わらないだろうが、実際は話は逆で、そのような優しい、そして無欲なコローであったからこそあのような絵が描けたのだ。人気が出た画家は贋作が生産されるのはいつの時代でも同じだが、コローは特にそれが多いだろう。コローの小品はよく見る機会があるが、あまり関心しない場合もよくある。『ああ、コローね』でおしまいで、いかにもコローらしい樹木が描かれていたりするが、ありがたみがない。そういうのはたいてい贋作だろう。いつのフランス映画か忘れたが、題名は『五月のミル』だったか、田舎の老夫婦のうち奥さんが亡くなって、家族がパリやその他から駆けつけて遺産をどうぶん取ろうかと騒ぎをやる内容のものがあった。よく記憶しているのは、ある人物が家にコローの絵があって、それがちょっとした価格がすると言う場面だ。それは日本で言えば、明治時代のある程度の金持ちが応挙の絵を持っているといったのと同じ響きがあった。だが、応挙がそうであるように、そのようなコローの小品に贋作が多く混じっているはずだ。コローの絵の人気が出たのは、パリ万博などがあって世の中が都市化し、田舎らしさが失われつつあったからではないだろうか。コローは1875年に亡くなるが、その20年前に万博があった。古きよき時代という感覚がコローの絵には濃厚で、それゆえにミレーやバルビゾン派と一緒にして展覧会が開催される。だが、先に書いたように、コローの絵は金持ち育ちゆえの上品さが強くあって、都会人が田舎らしさを装ったところがある。そしていぶし銀の空気は、たとえばワトーの絵に近いと言ってよく、そこにもフランスの貴族的伝統に連なるものがある。
筆者は晩年のいぶし銀のコローも好きだが、どちらかと言えば若い頃ローマに行って描いた風景画がもっとよい。フランスの画家がイタリアに絵を学びに行くのは常識になっていたが、コローの風景画はイタリア人が描く風景画とは違って、明らかにコローとその時代の空気を保ち、しかもそこにイタリアのいわゆる憂愁さが重なって、独特の味わいがある。それを簡単に言えば、陽の当たる部分と影になって部分の土色の壁の対照で、プッサンが人物画でそれに近い表現をしたが、そのごく小さな部分を見ているだけで、そこに悠久の時間が何重にも重なって見える。コローが見たローマの遺跡の明暗の対比を今筆者がコローの絵を通して見ているが、そこにはコローと筆者の目と思いの重なりがある。これこそが絵を見る楽しみだが、そういう感覚を与えてくれる絵は実はそんなに多くはない。そのなかでコローの若い頃のイタリアを取材した横長の風景画における陽の当たる部分の何とも言えない憂愁さは、人生の意味を端的に表現しているようで恐いほどだ。キリコはきっとそのコローの風景画における光と影の対比を見たことと思う。コローはイタリアの憂愁さを風景画を通して写実的に表現し、そして晩年には妖精が画面の点景となって、場所が特定出来ない脳裏で構成した風景画を描くようになるが、いぶし銀色の樹木の葉は憂愁さの点で言えば若い頃のローマの遺跡に射す光と何ら変わってはいない。その憂愁がコローの内面にどのような形成されて行ったのかは知らない。絵を描くことを親から反対され、仕方なく手伝った華麗な布地を売る家業にしても結局能力なしと親からみなされて絵の道を進むことをようやく許されるのがもう30近い年齢であった。コローを憂愁という言葉だけで捉えればその芸術を誤解させかねないが、口数少なく、黙々と自分の好きな絵だけ描いたことはその作品群から明らかであり、そこには若い頃から一本筋の通った頑固さ、それもさして何も面白くないといったかのような憂愁の気分が常に張りついていたような気にさせる。画家は自分の理想とする世界を絵画の中で実現させようとすると考えてよいから、コローの理想もきっと絵の中に閉じ込められているが、その理想は今回の目玉としてやって来た先の2点の女性像のほかに、1864年に描かれた風景画「モルトフォンテーヌの思い出」がある。この絵は今回が初めてではなく、1980年の『ミレー・コロー フランス・バルビゾン派の名画』にもやって来て、今手元のその図録があって筆者はよく記憶している。この絵の素晴らしいところは、画面の最も遠くを臨むこんもりとした丸い樹木が川面に影を落としている部分だ。そこを中心として、近景にはいつものいぶし銀の樹木、そして樹木に花を巻きつけているのだろうか、若い女性と幼い子どもふたりが描かれる。その大きさからして、3人はこの絵の主役とは言えないが、この3人がいなければこの風景画は絵として成立しなかった。そのため、主人公は3人と言える。だが、3人だけ描いてもこの絵の持ち味は出ず、結局3人と、そして画面の大半を占める風景が造形的にも、また実際の光景として見ても均衡を保っている。そして、この絵を見ていると、独身であったコローの内面のさびしさが伝わって来る気がする。コロー自身は決してそうは思っていないはずだが、「思い出」と題されるところに、もう手が届かない自分の思い、そしてそれをせめて絵に残しておこうとする意思が見える。そのために、やはりこの絵もまた憂愁なのだ。コローは自分の家族を持てば、この絵の中に描かれる3人を現実のものとすることが出来たが、なぜその道を選ばなかったのであろう。絵の制作が阻害されると思ったか。いやそうではないだろう。経済的不安もなかったし、醜男でもなかったコローであるので、家庭を持とうと思えばいつでも可能であった気がする。だが、案外出会いがなかったかもしれない。ともかく理想とする女性、家族、そして自分がいつまでも浸っていた空間をコローは晩年に至るほどに描こうとし、それに成功した。
コロー展ではあるが、コローだけで大きな会場の壁面を埋め尽くすのは無理があったのか、コローと同時代のよく似た画風の画家、そして後のコローの影響を受けた画家、たとえばセザンヌやモネ、シスレー、ピサロ、ドニなどの作品が間にぽつぽつと挟まった展示になった。それを知らない人が、画風があまりに違うことにびっくりしながら、「こういう絵も描くのね」などと頓珍漢なことを言っていた。コローの影響を受けた画家は印象派に目立つが、ドランのようなフォーヴもある。ドランの作品はいつも戸惑わせられるが、今回も2点来ていて、20年近く制作年代の後の方がコローに近い写実で驚かされた。この画家は自分の様式というものを一直線に変化させることに興味がなかったようで、それがいわば歴史的には二流に留めた理由に思える。画家の作風の変化はやはり生物のように滑らかに変わって行くのがよく、あまり急な変化は節操がないと思われる。コローが影響を与えたのは主に構図で、コローの若い頃の写実的な作も造形効果を狙って現実そのものではなく、あるものを加えたり、移動したり、また削除したりしている。絵は作りものであるという意識があったからこそ、晩年に妖精らしき女性が頻繁に登場した。写真が登場したことによって、絵は写真とは別のものであるという意識がコローにはあったのかもしれない。コローの絵の構図を特徴づけるものとして、傾いた樹木がある。先の「モルトフォンテーヌの思い出」も左右に大きな立ち木が2本あるが、どちらも画面左に大きく傾いている。それは絵の焦点を3人の人物や、その奥の川面に反射して鏡像をかたちづくるこんもりした樹木に結ばせるためだが、その巧みはクールベのような写実からは一歩進んだ、いかにも現代的なものだ。そこに印象派は魅せられたのだろう。この樹木の傾きはやはり文人画のひとつの様式といったことを想起させるが、実際コローはよく樹木を同じように傾かせた。「ティヴォリ、ヴィラ・デステ庭園」というやはりローマを題材にした油彩画が来ていて、屋敷のバルコニーから庭を逆光で眺めた様子を描くが、「モルトフォンテーヌの思い出」と同じように画面の両端に樹木がある。それは背の高い糸杉だが、面白いことに画面左端の1本の先端は左に曲がって傾き、画面左端で切れている。そのことによって実際の風景はもっと広がりのあることを示したかったのだろうが、その無理やり曲げたような1本は、何かコローの強い意思のようなものが見え、とても興味深い。また、遠近を強調するために縦長の構図で透視遠近法で町並みや田舎の別荘地を描くこともあったが、そうした絵ではまっすぐな塔が画面を引き締めているのと同様に、樹木は先端を曲げられることはない。コローという名前はロココに近い響きがあるが、本当にそのとおりで、コローはロココ世代の人間が近代に生まれ変わったところがあるような気がする。ただし、その虚飾を一切剥ぎ落とした真実性において、裸のままの宝石、あるいはその本質だけを見ている気分がある。