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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『たのしい絵本の美術館 「こどものとも」絵本原画展』
急入院したと息子から電話があった。本人がかけて来るほどだから、たいしたことはないが、早速電話の翌日、2時間かけて病院にかけつけた。



●『たのしい絵本の美術館 「こどものとも」絵本原画展』_d0053294_13202967.jpg2日前から体調がおかしくなり始めて月曜日の朝は視力が落ちてほとんど見えなくなり、これは大変と思ったらしく、這うようにして車を運転し、30分ほどの距離にある大学病院に行ったという。息子はアトピーで薬を服用し続けているが、それが次第に体力を奪い、この夏の暑さもあって、別の病気を誘発しらしい。1年半前から大きな1軒家の寮住まいをひとりでしているが、3日前に会社の総務の人から電話があり、あまりにも寮を掃除をしていないようで、そのために病気になったのではないかとのことであった。それを聞いて、一昨日は筆者を含めて大人4人で見舞いと寮の清掃に出かけた。20代半ばの息子の住まいを親がやるというのもおかしな話だが、病気になるほどひどいと言われると仕方がない。1年半もの間、息子は一度も掃除をしたことがないようで、どの部屋も埃まみれで、アブラムシがあちこちで乾燥して死んでいた。結局その日だけでは掃除は終わらなかった。男がひとりで住めば部屋がどれほど汚れるかは筆者はおおよそ知っている。自宅から通わせると何でも親がかりになってよくないし、精神的にも自立するにはひとり住まいに限る。だが、それで病気になるほどに、体力も精神力もやわだとすれば話は別かも知れない。親と同居し、家も親譲りのものがあって、住宅ローンの心配がない男のところには嫁もやって来やすいかもしれないが、本当は男は裸一貫で他国に出て、親とは違う仕事に就いて自分の家庭を持つのがよい。その意味では息子は充分やっているが、部屋を掃除しながら思ったのは、息子は筆者とは全く違う趣味や嗜好を持った別の人格であることが。漫画など読まず、もう少しましな活字本を読んでほしいと思うが、周りに知的な人物がおらず、出会いがなければ、ついつい楽な方へと時間を暇潰しに使う。小人は暇があるとろくなことをしないというのは、大昔からよく言われることだが、まさに息子はそのとおりか。そして、周りに立派な人格者がいても本人はそれに気づかず、出会いがそもそもない。人間は住み分けているとよく言うがまさにそのとおりだ。すぐ隣に聖人がいても、俗人にはそれが見えない。であるからこそ、その聖人も聖人であって、俗な人にすぐに聖人とわかる程度の聖人は、贋聖人もいいところで、そんな人物はたいていは新興宗教の教祖になっている。それにしても、少年老いやすく学なり難しは全くそのとおり。人間の99.9パーセント以上は、学とは無縁の人生を送り、そしてそのことに自覚がない。それでも世界は回っているから別段文句も何もないが、本当に人生が楽しく、また充実感があるというのは、男とすればやはり何か人とは違うことをなし遂げたという思いではないだろうか。人生の限られた時間の中で、誰でもそういうことを成就する時間は平等に与えられている。
 人生は出会いだが、その出会いとは、元から受け手側に何かを受け取る器官が具わっていなければ、出会っていても出会いと感じることが出来ない。そしてそれは半分は遺伝、もう半分は3歳頃に決まってしまう。そのことは植物の種子を見るとよくわかる。そして、3歳頃までの幼児教育で何か将来に役立つものをと考える親が多いと思うが、そのような強制によって3歳児に有益な何かが植えつけられるかと言えば、むしろ害の方が大きい。必要なのは、3歳になるまで親あるいは大人がその子にどう豊かな愛情で接したかだ。そして思い返すことは、筆者の家庭では息子に対してどうであったかという反省だ。子どもは反面教師的にしろ親を見習うものだ。昨今急増している青少年の犯罪は、みな親の子育て期間に何らかの問題があったのではないかと筆者は思う。だが、どんな親でも自信は少ない。自分の子どもを信じてはいるが、刺激の多いこの世の中で、親の知らない間に何か重要なことを忘れてしまうのではないかと内心恐れも抱いている。子育ては、結局完成した人格の親が真っ白な子どもに何かを写し込んで行くことではなく、未完成の大人が日々格闘しながら子に接することであり、親もまた学ぶことが多いという現実を認識すべきだ。つまり、目上から目下に一方通行するものではなく、相互交換する部分がある。だが、これは目上が目下と対等という意味ではない。やはり目上は目下を導く責任を負う。その責任の中に、目上は目下のことを十全に考えてやるという姿勢を保つ必要がある。そこが難しいのは、大人自身が今の消費をあおり続ける世の中で、どれだけ本当に必要なものとそうでないものを見極められるかだ。どうでもいいガラクタが美しく化粧をした美人が微笑みながら手にするというTVコマーシャルの常套手法によって絶えずばら撒かれ続けると、大抵の大人は神経が麻痺して当然であって、大人がそうであれば、子どもはなおさらみんなが持っている物は何が何でもほしいということになる。そして、それを持たなければいじめられるという構図もある。そのようにして、大量消費財と同じように、人間もみな同じような人格の面白味のない連中ばかりとなる。そして、そのような文盲的人種が自分たちこそ正しいと大手を振ることで、ますます個性が育たない。そして、個性を持とうとするほどに今の世の中は生きにくく、またいじめにも遇うから、本当の芸術家など育つはずがなく、本当の芸術家は自己満足と罵られる。そんな前にあって、自分の子どもをどう育てるか。それは親自身がどういう価値観によって生きるかという問題でもある。子に残すことの出来るものはそれしかない。だが、その価値観が偏ったものでないかどうか、この判断は難しい。先に書いたように、親の価値観は日々新たになるものであって、その恐ろしく素早く流動中の人生において、親がどういう良質なものに出会って、子にそれを伝えられるかどうかとなると、ほとんどそれは行き当たりばったりの偶然に思える。だが、偶然と見えるものは必然的部分をかなりの割合で多く含む。必然の基盤がなければ、本当のよい偶然には出会わない。
 この展覧会は横尾忠則展を見たのと同じ日に伊丹市立美術館で見た。夏休みなので、どこでもよく子ども向きの展覧会が開催されるが、これもそうしたひとつと言ってよい。月間本『こどものとも』を筆者が知ったのは、息子が生まれてまだ間もない頃で、古書市で古本をまとめて数十冊買った。先日工作舎から古本屋巡りのあれこれを書いた新刊本を1冊届けてもらったが、そこに書かれているように、京都の古書市では500円でビニール袋をひとつ買い、そこに本を詰め込むだけ詰め込めるという特売が最終日にあったりする。その機会にたまたま『こどものとも』をまとめて見つけたのだった。つまり、ひょんなことで出会った。ほかの本を詰め込むことも出来たのに、『こどものとも』を選んだのは、1冊が数ミリとうすいため、数十冊を詰め込むことが出来る割安感と、しばし中身を見ると、非常に面白いと直観し、息子のためよりも、むしろ自分が楽しめると思ったからだ。『こどものとも』は1956年4月が創刊という。当時筆者は5歳だった。それが30歳を超えるまで知らなかったのは、絵本に関心がなかったからではない。筆者が自分のお金で絵本を買ったのは、20代前半のことで、今も手元に多少はまとまった数がある。それらは『芸術新潮』での絵本特集で知ったもので、芸術の一分野としての関心からだ。つまり、そうした絵本に出会ったのは、従来の芸術好き、また本職からしてそうした芸術に関心を抱く必要があったからだが、子どもの頃に絵本にほとんど接しなかった筆者にとって、そうした外国の絵本はかなり衝撃的で、絵本は大人が子どものために良質のものを届ける必要があるという観念を覚えさせた。確かに今にして思えば、小学生の頃にケストナーやベルヌの小説を読むなりして、その独特の挿絵を見て、絵本的世界には開眼していたが、絵が主体になった、そして印刷の美しい絵本というものは、70年代になって筆者の眼前に出現した。古書市で500円で詰め放題で買った『こどものとも』は、その後意外な形で息子に役立った。家内が1冊ずつ、まだ話すことの出ない息子に内容を解きながら読み聞かせ、解き示したのだ。息子は大いに反応して、好きな本がいくつか出来た。その筆頭は今回の展覧会でも原画が展示された西村繁男の「おふろやさん」だ。筆者は息子が小さな頃はよく母の家に息子を連れ帰ったが、すぐ近所に銭湯があって、息子をよく連れて行った。その銭湯の様子が「おふろやさん」には実によく表現されていた。今回原画を見ながら改めて思ったのは、構成と絵の巧みさだ。文字は一切ない。にもかかわらず、そこからは銭湯の様子、家族の親密さ、銭湯での、いや公共の場での守るべき道徳、目上が目下にどう接するかなどなど、あらゆる社会的なことが各ページにさりげなく示されている。この1冊の絵本から、何十もの小説を書くことが出来るだろう。この絵本から何をどう読むかは大人の役割で、その大人が偏った人格を持っていると、誤ったものを子どもに示しかねない。だが、そういう大人はそもそもこの良質の絵本に出会うことはない。本好きな筆者は古書市によく出かける。そしてこの本に出会った。それは偶然のようであり必然なのだ。筆者がこのブログで毎日書いているのは、そうした筆者にとっての必然的偶然の出会いなのだ。そして、これを読む人は、同じ必然的偶然によってであり、読んで面白くないと思う人は、結局それがなかったことになる。
 「おふろやさん」は人間の温かさを描いている。タイトルは忘れたが、西村繁男の同じように緻密に描かれた別の1冊の絵本も筆者は所有する。だが、「おふろやさん」に思い出が強い。そこには入れ墨をしたお兄さんも登場するが、銭湯とはそのような場所で、そういう現実をそのまま見せるところがまた深みがあってよい。昭和世代のノスタルジーと片づけてしまうことは簡単だが、その昭和に何と豊かな情感があったことか。その意味で、現在の『こどものとも』はどういう展開が可能か、困難な時期に来ているのではないだろうか。2006年3月号で通巻600号になったというが、ロングセラーを続けているのは昭和時代に作られたものが多いのではないだろうか。今回16作家の作品を取り上げたが、筆者はその半分ほどは知っていたし、本は何冊か所有する。片山健の作品が好きで、彼の絵本は大半を買ったが、今回は1987年の「ながれぼしをひろいに」の原画が展示された。この絵本は発売当時すぐに買ったが、もう20年も過ぎたことに驚く。子ども、特に女の子の眠っている表情を描く時の片山の冴えは特筆に値する。この絵本では、雪が渦巻く表現に面白味があり、それは画家ならば唸る部分だ。大人にしかわからないそういう部分を月並みな表現で済ましてしまうと、絵本の良質な部分が根底から成立しない。子どもは口では表現出来なくとも、大人が腐心するそういう部分をしっかりと見ている。したがって、絵本は絵や物語がよくわかる大人が大人に対して作るものであって、目線を子どもに下げたようなものは、結局子どもに感動を与えるものにはならない。ここに、子どもを教育する際のひとつの守るべき本質がある。大人が見て惚れ惚れするようなものでない限り、子どもに与えてはならないのだ。『こどものとも』ではあるが、実際は『おとなのとも』でもあって、大人が全人生を賭けて表現した真に独創的なものがロングセラーになる。ほかの作品も少し紹介しておこう。梶山俊夫の「ごろはちだいみょうじん」は1969年の作だ。日本の民話を主題にしたものと言ってよいが、これは鉄道敷設に際して機械と黒人労働者の競争を主題にした有名なアメリカ民話と多少思い出させる内容で、1969年の作というのが納得出来る。「犠牲心」の崇高さを動物に託して描くところ、またそうした存在を「神」として描くところは大人向きでもあるが、子どもに伝えるべき大切なことを見事に表現する。全体にひなびた印象は当時の民藝ブームとも相まって、筆者は好きだ。秋野亥左牟の「プンク マインチャ」は1968年作でチベット民話を独特の色合いの絵で描くが、これもいかにもヒッピー時代の作だ。筆者が買ったのは80年代だが、それは秋野が画家の秋野不矩の息子であることを知ったからだ。有名な画家の息子がどういう仕事をするのかに関心があった。かなり素人っぽい絵だが、それがかえってこの物語の内容によく合っている。正直者は最後は幸福になるというよくある話だが、その古典性は忘れてはならない。
 堀内誠一の「パンのかけらとちいさなあくま」は1979年の作品。堀内については言うまでもない。絵本界の天才の筆頭に挙げてよいこの人物の筆さばきと色使いのモダンさは、時代を経てもいっこうに古びることがない。この絵本はシャガール風なところがあるが、充分堀内流に消化しており、また他人が決して真似出来ない完成度がある。チケットにも採用されたスズキコージの「きゅうりさん あぶないよ」は1996年の作だ。筆者は片山健との共作の絵本などを所有するが、90年代に登場した目立つ才能として彼の絵本には関心がある。の絵本は次第に持ち物が増えて行く旅するきゅうりの物語で、ロックのリズムかミニマリズムのように繰り返しが多く、最後に落ちがある。絵の不思議な魅力と不条理性によって、文句なく面白いというところがいかにも20世紀末期を感じさせる。そしてこうした作品を圧倒的に面白いと感じる中から次の才能が出現することになるが、そのかたわらで、絵本がどこまで子どもにとって力を発揮することが出来るか、つまり面白ければよいという基準の暴走をどこまで許容するかという問題を感じさせもする。そこには通常の漫画と大差ない世界が待っているからだ。絵本は絵と物語の筋の卓抜さによって立つべきで、その基本は守られはするが、漫画との境界は限りなく曖昧化するだろう。いや、元来『こどものとも』はその格闘の歴史であったと見るべきで、刺激一辺倒の漫画に対抗して、どこまで純粋さを保つことが出来るかという悩ましさがある。この純粋さは、表面的に柔和で美しい色合いと形だけによって表現出来るものでは決してない。その基準に照らせば、むしろススギコージの絵は醜悪だ。だが、そこには漫画にはない絵本の強烈な力がある。とはいえ、スズキコージ風ばかりではよくないし、また面白くもない。スズキコージと対極にあるのが、浜田桂子の「あやちゃんのうまれたひ」(1984年)や垂石眞子の「ぼくびょうきじゃないよ」(1989年)で、優しい女の子向きの内容と言ってよい。広野多珂子の「ねぼすけスーザのおかいもの」(1991年)は、優しい心を持った女の子が始末した貯めたお金と自分の労力で古椅子を赤く塗り替え、それをおばあさんにプレゼントするという内容で、物語により重要性がある。絵本はこの普遍的な物語性を時代感覚に応じて描き分けて行くという、悪く言えば安易な方法が厳然とある。時代が変わっても忘れてはならない人間の優しさは、どのような絵であっても人の心を打つから、わざわざ新たな画家に描かせる必要がないようなものだが、そうとは言い切れないところもあって、新たな才能による新たな息吹はやはり必要なのだ。田中清代の「トマトさん」(2002年)は、大きなトマトのグロテスクな表情が見所で、そのトマトが虫たちの協力によって冷たい小川に落ち、涼しくなれるという変な物語だが、トマトを冷やして食べるとおいしいという事実を子どもに教えることにもなって、野菜嫌いをなくすのに効果があるかもしれない。筆者が最もびっくりした作品は秋山あゆ子の「くものすおやぶんとりものちょう」(2003年)だ。これもグロテスクな存在を主人公にする点では「トマトさん」と共通する。蜘蛛嫌いな子がこの絵本を見て、蜘蛛にも愛らしいところがあると思うかどうかは疑問だが、江戸時代に状況を設定し、しかも凝りに凝った幻想的な絵は、なかなか得難い才能で、たいていのものを見て来た大人でも度胆を抜かれる。この絵本からは、21世紀になって、絵本の手法もかつてないほど変換を余儀なくされている事実がよくわかる。大人も生きにくいが、子どももきっとそうなのだ。そして、子どもがそれを口に出さずとも理解してくれることを大人が知り、親と子が同じ絵本を見るということが期待出来るのが、『こどものとも』だ。読書をよくし、また絵画鑑賞もよくするという文化度の高い大人が子どもに安心して与えられる本で、今後も長く続いてほしい。
by uuuzen | 2008-08-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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