番組欄に目をとめて深夜TVを録画した。先週5日のことだ。そして翌日観た。どんな映画か知らなかったが、タイトルに「神さま」があって興味をそそられ、しかも子どもが主役であるようで、楽しい映画かと思った。
だが、実際はナチ時代のポーランドを舞台にした悲劇だ。それが悲惨きわまるという感じで見せないのがかえって後で利いて来るところがある。なかなか巧みな構成を持った脚本だ。筋立てとして疑問に思える箇所がいくつかあるが、これは映画では時間的制約もあって描き切ることが出来なかったのかもしれない。子どもの出演する、しかも「神さま」と来れば、筆者の世代では「マルセリーノの歌」で有名な白黒映画をすぐに思い出す。『汚れなき悪戯』だったか、映画のタイトルを正確には思い出せないが、その映画の主題歌はとてもヒットして、また実際の映画も親のいない小さな子どもが、最期はキリストに抱かれて死ぬという奇跡を描くことによって結末を迎える。彫刻のキリストが、顔は見えないままに腕を子どもに差し出すシーンは実によく出来ていてた。純粋な子どもにとってはキリストの彫刻が本当の神さまに見えていて、神はその子どもに応えて天に召したという筋書きなのだが、そこには、両親がいないままに生きて行くその子どもの将来を思えば、早く両親のもとに行った方がいいという、神あるいは周囲の大人たちの思いが反映しているのかもしれない。早死にするその子どもが不幸ではなく、かえって幸福に見えて来るように映画が作られているところに、戦後まだ世の中がさほど豊かにはなっていなかった1950年代だったか、当時のヨーロッパの人々の感覚が微妙に反映している気がする。『ぼくの神さま』を見る前に思い出した『汚れなき悪戯』は、実はさほど的外れでもない。ほとんど同じと言ってよいパターンが主題として使われている。そのため、評価を下すとなると、やはり『汚れなき悪戯』にかなわない気がするが、子どもが主人公で、しかも神さま関係といった筋立てでは、出来上がる映画は最初から見えている。過去に駆使されたパターンを分解、再構成して新しい時代に適合したものを作り上げることは、映画でも音楽でもあらゆる作品に共通しており、その主要パターンはとっくの昔に出揃ったと言ってよい。ただし、今の若い人は今作られるものしか知らないから、それがオリジナルと思い込むし、またそれでいいのだと思う。作品は永遠とはいえ、日々常に時代は更新され、それを彩る作品は必要であるから、過去の作品に多くを負っていようが、今は今の時代において今の才能によって、過去と同じことを繰り返し唱えられる必要がある。つまり、作品は永遠かもしれないが、またすぐに死んで忘れ去られるものでもある。あるいは、作品は新時代の作品になにがしかの影響を与えることで永遠性を獲得すると言ってもよい。後の世に何の影響も与えない作品なるものは、その場限りで消耗されることと同義であって、それはほとんど何の意味もないことだ。だが、実際問題としてそんな作品はまず存在しない。いかに古い作品であろうと、人間が変わらない限り、それは時代を経て必ずある人を共鳴させる。ただその機会が古い作品になるほどに減少して行くに過ぎない。
さて、「ナチもの」の映画もまた絶えず作られているし、今後もそうだろう。それはユダヤ人たちのひとつの戦略とも思えるが、映画にとってナチにまとわりつくイメージがある程度の観客動員を図るためにつごうのよいものでもあるからだろう。今までに制作されて来た「ナチもの」映画を分析すると、おそらくほとんどのパターンがすでに実験済みで、その隙間を縫っていかに今までにない筋立てのものを作り上げるかがヒットの大きな秘訣になっているはずだが、『ぼくの神さま』はいわば『汚れなき悪戯』に「ナチもの」を加味したものだ。2002年の制作で、今頃見るのは遅きに過ぎるが、映画の「神さまもの」に多少関心のある筆者にとっては、せっかくの機会ということで見る気が湧いた。そして、「神さまもの」であるこの映画を見た後、例の秋葉原での殺傷事件が起こったが、必然的に思い至ったのが日本における信仰という問題だ。いや、そこまで言わずとも、筆者の世代では小学校で学んだ道徳というものがあって、ひとまずはそれに置き換えてもよい。道徳教育がなくなってから日本が変わり始めたと言う気持ちはないが、全くそれを否定するつもりもない。公立学校で特定の宗教に則って授業をすることは許されないことになっているから、本当は必要最低限、社会人としてどういうことをすればどうなるかということと、そして人に親切にするといった道徳心は何らかの形で教えられる必要がある。地域社会が崩壊して、他人の子どもを叱らなくなったから、なおさらそうした役割を小学校が担うべきと思うが、それが全く逆にそうはなっておらず、どんな宗教にも内在するごく基本的なことや、道徳心といったものが幼い頃に植え込まれにくくなっている。それが原因で今の若者が簡単に人殺しに向かうとは断言は出来ないが、宗教や道徳といったものを今一度考え直すべき時に来ているとは思う。だが、筆者は宗教や道徳を小さな頃に叩き込むことによって人間が立派になると短絡的には言いたくはない。それは『ぼくの神さま』を見てもわかるように、カトリックの国家ポーランドで、ナチ時代になぜ人々が隣人を売ったり、また人種偏見からユダヤ人から奪ったりすることが出来たのかという疑問があった。つまり、宗教があろうとなかろうと、たいして人間のやることには変わりがな
いのだ。であれば、ない状態の方がいいという意見もあるだろう。
秋葉原の事件に昨日からこだわっているが、実は今朝早く、大雨の音で目覚めた時、急に富士正晴の小説『帝国軍隊における学習・序』を夢心地で思い出し、そこに描かれる主人公の若い兵士と秋葉原の事件の犯人の姿がだぶった。今手元にその小説が見つからないのでうろ覚えで書くが、この小説は富士正晴が徴兵されて中国に行軍した時の経験を元にしたものだ。若い上官だったか、とにかくあるひとりの兵士が片っ端から中国人の女を凌辱しては殺すということを繰り返す。その狂気の姿を富士は見ながら、彼が今まで童貞であったに違いないと思うのだが、戦争という条件下でいかに若い男が性を制御出来ずに突っ走ってしまうかが赤裸々に描かれる。そうした状況を冷静に見ていた富士は戦後も60年代になってやっとそのことをその小説に書くのだが、それだけ年月の醗酵が必要であったのだ。それで、筆者は秋葉原事件の犯人も童貞ではないかと思っていたところ、今朝のニュースでは、以前先輩にソープランドに連れて行ってもらい、もう二度とそういうところに行きたくないと幻滅したことをケータイ掲示板に書き込んでいるそうで、女性の体には触れたことはあるのだろう。つまり、犯人は性を制御出来なかったのではなく、むしろ愛に飢えていたようだが、愛に飢える男がみな殺しをしようと思うところに、筆者はまた理解が出来なくなる。たいていの若者の殺人事件は性の衝動が引き金になっていると思うからだが、そういう見方では理解出来ない若者が増えているのだろうか。愛がほしいということは、愛したいということでもあるから、それがなぜみな殺しに向かうのか、ひょっとすれば内心好きであった女性から何かひどい言葉でも浴びせかけられた経験があるのかもしれない。それはともかく、なぜこんな話に持って来たかと言えば、『ぼくの神さま』には、そのままずばり、マリアという名前の女の子が出て来る。映画の主人公は男の子3人だ。ひとりは都会のユダヤ人ロメックで父親は教授という金持ち、2人は田舎の普通の同世代の子どもで、ヴラディックと弟のトロだ。この3人にマリアが絡む。マリアは3人の男の子より少し年齢が上のようで、体も大きく、しかもかなりませている。映画を見ている間に気づくが、子どもを主人公にしてはいるが、本当は大人の世界の比喩になっているとも言える。自分の生い立ちを隠し、都会からひとり田舎に匿われるためにやって来たロメックは、やがてマリアのお気に入りになる。そしてヴラディックとの間で波瀾が起こる。映画の後半でわかることだが、奔放なマリアは両親をナチに奪われており、盲目の婆さんと暮らしている。つまりさびしい身寄りなのだ。そんなマリアはたちまちロメックに関心を抱き、「わたしを見たい?」などと誘って、お互い裸になって見せ合いっこに誘うが、ロメックは拒否する。だが、マリアから裸を20回も見せてもらったことのあるヴラディックは、ある日ロメックやトロと歩いていてナチに遭遇した時、嫉妬からユダヤ人がいると口走ってしまう。その時は事なきを得るが、女が災いの元であることの象徴的な描き方だ。子どもでも大人と同じで、しかもいつも厄介なことの原因は女だ。女は天国に行けないなどと、この映画ではマグダラのマリアに引っかけて、神父に発言させている。マリアが神父にロメックとキスしていいかと訊ねると、神父は聖体拝領の日まで純潔を保ちなさいと忠告する。それがそうならないことは映画の運びからして当然だ。
都会から来たロメックを交えて子どもたちは自然豊かなところでそれなりに楽しくやっているような雰囲気だが、暗雲がやって来る。それは隣人の裏切りだ。貧しい農民の中には、金持ちのユダヤを好ましく思っていない者がいて、ユダヤ人を匿っていると、それをいいことに揺すったり、あるいはナチに売ったりする者があったのだ。ヴァデックの両親はロメックを親類の子として匿っているのだが、それと同時にナチからは禁止されている豚を地下室で飼っている。だんだんと危険が迫って来た時に、隣人の勧めもあってヴァデックの父は豚を売りに行くのだが、翌朝死体となって帰って来る。しかも豚を売った料金も持っていない。犯人は話を持ちかけた隣人であることを、後日ヴァデックは教会で神父が話しているのを立ち聞きして知る。またその隣人の息子は10代半ばだろうか、ヴァデックらよりかなり年長で、毎晩汽車が通過する時刻になると森に行く。それは列車から飛び下りたユダヤ人を揺すって金を奪うためなのだが、その実態をある夜ヴァデックらは目撃する。ポーランド人が弱みにつけ込んで、ナチによって強制収容所送りになって運ばれる途中の脱走ユダヤ人を襲ったというのは事実だろう。もちろんユダヤ人もポーランド人なのだが、民族が違い、宗教も違うと、何か事があると、友好関係は一気に崩れ、同じ人間とは思わないのだ。これはどこの国にもいつでも生じる可能性がある。戦争はその最適な例で、この映画でもいかに人間が醜い本性を晒すかをよく描いている。ポーランドの暗黒史のこうした部分は、現実にはどの民族にもある。それを描けば国賊と罵られるから、あるいは発表を阻害されるから、表現する者が少ないだけの話だ。この映画はポーランド人の脚本をアメリカ資本で撮ったが、そのためか登場人物はみな英語を喋って、そこがかなり不自然で現実感に乏しかった。また、子どもの目を中心に描くので、おとぎ話のような味わいが強調されているが、それは国賊扱いされる眼差しを少しでも和らげるためもあってのことかもしれない。ナチを初め、ポーランド人にも醜い大人たちがいたという中にあって、最も純粋なのはトロだ。このトロが『汚れなき悪戯』のマルセリーノと思ってよい。トロはヴァデックより数歳年下だろうか、まだ性への関心もなく、ようやく幼児を越えたばかりという感じだ。つまり、汚れというものを知らない。だが、そんなトロは目前に父親が死に、あるいは神父の前で農民がナチに射殺されるのを目撃したりする。
ある日神父はトロたちに図入りの分厚い聖書をわたす。それを見てトロは聖書の物語、特にキリストの生涯に強い関心を抱く。父親が死体となって運ばれて来た時から、トロの様子はますますおかしくなるが、それは現実問題としてはあまりのショックで頭がおかしくなったことなのだが、別の見方をすれば、神がかり的になることでもある。父親が死ぬ前、トロたちは遊びの中で、聖書物語ごっこをする。籤引きで役割を決める過程でトロはキリストになりたがり、結局みんなからそれを認められる。だが、キリストの役割は茨の冠を終日被っていたり、磔にされたりと、とにかく一番過酷であるにもかかわらず、トロは自分がキリストになることで死んだ人々を蘇らせることが出来ると思う。高い木に磔になっている時、トロは宙を見ながら、まるで幻想を見るように死んだ人の名前を呼ぶ。この場面はすっかり『汚れなき悪戯』のクライマックスに近い感覚がある。磔になりながら見下ろすと、隣人の息子がやって来て、ヴァデックやロメック、マリアに暴力を振るう。「羊とやってそんなにいいのか」とからかわれたからだ。この場面はマリアなどの子もどが発する言葉としてはかなり猥褻だが、いつの時代でも子どもはその程度にはあけすけであるだろう。怒った息子は倒れたマリアの下着を脱がせて、羊とではなく、マリアを犯してしまう。純潔を汚されたマリアはひとりで川の浅瀬に入って身をしばし横たえる。また気を失ってしまったロメックは高さ10メートルほどの崖から川に放り投げられるが、死んでもかまわないほどのそうした暴力をする息子がどのような反感を買い、そして結末を迎えるかは観客の予想どおりだ。父を殺された復讐心に燃えたヴァデックによって、ある夜射殺される。映画は最後までスリリングで、ヴァデックが息子を射殺するのは、息子がいつものように列車から飛び下りたユダヤ人を揺する現場においてで、しかもロメックやトロもいた中でのことであったが、そこに銃声を聞いたナチの兵士がどっと押し寄せて、話は急展開する。咄嗟の機転を利かせてロメックは銃を受け取り、自分が殺したとナチに言う。ナチはユダヤ人から金を奪って殺すとは見事な根性と言って、翌朝ロメックを上官の前に連れ出して表彰し、昨夜の再現とばかりに、何十人か整列させたユダヤ人に向かって同じようにしてみろと命令する。生きるためには仕方がないとばかりに、ロメックは必死になって銃を突きつけながらユダヤ人の大人たちから金品を奪う。そして、今度はナチは昨夜捕らえたヴァデックやトロもユダヤ人と思って列車に乗せようとするが、ロメックはふたりはユダヤ人ではないと叫び、結局ヴァデックはズボンを脱がされて割礼の跡がないことがわかって放免される。だが、トロは「お前はユダヤ人か」との問いに対して黙ってうなずき、そしてユダヤ人と一緒に列車の中に消える。
なぜトロがユダヤ人かと問われた時にうなずいたかだが、これはキリストがユダヤ人であることを神父にかつて教えられたからだ。トロにとっては目の前であまりに多くの人が死に、そしてそうした人々を蘇らせるためには、自分がキリストとなって死ぬ必要があった。サクリファイスの気持ちをトロはよく理解していたのだ。この映画が見事なのは、このトロの犠牲的精神の表現だ。だが、それはかなり苦味走っている。トロ以上の年齢の者はみなそうした精神を持つにはすでに遅い。世の中の汚れをまだ何も知らない幼い子どもだけが、神様を実際に見ることが出来て、神様に一番近いところにいる。そして一気にそのもとに達することが出来る。天使とはそうした年齢の子どもだ。この映画はロメックの視点から描かれ、最後はロメックの独白がある。トロのお蔭で自分は今まで生き延びることが出来たと話すのだが、それはとても苦さを伴い続けたことであろう。だが、大人になって生き続けるとは大なり小なりそういうことだ。何らかの犠牲の上に自分の人生があることを常に自覚しておく方がよい。原題は「EDGES OF THE LORD」で、「神の端っこ」となるが、この意味は神父が途中でロメックに説明する。神父はナチの前にあって自分の非力をよく悟っているが、子どもたちには優しい。聖体拝領日に使用する丸い小さなウエハースを教会の台所で神父が作る場面がある。丸い型抜きで抜いて行くのだが、円に囲まれた部分は十字型のあまりとなっる。一度しか見ていないのではっきりしたセリフは忘れたし、意味も取り違えているかもしれないが、その端っこ部分は神父によれば神に関係のない、つまり仏教で言えば念を入れない部分なのだが、われわれもそのような存在だと言う。神父にとって戦時中の悲惨の時期は、自分たちポーランド人は神の力が及ばない端っこ的な存在に思えたのだろう。ヴァデックやマリアも参列しての聖体拝領日、ロメックをユダヤ人だと知っている神父は、ロメックだけにはそっとその端っこの部分を口に含ませる。それならユダヤ教徒であっても許されるからだ。ここにはカトリットとユダヤ教が異なることによる儀式の差も主張されていて、宗教が深く生活に根づいているヨーロッパを感じる。日曜日に教会に集まる時、ヴァデックに射殺されることになる隣人の息子は、回って来た寄付の皿にぽんと指輪を置く場面がある。それはユダヤ人から奪った物で、ヴァデックにそのことを小声で指摘されるのだが、その息子にもわずかに信仰心が残っていた場面として興味深い。盗品を神に捧げることがどのような罪になるのかどうか知らないが、少なくとも高価なものを差し出す心がその息子にはあった。戦争時とは違って、今は平和だが、それでも若者は人を無差別に殺したいと思ってそれを実行する。そういう若者の不満は戦争時にもあって、それが伝染した果てにナチの行為も生まれた。富士正晴は、性欲の強いある男から、お前は性欲が強くなくてわからんだろうがといった言葉から皮きりに、その男は性欲の固まりとなってある女の家の玄関を入った途端、女のキモノをまくって性行為に及ぶ話を聞かされたことを書いている。男は誰でもそれなりに性欲がある。富士にすればその男の気持ちもよくわかったに違いない。だが、性をどう制御するかを戦争体験を通じて冷静に学んだ。そして晩年の富士は仙人と目されるようになった。秋葉原の若者の悩みを真剣に受け止めて、雑談でもいいのでしゃべる相手があればどうであったかと思う。