四年目に入ったこのブログ。昨日がその日だった。今日はちょうど『おにおにっ記2』のWORDファイル10個目を開く日で、その冒頭にちょっとした短文を添えるいつもの習慣から、冒頭にそのことを報告しておく。
丸3年、1日も欠かさず書き続けることは、誰にでも出来るが、自分でそれなりに楽しめる内容をとなると、新聞の4コマ漫画のように、ネタ探しにそれなりに時間も気を使う。それを日々の楽しみと思える人だけが、放っておいても毎日何かを書く。3年続けながら思い、また今も思うのは、excite社が急に倒産や解散する、あるいは社のコンピュータがおかしくなるなどして、こうして書いたものが全部消えてしまうかもしれないという、明日どうんるかわからないという不安だ。無料なので、そうなっても文句は言えないが、四川大地震を思えば、実際そんな可能性がなくはなく、ブログというもののはかなさをいつもどこかで感じている。あるいは、誰かが筆者になり代わってブログの内容を消すなり、改竄することもあり得る。つい先日、筆者がYahooで作っているホームページに誰かが浸入しようとしたことを知った。IDのパスワード確認履歴なるものを初めて見たのだが、誰かがパスワード入力に失敗している。それがひとりではない。IPアドレスは各個人固有のものであるので、それを辿るとどこの誰がそういうことをしているのかがわかるのだが、事件性がなければ警察もyahooも調べてはくれない。このブログにしても、パスワードがわかると、ボタンひとつのクリックで、3年間に書いた内容を全部一気に消去することが出来る。そして、誰かが筆者になり代わってパスワードをいろいろと試して入力しているかもしれないのに、その履歴を確認することはこのブログでは出来ないことになっている。そんな暇な奴がいるとは思えないが、筆者に反感を抱く奴はぽつぽつといるから、そういう可能性がゼロではないことを知っておく方がよい。それで、3年続けた結果、今後の新たな見通しが何かついたかと言えば、人生と同じでそうとも言えるし、そうでもない気もする。『おにおにっ記3』は先日書き上げたが、その次をどうするかと思いつつ、アイデアはすでに思い浮かび、時期が来ればまた書き始めるつもりでいる。だが、『おにおにっ記2』の投稿もまだ途中であるのに、先走って書き溜めるのは、ちょっとした創作をしているような気分にはなれる。毎日投稿してもほとんど何の反応もないし、誰かに期待されてもいないのはよくわかっているが、ボケ防止を言うのはまだ早いとしても、自分で人生にそれなりにmerry hurryが出来るのはよい。受け取り手の立場ばかりでは人生は面白くない。ゴチャゴチャ言う前にまず自分を表現してみろ。是雑葉之弁也。続けてもうひとつの話題を。
四川大地震のような大規模のものが今まで中国に起こらなかったはずはないと思うが、今朝刊第1面を見ると、死者5万人を超えるとある。ミャンマーのサイクロンではもっと多くの人が死んだが、自然の大災害がこうして続くと、環境破壊もどこかで関係しているのではと思いたくもなる。つまり、その意味で人災の部分もあるかなと。また、四川大地震では学校がことごとく潰れ、建物の手抜き工事が云々される。それは実際そうであろうが、何百年に1回しか起こらないような大地震を想定して頑丈に作ることは不可能と言ってよい。同じ規模の地震は断層の大きさからして日本では起こり得ないが、同じマグニチュードはあり得るから、そうした大地震があった際、日本の校舎が到壊しない保証はない。筆者は土木を学んで、大阪のとある建設コンサルタントに勤務していた過去があるが、学生時代から気になっていたことは、あらゆる建造物の安全度の設定だ。これがいわば何の根拠もないに等しいもので、簡単に言えば、人知の及ばない事態が生じた時にもそこそこ安全なように2倍や3倍の余裕を見て強度を計算する。その陰には鉄筋やコンクリートの質の実験を繰り返して、規定どおりに工事がなされた場合に、どの程度の鉄筋の太さ本数、コンクリートの厚みといったことを規定している背景があるが、この施工というのが曲者で、設計どおりにまず行なわれる試しがない。必ず手抜きがある。それが業者の利益になる。あるいは役人の。それを見越して安全度の数値という理由なのだが、大型の工事など最初から丼勘定の集合体と思っておく方がよい。つまり、設計会社が0.001の数値までぴたりと揃えて設計し、計算書を作って役所に提出しても、それはちょっとしたひとつの指針であって、工事現場ではどんどん別のやり方で動く。つまり、机にしがみついて厳密な設計をしたところで、それは絶対にそのとおりに実現せず、計算の数値の厳密性など何の意味もない。だが、それにもかかわらず設計がなくては指針がないで、工事は始まらない。なくては困るが、あっても守られないのが設計で、いわば純粋と思っていたものが現実には非常に曖昧な部分を多く内蔵せざるを得ず、そうして行なった設計なるものが、さらに実現化に際して世のあらゆる大人の事情とやらで歪められる。設計者などと偉そうなことを思っても、そんな設計など最初からなくて、勘と経験だけで建造物を造ってもほとんど出来上がるものは同じと言ってよい。人間の営みなど、みなそういうものだ。そういうことが学生時代に早々とわかってしまうと、もうほとんど興味が失せた。ところが、自分ひとりが根と詰めて作る芸術的作品の場合は、それが誰の役に立たなくてもそれ自体で完結したひとつの絶対的存在を持つから、筆者が設計会社を辞めるのは時間の問題であった。
誰の役にも立たないとの自覚を絶えず抱きながら作品を作るのは、現実的には経済問題から不可能な場合がほとんどで、作ったものは商品として価格を持つことになるが、そうなればそうなったで、またさまざまなしがらみや制約も受けるので、幻想を抱き過ぎるのはよくないが、土木建設物のように他人が携わって、最初の設計が無意味同然化することからはほとんど免れる。それに、自分が全部手を下したものであれば、責任の所在もはっきりするし、そこに責任感の芽生えも生まれる。無責任な事件を引き起こす役人が出るのは、傲慢さと自分の仕事を実感していない一種の疎外感からで、大型工事でもそれは同じと言ってよい。現場監督の責任はあるとしても、施工する連中は能力不足やあるいは材料をけちる、あるいは雇用者に反感を抱くなどの理由から、誰も見ていないところで何をするかわからない。先頃あった高級料亭の無責任な事件も同じようなところがある。つまり、店の看板が老舗として固定していることにあぐらをかいた勘違いというやつだ。どこかのホテルが手抜き工事をしたり、あるいは後で勝手に改造するなど問題になったこともあるが、似たことは表面化しないだけで、今も必ずどこかで行なわれている。設計者の意図が反映されなかったり、最初から設計者がごまかしをやる場合があることを思っておいてちょうどいい加減なのだ。だが、そもそも、地震の規模をどこまで想定するかが問題で、どんな大規模地震があっても倒れない建物を建てることなど不可能だ。それを著しく可能なレベルに引き上げるならば、今度は建て直そうと思っても簡単に壊すことが出来なくなるなど、別のやっかいな問題が必ず生ずる。先週みんぱくに行って、『深奥的中国 少数民族の暮らしと工芸』の感想を書いた直後に大地震があった。会場中央に再現された高床式住居の外壁は、一部に梁の丸太を通す穴を開けたブロックを用いて、全体的にいかにも簡単に作られていたが、それでも昔に比べると生活は豊かになって、人々はブロックを用いてより頑丈な建物をと思っていた。結局そのことに復讐された形だ。自然の威力とはそのようなものだ。鉄筋コンクリートにしても実にもろいもので、昔のようによくしなる簡単な木造建築のままであった方が四川大地震の被害も少なくて済んだであろう。鉄筋を用いずにブロックを積み重ねただけでは、地震で簡単に倒壊するのも当然に思えるが、マグニチュード8、しかも日本と違って10倍以上の長さと幅という断層の巨大さからすれば、日本並みに頑丈に建てていても倒壊は免れえなかった。阪神大震災からもわかるように、高速道路がゴロリと簡単に倒壊するのだ。建物の設計は経済問題が最優先で、地震の規模に応じてどれほど安全に作るかであって、100パーセント安全などあり得ず、せいぜい慰みの度合いの問題と思っておく方がよい。確かに今度の地震は人災の側面を強く感じるが、それが日本ではないとは思わない方がよい。人間など、いつの時代、どこの民族でもたいして変わりはない。
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2007年07月05日●第 154 話 先日蹴り倒した火鉢ですが、雨がよく降るので水はまたかなり溜まりました。ボウフラが湧いては困るので、マニマンは今日また蹴り倒して水をほとんど流しました。すると、土の中から真っ黒なオニビシがふたつ見えました。生きているのか死んでいるのか、硬いままです。マニマンにはさっぱり事情がわかりません。発芽はとっくに諦めましたが、抹茶の一抹の粉程度の希望からそのままにしているのです。それはそうと、マニマンのパソコンのそばには紙粘土で作ったオニビシ精人がいます。そのすぐ隣りに、最近マニマンの家の近所に落ちていたものを拾って帰った松ぼっくりをほっこりと1個置きました。オニビシ精人の背丈の半分ほどの大きさです。地面にそのままにしていれば、今頃土になったか、誰かに拾われたか、それとも地面に潜って芽を出したでしょうか。でも、きっとマニマンに拾われてほっこりしたに違いないです。オニビシ精人のすぐそばですからね。マニマンは試しにオニビシ精人の頭を外して松ぼっくりに置いてみました。すると、松ぼっくり精人になって、それなりに様になりました。