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●「SONGS FOR THE TEN VOICES OF THE TWO PROPHETS」
節的なものか、先日からこの曲を思い出していた。鬱陶しい梅雨空になると毎年だ。きっとインド的な音楽なので、勝手に蒸し暑さに結びつけている。ミニマリストであるテリー・ライリーの曲は「IN C」が有名だ。



●「SONGS FOR THE TEN VOICES OF THE TWO PROPHETS」_d0053294_14374238.jpgCDを持っているが、あまり聴かない。筆者が最初に衝撃を受けたのはこの曲で26年前のことだ。訳すと「ふたりの予言者の10の声のための歌」。近藤譲がNHK-FMで現代音楽のライヴ演奏を紹介する番組があって、それを2時間のカセットに録音した。1982年5月7日、ゲーテ広場の劇場での録音で、ブレーメン放送協会の提供であった。その後、レコードがほしくなって注文した。まだCDが登場する以前で、輸入盤LPを買ったが、今では別の曲とカプリングになって2枚組CDとして出ている。そのため、筆者の所有するLPはかなり珍しいのではないだろうか。またCDも現在品切れで、あまり売れなかったことがわかる。LPを聴いたのは2、3度だ。筆者はいつも録音したカセットを聴く。それはLPの3倍ほどの長さがあるからだ。2時間には満たないが110分ほどはある思う。今ならCD-Rに焼きつけて楽しむことが出来るが、あまりにも聴き倒したため、いや速送りなどしたため、何箇所かテープがおかしくなってしまった。それでもライリー自身がLPやCDにして発売した正式な録音の倍以上の長大なものはかなり貴重だ。なぜこの曲のみを2枚組にして販売しないのかと思うが、おそらく売行きが芳しくないとの予想があるのだろう。ところで、この曲をシンセサイザーではなく、ピアノで演奏しながらライリーが歌うヴァージョンも後日NHK-FMでは放送され、それも録音したが、何と言ってもシンセサイザー・ヴァージョンがよい。「この曲」と表現しているが、実は3つからなる組曲で、各曲に題名がつく。LPで言えば、片面に「Embroidery」(刺繍)、これは22分の長さがある。もう片面は「Easter Man」(東の男)で11分、それに「Chorale of The Blessed Day」(祝福日の聖歌)の同じく11分だ。この3曲は確実にLPの発売を意識して演奏長さが調節されている。そのためもあって、2時間の長大ヴァージョンの方が瞑想的な雰囲気に耽るにはもって来いだ。この曲が3つのパートに分かれてそれぞれに名前がつくことを知ったのはLPを買ってからのことで、NHK-FMで放送された時はその説明はなかった。それでも聴いていると明らかに感じががらりと変わるのがわかるので、組曲であることはわかる。そして、3つのタイトルを知ると、なかなかそれがよく名づけたものであることも知る。
 「刺繍」は、まさにその名のとおり、メロディを縫い上げて華麗な絵を浮かび上がらせるような雰囲気に満ちる。「東の男」は「東洋の男」の意味だろう。これはインドの聖人を思えばよい。LPにはライリーの歌う歌詞の内容が印刷されないが、まるでチベットのお坊さんが低い声でつぶやくように歌い続ける。歌っているライリー自身がとても気持ちがよいのだろう。決していい声ではないが、曲の没入している様子がこちらに伝わり、月並みな言葉で言えば宇宙的な気分になれる。「祝福日の聖歌」は曲の最後にふさわしく、前曲に比べて明るい。ミニマリズムの音楽とはいえ、このあたりは古典派の交響曲と同じく、古典的構成が露で、その点がこの曲を聴きやすく、また完成度の高いものに思わせるゆえんだ。また2台のシンセサイザーを操りながら歌い続ける様子は、ジャズかロックのピアニストを思えばよい。1台はさまざまなリフを伴奏として繰り返し流し、もう1台はメロディを弾くが、そうしたポピュラーな音楽にも接しているような感じのあるところが、難解な現代音楽という固定観念から外れて若い世代に歓迎される箇所だ。先日の読売新聞に渡辺晋一郎が同じようなことを書いていた。かつて売れない音楽の代表であった現代音楽が、今ではコンサートでは若者が押し寄せてスタンディング・オヴェイションによって大歓迎するものになっていると言うのだ。その代表としてスティーヴ・ライヒやシュトックハウゼンを挙げていたが、ここにライリーを加えてもいい。それでもライリーはライヒよりコンサートも少なく、またよりインド的であるためか、人気度はやや劣るのではないだろうか。筆者はより都会的なライヒよりも、隠者の趣を持ったライリーの方がより興味がある。それはライヒの音楽は同じミニマルであっても、ライリーのように即興性がより少ないからだ。詳しくはわからないが、ライヒの音楽は楽譜に書かれたとおりに楽団ないし個人が演奏するが、ライリーは大半が即興であるため、たとえばここで採り上げている曲でも、LPと筆者の録音したカセットでは長さが単に違うだけではなく、共有しないメロディがいくつもある。たとえばLPの「刺繍」の最後はがらりと違うブリッジ的なシンセサイザー・ソロになるが、この部分はカセットにはない。おそらく演奏のたびにそのように部分が全く異なるのだろう。これはジャズ的と言ってよいが、ライリーに言わせればインド的であって、ラーガの即興をそのまま応用したものだ。そのライリーがなぜインドに憧れてインド音楽の語法を自作に大きく取り入れるようになったかは知らない。だが、「IN C」の作曲は確か1965年で、その頃はまだインド音楽に染まっていなかったことを思えば、60年代後半のビートルズがインド音楽に接近したと同じ時期に傾斜した可能性が大きい。その前にインド音楽の紹介に一役買ったのはメニューヒンだ。ロンドンのアビー・ロード・スタジオでラヴィ・シャンカールのシタールと共演して『West Meets East』というアルバムを出したのは、イギリスの音楽祭での共演後の1966年のことで、あまりにも有名だ。これを筆者はTVで60年代後半に見た記憶がある。今はその時の録音をCDで所有するが、ユダヤ系のメニューヒンがインド音楽に関心を抱いたのは、メニューヒンの師匠エネスコのルーマニア、ジプシーの要素の影響があるのかどうか、一度そのあたりのことを調べてみるのも面白い。
 ヒッピー文化を通じてラヴィ・シャンカールの音楽はアメリカでも大いに広まった。特に西海岸ではそうであった。これはリチャード・ボックがシャンカールのアルバムを出したからで、そこには作曲家のホヴァネスもインド音楽を理論面で紹介するということも関係した。その意味でホヴァネスの音楽における東洋趣味はテリー・ライリーと共通する。どちらも東洋人から聴くと、東洋と西洋のミックスにかえって西洋一辺倒ではない、もっと馴染みのない面白味を覚える。つまり東洋風が加味されているから馴染みやすいというものではなく、むしろその逆なのだ。これは東洋と西洋の融合がうまく行かないからでもあるが、その際物的な部分が作曲家の売りとなっているとも言える。本人たちはごく真面目に東洋に染まり、その精神を表現しているつもりであろうが、やはりテリー・ライリーという個性の表現にとどまっていて、インドそのものの中に決して埋没しない。簡単に言えば、インドからもアメリカの同時代からも浮いている。同じことは、インド出身のシタール奏者がアメリカに移住してアメリカ的な音楽をインド音楽の語法を使ってやる場合にもあって、そうした音楽の例をいつか紹介したいが、そういう音楽が際物として無駄な存在であるかと言えば、そう簡単に物事は片づけられないし、またどういう音楽をどのように聴こうが自由であるので、楽しめればそれでよい。その点から筆者はライリーのこの曲を取り上げておきたいとも思う。ところで、アメリカ西海岸人のザッパもまたインド音楽の紹介や流行の時期に音楽活動をしたのであるから、何らかの影響を受けなかったはずはない。それは主にギターの即興演奏に表われている。明らかにラーガからの影響を筆者は82年に書いた最初の文章で指摘しておいたが、ザッパのギター演奏を聴いている時の連綿とした音のつながりは、ライリーのこの曲に通ずるものがある。「刺繍」というタイトルからしてそれは想像出来るだろう。筆者はこの言葉から「アラベスク」という言葉を連想もするが、これは「アラビア風」であって、唐草模様のように模様がくねくねとつながっている様子を言う。ドビュッシーを思い出すまでもないが、メロディにはもともとそういう面が強い。ライリーのこの曲は、音がえんえんと連なるその様子をシンセサイザーと歌によって構成する。そこで問題となったのは、調性であったはずで、「IN C」という、そのものずばり調性をタイトルにした曲を書いたライリーであるからして、その後インドに関心を抱いて、「IN C」ではない、インド音楽的な調性によって新たな展開をと考えたのではないだろうか。近藤譲の放送時の解説では、シンセサイザーの調律は自然律であったと言う。
 この自然律は平均律以前に行なわれていた調律のことであろうが、おそらく平均律とは違うインド音楽に学んだ成果を反映してのことで、ライリー自身が歌うヴォーカルに合わせる必要もあって、そのような律を採用したのであろう。この律については今はみな鈍感になってしまっている。平均律が存在しなかった時代の音楽は、当時の律に頼って演奏するのが正しい姿があるのに、ピアノ自体が平均律で調律されたものを使用するのがどの家庭でもあたりまえになって、無限に存在する調律のうち、たったひとつの、平均化された律が真実の姿と思い込んでいる、あるいはそうしたことを疑うことすら知らない人々ばかりになった。「差」というものが、無視出来るほどに小さいものかどうかは、人によってさまざまであるはずなのに、そういう議論自体が問われない。それはともかく、ライリーが「IN C」という曲を書いたのは、Cという基礎的な調性を使えばどんな楽器でも合奏が容易で、自分はただCという決まりを設定しただけであるという、何とも自由で開かれた精神の産物に思えもするが、一旦調性という知識に関心を抱くと、なぜCなのかというところに疑問を抱く。ハ長調が音階の基本であるという単純な理由かもしれないが、ハ長調という決まりにすべての音楽が収斂するはずもなく、誰がどう演奏してもハ長調の曲であるということがかえって息苦しさにも思えて来る。それを感じてそれを拒否したのが20世紀初頭の現代音楽家たちで無調の音楽を書き始めるのだが、そのかたわらで平均律に頼らず、また各民族が古くから持っていた独特な音階に着目する動きもあって、アラビアやインド、あるいはそれらを股にかけたユダヤなどの音楽に改めて注目が集まった。そこはスティーヴ・ライヒもよく考えて、一聴すれば短いメロディの繰り返しに思えるのが、実際は平均律以前の音楽における音階を基本に用いて、それをミニマル化することで、伝統性に立脚しながら現代性を表現している。同じような試みは、アメリカの現代音楽家のひとつの基本的立場となっている。これはジャズからの影響が大きいのだが、当然ザッパもそうで、単に短調や長調の音階で片づかない曲を書いている。そういう歴史上にアメリカ人のライリーの音楽も位置するが、先に書いたように、どうしても60年代のヒッピーの出現の影響を思ってしまう。それがいいとか悪いの話ではない。作品はその独創性において評価されるべきで、筆者はライリーのこの曲からは、情報の溢れる文明社会に住んでいても、東洋の神秘的な思想や長い歴史の中で育まれた西洋にはない音律や旋律に憧れを抱く知識人の姿を見て、何だか身につまされる気がしきりにする。誤解を与えないように言っておくと、自分が同じような知識人という自惚れはない。創作における自分の置き場所の問題で、最もしっくりするものを求めることの困難さを思うのだ。ライリーがどの程度インドに在住し、こうした音楽を書いたのかは知らないが、インド音楽では使用されないシンセサイザーや英語による歌詞を用いながら、ある意味では国籍不明の作品を作り上げるところに、アメリカ人特有の陽気さを認めればいいのか、あるいは歴史の浅い悲しさを思えばいいのか、戸惑ってしまう。そして、そのような音楽をラヴィ・シャンカールに代表されるようなインド音楽とはまた違って愛聴してしまう自分というのは一体何かとも考える。
 ザッパはミニマル音楽を嫌悪したが、このライリーの曲のヴォーカルを聴いていると、ほとんどそのメロディはザッパのギター・ソロにそっくりなことに驚く。100年後にライリーのこの曲がどのように評価されていることかと思う。音楽に限らず、芸術の歴史は、伝統にどれだけつながり、一方で後継者をどれだけ生んだかで評価される側面が大きい。その意味においてライリーは後継者を生まないと言ってよい。アメリカにミニマル・ミュージックが流行し、何人かの巨匠を生んだことは記憶されるとしても、それぞれがみな勝手に違う方向を向いており、またさして交流もないはずで、案外現代音楽もロックやジャズと同じ範疇で20世紀後半音楽としてひとくくりにされているかもしれない。だが、作品とは時空を越えて存在するから、ライリーの没後100年して誰かがライリーを師として崇め、新たな音楽がそこから生まれ出て来ることもあり得る。そのため、現在際物的に見えるものでも、将来どのように評価されるかはわからない。この曲に限れば、「IN C」とは違って、ライリーの自作自演であるところが筆者には面白い。「IN C」はいわば作曲したものを他人が演奏するという形においても古典的だが、この曲ではライリーが一切の責任を負って、すべての音を自らが奏でる。当然エンジニアの手助けはあるが、こういう音をこのように鳴らせたいという欲求がライリーにあって、しかもひとりでこれだけの豊かな表情を持った音楽をライヴ演奏出来るところが、ギタリストとは違って強みになっている。2台のシンセサイザーの絡みは、野外でこの音楽を聴いた時にはきっともっと雄大な感じがあって楽しいことと思う。筆者はこの曲を聴きながら、窓の外の霧に曇る山を見ているが、自然の景色に実によく似合うと感じる。3曲目は特に開放感があって、2時間近いこの曲が予定調和的に終わるところに、月並みさを多少は感じながらも、それでいいのだと妙に意識がプラス思考になる。今思い出したが、筆者はバイオリズムを整える瞑想用の面白いCDを1枚持っている。これには7曲が入っていて、日曜から土曜まで、毎日1曲ずつ聴くことになっている。そして必ずヘッドフォンを使用して、音量は限りなく小さくとの指示もある。そのようにして10数年前、2、3週間ほど毎日1曲ずつ聴き続けたことがある。そこに収められる7曲を連続して聴くことは、自然のリズムに沿った生活をするのが目的だが、それはライリーのこの曲を通して聴くのとかなり似ている。ライリーがこの曲において自然律を駆使するのも、実は同じ考えに立っているに違いない。決して誰も演奏しないような奇を衒った曲を書くというのではなく、自然にそのまましたがった曲を求めた結果が、アメリカという文明社会からは著しく逸脱したような感じの曲になった。だが、実際はヒッピーも自然に則した生活しようとしたのと同じように、ライリーのそうした考えはごくまっとうなものであるのだ。筆者が梅雨時になると決まってこの曲に身を委ねたくなるのは、湿度が高くて体調を壊しやすいこの時期に、心身のバランスを保つのに役立つと本能的に思っているからかもしれない。だが、このブログを読んで関心を抱く人があっても、残念ながら2時間ヴァージョンは市販されておらず、筆者の気持ちよさは伝えられない。
●「SONGS FOR THE TEN VOICES OF THE TWO PROPHETS」_d0053294_1439135.jpg

by uuuzen | 2008-06-28 23:58 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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