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●『民衆の鼓動 韓国のリアリズム 1945-2005』
散としたという表現は、否定的な意味に使われるが、展覧会を見ることに関しては、主催者には気の毒ではあるが、鑑賞者にはありがたいことだ。



●『民衆の鼓動 韓国のリアリズム 1945-2005』_d0053294_22571596.jpg今月1日の日曜日に神戸方面に展覧会を3つ梯子して見た。ほかにも目的が3つあったが、それもこなすることが出来て気分がよかった。阪急阪神乗り放題1日乗車券という便利なチケットが出来たからこそで、そうでなければ体力的に年齢が20ほど若い必要があったろう。3つ見た展覧会のうち、よかったのはふたつで、このブログで取り上げるのはひとつだなと当日から思っていた。筆者のように、展覧会を片っ端から見る生活を40年近く続けている者にとっては、たいていの展覧会の内容はもう今までに3、4度も見たというものがほとんどで、そのためにそうでない内容のものを期待する。ところが、この20年ほどは東京一極集中がはなはだしく、筆者が見たいと思うものはほとんど関西にはやって来ない。それが年々ひどくなり、大阪、京都、兵庫が束になっても、東京の10分の1以下の文化度(展覧会から見た)ということになって来ている。そうなれば美術ファンはまた展覧会に足を運ばないから、悪循環でさらにいい企画が減少する。そういうわけであるから、筆者が関西の展覧会を最低毎週ひとつを見るとしても、とても内容的に東京の美術ファンの足元に及ばず、こうしたブログで取り上げても精彩を欠いて、いかにも田舎者ぶりを晒す。そんなわけで、日本のど田舎の関西という地方の一美術ファンから見た展覧会の感想を言えば、近年は内容が斬新と思える展覧会がなかなか少ない。大新聞社が企画する相変わらずのフランス印象派展やルーヴル展といったものには正直もう辟易している。世界中の美術がまんべんなく日本の展覧会に企画されているかと言えば、決してそうではない。美術館や博物館も商売であるから、採算が取れなければならず、少しでも多くの人に来てもらおうとするあまり、結局毎年、いや毎月フランス印象派展やルーヴル展がどこかで開催される。今は関西でモジリアニ展が3つ開催中だったか、これはもう異常としか言いようがなく、美術ファンを馬鹿にしている。小学生でもあるまいし、毎年同じような展覧会をやって何をどう啓蒙しようというのだろう。筆者が言いたいのはこうだ。この40年近く、おそらく3000ほどの展覧会を見たとしても、それはかなり内容に偏りがある。これは日本の態度がそうであるからだ。もっと言えば、日本で開催されるすべての展覧会を見続けても、それで世界中の美術をくまなく見るということに決してならず、むしろ偏りからの弊害の方が大きい。もちろん筆者のそうした考えもまた片っ端から見続けることによって見えて来たものであるから、片っ端から見るということは無駄ではなく、むしろ最低限度必要なことと言ってよい。何のための最低限度かと言えば、バランス感覚の保持だ。
 西宮市大谷記念美術館は久しぶりだ。今回の展覧会は本当は大阪か京都の大きな美術館でやるべきだが、現実にはそうではないところに如実に現在の大阪と京都の文化度の低さが露になっている。この展覧会のチラシをどこで見たのか忘れたが、久々の韓国美術の紹介で楽しみにした。韓国の現代の美術の動向を示す展覧会など、筆者が記憶する限り、この40年では関西では2度目か3度目の珍しさだ。日本は韓国とは隣同士だが、実際はアメリカの1000倍も離れた宇宙的に遠い国であることがこのことからよくわかる。これが、もしも韓国に見るべき美術がないという一般的思いを反映したものとすれば、そのような一般的思いはどのように育まれたか。先の筆者の論理で言えば、韓国の美術を片っ端から見ていることが前提となる。だが、実際は全くその逆で、韓国の現代美術の何ひとつ見たことも知りもしないのに、たいしたものはないと思い込んでいる。これは美術を鑑賞しようという、多少なりとも知的と言える人にとってはきわめてバランス感覚の悪いことではないか。だが、そういう思いを抱く人がいかに少ないかは、日曜日の天気のよい日であるにもかかわらず、最初に書いたように、全く閑散として、1部屋にひとりもおらず、館内で3人ほどしか入っていなかった。そのため、筆者としては絶好の環境で見ることが出来て大満足であったが、良質のその内容を考えると実にもったいなく、日本の美術ファンの精神的偏り具合、貧困さを再認識した思いだ。日本は内心いっそのこと、国土全体をヨーロッパかアメリカの近くのどこかに持って行きたいと思っているほどであるから、韓国や中国、その他のアジアの美術がどうであっても、単なるど田舎の地方の出来事でしかなく、いわゆる文化的に遅れているとしか思っていないが、ちょっと立場を変えて眺めると、それには何の根拠もないことがわかる。まず、韓国や中国が日本並みに経済発展を遂げたとして、そこで生まれる美術がかつて日本がやったことの繰り返しになるかと言えば、全くそうではない。確かに美術にはそれなりにの歴史があり、しかも日本は100年もっと前に西洋美術を徹底的に崇め始めたから、西洋美術の長い美術の末端に位置し、なおかつその歴史を日本に引きつけたうえで継承発展させ、西洋人並みの文化度を誇る民族でありたいとも思っているのであろうが、日本の国土を欧米近くに移動させることは出来ないし、それに米や味噌を食べる習慣も今後もなくならないだろう。そういう日本には日本の美術があるべきであるし、またあるのだが、韓国も中国もことは同じであることは明らかで、日本の現状を深く知るには、実は相変わらずの印象派やルーヴル展よりもむしろ、韓国や中国の今の美術を知るしかないとさえ言える。ところがそういう機会はほとんど奪われている。つまり、見えなくさせられている。これは政治家の策略か、あるいは美術ファンの勉強不足か。とにかく精神的に貧困であることは確実で、つまり先進国と思っているのが実際はど田舎でしかないのだ。
 筆者の手元に『韓国民衆版画集』という1987年に日本で発売された本がある。1987年と言えば、20年前だが、筆者にとってはまだ比較的最近に思える。この本は韓国の民衆のための版画を取り上げる。その「民衆」とはいったいいつの時代のことかと思ってしまうが、実は光州事件のあった1980年から以降だ。日本で「民衆」という言葉はもうとっくに死語になっている。ほとんど江戸時代にふさわしい言葉で、この土着を連想させる、つまり田舎じみた、貧しい、悲惨な言葉には目をそむけたく思っている。ところが韓国ではそれが四半世紀前にはまだ健在で、政治行動と結びついて素朴で力強い表現の木版画がたくさん作られた。それを筆者はたとえば、ケーテ・コルヴィッツやホセ・グァダルーペ・ポサダといった外国の過去の版画家の作品を思い浮かべながら、それらから方法論をどのように取り込んでいるかを見ようとする。どんな美術作品も必ず何か規範とすべき先例を持っているものであるという考えからすれば、それは正しい見方と言えるだろう。実際、民衆が権力と戦う際に美術を武器とするならば、それは過去において同じような場面で生まれて来たものにある程度は似た表現になる。その意味において、つまり色眼鏡を通じて見れば、『韓国民衆版画集』に掲載される作品は新鮮味に乏しく、いかにも田舎じみて面白くないと言える。だが、韓国はコルヴィッツのようにドイツとも、またポサダのようにメキシコでもないから、民衆は韓国の土着に根ざした独特の表現を生むはずで、また歓迎もするから、実際そのように見ようとすれば、『韓国民衆版画集』には韓国でしかないものが溢れていることに気づく。筆者がこの本を手にして目を引きつけられたのは、呉潤(オ・ユン)という作家だ。李朝時代に馴染みの虎や仮面を被ったお化け、あるいは民族衣装を来た老婆や母子などを描いた作品に見られる、力強くしてしかも独特の動きある表現に、古さよりもむしろ斬新さを感じた。コルヴィッツあるいはドイツ表現派の画家たちがこのオ・ユンの版画を見ればどう言ったかと思う。ここには模倣を全く感じさせない、むしろ無駄を一切省いた本質的な太い線と、白と黒の対比による鮮烈な光と闇の立体表現が立ち表われており、オ・ユンが韓国の伝統を全部引き受けながら全身で描いた果ての美術の勝利とでも言うしかない作になっている。つまり、西洋的な美術の歴史や枠組みとは無関係に存在しながら、しかも光を放っている。だが、筆者はオ・ユンのことは今回の展覧会で見るまで忘れていた。それが会場ではただひとり、制作中の姿を捉えたオ・ユンの写真とともに、版画以外の作品を見ることが出来て、この天才と言ってよい画家に改めて注目させられた。オ・ユンは1946年プサン生まれで、86年に40歳で亡くなっている。その顔が、韓国TVドラマ『天国の階段』に画家役テファ・オッパで登場したシン・ヒョンジュンによく似ているのでびっくりしたが、顔写真を見てなお作品が好きになった。
 分厚い図録が2000円だったので迷わずに買ったが、巻末にオ・ユンについて簡単な略歴がある。詩人金芝河と一緒に活動し、『1980年代には、現実の認識を基盤とし民族情緒を表しながら民衆の心中に近づくため、ほとんど無限に複製が可能で、なおかつ制作が容易な木版画を媒体として活動した。……韓国現代史の最も困難な時代の中で、逼迫と抗拒が繰り返された時代を、独特かつ特徴的に表現した名作を残した。』とある。オ・ユンの版画は墨1色で刷られていると思っていたが、たくさん刷った中には部分的に着色したものがあったのか、オレンジや紫など、1、2色を加えたものが今回は展示され、それがまたよかった。なかなかのカラリストだ。それは版画ではなく、キャンヴァスに油彩で描いた作品からよくわかった。2点そうした大作が来ていたが、どちらも社会風刺を主題としながら、1点は李朝時代の「甘露幀画」の形式を借りてそこに現代のポップ風俗を混ぜた表現、もう1点は絵巻状の横長作品で、わずかに未完の部分があるのは惜しいが、これはメキシコのリヴェラの影響を受けたことがよくわかる画風ながら、単純なフォルムの把握は版画に共通するオ・ユンの個性がよく出ていて、もっとほかの作品を見たい思いにさせる。「甘露幀画」とはどういうものか知らないが、日本で言えば地獄絵や六道絵を思えばよい。オ・ユンとほとんど同じ作風の別の版画家の作品も並んだが、投獄や拷問を受けた経験があるなど、当時の日本からは考えられない過酷な状態の中で制作されたことを思うと、また見え方が違う。とにかく絵画の内容によってはすぐに連行されて水責めの拷問を受けたりしたのであるから、画家である前に、まず根性があって覚悟を決めている必要がある。そういう精神状態であるから、出来上がる作品も自ずと力が具わる。もちろん美術はそうした不幸から本来は無縁であるべきで、造形的なことのみに関心を抱いて技術を磨けばいいという考えはある。日本の美大芸大のすべてはそういうように教えているだろう。つまり、芸術家は社会運動などに関与せず、黙って国のやることにしたがっていればよろしい。いずれ勲章も年金もらえますというわけだ。筆者が面白いと思ったのは、80年代にそうした過酷な体験をした芸術家が今は国家からそれなりに認められて地位を獲得し、作品が美術館に収まっていることだ。これは国家による飼い慣らしではないかと思えなくもないが、それだけ韓国はこの四半世紀の間に国力をつけ、また経済発展を遂げて国が民主主導に変貌したのだ。そのことは、この10年ほどの間に次々と作られる韓国のTVドラマでは大なり小なり把握出来ることであり、筆者は見てはいないが、日本では考えられないような、つい20年前の大統領たちを取り上げるドラマがいくつもある。それだけ民衆本位の国と言えるだろう。日本では民衆はおとなしくてそれほどの活力がない。
 今回の展覧会図録の巻頭に針生一郎が「わたしの見た韓国民衆美術」を書いている。最近TVでもほとんど見かけなくなったので、この文章は面白く、また貴重だ。針生は80年代韓国の民衆美術を日本から支援し、時には美術家を招いた評論家としては稀な存在で、その自身の経験が回顧される。文章の中で最も注目させられたのは、針生が2000年の光州ビエンナーレ展で特別展示「芸術と人権」のキュレーターを頼まれ、金大中大統領の招待で集会に参加した時、『わたしはそのときはしなくも、いわゆる「韓国民主化運動」のなかで、在日の信頼する友人鄭敬謨がわたしに語った言葉を思い出した。-「韓国が古代からさまざまの文化を日本に輸出したことは知られているが、近い将来韓国から日本に今度は”革命”を輸出する日がくることを、私は信じている。」わたしの考えでは、軍政から民政へ、完全民主化へ長い迂回路を経たが着実な歩みのなかで、「革命」はすでに韓国から発進ずみなのに、日本側の受信装置がこわれているため、わたしたちは力の衰えた自民党の長期独裁にすらいまだに終止符が打てない。その点で今までと同様これからも、韓国美術から学べきものは実に多いのだ。』と書くことだ。今回の展覧会の見所や意義は、針生のこの文章に凝縮されている。だが、「韓国美術から学べきものは実に多い」と考える日本の美大芸大は少数派ですらないであろう。最初に書いたように、当日見た3つの展覧会の中で面白くも何ともないものがひとつあった。尼崎で開催されていた『両洋の眼展 心に残る美術展』だが、何ひとつ心に残る作品がなかった。逆に見ていて腹が立って来たほどで、日本美術の低迷ぶりとは言わず、むしろ無意味ぶりがこれほどはっきり見せてくれる展覧会も珍しい。見せるべき民衆を持たず、また見てもらうべき高貴な人もおらず、苦悩との格闘の跡も見えない。描くという行為の前にまず何を目的にするかを再確認すべきなのだが、日本にいてはそういう神経が完全に麻痺してしまう。そういう日本ではあっても、針生のような評論家が健在で、しかも今回のような展覧会がめったにない機会ではあっても、まだ日本各地で開催されることに一抹の救いはある。東国原知事が、大阪が本腰を入れて文化の発進をすれば恐い存在になるといったようなことを以前発言したが、それはなかなか面白い見方だ。最初に書いたように、今の京阪神は横浜に次ぐ存在となって日本の大いなる田舎に成り果てたが、歴史の長さからすれば日本の中心は京阪神だ。いくらでも文化的に発掘して再評価出来るものがある。それを筆者は世界に対する日本という位置づけで思うことがある。この1世紀の西洋崇拝主義から、そろそろそれ以前の日本が辿ったところに戻るのがよい。鎖国時代になれと言うのではない。今の韓国や中国が、独特の芸術を生み出しているように、日本も何か大きな社会変革、意識変革が必要で、そうなった時に今まで蓄積した芸術からほとんど無限に汲むことの出来る素材が一気に活用され、それこそ真の意味での民衆に則した民主主義の芸術が生まれるのではないか。そういうことを思わせてくれるのが、韓国や中国の現代美術だ。オ・ユンのことしか書かなかったが、彼以外にもさまざまな画家が大作を揃えていた。また、会場には近年のインターネットと絡んで、映像作品にもとてもいいものがあった。それらの面白さもまた韓国独特の何かが濃厚にある。機会があればそれらも含めて、もう一度この展覧会について書きたい。
by uuuzen | 2008-06-20 23:54 | ●展覧会SOON評SO ON
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