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●「SOLEADO」
内で葬式が最近相次いだ。一昨日の深夜、お隣の奥さんが亡くなったという電話を組長からもらった。それで昨夜は通夜に、今朝は葬式に行った。



●「SOLEADO」_d0053294_1254662.jpgどちらも町内の人の参列用にバスが出たが、今朝は大変な雷雨であったこともあり、バスに乗った人数は通夜ほどではなかった。奥さんは10年ほど患っていて、去年10月に入院し、1、2度帰宅しただけであったが、確か筆者が最後に会って話をしたのは半年ほど前のことだ。筆者が今住んでいる家に引っ越す時、最初に出会ったのがその奥さんであった。9月の今頃だった。新聞で見た不動産広告が気になって、台風が過ぎた直後、まだ生まれて間もない息子を乳母車に乗せ、家内と一緒にバスに乗って下見に来た。目的の空き家の前に来た時、たまたま隣の奥さんが外にいた。空き家を見に来たと告げると、看板に書いてあるところに電話するとすぐに不動産屋がやって来ると言う。それで近くの公衆電話からかけた。家の中を見ると筆者はすぐに気に入った。3階建てで、3階が仕事部屋に最適だったのだ。それ以降奥さんとは25年の付き合いであった。毎日大音量でステレオをかけ、庭の手入れもしない筆者は、必ずしもよき隣人ではなかったが、話がよく合った。奥さんは20年前に御主人を亡くした。40代半ばであった。白いシーツにくるまれた遺体が病院から家の前に運ばれた時、たまたま筆者は3階から見下ろした。それから奥さんは女手ひとつでお子さんを立派に育て上げたが、御主人の跡を20年目に追った。65であった。いろいろお世話になり、思い出が尽きない。今日の葬式で花をお棺に入れる段になって、筆者は白のデンファレを係員から手わたされた。白の花であればよいのにと思っていたらちょうどそうなった。葬儀は専門の会館で行なわれたが、通夜の時も音楽が始終鳴っていて、選曲が気になった。奥さんの好みの曲が選ばれていたのならいいが、どうもそうではないように感じた。クラシックとしては唯一「アルヴィノーニのアダージョ」がかかっていたが、あまりにポップなアレンジで、中間にはファズの効いたエレキ・ギターのソロがあってびっくりした。そんなBGMを聴きながら、筆者は自分の葬式ならどんな曲を流してほしいかと考えた。ブルックナーの交響曲を最初に思い出したが、第4楽章が派手なものが多いので、ちょっと問題があるか。筆者が全く重厚でないので、その反対に重厚なものを求めたいのかもしれない。だが、誰も音楽など注意しないだろう。それに会館を利用すると、お仕着せのもの以外のものを用いるならば、別料金を徴収されるかもしれない。
 話は変わる。最近は運動のために歩くことにしているから、めったに自転車に乗らなくなった。そのため行動範囲は狭くなった。自転車によく乗っていた時は、30分ほどの距離にある大型の古書店によく通った。その近くにホームセンターや大型スーパーもあって、時間つぶしと買物には何かと便利であった。5、6年ほど前の冬場のこと、そのホームセンターから流れている音楽が妙に耳に残った。よく知っている曲だが、タイトルがわからない。男女のコーラスがあって、爽やかな雰囲気が季節の空気の冷たさと日溜まりによく似合っていた。その時のことを思い出すと今でも心が温まる。何でもない拍子にそういう瞬間が筆者にはごくまたに訪れる。そしてそういう記憶は長く残り、ひょっとすると死の間際になっても蘇る気がしている。ひとりで感じるその感覚は、言葉に置き換えることが出来ず、他人には伝えようがないが、結局人間は最も心地よい瞬間、つまり人生の意義のようなものは、個人だけの内部にあることを思う。その名状し難い思いは、確かに他者に伝達不可能だが、そういう感覚を獲得したことは伝えられるし、その行為から他者は筆者が感得した名状し難いことの本質を把握するかもしれない。そう信ずるからこそ、筆者は「あんたにはわからない」とは決して言わずにこうして自分の経験をつぶさに書くことを選ぶ。筆者は今までに何度か「お前にはわからない」と面と向かって言われたことがあるが、そう言う本人にもわからないことを筆者はいくらでも知っている。だが、筆者はそれをわざわざ言うつもりはない。「お前にはわからない」と発言することは、結局自分の卑小さを証明しているも同然であって、内心そう思っても黙っておけばよいのだ。それに、わかるわからないを言えば、わずか2、3歳の子どもであっても、人生の何たるかを知る場面はある。「お前にはわからない」と言う者に限って、実際は何にもわかってはいないものなのだ。わかった人間は決してそういう侮った文句を口にはしない。話を戻すと、ホームセンターの有線放送は外でもガンガン鳴っていて、自転車置き場に向かいながら音楽を耳にしたのだが、おそらくバッハの曲のアレンジか何かで、歌声はレイコニフ・シンガーズあたりかと思った。昔ラジオか何かから盛んに聴いたことのあるメロディで、あまりに印象的なあまり、かえってタイトルを記憶することもなかった。その時わずかに聴いたメロディはずっと心に引っかかったが、曲名の調べようがない。ネット・ライフを始める前だったが、ネットを始めてからもメロディからタイトルを知ることは出来ない。今はそういうことを可能にするソフトが販売されているが、筆者のボロ・パソコンでは無理だ。そのため、ずっと気がかりでありながら、手を打つことが出来ないまま何年か過ぎた。それが急にわかったのは、確か3年前のお盆だった。待っていると必ず機会は訪れる。そう確信したいだけなのかもしれないが、そう確信して生きているのはそれなりに楽しいものだ。そんな気がかりがいくつもある間にきっと死が訪れるだろうが、その時はその時だ。
 3年前のお盆、家内の実家で近くの墓地に車を何台か連ねて両親の墓参りをした帰り、筆者の車中ではラジオがかかっていて、由紀さおりとその姉のリサイタルが模様が放送されていた。そして墓参の帰り、先ほどのラジオ番組の続きをまだやっていて、最後に歌われた曲が、筆者がずっと曲名を知りたかったホームセンターで聴いたあの謎のメロディであった。日本語の歌詞つきで歌われたが、耳を大きくして聴いていたのに、タイトルの紹介はなかった。そして帰宅後に早速調べ始めた。だが、新聞のラジオ番組欄を見ても由紀さおりが出ているものが見当たらない。ネットで調べると、NHKであることがようやくわかったが、曲目の紹介はない。さらに調べ込み、ついに最後の曲名が「子どもが生まれる時(When a child is born)」であることがわかり、その後それが「哀しみのソレアード」に歌詞をつけたヴァージョンであることを知った。次は筆者の聴いたのが誰の演奏であるかを調べることだ。レイコニフ・シンガーズだと想像していたが、何か月も要しながら、結局彼らはレパートリーにしていないことがわかった。同じような男女のコーラス・グループかもしれないと思って他のグループに当たったが、それでもわからなかった。そしてある日、誰かのホームページかブログに質問を書き込んだところ、イタリアのダニエル・センタクルツ・アンサンブルであろうと教えられた。初めて聴くグループ名だ。今度はその音楽をCDかレコードで探さねばならない。また半年ほど経った頃、ネット・オークションでシングル盤を見つけることが出来た。日本ではどの程度ヒットしたのか知らないが、シングル・レコードは比較的珍しいようだ。CDも出ているが、なるべくならシングル盤がほしくて、半年も待った。レコードは懐かしのODEONレーベルで、東芝EMI株式会社、解説の活字は当時流行したタイポス書体、表の赤い題名はナールだ。このナール書体は最近また流行していると新聞にあった。ジャケットは2、3種類存在するかもしれないが、筆者が入手したのはフジTV水曜ホーム劇場「花ひらく」の主題曲と銘打ったものだ。池辺の森の木立の写真が写っている。あまりいいジャケット写真ではないが、自然な様子は曲調とはまずまず合っている。ジャケット裏面の短い解説によると、SOLEADOはイタリアの造語で、作曲者曰く「森の中にさんさと降り注ぐ陽の光り」との意味だそうだ。となると、ジャケットはまさにぴたりだ。SOLEADOの前半部は太陽のSOLから派生した言葉だろうが、英語のSOLITUDE(孤独)やSOLOを連想させ、そのためもあってこの曲の邦題に「哀しみの」を付加させたように思える。それはいかにも日本好みだが、「悲しみ」とは微妙に違うところがよい。1974年7月頃からイタリアで大ヒットし、ヨーロッパに広まった後、日本のTV局が目をつけてドラマの主題曲にしたのだ。ついでに書いておくと、ドラマは小津安二郎の原作で、芦田伸介、久我美子、松坂慶子らが出演したらしい。芦田や久我を記憶するのは筆者らの世代で、今の若い人にはわからないだろう。芦田伸介は昭和時代はよく映画やTVに出演したが、筆者には魅力がさっぱりわからなかった。俳優も歴史の残るのはごく少数だろう。小津の原作という点でこのドラマを見たい思いがするが、だいたい雰囲気は想像出来る。
 ダニエル・センタクルツ・アンサンブルはキロ・ダミコというドラマーがリーダーになったグループとのことだ。「センタクルツ」は「聖十字」のことだろうか。何だかいかにもこの曲のイメージにふさわしい。レコードのB面は「PER ELISA」(エリーゼのために)が収録されるところ、オリジナル曲に乏しい様子がうかがえ、おそらくこの「ソレアード」以外にヒットはなかったのだろう。その一発屋であったことが、このレコードをなおさら地味なものにし、今ではほとんど知る人がないように思う。ヨーロッパではヒットしたので、いくつかのイージー・リスニングの有名オーケストラがカヴァーしたが、筆者はひとつふたつを聴いただけでダニエル版とどの程度深みが違うかの詳細は知らない。それに筆者がホームセンターの有線放送で聴いたヴァージョンがこのダニエル版である保証はなく、少し違う感じが今も拭えないのだが、男女のコーラスがあって、歩くテンポの前向きのエネルギーに溢れるとなると、ほとんどこのレコードに間違いがないとも思える。この曲のような単純なメロディならば、アレンジが違えば全く違う印象になるし、歌詞をつけてロック調にすることも可能で、筆者はそういうヴァージョンを勝手に想像することも出来て、それはそれで楽しいのだが、やはり冬の日溜まりの中でかすかに聴いたヴァージョンが最も記憶にあり、たえずその思い出に帰って行く。メロディは1回耳にしただけで誰でもすぐに記憶出来るが、こういう曲の作曲は簡単そうでいてなかなか出来ないだろう。先に書いたように、この曲はバッハを連想させ、あるいは賛美歌にも近い。ヘ長調で、たたみかけるようにゆったりと歌われる様子は神々しい。日本では生まれ得ないメロディと言ってよい。途中のサビ部分はなく、同じ旋律が何度も繰り返されるのは単調で、曲としては未完成的と言ってよく、演奏するには歌詞をつけるなり、あるいは楽器編成を変えたり、テンポを違えるなどアレンジが勝負だが、命はメロディにあり、この曲は結局それしか印象に残らない。4分13秒は70年代半ばの曲としてはちょうどよい長さだが、レコードの溝がぎりぎり最後まであって、筆者のプレーヤーでは最後10秒ほどを残してピックアップが自動的に上がってしまって聴くことが出来ない。これは7分以上あるビートルズの「ヘイ・ジュード」ではそうはならないから、レコードのマスターの溝刻みがおかしかったのかもしれない。筆者が以前に所有していたプレーヤーは、その最後の箇所の溝刻みがどうであれ、溝の最後でエンドレスで周り続け、自分でピックアップを持ち上げる必要があったが、その方がかえって便利であった。筆者のプレーヤーだけの特性なのか、製造段階で機械に予め設定した箇所で強制的に上がってしまう。手動でその位置をもう少しレコードの中心近くに移動させられないものかと何度も挑戦したが無理であった。そのため、海賊盤LPなどによくあるが、盤の中心近くまでぎりぎり溝の入っている盤は最後を聴くことが出来ない不便を長年味わっている。こんな馬鹿なことはないと思いながら、どうしようもない。それゆえこの「哀しみのソレアード」もまさに哀しみだ。堂々と終わるはずの最後が突如ぷつりと音が途切れるようにピックアップが上がってしまう。それはまるで、お前の人生はもうここまでという残酷な命令のような感じがある。だが、曲は同じメロディを何度も繰り返すので、その間は充分楽しめる。かえって最後がぷつりと途切れるが人生の暗示に似ているかもしれない。人生はその途中を楽しめば充分であるからだ。この曲はサビがないのでエンドレスでBGMにするには好適で、今日の葬式でも流されればよかったと思える。孤独でしかも太陽のように光輝くイメージは葬式に案外ふさわしいからだ。
●「SOLEADO」_d0053294_14141760.jpg

by uuuzen | 2008-09-26 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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