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●『生誕100年記念 ブルーノ・ムナーリ展 あの手 この手』
賀県立近代美術館で先月28日に見た。ブルーノ・ムナーリの名前を知ったのはいつのことだろう。筆者が10代の終わりにはすでに日本ではよく知られて耳に届いていた記憶がある。



●『生誕100年記念 ブルーノ・ムナーリ展 あの手 この手』_d0053294_13562739.jpgそして、たとえばレオ・レオーニのような絵本作家かと思っていたが、絵本だけに収まらない人物であることが今回の展覧会でよくわかった。チラシによれば300点以上の出品というから、かなり力の入ったもので、図録も楽しみであったが、さほど迷わずに買わないことにした。そのため、図録が手元になく、資料的なことはここでは書けないが、買わなかった理由も含めて以下に書く。今回の展覧会は、滋賀にいる息子に自動車で近くの瀬田駅まで来てもらって、久しぶりに家族3人で見た。実は先月も同じ美術館に行く機会を作ってチケットを3枚用意していたが、息子が日曜日の休み、駅まで来ることを拒んで、結局チケットは無駄になった。今回はそのため土曜日に出かけた。これなら日曜日に息子はゆっくり過ごせるから拒みようがない。息子は車で美術館まで30分ほど走る必要があるが、筆者と家内は阪急、地下鉄、JRというように乗り継いで駅まで行かねばならない。以前はその駅からさらにバスに乗っていた。息子の住む県にせっかく行くことであるし、せめて駅まで来てもらってバスを待って乗らずに済むように、そしてどこかで食事でもすればよいと考えるのだが、息子にすれば展覧会に全く興味なしで、5分ほどでさっさと出口の向こうに行く。全く筆者の関心や興味には一切反抗を示し、筆者が嫌うものをすべて好む。それもまたある意味で親を意識している姿であろうが、食事中に息子の胸ポケットから洋煙草が覗いていた。煙草を吸ったことのない筆者だが、注意しても聞かない年令になっているので、別段それをとがめる気もない。だが、体があまりよいとは言えない息子を思うと、なぜそんなものに手を出すのかよくわからない。筆者が煙草を吸わなかったのは、母が若い頃から吸っていたからだ。その吸い始めた理由をよく知っているが、母のその行為に対して筆者が黙って反抗を示したのだとすれば、筆者の息子も筆者に対して同じようにしてするだろう。親の言うことを聞かないのは筆者も同じであったから、これも因果かと思う。大人になった子どもが親に忠実で、しかも親子の仲がよいというのも、傍目には何だか気味悪いことであり、息子は息子、法律を犯さない範囲で親とは正反対のことをしながら生きて行くのがいい。子が親のコピーとして、それがどこまでかはなかなか難しい問題だ。時代も環境も違う中でコピーされた遺伝子が生きて行く場合、親と子どもが同じ性格で同じ趣味ということ自体があり得ない。
 新聞ではDVDのブルー・レイ方式がコピーを10回まで可能にするとか何とか、最近は家電メーカーが売上増進のために著作権の壁をどう打ち破って商品を作るかが問題となっている。アナログ時代であれば画質や音質はダビングごとに劣化したので複製に関してはさほど驚異ではなかったが、デジタル時代になると、商品のCDやDVDと同じ内容のものが自宅で簡単に複製出来る。その驚異をどのように家電メーカーが著作権保有者と折り合わせるかで、そのことが10回云々の論議になっているのだが、10回に設定したところで、誰かが簡単にそれを打ち破る方法を見つけるはずで、結局無意味化するに違いない。また、筆者は不思議に思うが、10回もダビングする時間があれば別の何かを見る。つまり、複製などする時間があれば別なことに使いたい。映像など1度見れば充分で、ダビングの必要がどこにあるというのか、それがまず理解出来ない。筆者の甥がソニーの20万円以上のパソコンを買った時、店の人だったか、最新のウィニーを入れれば、ただでCDやDVDがダウンロード出来るので、すぐにパソコン代のもとは取れるとか言ったそうだ。著作権無視の中国を笑ったり怒ったり出来ない事情が日本にはもっと深刻に存在すると言うべきだ。だいたいウィニーを使って無料で音楽や映像を取り込もうとするのは、著作権ということとは無縁の、つまり表現者にはなれない人物が中心のはずで、そうした人間はコピーを趣味とする意味においての「コピー人間」であり、またどこにでもいて、しかも無価値の、つまり個性の欠如した意味においての「コピー人間」だ。そういう人種にはブルーノ・ムナーリの芸術は決して理解出来ないどころか、逆に腹立たしく思うに違いない。ははは、うまく話がこじつけられたな。筆者が図録を買わなかったのは、それがムナーリ的な感性から遠いものであったからだ。だが、それは図らずも今のデジタル時代を反映している。1980年代だったろうか、東京でムナーリ展が開催された。その時のチラシと図録のデザインを担当したのが福田繁雄であった。チラシは、ムナーリのデザインしたフォークを人の指に見立てたデザインを利用しながら、それらさまざまな形のフォークを「BRUNO MUNARI」という文字に構成したものが主体で、そのアイデアは月並みなもので福田の才能が充分に発揮されたものとは思えないが、図録は上下を斜めに切り落として台形にしたもので、これはムナーリの希望であったのかどうかは別にしてかなり奇抜で印象深い。だが、ただそれだけのことで、やはり福田らしくはない。ところがその台形の図録は製本後の裁断が面倒なこともあってか増刷はされず、古書では1、2万円はしている。つまり、複製しにくい手作り感覚を盛ったものがムナーリの芸術で、デジタル時代からは逸脱したところに大きな魅力がある。これを前時代的と退けてしまうことは簡単で、おそらくウィニー愛好家などはその魅力を理解出来ないどころか、複製出来ない点に立腹し、そしてムナーリを否定したり謗ることだろう。
 心情的に筆者はムナーリにかなり近い。人間は個性的であろうとするほどに、ウィニーとは逆行して、複製不可能な立場を保つ。そして、そうした個性が今ではいじめの対象になるというのであるから、世界はネットによって均質化し、人は限りなくロボット化している。先の「コピー人間」は、言い換えれば単細胞なロボットだ。デジタル・データの複製を趣味にすることは、まさにロボットそのものの姿であり、そういう連中が独特の個性を持った人間を理解しようとはせず、またそもそもそうした頭もないため、データ・コピーに恍惚となる。ムナーリはそうした時代を予想したであろうか。おそらくそうであろう。複製時代の到来を予想し、アウラがうすめられて行くことは同時代人のベンヤミンが思っていたことだ。ムナーリが生まれたのは1907年で、レオ・レオーニとも同世代人だが、10代末期にボッチョーニらの未来派と交渉を持った。この未来派が、未来はますますスピードアップしたものになること以外に、文明の合理化が進んで人間世界が光に溢れた薔薇色になると楽観的にばかり思っていたのかどうかとなれば、さてどうなのだろう。戦争がそれを踏みにじって、未来派という輝きに満ちた宣言も、竜頭蛇尾に終わった感がある。だが、ムナーリを見ていると、戦争後にイタリアが見事に復活し、戦前のモダンさを復活させたように思える。ムナーリのやったことは、バウハウスの個人的イタリア版的なところがあって、教育面に寄与する姿勢が大きいが、小さな子ども相手の素朴なものと言うよりも、バウハウスがそうであるように、大人が傍らに置きたい本や製品となっている。簡単に言えば遊び心に溢れているのだが、イタリア的な明るい色彩と、文字やフォルムのモダニズム感覚を持つためで、筆者のような60年代を体験した世代からすれば、妙な懐かしさがそこにつきまとって、一種古典的な芸術を見つめるのと同じ感慨を抱く。60年代的デザインはすでに古典と言ってよいほど、ある意味では古臭くなったが、どんな表現でも時代から逃れられないから、これは仕方がない。生誕100年を迎え、また時代に則したデザインの分野であればなおさらブルーノの芸術はそのような時代感覚を帯びる。そして、その時代は2000年以後のネット時代から見ると、大きな断絶が立ちはだかって見える。確かに絵本や製品デザインの分野で活躍したムナーリであるので、それは複製を前提としたものであったが、それは限りなくデジタル化からは遠いところにあるもので、ネットの均質化を当然と思う時代からすれば、ムナーリの芸術はむしろ複製を拒否したものと言ってよい。たとえば、ムナーリの絵本は折りたたんだ特別の小さな紙を随所に挟み込んだり、またページの途中で何度も用紙を変え、しかもそれらの用紙は穴が開いていたり特殊印刷が施されているが、印刷という均質な手段における多様な面に着目したそうした複合的製品は、手間を大きく要する点において商品価格は高くなり、またパソコン画面では実態を正しく伝えることは出来ない。ムナーリの絵本は実物を手に取るしか理解出来ないものなのだ。それは平面や印刷だけに還元出来ず、紙質、つまり触覚にまで作者の感覚が及んだもので、人間が人間の形を採る時代が続く限り、他の媒体に置き変えることは不可能だ。複製手段を使いながら、どこまで非人間的なものから脱却出来るかを考えたところの産物と言ってもよい。
 ムナーリは身長が154センチほどだったが、それは意外ではない。学校の先生を洒落た風貌にしたという感じで、髭を生やしていかにも芸術家を気取ったというところからは無縁の人柄が感じられる。だいたい格好をつけ過ぎる芸術家気取りほど、たいした表現者ではないというのが相場で、これは長身といった、一般には美徳と認識される見栄えでも同様だ。300点以上の展示とはいえ、大半は冊子か絵本のような紙資料だ。実物の絵本を手に取って見ることの出来るコーナーがあって、そこが一番の人気であった。筆者が手に取れたのは『闇の夜に』で、1956年の出版だ。この年度から当時の世相を連想出来る人にはたまらない本と言ってよい。日本版も出ているが、確か5000円以上する。厚くない絵本としてはかなり高価だが、その理由は本を手に取るとよくわかる。先に書いたように、この本は紙を数種使い、ページを繰るごとに紙が透ける、紙から見通す、別の小さな紙が開くといったように、通常の絵本と違う「からくり」が凝らされている。表紙は黒で、全体にどこか暗い、そして洞穴から外に出ようとする物語の構成が、当時のイタリアないし世界の状況をよく示し、筆者は当時5歳であったが、とても懐かしいような思いを抱く。紙質は時代によって作られるものが変化し、今では1956年と全く同じ紙を作ることは不可能だが、その意味において1956年の初版は唯一無二の骨董的価値があり、ムナーリの思いをすべて汲むには初版を手にする必要があるだろう。1968年の『きりのなかのサーカス』は『闇の夜に』とは違って、時代がかなり下がる分、色合いや造本はより現代的だが、『闇の夜に』と同じように半透明のトレーシング・ペーパーを使用し、次のページが下に透けて見える構成を物語の主題として使用する。これはムナーリの生まれが北イタリアの霧の多い都市であったことが影響しているという。つまり、適当に面白い素材を使って一風変わった絵本を作ってやろうといった考えからではなく、自分の出生と時代の中から生み出されたもので、そこに普遍性が宿るのだ。ここが、コピーすればそれでコピーしたものを吸収したと勘違いする今の「コピー人間」には全くかなわず、また理解も及ばないところだ。そんな「コピー人間」を風刺したような作品もムナーリにはあった。それはゼロックスが登場した60年代末期のもので、ムナーリはゼロックスともうひとつの名前を合成した造語で呼んでいた。どういう作品かと言えば、ゼロックスを使った1回限りのコピー作品だ。ゼロックスで原画をそのままコピーするのではなく、機械の動きに合わせてコピーする原画を動かし、原画を変形するのだ。その原画にたとば北斎の有名な神奈川沖の波の図を使用した。すると、あの湾曲した大きな波がさらに速度感溢れ、しかも歪曲した別の波となって表現されていた。つまり、コピーに頼りながら、1回限りのアウラに着目した半複製芸術だ。そのような失敗コピーは誰しも経験があるが、そこをムナーリは早々と創作の一方法として活用した。この一事からもムナーリがどういう人かはわかるだろう。
●『生誕100年記念 ブルーノ・ムナーリ展 あの手 この手』_d0053294_13572189.jpg

 ムナーリは日本通であった。そして日本での出版を望みながら果たされないものもあった。それは竹に着目したもので、竹という字を毛筆でデザイン的に書き、それを竹を使った紙に印刷したかったようだ。こうした考えは印刷で大量に複製する本というよりも、複製の本という形を借りた彫刻的絵画と言ってよいもので、ムナーリには平面と立体、そしてそれらの間に横たわる問題に生涯思いを張り巡らせたところがある。それは日本では福田繁雄に発展を見たが、福田の師はムナーリと言ってよく、福田の娘の美蘭という名前はムナーリに由来するとあった。それほど日本と関係が深いのは、瀧口修三が積極的に紹介したことによるが、その経過の中で武満徹がムナーリのデザインに触発されてムナーリの作った色紙の構成に切れ目を入れた図形楽譜で作曲もした。そうした日本での歓迎ぶりで筆者が思い当たったのは、初期の工作舎が出版した稲垣足穂の『人間人形時代』における本の中央に煙草が1本通過する穴が開けられたことだ。本を立体として造形するその感覚は明らかにムナーリ譲りもので、当時のムナーリ人気に影響を受けたのだろう。60年代から70年代にかけて日本で発売されたムナーリの本はみな何万円もする高価な古書となっているが、それは先に書いたように復刻が難しく、出来ても同じような高価になるためで、デジタル複製こそが複製と思う人がますます増加する今後においてはさらにムナーリの本は版画並みに貴重なものとなるだろう。会場では小さな正方形の同じサイズの10数冊のシリーズ本があった。みな文字は印刷されず、どの本も木材やフェルト、ビニールといったように素材が全部違っていた。このいかにもバウハウスの教育課題を思わせる本は、通常の製本に頼れず、どれも手作りする必要がある点において、しかもネット上にデータ化されない点において、きわめて人間的でムナーリの温かさを感じさせる。そうした手作り感覚は60年代までは日本でもまだまだ健在であったが、そのためにもムナーリは歓迎された。ムナーリにおける日本的なものとしてもうひとつ挙げておくと、旅行の際に持ち運べる折りたためる彫刻というものが何点か展示された。これは日本の折り紙の大型を思えばよい。1枚の大きな色のついた厚紙をふたつ折りし、左右対称に切り込みを入れて山折り谷折りを複雑に施して抽象的な立体を作り上げるものだ。それをホテルの一室に置けば殺風景な部屋が自分の空間になるという主張なのだが、そこからもいかにも均質を拒否し、しかも温かい人間性を欲したムナーリの姿が浮かぶ。それはそれ以上には役立たないものかもしれないし、ムナーリはそのことをよく知っていたろう。1933年においてすでに「役に立たない機械」というモビール的な紙の彫刻を作っていたムナーリは、無用の用が生活を潤すことをすでに悟っていた。今回の展覧会はおそらくこの美術館において筆者が初めて遭遇したほどの人の入りであったが、親子連れが多かったのは微笑ましかった。会場の最後はムナーリが作った子どもの造形遊び道具が置かれていた。その光景をムナーリに見せたかった。いや、きっとムナーリは天国からそれをにこにこしながら見つめていたことだろう。また幼稚園にも行かないような子どもが喜々として透明プラスティックにく印刷された木や家のカードを重ねて遊んでいたりしたが、筆者も隙間があればそこに割り入って同じようにムナーリの遺産でどういうことが面白いことが可能なのかを試してみたかった。ムナーリは手作りの人であった。そのため図録よりムナーリの絵本を手元に置く方がはるかによい。それが図録の何倍も高価ではあっても。「コピー人間」は無料で何でもコピー出来て得したと思っているが、筆者に言わせればコピーするたびに人間的なものを見失い大いに損をしている。1回限りの幸福な出会いが経験出来ないからだ。人生は日々1回限りだ。それがわからない、つまり「コピー人間」はすでに最初から死んでいる。
by uuuzen | 2008-07-04 13:57 | ●展覧会SOON評SO ON
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