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●『コレクター』
っと心のどこかで小さく引っかかりながら、確認せずにそのまま放置していることは誰しもある。満たされない思いというほどでもないので、普段は忘れている。だが、何か拍子にその長い間思っていたことが向こうからやって来て、思いが満たされることがある。



そんなことが数日前にあった。映画『コレクター』だ。深夜のTV番組で放映されることを新聞の番組欄で知り、録画した。2、3日後に見たが、1965年の作品と知って改めてそんなになるかと知って驚いた。当時筆者は中学生でビートルズに夢中になっていたが、この映画が話題になった鮮明に記憶がある。蝶を採集する男が女を誘拐し、閉じ込めるという内容は当時から知っていたが、コレクションの対象が蝶から女に変わるところに、10代前半の筆者は大人の危ない思いというものを感じて、そんな内容を主題にした映画が作られることに、アメリカが変な形で進んだ国とも思った。もちろん日本でも女性誘拐はあったのだろうが、そんな事件を映画にすることはまだ時代の空気としてはなかったと思う。40年以上も経ってようやく気がかりひとつ減ってすっきりしたが、かえって今見る方がよかった。大人の映画は大人になって見る方がよいし、映画の中の空気は時代を経て見た方がかえってよく把握出来る。つまり、これは分析的に見ることが出来るという意味で、そのためにこうしてブログに長文を書くことも出来る。監督はウィリアム・ワイラーで、筆者が彼の作品を初めて見たのは『ベン・ハー』であった。これは小学6年の時で、友だちのN君などが学校で話題にしていて、筆者もぜひとも見たくなって母にせがんで見に連れて行ってもらった。後にも先にも母にせがんで映画を見たのはそれのみだ。当然2番館であったが、長編かつ想像どおりの巨大なスケールで、その後日本が金持ちになっても同様の規模の映画を作ることはついに出来なかった。そして、時代は画像処理で同様のことをするようになり、『ベン・ハー』の向こうを張ったような『クラディエイター』が作られたが、全くカス映画で、『ベン・ハー』の鼻クソほどにも当たらない。映画は画像であるので、画像を加工すればどのような荒唐無稽の場面を作り出すことも出来るが、実際に撮影したものとはどうしてもリアル感が違う。ともかく、空前の超大作の『ベン・ハー』を採った監督がその何年か後に、このいたってシンプルな舞台装置と内容の『コレクター』を撮ったから、監督そのものに興味が湧くが、西部劇やラヴ・ロマンスの『ローマの休日』など、あらゆる種類の映画を撮った後ではこういう新感覚の映画しか道はなかったのだろう。だが、その冒険心は見上げたものだ。時代の読みという点からすれば、『ローマの休日』や『ベン・ハー』はもうかなりセピア色を帯びているが、この映画はむしろきわめて現在的な問題を主題にし、その後の時代が映画に追いついたと言ってよい。
 日本でも少女を長年監禁していた男が捕まるなど、昨今は似た事件はいくつも生じ、中には行方不明の女性が数限りないが、そうした事件を想起させる点で、この映画は時代を予告する一方、女性誘拐監禁を願望する男に多少のヒントを与えたかもしれず、その一種不謹慎性によって、この映画が不朽の名作になっているところもあって、それをワイラー監督が予想したのかどうか、とにかく65年にこの映画を撮ったということは、今思えば、まさに先駆的な作品と感ずる。「コレクター」は「ク」と「タ」があって日本で言う「オタク」と似た語感をしている。「ク」と「タ」はまた「ガラクタ」にもあるが、これを「我楽多」といった漢字を当てて、個人が楽しければそれでよしという個人主義をたとえるひとつの言葉にも使うが、「我楽多」すなわち他人にとってはどうでもよいモノを集めるコレクターは、ある程度の金と暇が不可欠であって、人々はその豊かさを背景にする点に対して揶揄の思いを込め、今は「オタク」と呼ぶ。日本では1965年は国を挙げて豊かさに邁進して行く時代であったが、アメリカや、この映画が舞台にしたロンドンでは多少の年月を先んじても似たようなものであったことだろう。つまり、戦後が遠のいて時代が豊かになって行くところにどういう新しい人間が登場し、どういう新しい思いと行為をしでかすかということにワイラー監督は興味を覚えたに違いない。不景気と言われる今の日本でも、先ほどTVの国会中継がやっていたように、日本が毎日残飯として処分する食料は、全世界が貧困国家に食料援助する量の3倍以上にものぼり、これは誰が見ても超豊かな国であって、ホームレスが残飯を漁っても糖尿病になるという理由がよくわかる。日本が処分する食料をすべて飢えている国の人々にあてがうことが出来れば、数億人は餓死せずに済むが、そういうように無駄なく食料や金が循環しないのが世界であり、そういう差があることによって回り回って多様な文化もまた生まれるから、処分する莫大な食料が一概に無駄とも言えないか。話を戻して、豊かになった現在の日本は、この映画を古臭いと感じるだろう。先に書いたようにもっとえげつない女性監禁事件は生じており、日本の今は確実の欧米の65年をとっくの昔に追い越した。だが、ワイラー監督は今の日本は予想も出来ず、またこの映画の原作者もそうであったので、主人公の青年フレディをどう
いう事情で金と暇がある人物として設定するかに関しては、きわめて古典的な宝クジに当たるという筋書きにした。映画の中で回顧場面として白黒の短いエピソードが挿入される。フレディは銀行に勤務しているが、完全に孤立して窓際族だ。蝶を集めるしかない趣味をおそらくみんなからからかわれている。それに対して反論も出来ず、壁際で体を硬直させている。そこに太って地味な母親が叫びながらやって来る。「わたしの息子はサッカー・クジが当たったのだよ!」。そのお金によってフレディは銀行をやめ、田舎に何百年か前の大きな屋敷を購入する。そこには地下室があり、それを利用してかねてから思っていたことを実行する。
 ロンドンのとある美術学校にフレディ好みの女性ミランダがいた。フレディはミランダを密かにストーカーし、動きの一切を把握して誘拐の機会を狙う。蝶採集のためにクロロフォルムの1瓶を所有していたのをガーゼに染み混ませ、それをミランダにかがせて眠らせ、車に押し込んで連れ去るという手口だ。クロロフォルムで眠らせる事件はその後日本でもよく起きた。初め筆者はこの映画をアメリカが舞台と思っていたが、街角が歩いたことのあるような場所であることに気づいた後、すぐにトラファルガー広場が映ってやはりと思った。なぜワイラー監督がロンドンを選んだのかは知らない。原作がそうなっていたからか、それともイギリスには切り裂きジャックのような女性を殺害する事件が昔から有名で、それをほのめかす思いがあったか。フレディが青空のもとでどうしてミランダを眠らせることが出来たかだが、車をミランダがやって来るところに先に乗り入れて、狭い通りを体ひとつしか通過出来ないように停めたのだ。ミランダが体を横向きにして通り抜けようとした時に襲ったのだが、そんな大胆な犯行を真昼に行なえるほどにロンドンの中心部でもまだ人影が少ない場所はあった。それはおそらく今も変わらない。筆者は息子を連れて昼下がりにアビー・ロードをずっと2キロほど歩いたが、その間ほとんど人とは出会わなかった。ロンドンはほかにも似たような場所は少なくなく、65年ならなおさらそうであったと思う。さて、用意周到なフレディは地下室にミランダを監禁するが、食事は常にきっちりと用意して運ぶ。ミランダは男の目的が何か知らされず、セックスが目的かと思って、やがて自ら裸になって誘うシーンがあるが、フレディはその時から態度を一変させる。女の肉体ならロンドンで金でいくらでも手に入ると叫び、そういう商売女ではない純粋無垢な、崇め奉る存在としてのミランダでいてほしかったと言うのだ。このあたりは現実的であろうか。女性を誘拐監禁する目的は、女性をほとんど犬のように飼って自分が主人となることに優越感を覚え、しかもセックス三昧のためではないかと想像するが、きれいな蝶を自分で捕獲して部屋に飾ることを趣味とするフレディは、蝶のような完璧な美を女性に求め、ただ飾っておきたかったのだ。だが、生きた人間をそのようにすることは出来ない。そこをフレディがどのように具体的なことを思っていたかだが、その説明場面がこの映画のクライマックスだ。フレディは監禁4週間目の開放を約束した日に、買っておいたドレスをミランダに与え、ふたりで居間に用意した豪華な晩餐を過ごし、その席で指輪を与えてプロポーズする。そして、ミランダは絵を描くなど好きなことをしてよく、ただ家にいてくれればよいと懇願する。当然のことながら、ミランダはすぐにでも家に帰りたいし、それとは別に結婚するには両親の許可も必要であるから、フレディを受け入れることは出来ない。するとフレディは態度を急変させ、ミランダを質問攻めにする。
 それはたとえばピカソの絵をどう思うかで、優等生的な答えをするミランダをフレディは許せない。「こんな馬鹿げた絵を本当にいいと思うのは百万人にひとりであって、ほとんどの連中は周囲がそう言うから同調しているに過ぎない。」と言いながら、ピカソの複製の入った額縁を握りつぶす。これはワイラー監督の思いもある程度は入っているかと思わせられる発言だが、自然の見事な造化である蝶を愛好するフレディが発する言葉としては実に納得出来るものであり、わけのわからない抽象絵画を理解するミランダから見下されたかのように感じたのだ。この場面のフレディの演技は圧巻で、この映画の最大の見所だ。フレディにすれば理屈を言う女性は我慢がならず、その理屈の前で卑屈になる自分を感じて逆上した。似たようなことは男女にかかわらず人間関係において永遠に繰り返される。ここにまさにものを言わないモノを集めることに執着するコレクターの心理を見事に描いており、今のオタクの偏執的、倒錯的な心理や行動をよく説明している。ここで言うオタクは、たとえば性器をリアルに表現した女性の小さなフィギアを集める人種のことで、ポルノ愛好家やアイコラ趣味を持つ者も含めてよい。生身の女より、自分の頭の中で描いた理想あるいは空想の愛玩物としての女性像があるのだ。書店のポルノ雑誌コーナーに若い男が群がっている光景をある外国の女性が非常に奇妙に思ったということを、昔何かが読んだことがあるが、それは真横に肉体を持った本物の女性がいるのに、それに目もくれずに本の中の裸の女性を見つめることの不思議を感じてのことだ。そこには男特有のコレクター的本能の存在が露になっている。女性に男性の裸の写真をたくさん集めてにやにやする趣味があるとはあまり思えないし、やはりコレクターは男の本能だ。その本能をフレディはしがない銀行員である頃は実践出来なかったが、宝クジに当たった途端に生身の女性を誘拐するという行動に出るところ、日本の平均的セックス・オタクより狩猟民族らしい本能をよく示している。フレディが誘拐して来てまだ眠っているミランダのスカートがほんの少しめくれ上がっていることに気づき、すぐにそれを元通りに直す場面がある。そのことから予想されるように、フレディはミランダとの性交渉は望んでいなかった。これを単なる性的不能者の物語として見ることも出来るが、女性を汚れのない状態のまま見つめていたいとするのは、キリスト教的価値観からは理解されることかもしれない。そういうのを心理学的にどう呼ぶのか知らないが、日本映画ではたとえば坂東妻三郎主演の名作『無法松の一生』が似た心理をよく描いていた。結局フレディの感情も男の女に対する愛のひとつの形であって、肉体的接触を積極的に実行しようとするミランダは典型的な女性として描かれており、この映画は男の女の真実の姿が対比されているとも言える。もっと言えば、男と女の間には深くて暗い河が流れていて、男が理想とする女は絶えず現実の肉体を持った女とはずれている。それにしても、大金を所有したフレディは大胆な犯行をせずして、もっと堂々とミランダに接近すればよかったものを、なぜああいう手段を行使したのか理解に苦しむ。ただ飾っておきたいのであれば、ただ見ているだけであって、ずっと気づかれずにストーカーを続ければよかったのではないか。それに、ミランダは中年男と交際していて、酒場で落ち合ったりしている女学生であって、当然そこから予想されるように肉体的には普通あるいは淫らであるから、フレディが憧れる理由がわからない。それではフレディは処女好みではなく、やはり肉体性を感じさせる熟れた女を求めたことになる。にもかかわらず、その肉体が眼前に披露されれば拒む。コレクター心理は筆者にはわからないでもないが、フレディのその点は理解出来ない。
 映画の登場人物もほとんど誘拐犯と誘拐される女性のふたりだけであるので、舞台で演ずるのに最適かもしれない。登場人物の少なさと、ほとんど田舎の一軒家とその室内だけが映る点で映画の緊張感を高めていて、それだけに演技力を要する作品になっているが、フレディを演じたテレンス・スタンプは見事な表情作りをしている。女性ミランダ役はサマンサ・エッガーというが、顔は『奥さまは魔女』のサマンサとカーペンターズのカレンの足して二で割ったような感じで、美人というほどではない。フレディとミランダの生活のその後がどうなるか興味深く見たが、予想とは違った展開にこの映画の古典的名作ぶりを感じる。簡単に言えば教訓を垂れる映画では全くない。教訓はむしろ主人公自身が最後に口にするように、コレクターの独善であって、恐いというより笑えてしまう。サスペンスも淡々としていて、猟奇性はほぼ皆無だが、フレディが終始紳士的に振る舞うところ、イギリスを舞台にしたのは理にかなっている。筆者が特に注目したのは音楽だ。70年代ならシンセサイザーを使ったであろうが、ここではまだその登場はなく、管弦楽器がミステリーな音楽を奏でる。それがほとんど60年代後期のザッパのオーケストラ曲であり、ザッパが映画音楽畑から登場したことをよく示す。そのため、この映画のほとんど音楽はザッパかと思えるほどで、ザッパに似た才能は当時多数いたことがよくわかる。そこでザッパが有名になったのは自作自演したからで、やはりロッンロール・ブームのおかげだ。そのロックンロールで連想するのは、こうした60年代前半までの名作映画から盛んにアルバム・ジャケットに引用したザ・スミスのモリッシーの感覚だ。この映画におけるテレンス・スタンプはモリッシーによく似た顔をしており、その複雑な感情の持ち主のフレディはモリッシーの好むところではなかったか。そのためかどうか、ザ・スミスはマキシ・シングル「What defference does it make?」でこの映画のフレディの上半身をジャケット写真に採用した。スタンプから抗議があってモリッシー自身が同じ格好をして撮影した写真にすり替えられたが、そのことからもモリッシーとフレディの姿はだぶる。その後スタンプは抗議を撤回し、またフレディの写真が使用されたが、モリッシーの姿を使用したものは数が少なくて「コレクター」ものとなっているのは、何ともこの映画らしい顛末ではないか。筆者が見たのは場面のカットがあったのかどうか知らないが、TVではコマーシャルを挟むので、断りがない限り、多少のカットはされているだろう。テープを巻き戻してさきほど確認すると、そのマキシ・シングルのジャケ写真と全く同じシーンはなかった。それがいささか惜しい。写真は片手にミルクを入れたコップを持ってフレディが微笑む。これは誘拐したミランダに朝初めて食事を運んだ時のフレディの心躍る気分をよく表現したもので、フレディの喜びがストレートに伝わるが、そのフレディの眼前に恐怖におののくミランダがいることを知ると、この写真がより深い意味を持っていることが理解出来る。写真はおそらく映画には登場しない、撮影時に撮ったもののはずで、モリッシーがそうした好みの映画のスチール写真を自身でコレクションしていたのか、あるいはアルバムを出すに当たって他人に収集させたのか、いずれにしても強いこだわりが見られる。ザ・スミスのアルバム・ジャケットに選んだ写真はみな含蓄があって面白いが、そのようなセンスを持ったロック・グループは80年代にはなかったし、これからもないだろう。話の脱線ついでに書けば、昨夜モリッシーの2002年のライヴをたまたまTVで見た。20年前のザ・スミス当時に比べてやや太り、また老化していたので、一瞬モリッシーとはわからなかったが、2、3曲聴くと紛れもなく彼のサウンドで、健在ぶりを確認した。その姿はまさに60年代のイギリスの男性歌手そのもので、そうした歌手の歴史を思ったが、自作を歌うところが後の世代を如実に示しているのであった。自分で作ったものをコレクションする。これもまた男の夢だろう。
●『コレクター』_d0053294_14162418.jpg

by uuuzen | 2008-10-14 15:24 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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