情報はアメリカ在住のOさんがいつもネットで調べて知らせてくれ、それを筆者はこのブログの「ザッパ関連ニュース」のカテゴリーでURLを逐一掲載しているが、今回言及が間に合わなかったものがある。
まずザッパが登場する映画『フェアリーテール・シアター』がある。京都での公開は今月下旬で、出来れば見たいと考えているが、その感想を書くのは、遅くて次のザッパの新譜が出た後になるだろう。おそらくこの調子ではクリスマス頃か。もうひとつ気になっていながら、未購入のCDがある。ザッパが若い頃に聴いて影響を受けた曲を集めた『Frank Zappa‘s Jukebox』で、ジャケットにザッパの写真が使われている。昔、ビートルズがカヴァーした曲のオリジナルを集めたCDが発売されたが、ついそれを思い出す。ザッパが影響を受けた音楽は多いので、こうしたCD1枚だけではあまり意味がないが、一度は聴いておくべき曲が網羅されている。このCDもいずれ取り上げたい。また、これは目下のところどうなるか未定だが、先日このブログにマイク・ケネリーの音楽について話してほしいという書き込みがあり、筆者はメールで一旦断わったものの、このブログで毎日書くような気軽な内容でもかまわないということで、話が進みつつある。どの程度の量、またどういう形でどこに発表することになるかはわからないが、このカテゴリーを使って、つまりZPZやドゥイージルの話の延長ないし番外編として連続掲載する可能性もある。ということで、早速ぼつぼつとマイクのアルバムを聴き直しているが、所有しない近年のものを含めて全アルバムを聴けば、現時点での筆者のマイクに対するまとまった感想は書けそうな気がしている。マイクの音楽は音楽地図上でどのような位置づけが可能であろうか。ザッパ・バンドに在籍した人物のうち、多くのアルバムを出している才能のひとりとして、一度はじっくり見つめる必要を感じている。ポップス志向であるにもかかわらず、「超韜晦」(超難解では決してない)であるマイクの音楽は、10回聴いてもよさは全く理解出来ず、そういう音楽はザッパはもとより、クラシック音楽ですら存在しないほどに珍しい。それがなぜそうなのか、筆者は昔から疑問に感じている。ともかく、今回は1アルバム当たり50回程度は聴き込む必要はあるだろう。それには聴くだけでもかなりまとまった時間は必要だ。それに現在あまりに多忙な仕事が詰まっていて、思考し、執筆する時間をどう見出すかの問題もある。今こうして書いているような、パソコンに向かっての書き散らしになるが、それはそれで即興の味が出ることだろう。筆者は書きながら考える側面が大きく、どういう内容になるかは自分でも予想がつかない。ということで、半年ぶりに再開したこのカテゴリーは、次のザッパの新譜が出た直後か、あるいはマイク・ケネリー論をまとめ上げた時まで休む。
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●2003年3月16日(日)深夜 その2さきほどのTV番組では村上の工房が少し映し出されていた。予想したように何人かの若い人を雇い、シルクスクリーンを使用していた。それは全部をひとりで描くという日本画家の伝統とは違って、アンディ・ウォーホルの工房と同じシステムだ。友禅染めの人間国宝でも弟子を抱えて分業し、先生はおおむね下絵を描くだけとなっているが、注文が多く舞い込むとそうならざるを得ない。だが、それでは仕事の質が落ちる恐れはあるし、表現つまり作風の固定化も免れにくくなる。しかしこの表現の固定化こそが人気の秘密でもあって、今日村上が語っていたように、有名画家には必ずICONとなる作があるというのはある面では正しい。そのイコンとは画家の本心からすればマンネリに思えるかもしれないのだが、それで大きく売れてしまうと、もうなかなかそこからの脱皮は困難だ。ある作家も語っていたが、世界の美術市場を相手にするのであれば、同じような作品を最低100点は短期間で作り上げる能力を具える必要がある。なぜならその作家の作を買い上げようとする美術館は世界中にあり、わずか数点などでは話題のしようがないからだ。その意味では3、4か月要して1点作る筆者などは完全に論外もいいところだ。有名になるには同じようなものを量産できる体制と、それを行なう決心がなければならない。そのためシルクスクリーンが導入されるのはごく自然な発想だ。ルイ・ヴィトンのバッグにしても、日本が世界でも最もよく売れるということを計算して村上隆の起用で、ヴィトンのロゴはシルクスクリーンで印刷されている。シルクスクリーンは本来フラットな表現に最適な版の技術であり、村上の作は伝統的日本画の脈絡の中で語られるより、むしろ木版画などの版画との関連で語られるのがいいかもしれない。また友禅でもシルクスクリーンを応用する作家が当然存在する。しかしそれらの作品は工場的な大規模シルクスクリーン技法による染色品に比べて当然仕上がりは貧弱で、また全部を手で表現する1点ものに比べて妙に味気なく白々しい点で中途半端なものに思える。ミッキーマウスで思い出したが、去年のクリスマス頃、百貨店で『ディズニーの世界展』を観た。ミッキーマウスのごくごく初期の鉛筆デッサンなども展示されていてそれなりに思うところが大で楽しかった。出口には多くのキャラクター・グッズが売られ、シルクスクリーンで印刷したセル画もかなりな値段がついていた。映画に使用された本物のセル画ならば桁違いに高価というが、そこには1点ものは高いという暗黙の了解がある。その1点があれば、後年いくらでもシルクスクリーンで複数生産できるからそれは当然のことだ。複製時代がいくら進んでもベンヤミンが心配したようにアウラなるものはなくならない。つい先日、あるジャズ評論家が新聞にコラムを連載していた。以前6万ほどで買ったLPでジャケットのもっといい状態のアルバムが10万円ほどで売られているのを見つけ、それを買うかどうか迷っていると書いていた。その気持ちはわからないでもないが、同じものが世界中に少なくとも数百はまだ残っていると思うと、そんなものに焦るのは何だかアホらしい。1点ものを追いかける方が大人っぽくて格好よい。無名でもいい作品を作る画家はいるし、そういうものを発見して惚れ込めばいい。それならば10万も出さなくても1点限りのものが買える。それは自分自身の眼力も試される真剣勝負であり、未知の存在に出会う点で人生の大きな楽しみのひとつでもある。ちょっと状態がいいLPレコード探しに躍起になる想像力の欠けた行為とは格が違う。絵をもっと日常的に買うような時代が来ればいいと常々思うが、絵画鑑賞すら無縁の連中がTVを牛耳って戯言を垂れるのであるから、それは全く無理というものか。それで人々は、陰影がなくて明るいが、どこか不気味でもある完全なフラットの絵を歓迎する。で、それは時代にぴたりと合っていて誰も文句もないということだ。