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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『液晶絵画』
ムジュン・パイクの作品がこの展覧会に含まれないことは最初からわかっている。パイクの作品はTVがブラウン管時代のもので、今ではもう時代遅れとみなされている。



●『液晶絵画』_d0053294_21491673.jpg箱であったTVが、つまり3次元の物体の表面に浮かぶ2次元の世界を楽しんでいた時代から、今では次元数を合わせて2次元の液晶パネルでTVを見るものになりつつあって、日本からは急速にブラウン管が姿を消している。パソコンも同じだ。今時デスクトップの3次元の大型、しかも音のうるさいのを使っている筆者のような古い人間は時代遅れもはなはだしく、先端の機器を使っている人からはさぞ貧乏人と憐れみの眼差しで見つめられる。筆者は頑固であるから、仮に最新のモデルが手元にあっても、この古い使い慣れたものを選ぶだろう。それはいいとして、こんな調子では液晶パネルはもっと素早く進化して、紙と同じ薄手のものが登場し、衣服に仕立てることも出来るようになる。そして、気分によってその液晶パネル生地に映る色を変え、街を歩くという時代ももうすぐやって来るだろう。そうなると、有名な絵画でも鮮明にそのパネル生地に映すことだ出来て、人々は美術館に足を運んで名画を鑑賞しなくなるだろうか。ネットを見ればすぐにわかるが、とにかく時代は静止画像を旧態のものに思わせ、動画を好む方向に進んでいる。今はわざわざ「液晶絵画」と呼んでいるものが、やがて単なる「絵画」と呼ばれるようになり、そして静止した絵画は「フリーズ(凍結)絵画」と呼ばれるようになるだろうか。となればこれからの画家はみな絵具や筆ではなく、まずビデオ・カメラを購入し、映画監督と同じような才能を身につける必要があるが、「液晶絵画」は映画とは違って、あくまでも絵画が進化したものであるから、映画と一線を画して、押しつけがましい物語性などは不要、またせいぜい2、3分で見終わるものでなければならない。つまり、展覧会場で人々が1枚の絵画の前に立つ時間の限度を越えてはならない。そのため、今回大阪の国立国際美術館で開催中の展覧会は、映画と絵画の展覧会のちょうど中間的存在の内容を思えばよい。いくつかの真っ暗、あるいは比較的暗いコーナーに分かれていて、次から次へと別の作家の動画を見るという寸法だ。全部見終われば、何となくたくさんの映画か絵画を見た気分になれる。お徳用と言えば当たっていて、美術館がとにかく人々を動員して利益を得る必要があることからすれば、なかなかうまい戦略だ。図録は作られていなかったと思うが、動画を見せる展覧会であるから、図録も同じ動画を見せられるように、液晶パネル紙を本のように束ねた動画本が実現しないと面白くない。心配無用で、いずれそんな時代もやって来る。
 液晶パネルの解像度が飛躍的に高まって、ブラウン管では望み得なかったきめ細かい画像が映し出されることになった。筆者は電波がうまく受信出来ない地域に住んでいるうえ、TVも14型のブラウン管と小さいものを使っているので、たまに妹宅で50型だったか、とにかく馬鹿でかい液晶画面で民放TVを見るだけでも未来世界に来たように感激するが、今回会場で見たものは、全部ではないが、もっときめ細かい画像に思えた。そのうちほとんど名画のキャンバスと全く変わらないほどの精度で映し出すことが可能になるが、そうなるとズームアップも自在で、むしろ名画の前に立つより液晶画面で見た方がいいという考えも生まれる。つまり、本物を越える液晶画面だ。人間がますますプラナリアみたいに2次元化している証拠で、進化したはずの人間社会が実はぐるりと回って原始動物と大差ないということになりそうだ。いやいや冗談ではなく、液晶画面を見ることで成立しているケータイ文化は人間と人間関係をますますうすっぺらくしていて、実際に存在していてもその実感が持てず、簡単に画面が消去出来ると思い込んで自分のやったことまで誰にもわからずに消すことが出来ると思うらしい。そして隣人を殺して下水に流せばわからないと思うようなうすっぺらい頭の持ち主を生む。そのうち裁判や刑の執行もボタンひとつで簡単に済ませる時代がきっと来る。今筆者はこうして書いていて、マーク・トウェインの最晩年の人間に対する失望とも憂鬱とも取れる思いを思い浮かべているが、トウェインにはおそらく人間の営みの本質が、粘度アニメーションのような、形が猛烈に変化する画面として脳裏にはっきりと見えていた。そこで思うのは、液晶絵画の観念も遡れば写真の発明、そして映画の発明時にすでに人間の頭に芽生えたもので、今に始まった珍しいものではないということだ。そして、写真は絵画から生まれたから、「液晶絵画」なる言葉は、実は人間が絵画を生んだ瞬間から存在したものと言える。新しいように見えるものは、必ずその源は古いものの中にある。そして液晶絵画を見て感じるのは、それを人に見せるに要した労力はさておいて、言わんとしている内容は誰でもそれなりに思い当たり、別段凄いといったものではないことだ。いや、それを言えば絵画でも同じだが、見慣れている絵画とは違って、物珍しい液晶絵画となると、興味津々の度合いが前提として高いから、絵画以上に何か期待するものがある。だが、結局期待以上のものがないとわかると、つまり手法に限界があるのではないかと思ってしまい、そしてもう液晶絵画にさほど期待を抱かなくなり、結局静止絵画にまた戻るような気もする。そんな結論を書いてしまうとこの先書くことがなくなるので話を継ぐと、このカテゴリーにてっきり去年書いたと思っていた『ビル・ヴィオラ展』について実際は書いていないことにさきほど気づいた。ビル・ヴィオラの展覧会は1年半年ほど前に兵庫県立美術館で見たが、さきほどチケットの束を確認するまで、どこで見たか記憶から消えていた。そして、あまり書くこともないかと思って感想を書かなかったのだと思う。
●『液晶絵画』_d0053294_2150093.jpg それで1年半前のその『ビル・ヴィオラ展』を今思い出してみると、何か最も記憶にあるかと言えば、やはり映画のワン・シーンのような映像で、これは油絵を思い出すのとも違うし、また映画を思い出すのでもない不思議な感じがある。それはビルが映像をほとんど静止画像に見えるほどスロー・モーションで見せるからだ。以前に書いたはずだが、その手法はジョン・レノンの笑顔をヨーコ・オノが1分間ほど撮影し、それを1時間ほどに引き延ばして見せたことと全く同じだ。ちょっとした思いつきと言えばいいかもしれないが、コロンブスの卵であって、実際はそのアイデアを膨らませて作品として見せ、しかもそれなりに衝撃を見る者に与えるには、やはり時間や才能、費用がかかって誰にでも出来ることではない。ビルは確か自分の母親の死の姿をそのまま撮影するなど、最初ドキュメンタリー映画を撮っていた。それがやがてハリウッドの売れない俳優を使って、実際にあったことのように見える映像を「作る」ようになった。そこには古典絵画から借用した誰でも知るようなイメージをもとにして、それを動くようにしたものが少なからずあって、それも誰しも思うことと言っていいだろう。であるからこそ、ビルの人気が出た。誰も思いつかないものを表現しても、それは誰も感心しないのであって、みんなが思いながら、半歩先を行くものがどの世界でも人気者になれる。参考に去年のビル展のチケットを掲げておくが、そこに写る作品は確かに最も記憶に残った。1995年の「あいさつ」で、10数分の映像ではなかったと思うが、3人の女性が画面両端からお互いに歩み寄り、しばし話をするという、ただそれだけの内容で、スロー・モーションであるので当然音はない。イタリアの古い街角の夕刻で、風が強いようで3人の中世風の衣装はよくなびいていた(投稿2時間後にアメリカのOさんからメールが来て、この映像3人の姿はイタリア・マニエリスム時代のポントルモの絵画に倣ったものではないかとのことで画像を添付してもらったが、確かにそうだ)。そして3人の奥に小さな影に見える男がバイクの横に立っていて、そのライトが点灯したりするなど、3人以外にも視点を集中させられもした。10秒か20秒程度の時間を高速度撮影し、それをスピードを落としてスローで見せる手法は、先のジョンの笑顔のフィルムと同じだが、この映像の背後にイタリア絵画の色合いを思わせる、つまり絵画的な要素が多いところが、軟派ではない純粋芸術的な態度をビルが保ち、美術界で話題になる理由だ。会場ではほかのビルの映像作品の紹介映像も見たが、いかにもアメリカならではの金のかけ方と凝り具合といった感じで、虚像を作ってそれがどこまで真実らしく訴えるかに挑戦しているように思えた。今回の展覧会は、会場に入ってすぐはこのビル・ヴィオラの作品「プールの反映」て、液晶絵画の巨匠という扱いを受けていることがわかった。いきなり映画館と同じ真っ暗な大きな部屋に入れば、当然すでに作品上映の途中からであったが、そのためなおさら実験映画的でシュールな感じがした。画面には森の中の古いプールの表面が固定カメラで撮影されて映り続け、その水面の1メートルほど上部に変な塊が浮かんでいる。いや、浮かんでいるのか、背後の森の中の現代彫刻かわからない。映像はかなり荒かったが、1977年の制作ではそれもやむえ得ない。とにかく意識を宙吊りにされたまま、超スロー・モーションで映像は進む中、プールに波紋が生じたり、あるいは人影が映ったりし、また何度かカットがあって映像がつながれてもいた。編集の跡が感じられるのはあまりいただけない。やがて画面中央のその変な形はゆっくりと消えて、背後の森と同化した。そしてプールの中から男が現われて上がり、森の中に消えて終わる。映像はすぐに最初からまた始まったので、また見たが、その奇妙な形は、その男がプール際からプールに飛び込む際に宙を飛んだ瞬間に固定させたものであった。つまり、映像をいろいろと加工し、何重映しにもして作品を作ったのだ。それだけと言えばそれまでだが、見ている間の一種独特の詩情とでも言うような感覚は長く残る。それが絵画を見た時とどう違うかと言えば、やはり違うと言わざるを得ず、液晶絵画は絵画とは同じではない。新たな感覚を与えるジャンルと言えばよいが、それがどのように今後展開するかは、作家ごとの経験を積み重ねるしかない。そして、今回の展覧会はその可能性の一端を見せようというものだ。
 全部で14作家の作品が展示された。絵画とほとんど変わらない、ごくわずかな動きだけを示すものがロンドンのジュリアン・オピーで、絵画も並んでいた。彼の絵画と液晶絵画の差は、後者では漫画的に描かれた平面的な人物の眉や口元がごくわずかに動き続ける点にあり、ネットで言えば動画GIF画像を思えばよい。そのきわめて単純な動きはほとんど初歩的な技術で表現出来るものだが、もともと彼の絵画が単純な線描とフラットな色合いであるので、それを動かそうとしてもそのように限度があるということか。ディズニーのアニメに比べると、あまりにも素朴な動画だが、そこに見所と面白味があると言えば言える。つまり、液晶絵画は、娯楽映画とは違って、かなりしみったれた低予算で作ったもので、その分アイデア勝負をしているものを思えばよい。ビルのスロー・モーション作品とは対局にあるのが、サム・テイラー=ウッドの「スティル・ライフ」だ。これも誰しも一度は思うアイデアだ。作品は2点で、画面を2、3メートル離してふたつ並べて同時上映していた。どちらもバロック時代の静物画的実写をそのまま動かしてみたものだが、静物画が動くとはすなわち腐敗することであって、2、3か月ほどカメラを固定して、果物や狩猟された兎が腐敗して行く様子を撮影し、それを1、2分間 に縮めて見せる。兎の腐敗は蛆虫が大量に這うなど、すざましい様相を呈するが、撮影は自動的に人工の光のもとで行なったに違いない。同様のことを絵画でしたのは日本の六道絵だ。死んだ女性が野原に横たえられ、次第に白骨化する段階を順次描くことで充分同じ感覚を人に伝えることは出来ると言えるが、テイラー=ウッドの映像は絵ではなく実際の光景の撮影である分、おぞましさは強い。だが、アイデア勝負のこうした作品の後に何を撮るかが問題で、液晶画家は普通の画家よりしんどい気がする。ドミニク・レイマンの「Yo Lo Vi」という作品も古典絵画を意識した画面作りだ。これはキリストの磔刑を主題にした作品で、しかも鑑賞者が参加する仕組みとなっている。最初筆者はそれがわからなかった。画面下には裸の男が後ろ手に縛られて後ろ向きに静止して映っている。ピカソの「青の時代」の絵画のような夕暮れを思わせる画面の色合いの処理で、しかもあまり鮮明ではないので、それだけ見ていても静止絵画の趣が強い。その画面の前に立っていると、画面上部に次から次へと人がやって来てじっと裸の男を見た後に去って行く。その次々に映る人々は実はこの画面の前に立っている鑑賞者を上方から撮影しているもので、20秒ほど遅れて映し出されるため、すぐにはそれがわからない。つまり、刑罰を受けている裸の男を見ている自分を見ていることにやがて気づくという設定がなされている。これはなかなか面白いアイデアで、現代美術特有の考えさせられる要素に事欠かない。同じように鑑賞者が参加して画面に映し出される作品は鷹野隆大にもあったが、男女のヌードを使用しているので、急所の部分には横線が入り、それが何とも気になった。
 これも最近展覧会を見たのに感想を書かなかった千住博という日本画家がいるが、彼の液晶絵画は「水の森」と題して、8曲半隻の電子屏風といった形式の現代の動く水墨画だ。冬の北海道のどこかで撮影したのだろうか、モノクロで森と水辺がずっとエンドレス映像として映し出される。水面が静かに揺らぎ、ただ1回だけ小鳥が画面左端から右へと飛ぶだけの変化で、大きな液晶パネルを8枚揃えてずっと映し出しておくエネルギーの消費のことをふと思ってしまった。こういう大がかりな立体水墨動画は誰もやらなかったとはいえ、別段見たところでたいした感動もない。同じような映像はNHKあたりでふんだんにやっている。だが、液晶パネルが紙と同じように扱えるようになった時、先駆的仕事として評価されるかもしれない。それでそういう時代がやって来たとして、はたして寺院の障壁画や料亭の屏風が動画として欲求が生ずるかどうかだ。それが必要ならばTVを持ち込めばいいし、そうなっていないところ、やはり飾るべき絵というものに動いてもらう必要はないのであろう。いつ訪れてもあそこにはあの絵があるというのがいいのであって、行くたびに絵の内容が動いて変わっているというのでは、街中の映画館と変わらない。いや、実際、今の美術館は映画館に近くなっていて、その見本が今回の展覧会だ。環境音楽で70年代から有名なブライアン・イーノの映像作品もあった。暗い部屋に縦長の画面が4つあり、中央ふたつ、両端が静かな環境音楽とともにそれぞれ別の映像を流していた。両端はイーノのアパートから見えるマンハッタンの風景で、空が大きいため、雲の動きや光の変化が絵画のようで面白い。中央2枚は女性をスロー・モーションで映すが、髪を梳かしたり、片足を組み直したりしている。意味は各自がつかめばよく、始まりも終わりもないといった作品で、各自がある時間をその前で過ごしたという記憶を持ってくれればよいというものだ。森村泰昌の「フェルメール研究」は2008年作であるから最新作であろう。フェルメールの「アトリエの画家」に描かれる光景をそのまま小道具で再現し、そこにモデル(森村自身)を立たせてビデオ撮影するという舞台裏を暴くといった内容のものと、「青いターバンの少女」になり切った森村をビデオ撮影したものだ。もう10数年前だったか、『カラヴァッジォ』という映画を見た時、そこにカラヴァッジォの有名な「泣く若い女」そのままの格好と演技をさせる映画中のカラヴァッジォの作画場面があった。森村の作品からはそれを思い出した。大阪人らしいいちびりか遊び以上のものではない気がする。やなぎみわは百貨店のエレベーター・ガールを何人も使って撮影する大きな幻想的な写真作品で有名だが、今回は「Fortunetelling」という液晶絵画が展示された。4人の女性のうちふたりが老婆の仮面をかぶり、タロット占いをするふたりの背後で別のふたりが無言で静かにつかみ合いの喧嘩をし続ける。批評を拒否するような悪夢の断片と言えばよいか、見ていて楽しいものではない。ヤン・フードの「雀村往東」は、モノクロの液晶画面を8つほど部屋の周囲に並べた作品で、全部違う映像が映るが、中国の河北の寒村における犬と人間の生活を平行して表現する。犬はやがて片脚を折り、不具になったままろくに餌を食べることが出来ずに荒野をうろついて死んでしまい、そして髑髏になった姿を晒す。ドキュメンタリー映像を組み合わせたという感じが強いが、画面を多数使うことで臨場感は増し、また作品の意味も重層化する。残り3、4作家だが、このくらいにしておこう。
●『液晶絵画』_d0053294_14073434.jpg

by uuuzen | 2008-06-04 21:52 | ●展覧会SOON評SO ON
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