誰からも必要とされず、また理解もされていないと感じることが、ネット社会になってからかえって多くなったとすれば、そして、そのことで人殺しが増えるのであれば、ネット社会がもたらすと信じられていた薔薇色の世界もかなりドス黒い色に覆われていることがわかり始めたことになる。
ケータイを片手に1日に200回も短く書き込む行為は、電車の中でよくケータイでメールを送信しているのと同じように、今ではさして驚くこともない行為なのであろう。筆者はこのブログでは1日1回の投稿と決めているし、また書くからにはそれなりに残したい文章か、後日で役立つものをと考えているが、コメントの書き込みやトラックバックがないからといって孤独にさいなまれることはない。むしろ、つまらぬことを書かれるのなら御免こうむりたい。先日の秋葉原の事件の殺人犯は、ケータイやネットがない時代ならば、あのような事件を起こしたであろうか。よけいなものを持ったがために、かえって孤独になり、他者を巻き込む破滅に向かったように思える。もちろん、ケータイやネットが悪いと言うのではない。だが、人によりけりであるし、いい面もあれば悪い面もあると思っておくのが、道具というものだ。筆者はケータイを所有していないし、今後も持つつもりはないが、それで孤独であると感じたことはない。それに、そもそもケータイなど持って簡単に誰かから連絡があるような位置に自分を置きたくはない。また、孤独というのは、人さまざまで考えようにもよる。『あの人は孤独だろうな』と勝手に思っても、本人は全くそうではないことがあるし、毎日わいわいがやがやと楽しそうに過ごしている人が案外ひとりになって孤独を味わっていることもあるから、他人が推し量ることは出来ず、また比較も出来ないもので、孤独にはうまくつき合って行くしかない。そうした時に役割を担うのが芸術や文学であったりするが、これも受け手側ばかりに回るのではなく、下手な横好きでいいので自分で作り手に回るのがよい。そして、それを発表するのに、今はネットがある。1日200回の書き込みにしても、そこに客観的な視点を持っていれば、それが人が読んで楽しいものかどうかくらいは少しずつはわかるようにはなるだろう。だが、そもそもそれが出来る人は1日に200回も書き込まないか。しかし、誰からも必要とされず、また理解もされていなくても、客観的な自分だけがわかっていればいいではないか。それに、簡単に理解されるようなうすっぺらい存在ではいたくないと思うのであれば、コメントの書き込みなど全くない方がかえってよい。そこまで強い心を持てば、何も恐いものがない。
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2007年08月08日●第 188 話 何か忘れていたことがあったなと思っている時は、心のどこかに小さな刺がささったままのようでとても落着かない変な気分です。そんな刺がひょんなことで思い出せる時は本当に嬉しいですが、すぐにまた忘れてしまうことが多いものです。脳の中は大きな川のようで、いくつもの刺がゴミのように浮いたり沈んだりしながら流れて行きます。最近マニマンが刺として半ば忘れていた記憶は、芋の葉の露です。ある朝マニマンはムーギョ・モンガへの道沿いの畑で、芋の大きな葉の中心に水が溜まっているのを見かけました。その時はカメラを持っていなかったので、そのきれいな光景を鋭い刺のようにしっかりと記憶しながら、また後日の雨上がりの午前中にカメラを持って出かけました。すると、予想どおりにどの葉にもクリスタルのような透明な輝きの水滴がコロンと丸くなって溜まっています。蓮の葉でも同じことが生じますが、そんな光景を道路から見下ろすのは初めてです。朝の清々しさをいっぱいに集めたその露を思い出すたびに、マニマンは何となく心がコロンと澄んで行くように思うのでした。