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●『ダーウィン展』
変わらず展覧会にたくさん出かけている。そのためか、あるいは展示内容にさほど感心しないからか、ここで取り上げるものを選ぶのに困る。



●『ダーウィン展』_d0053294_236461.jpg最近は会場でメモを取らず、また図録もほんとど買わないので、長文は無理で、簡単な感想程度にしかならない気がして、それがまたブログに書くことを億劫にさせる。さて、この展覧会は美術展ではないので、行かなくてもよかったが、会場の大阪市立自然史博物館が大阪マラソンの発着場の長居公園の一角にあり、そこを訪れたことがない筆者にはちょうどいい機会かと考えた。8月24日の日曜日のことで、天気はよかった。当日、隣の長居陸上競技場では大阪の高校生の陸上競技大会が開催されていた。展覧会を見た帰り、それらさまざまな学校の高校生と同じ電車に乗り、近頃の体育系高校生の生態を観察することが出来た。「走思走愛」と背中に大書したTシャツを着た、あるいは「してみたくない?」などと、思わせぶりな文句を書いたものを着る女の子もいたが、男子の方がおとなしいかもしれない。それはさておき、長居辺りは25年ほど前に小学校の担任を訪問するために一度行ったことがある。それがどこであったかもう思い出せない。また、帰宅してネットで地図を調べると、長居公園から西へ1キロほど行ったところに住吉神社があることを知ったが、いつか公園から神社まで歩いてみたいと思う。展覧会を見た後、来た時の地下鉄駅ではなく、少し西に歩いてJRの長居駅から乗ったが、高架の駅舎はここ1年ほどの間に出来たばかりのようで、京都の二条駅界隈と多少似た雰囲気を感じた。駅の西側に手作りのパン屋があった。そこが今日ちょうどTVで店内が紹介されていて、なかなか安くておいしそうな感じがして、また付近に行くことがあればパンを買おうと思う。肝心の展覧会以外の散歩についてこうして書き始めるときりがないが、当日は公園南の大きなスーパーにも入ったし、ちょっとした小旅行の気分を味わったので記しておきたい。大阪市立自然史博物館の2階を使っての展示であったが、1時間半ほどかけて見終わったのは閉館10分前で、階下に行って常設展示があることを知ったが後の祭りであった。入った時と出た時の出入口が違ったが、入ったのは表から2階へ上がり、屋内植物園のような休憩所のような空間を通過してであったが、その広々とした場所はなかなかいい雰囲気で、午後の昼下がりはベンチに座ってくつろぐと楽しそうであった。実際そのようにして数人の老人がぼんやりしていた。天上が数メートルと高く、それに達するほどの、たぶん「ダビビトノキ」だと思うが、大きな熱帯性の木が何本も壁際に植えられ、床には赤いカラーなど熱帯の花がたくさん咲いていた。前日デジカメの電池をしっかりと充電したにもかかわらず、どういうわけか電池切れとなって1枚も撮影出来なかった。電池は買って1年ほどしか経たず、また10回も充電していないのに、もう使えない。何でも進化するから、デジカメも2、3年も経たない間に機能がよくなって価格が半分以下になるから、無理して古い機種を使う必要もないが、「もったいない主義」から心の切替えが出来ない筆者は進化の止まった存在だ。
 この展覧会は進化論で有名なダーウィンの生涯を紹介するもので、展示物は説明パネルが8割で、残りは手紙や居間の再現や剥製、標本、ダーウィンが散歩した道の5メートル間隔で写真撮影したスライドの連続映写などで、しかも手紙や標本はみな複製で、全くありがたみがない。来年がダーウィンの生誕200年で、それを記念しての企画なのかどうか、よほどのダーウィン・ファンしか熱心になれないだろうし、またそういうファンにとっては内容がすべてあたりまえ過ぎて面白くないだろう。つまり、夏休みであるので、小中学生にたくさん来てもらおうという企画だ。だが、意外にも会場は子どもより大人が多く、またダーウィンとは無縁な感じの人が目立った。だが、これは新聞社が後援するどんな美術展でも同じだ。進化論はよく知られる割りに、『種の起源』を実際に本を読んだことのある人は少ないと思う。筆者も読んでいない。猿からヒトが進化したというのは、今では常識で、小さな子どもでも知っているが、その一方でそれを信じない人もある。展示の最後はそうした団体がアメリカにあって、進化論を教えるならば、神がすべての生命をデザインしたという聖書の教えも同時に教えろと、教育にも口出ししている状況を説明していた。これは「インテリジェント・デザイン」と呼ばれる考えを提唱する人々で、アメリカ南部に多い。レーガンやブッシュ大統領もそういう考えに同調している。この一派は聖書に書かれることはすべて文字どおり正しいと考えるファンダメンタリスト、つまりイスラームで言えば今活発化している原理主義者になるが、そういう頑迷な人々とも関連があり、右派勢力を形成している。そういう連中にザッパが生涯嫌悪感を抱いて歌で攻撃したことはよく知られる。会場の最後では、ダーウィンの進化論が理論であって、インテリジェント・デザインはそうではないといったことをアメリカで作られた映像で紹介していたが、時間がなかったこともあってほとんど見なかった。簡単に言えば、理論なるものは、真実であるから、時代を経て新たな発見があってもそれを包含して矛盾を生じさせないものであるということだ。これはメンデレーエフの元素記号の周期表を思えばいいかもしれない。ダーウィンが唱えたのもそれと同様で、時代がいくら進もうが変わらない真実の理論であった。ところが、インテリジェント・デザインはほとんど小説のような想像と言ってよく、理論と呼べるものではない。何の根拠もないエセ科学ということだが、そういうものに限って信じる人はいつの時代も莫大にいて、TV番組でもそうしたことに焦点を当てて人気を狙うのは誰しも知るとおりだ。簡単に言えば、ダーウィンのような才能を持った人はごくごく稀であるから、本当はほとんど誰にも理解出来ない。あるいはあまりにもあたりまえ過ぎて、誰しもそうではないかなと思っていたことをダーウィンが堂々と言っただけかもしれないが、このことに関しては洋の東西で意見が違うかもしれない。それは、キリスト教対仏教の対比であって、殺生はいけないと自然に思える東洋人は、ダーウィンの理論はわざわざ言われなくても、理解出来るものではないだろうか。だが、宗教の原理主義は戦前の日本の神道にも色濃くあって、それは民族や国家の優越性を持って、はなはだ鼻持ちならないものになり、そうしたある種が別の種より優性であるという意見を導きかねないところがダーウィンの進化論にあって、それが悪用されて来たとも言え、なかなか進化論は平穏なままではない。
 それはすべて、人間もまた動物であるという事実から発すると言ってよい。つまり、何かを食べて生き、子孫を残すということを繰り返す必要のある存在で、そこには優性な存在が残って行くという見方がある。この優性を、健康な体や力といったものと考えがちだが、それは男性理論であって、女性は子育てをする必要があり、また少し違う。それに人間は集団で生きる存在であるから、集団を乱す者は他者から不要な存在とみなされがちで、力だけが優性の証明にはならない。そこには優しさも必要なのだ。であるから、何が生存のための優性性かはなかなか一筋縄では行かない。一方では知能という意見もあって、頭のいい人物の精子が高値で売買されるアメリカだが、知能だけが優性でもこれまた決定的ではない。それについでに書いておくと、筆者はいつも疑問なのだが、射精された無数の精子は膣内で競争し、最も強い者が卵子の殻を破るのであったと思うが、人工受精の場合は適当に精子を選ぶわけで、本来は卵子に到達出来ない弱い精子で受精することもあるに違いない。そこが自然に比べると効率が悪いのではないだろうか。だが、精子はそうであっても、卵子の方は優劣に関係なく1個ずつ出鱈目に下りて来るから、結局同じことかとも思う。話が妙なところに来ているが、ダーウィンについて考えると、現代のあらゆる問題につながる。そのつながりは、ちょうどすべての生き物の生命がつながっていることと同じだ。ダーウィンは大きな生命の樹を想定し、すべての生命はそのどこかの枝に位置すると考えた。つまり、地球上の命は地球が生んだひとつの大きな仲間、いや親類なのだ。であるから、その中で人間に最も近いのが猿であるとしても何の不思議もないのだが、インテリジェント・デザインを唱える連中にとっては、自分が猿に近いということがどうにも我慢が出来ないらしい。そういう連中は自分が猿以下かもしれないとは夢にも思わない。だが、人類は鶏が先か卵が先かの問題に似て、いつ自分たちがこの世に出現したかを自覚出来ない。化石が出て来ても実感がないからだ。そのため、人間は神話を必要とし、宗教を作り上げたが、知らないからどう考えてもいいというものではない。だが、そういう便利なように考えるのがまた人間で、自分が興味のないことは全く無価値として無視してもいっこうにかまわないと信じている。そういう連中はどうせ自分たちと同程度の知能の人間としか出会わないから、それでも全く不自由はしないのだ。そしてそんな連中がいつの時代でも多いので、インテリジェント・デザインを信ずる者も跡を経たない。
 ダーウィンはイギリス人で、19世紀の初頭に生まれ、70代前半で亡くなった。大航海時代の人物かと思っていると、そうではないのが意外だが、大航海時代で世界中か発見されたさまざまな動植物を整理して、ダーウィンのような人物が出現するのにやはりそれなりに年月を必要としたということだ。ダーウィンが進化論を導くことに大きく役立った経験は、幼い頃に自然に親しんで植物や昆虫や貝、鉱物などの収集をしたことと、20代半ばで10年ほど要して世界一周の船旅に参加したことだ。それはイギリス海軍の測量船で、長さ数十メートルのさほど大きくないビーグル号という名前の帆船であった。その船長の話相手として乗り込み、寄稿する大陸や島で積極的に動植物を採取し、それを逐一イギリスの学界に送った。自分の専門でないものも収集したのだが、帰国後、それらを専門家に調査してらうかたわら、自分でも研究を始めた。それは世界を回って動植物を観察すると、さまざまな種が生息距離に応じてなだらかに変化、あるいは急激に異なることを知ったからで、後者は特にオセアニアやガラパゴス諸島で経験した。その問題解決には地球がどう生成されて来たかという問題が深く関係するが、ダーウィンはイギリスで流行していた鳩の飼育種における変種などの研究を通じて、種というものは自然の環境に応じてさまざまに姿を変えながら、優性のものが長く残って行くということを発見する。だが、これは経験的に誰しも知ることで、特に農業に携わる人は大昔からそれを知っていたのではないだろうか。それを理論化したのがダーウィンであって、出るべくして出た才能だ。ダーウィンは名家の生まれで父方は代々医師だ。ビーグル号の長年の旅から戻って来たダーウィンは研究に生涯を捧げようと決めるが、結婚した方が得かどうかをいろいろと天秤にかける。それはいかにも科学者らしい。結局結婚した方がいいと判断し、イギリスの今も有名な陶磁器メーカーのウェッジウッド家の娘と結婚する。今なら大学の教授となって給料をもらって研究するのが普通の道だが、当時はそうではなく、また経済的に裕福なダーウィンにその必要もなかった。奥さんとの間には10人の子を儲けたが夭逝した子もいる。結婚してからはロンドンを引き払って田舎に住み、生涯をそこで暮らしたが、研究には静かな場所がよかったのだろう。ビーグル号で帰国した時にはすでに学界では有名になっていたダーウィンで、後は自分が収集して来たものをどう整理して、そこから見える疑問と関心をどう意見としてまとめるかであった。ダーウィンは恐ろしく筆豆で、人間嫌いではなかったが、進化論を煮詰めながらもなかなか発表しなかった。確か10年近くだったと思うが、その理由は、誰にも論破されないだけのものを書きたかったということと、時期を見ていたのかもしれない。つまり、キリスト教国であるから、いくら科学とはいえ、キリストの教えに沿わない意見を公表することにためらいがあったのではないかとの見方だ。
 そういうダーウィンの元にある日手紙と論文が届いた。ウォレスという若者が東南アジアにいて、そこからダーウィンに自分の理論を読んでほしいと言って来たのだ。それを一読してダーウィンは驚愕した。自分の進化論とほとんど同じことを唱えていたからだ。ダーウィンはそれをそのまま学界で発表する段取りを取るが、周囲が諭し、結局ダーウィンがウォレス以前に書き上げていた論文を最初に掲げ、その次にウォレスの論文を収録して発表する。それが大評判となって、勢いに乗ったダーウィンは翌年『種の起源』を書き上げる。ウォレスはダーウィンが勝手にそのような形で論文を発表したことに拒否を示さず、かえって感謝したというが、ウォレスのような研究家が別にいたほどに、当時進化論は動植物に関心のある人にとってはうすうす勘づいているものであったのだろう。ウォレスは貧しく、ダーウィンのように研究に没頭出来るだけの資力がなかった。そこから見えるのは、研究で名を遂げるには金が必要で、その金なるものが人間にとっての優性の証明であるという残酷さだ。ダーウィンの陰に隠れてウォレスの名はほとんど知られない。ダーウィンの方がわずかに研究が先走っていたのは事実としても、ウォレスが勝手に発表していれば、ダーウィンの栄光はなかったかもしれない。だが、ダーウィンも正直なところがある。若造が送り届けて来た論文を握り潰すことも出来たが、それをせずに自分の研究と一緒に公表した。筆者はこのウォレスに何となく同情を禁じ得なかった。だが、どのような有名人にもその陰にはそうなれなかった敗者がいるのだろう。ダーウィンにすれば、ぐすぐすしていた自分を発奮させたのはウォレスということで、それなりにウォレスに感謝もしたのであろう。そういうダーウィンを知って、ウォレスも光栄と思ったに違いない。『種の起源』は反響を呼んだが、宗教界が反発したのは当然で、その尾が今も引いてアメリカでインテリジェント・デザイン一派が力をつけている。会場の説明パネルを全部読むとかなり時間を要したが、また会場を出た時に売られていた図録は、そのパネルの文章の再録で、買う気分が失せた。そのため、以上書いたことは記憶に残ったことを中心にまとめたもので、会場の本当の見所を報告していないだろう。
 ところで、NHK-TVで毎週放送されている『ダーウィンがやってきた!』とかいう動物番組をたまに見るが、それは今回のような展覧会に行くほどよっぽど感動がある。人間が自然を破壊し、さまざまな動物を絶滅に追いやり続けている実態が暗に示され、人間ほど野蛮な動物はいないことをいつも実感させられる。保護する人を取り上げる番組だが、そういう人に焦点を合わせなければならないほど、一方でどんどん動物が絶滅して行く。筆者はその番組を見ていると人間に生まれて来たことを恥じる気分になる。人間が進化の頂点に立っているのはいいとしても、それがどんな動物よりも賢いためと思うのは、思い上がりもはなはだしい。賢いとは何か。人間以外の動物はそのようなことを考えもしないから野蛮だと人間は言うかもしれないが、賢いと自惚れるならば、何億年もの間ゆうゆうと生きてからにしてほしい。人間が破滅して地球から全員が消え失せても、他の動物は悲しむことしないし、地球にとっても何事もなかったかのように時間は進む。そう言えば、先日NHKの深夜の再放で、東京湾に2億年前から形を変えないで生き続けているゴブリン・シャークの生態を紹介する番組を見た。ゴブリン・シャークは世界的に見て非常に珍しい鮫で100数十例ほどしか発見がないが、ここ数年で数十体ほどの発見が東京湾に相次いでいる。それは人間が垂れ流す栄養分を求めて子鮫が海底に集まっているためだ。だが、面白いことに栄養が充分過ぎるのに、爆発的に子どもの数は増えないらしい。鮫はもともと少ししか食べないが、環境が豊かになったからといって子孫を多く生まないのだ。それは2億年生きて来た知恵だ。人間はさもしいから、衣食住の環境がよく、あるいは金がたくさんあると、すぐに子孫を増やす方向に動こうとするが、周囲がどうであろうと同じペースで子どもを生んで育てて来た鮫は、きっとまた環境は変化することをよく知っているのだろう。実際、東京湾に栄養が流れ込んで来るようになったのは、せいぜいここ数十年のことで、2億年に比べれば一瞬もいいところだ。ところで、ゴブリン・シャークはダーウィンも見たことがないに違いないが、その名前のとおり、かなり恐い。鼻が長く前に出っ張っていて、口はとても小さいのに、獲物が前に泳いで来ると、顎が長く伸びて、口全体が前に急速に飛び出す。映画『エイリアン』そっくりで、ギーガーはゴブリン・シャークを参考にあのキャラクターを作ったかもしれない。東京湾でその鮫がたくさん捕獲されるのは、子どもの成育場であるからだが、子どもも同じように口は動くものの、まだ歯は細かくて力が弱いので人間の腕を噛みちぎるほどではない。
by uuuzen | 2008-09-12 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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