体験はその時その時を楽しんで、さっさと忘れる方が次にも専心出来るもので、映画などの娯楽はその最たるものと言ってよい。映画をよく見る人は孤独な人が多いと何かで読んだことがあるが、これは本当だと思う。
いや、それもそうだが、時間と金があるからとも言える。友人に年間200ほどだったか、とにかく片っ端から映画を見るのがいるが、タイトル程度しかメモっていないので、後でどういう内容であったか思い出せないと言う。毎年どれほど多くの映画を見るかを自慢気に話すのはいいが、内容を覚えていないのであれば、あまり意味がないと思う。いや、本人がその場その場で楽しむのであるからそれでよい。文章を書くのが好きで、またその時間を見出せる人ならば、それだけ多くの映画を見ればブログに書いたりもするし、実際そういう人は非常に多いが、年間200本見たとして、毎回原稿用紙20枚弱といったような量で感想を書く人はまずいない。たくさん映画を見ている割に、感想を書く本人の個性がさっぱり面白くないというブログが大半だ。だが、そういう最大公約数的な文章こそがブログの意義であるとも言える。つまり、ひとつの方向が決まった無名性としての意見というものが多くのブログを統合して浮かび上がって来るところに、インターネット本来の意味もある。ところが、個性的な映画であるべきものが、そうした最大公約数的な没個性の意見によって評価が定まるというのは、映画というものをどんどん面白くないものにして行く気もする。そのため、映画専門の評論家の意見というものは絶対になくならない気がする。筆者はそうした文章は読まないので、自分の書く文章がどういう位置にあるのかわからないが、最大公約数的なものからはなるべく遠いものにしたいとは考えている。ブログで文章を綴るということは、結局は報告すべき、あるいは論ずるべき対象を下敷きに自分を表現することであるから、当の作品に接したきっかけといったことも含めて、随筆風に書きたいというのが筆者の考えで、その意味ではきわめて主観的なものだ。だが、最大公約数的なブログにおける感想文というのもみな主観的と言えば言えるものであって、単なる資料がほしければ別のサイトを見ればよい。主観的なものであるからして、筆者が面白く感じたことがないのであれば、文章は面白いものにはならないし、文章が自己表現とすれば、仮に筆者が面白く感じたとしても、筆者に敵愾心を抱く人は面白くは思わない。そして、こうしてブログで取り上げるからには、筆者が面白く感じたからであるからで、後は筆者の文章力によって、他者に対してこの文章が面白いか、あるいは対象にしている映画を面白いものと認識させ得るかだ。
封切り映画を見ることはほとんどない。時間はあっても金がないからが一番大きな理由だが、それだけでもない。見たいと思う映画がめったにないからだ。21世紀になって全体に映画は低調になったと漠然と思う。今回この映画を見たのは、はがきを送ったところ、当選したからだ。はがきは年賀状のあまりで、毎年1、2回はこのようにして年賀状のあまりでチケットが当たる。そのため、年賀状はあまっても元を取っている。筆者が目当てにした映画ではなく、別の映画のチケットが送られて来たが、どうせただでもらうものだ。没にせずに家内と見て来た。3週間ほど前だったと思うが、映画館の前はもう何百回となく通っているにもかかわらず、入るのは初めてであった。いつも行く祇園会館の数分の1の座席数だが、シネコン風に新しく改装されたようで、狭いながら快適な座席だ。そこにわずか10人ほどの観客で、若いアベックが上映寸前に駆け込んで来たが、映画が終わって外に出る時ちらりと見ると、ふたりは他の観客から大きく離れて一番後ろの座席に座っていた。おそらくペッティングでもしていたのだろう。この映画がどの程度の前評判なのか知らない。原題は『ザ・イリュージョニスト』で、通常ならこれをそのまま邦題にするだろうが、原作の小説に倣ったのか、『幻影師 アイゼンハイム』といったやや長めでしかも覚えにくいものになっている。『幻影師』だけで充分であったと思うが、漢字ばかりでは中国映画かと思われるので、主人公の名前の「アイゼンハイム」をつけ足したのであろう。だが、この題名はあまりヒットを予感させない。これは俳優にもよるかもしれない。有名俳優によって映画をヒットさせようという目論見からすれば、この映画はすっかり外れている。登場する俳優はみな力量があって、印象深い演技をしていたが、日本ではよく知られる人々ではない。幻影師役の俳優はエドワード・ノートンというが、他の映画ではチョイ役にぴったりという軽い感じで、これが実はこの映画の内容によくかなっていた。手品師、奇術師というのは、だいたい軽薄な風貌をしているものであるから、監督はそこをよくわかってこの俳優を使ったのだろう。まず、その点においてこの映画がなかなかよく考えられたものであることが伝わった。その恋人役のソフィーは、大きな口をして、ナスターシャ・キンスキーに連なる顔だが、あまり印象には残らない。アイゼンハイムと同じほど重要な役に、ウィーン市の警察長官がいる。この俳優の顔は特徴的で、主役をほとんど凌駕していた。真の主役はこの警察長官と言ってよい。もうひとりウィーンの皇太子が登場する。悪役だ。警察長官はこの皇太子の命令にしたがってアイゼンハイムの素性を暴くといった役回りをするが、肉屋のせがれとして成り上がった彼は、指物師のせがれのアイゼンハイムに同情的で、最後はアイゼンハイム側につくという設定だ。
映画の最初は全くのおとぎ話の設定だ。平原に大きな木が1本立っていて、そこにひとりの老人が座っている。少年アイゼンハイムはその老人から手品を見せられる。するとその老人はふっと姿が消えてしまうのだが、この最初の幻影の場面からして、この映画が史実にしたがった内容ではなく、完全な娯楽として作られたものであることがわかる。映画は元来幻影であるから、その紛れない映画の本質をそのまま映画の主題に置くこの映画は、ひとまず他のどのような映画とも共通するとは言えるが、幻影師という主役を据え、ストーリーの中心に幻影を置く点において、他の「作り物」すなわち「幻影」としての映画以上に、見ている者は幻影に取り巻かれることになる。映画が幻影であるという現実は、SFXを多用した映画ではもうあたり前になっているから、誰もが最初からよくわかっていることではあるが、今一度その幻影というものを別な形で、もっとストーリーに大きく絡めて、その核として見せるというのがこの映画の面白いところだ。つまり、映画という幻影の中にもうひとつの幻影の世界を見るという二重構造になっていて、夢の中でもうひとつの夢を見ているという感覚に近い。そのため、映画を見終わった後に、夢から覚めたはずであるのに、今こうして文章を書いている世界が幻影に思えて来る。それほどの力をこの映画が持っているということなのかもしれないが、それは褒め過ぎというものか。この映画で筆者が面白かったのは、少年アイゼンハイムがソフィーと無理やり別れさせられた後、村を後にして、幻影師としての腕を磨くために世界中を放浪し、中国に行ったことがあるといったことがナレーションで語られるところだ。ここは伏線としてはかなり重要な箇所で、後に幻影師として成長したアイゼンハイムは東洋人を数人引き連れて座を結成してウィーンに興行にはやって来るのだが、幻影の神秘性がその中国という要素によって大きく高まっている。西洋にとって東洋は神秘の世界であり、それがこの映画でもうまく採用されている。アメリカ映画において東洋人を見ることは珍しくはないとはいえ、時代を19世紀末から20世紀初頭に置き、舞台をウィーン市内にしたところに東洋人の顔というのは、現代の東洋人からしてもかなり目立つ存在だ。つまり、この映画の大きな役割は中国、いやほとんど映画の主題そのものが中国の古典から借りたものだ。それは誰しもすぐ思うように、『荘子』の「胡蝶の夢」だ。映画など、しょせん人類が登場した時にすでに頭の中にあったものだ。しかもその頭の中にある誰しも見る夢を越える映画は作られた試しがない。つまり、人間の空想力以上に映画は出ることは決してない。このアイゼンハイムの映画にしても、アイゼンハイムとソフィーの恋物語を除けば、醍醐味の大半は「胡蝶の夢」の戦慄以上では決してない。
アイゼンハイムは指物師の息子であることのほかに、見知らぬ手品老人と出会ったことによって、手品好きな少年になる。そして知り合ったソフィー相手に手品を披露したり、また手作りの秘密の細工を施した木製ロケットをプレゼントしたりするなど、ふたりの間は急速に接近する。だが、貴族の娘であるソフィーは、おつきの人によってふたりの交際が禁じられ、ついに会えなくなってしまい、アイゼンハイムはその後長い間放浪の旅に出る。そして、時代は20世紀初頭になってアイゼンハイムは幻影師としてウィーンに現われる。興行主の采配もあって、アイゼンハイムの名は高まり、劇場は常に満員となり、皇太子の耳にも届く。この映画におけるSFXはアイゼンハイムの奇術の場面に多用され、少しやり過ぎと思わせられもするが、映画すなわち幻影であるので、それもいいかと思いながら画面を見続けることになる。アイゼンハイム最大の演目は、舞台の上に幻影を登場させることだ。幽霊のように無言の幻が浮かぶ。それはシースルーで、煙に映像を投射したものを思えばよい。その種明かしはついにされないままだが、警察長官は手品好きで、どうにかそのトリックを見破りたいと思っている。これは皇太子も同じだ。ある日皇太子とソフィーは劇場にやって来る。そしてアイゼンハイムの導きでソフィーは舞台に上がり、催眠術をかけられて鏡を使った奇術の道具にされたりもする。そして、アイゼンハイムとソフィーは密かに会うようになり、ウィーンを後にして駆け落ちする計画を立てる。だが、皇太子は警察長官の調査によってふたりが会っていることを知る。アイゼンハイムは駅のプラットホームで部下に向かって、必要な荷物をある場所に運び、自分は後で行くと告げる。つまり、ソフィーを先に行かせて、自分は最後の公演をこなした後で駆けつけるという算段だが、警察長官はその話を盗み聞きする。一方、ふたりの逢瀬を知った皇太子は、当夜婚約者のソフィーに詰め寄り、しかも口論となった挙げ句、馬小屋でソフィーを刀で刺す。血を流したソフィーは馬に乗ったまま宮廷を出て、翌朝馬だけが宮廷に戻って来る。捜索の結果、ソフィーは近くの沼地で死骸となって発見される。途方に暮れたアイゼンハイムだが、相変わらず劇場での興行を続け、しかもソフィーの亡霊を登場させるなど、市民を惑乱させる。皇太子が品行よくないことをよく知っている市民はアイゼンハイムの味方をするが、皇太子はアイゼンハイムを逮捕させる。警察に市民が大勢押し寄せ、その気迫に警察長官もアイゼンハイムを釈放する。そして、アイゼンハイムに同情的な長官はソフィー殺人の真相を暴くために独自に調査し、やがて馬小屋で皇太子の刀の宝石がひとつ落ちているのを見つける。犯人が皇太子と知った長官は皇太子を逮捕しようとする。アイゼンハイムは自分の奇術によって死んだソフィーを舞台に蘇らせた。それは皇太子を犯人だと示すための方策であったが、実はそれだけにとどまらないことが、部屋を引き払ったアイゼンハイムの部屋を調べた警察長官は理解する。
アイゼンハイムはソフィーを皇太子から奪還するために、何もかも用意周到に完璧に仕組んだのではないか。つまり、皇太子がソフィーを刀で刺したことも、そもそもアイゼンハイムの指示によってソフィーが皇太子の飲むワインに薬を盛り、狂気に走るように仕向けた。そして刺されて死んだはずのソフィーは実は死んではいなくて、アイゼンハイムの計画どおりに先に落ち合うべき場所に行っている。駆け落ちの最後の仕上げをする必要上、アイゼンハイムはウィーンに残り、皇太子を殺人犯に仕立てる芝居を打った。どうせ悪い人物であるから、死んでも誰も悲しまない。すべてをそう悟った警察長官は、晴々した顔でアイゼンハイムとソフィーはアルプスの村の1軒の小屋に仲よく暮らしていることを思い浮かべる。これは長官の想像が真実であるかもしれないし、また実際はソフィーは死んでいて、その復讐のためにアイゼンハイムが長官に真犯人を見破るように仕向けただけかもしれない。これは映画を見る者がどちらかを選べばよい。そのどっちとも解釈出来て、実態がわからないことこそが幻影であり、謎は謎のまま楽しめばよいという娯楽の本質をこの映画は伝える。そしてそうした未了的な作品であるからこそ完成度が高いという本質もまた『荘子』にあるもので、この映画は中国さまさまなのであった。さて、エンドロールを見ながら、音楽の作曲がフィリップ・グラスであることを知った。管弦楽曲で、あまり耳障りではなかったが、メロディの繰り返しが多く、なるほどそうかと納得した。だが、この映画音楽を映画を見ずに聴いた場合、はたしてどうかと思う。テリー・ライリーやスティーヴ・ライヒに比べて、筆者はあまりフィリップ・グラスは好まない。CDは数枚所有するが、感心したのは1枚もない。いつか手応えのある作を聴きたいと思っているが、彼の音楽は聴いていていらいらさせられる。だが、実はそこに魅力があるのかもしれない。ライリーのようなジャズ的な乗りの即興性でもなく、ライヒのような何もかも完全に制御した端正な古典性でもなく、聴いていていつ果てるともわからない一種の不気味な浮遊感だ。そこで思うのは、グラスがラヴィ・シャンカールと共演したことだ。インドは幻想の最たる国だ。グラスの音楽は執拗なメロディ・パターンの繰り返しにより、幻想を表現することが目的か。そして東洋思想にどこかで接近しているかもしれない。その意味において、この映画にはよく似合っていた。映画監督というものも指物師同様、精緻な細工が得意でなければつとまらない。その精緻は人によって把握される状態が異なるが、感想を書くのであれば、本当は同じような精緻な感覚と表現が必要とされる。だが、そういうブログが非常に少ないのが現実だ。
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