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●『聖徳太子 ゆかりの名宝』
福寺の太子絵伝修復完成記念特別展と銘打って、河内の三太子と言われる叡福寺と野中寺(やちゅうじ)と大聖勝軍寺に収蔵される聖徳太子に因む仏教美術が展示された。これはどう考えても京都や奈良ではなく、大阪市立美術館が開催すべきものだ。



●『聖徳太子 ゆかりの名宝』_d0053294_19475457.jpg展示内容はとても充実していたが、普段は疲れるのに今回はさほどでもなかったのは、わかりやすく整理された章立てによるものか。昨日の18日に行って来た。雨も降らず、ほかに展覧会を梯子しなかったので時間的にも気分的にもゆとりをもって帰宅出来た。聖徳太子の飛鳥時代となると1400年ほど前のことになるのか、実際にあったことかどうかが実感しにくく、歴史ファンでもない筆者はほとんど興味も知識もない。だが、いつも思うのは、そういう展覧会こそ見ておくべきで、それをきっかけに興味や関心は意外なところから広がる。そういう気持ちを持てなくなるのが老化の始まりだが、肉体よりもむしろ知的な老化は早く訪れる。だが、世間にはそれを夢にも思わない人の方が圧倒的に多い。それはさておき、今回大いに学んだことのひとつとして、当麻寺が、最初から現在の地にはなかったことを初めて知った。名前は変わったのだが、実際は当麻寺の前身は二上山から西にあった。その付近はかつては河内の山田郷という場所で、現在の大阪府南東部、葛城山北の南河内郡太子町に相当するが、今回の展覧会が開催された大阪の天王寺から近鉄に乗れば小1時間で着く。午前中に展覧会を見れば、午後にはそこに到着出来るという近さで、実際そのように行動した人は何人もいるだろう。筆者はその付近の地理には全く疎い。3、4年前に西行法師の墓を見るためにひとりで桜満開の頃に富田林のその付近に行ったことと、後はもう1回飛鳥近つ博物館を見るために出かけた程度で、ほとんど何も知らない。奈良にはよく出かけるが、それはいつも奈良市内であって、盆地の南の方は縁がないのだ。だが、その付近こそ日本の歴史の根幹を形成して来たところで、もっとよく知っておくべきだ。前にも書いたが、当麻寺に初めて行ったのは26か7の頃だ。実は10代から「当麻寺」という何となく不思議な字面と発音は気になっていて、ついにそれを実行するために桜が咲いている頃に出かけたのであった。実際に行ってみると当麻寺はまさに浄土の雰囲気に満ちて、あんなに素晴らしい場所はないと思った記憶がある。寺からは二上山が大きく見えたが、今回の展覧会で知るまで、寺が現在のように二上山の東ではなく、最初は西にあったとは知らなかった。その西というのは、実は聖徳太子の墓のある場所でもあって、その山田郷に同寺があった方が大阪からは近くてよかった気がする。とはいえ、現在に地に移ったのは平安時代のことであるから、もう1000年近い昔のことだ。
 その当麻寺の移転で思い出したのは、折口信夫の『死者の書』だ。この小説やアニメ映画に関しては以前にこのブログに感想を書いた。その時、中将姫が二上山を西に拝み、ある春分の日の夜、ついにその山目指して家を出てどんどん歩き、翌朝寺の者に見つけられるという筋立てにおける、その「西へ向かう」という箇所が、実際は西南の間違いではないかといったことを書いた記憶がある。だが、姫の住まいが奈良盆地の南端であれば、二上山は真西に見える。奈良市内だけを奈良と思っていると駄目で、ここは桜井や大和高田など、もっと南方の地を思う必要がある。そっちの方こそむしろ古代においては中心地で、聖徳太子とも縁が深い。今回の展覧会のチラシ裏面の最初に、『飛鳥と難波を東西に結ぶ竹内街道は、古代における最も重要な官道のひとつでした。聖徳太子も行き来したその街道沿い、河内と大和の国境近くに叡福寺が建っています。河内における太子信仰の拠点として栄えた叡福寺は、太子ゆかりの四天王寺と法隆寺の中間に位置していますが、ここに太子の御廟(陵)があることは、意外にも広く知られていません。』とある。全くこのとおりで、河内という言葉を耳にすると、勝新太郎の映画『悪名』ではないが、とにかく言葉が悪く、柄の悪い印象が他県の人々には真先に思い出される始末で、聖徳太子の墓もあるほどに歴史が古く、また重要な地区であることを聞くとみんな一瞬信じない。昔の1000円札、次いで1万円札には聖徳太子がデザインされていたが、現在の1万円札の福沢輸吉もまた大阪出身と聞くと、やはり同じように人はまさかといった顔をする。とかくイメージが悪いだけの大阪や河内になってしまったが、河内の聖徳太子に因む寺が3つ合わさると、今回のような展覧会が開催される現実を改めて思うと、歴史の奥深さを再認識せざるを得ないし、そういう地区が観光化されずにひっそりと残っていることにかえって喜ぶ必要があるだろう。当麻寺も10年ほど前に行った時には、20代に行った時に比べてかなり観光地化していたがっかりしたものだが、鄙びた場所はそのままの風情を残してほしいものだ。筆者はこの3つの寺のいずれをも訪れたことはないが、いつかは叡福寺の聖徳太子の墓に詣でてみたい。聖徳太子に因む地名は京都にもあるので、近畿ではさほど珍しいことはないが、筆者が昔から聖徳太子で気になっていたのは、さまざまな姿の聖徳太子像で、これを見る機会が何度もあったことだ。それが太子信仰のために造られたことくらいは誰にでもわかるが、それほどに太子信仰が長らく続いて来ていることは、先の1万円札のデザインからしても理解出来る。それほどの著名人であり続けていることは太子信仰がずっと続いて来たことと、明治以降の教育のおかげで、どういう偉い人なのかは実際にはよく知らなくも、とにかく偉大な人であるという認識は、学のない人でも実感としてあり、それはもう弘法大師並みと言ってよい。今回知ったが、弘法大師は聖徳太子の墓廟を詣でており、国宝の『一遍聖絵巻』では一遍上人が同じように詣でている場面が描かれる。これは、日本に仏教を据えた人物としての尊敬からで、明治の仏教排斥時にこれがどうなったかと言えば、天皇の血筋を引くことから墓陵は整備された。
 今回の展示は4つの章に分けられた。まず「叡福寺の聖徳太子絵伝」は、最初の大きな部屋全部を使用して圧巻であった。今回修復が完成した叡福寺の聖徳太子絵伝は絹本著色の大きな掛軸が8点で、8点目のみ近代の模写なのか、他の7点とは色合いが全く違った。図録は2200円と安かったが、買わなかったので、このことについてはわからない。表装は小豆色がかった紫色の中回し裂で、これが絵とよく似合っていた。画面幅の縦中央がどれも絵具の剥落が激しいが、これは絹を継いだ箇所であるからだろうか。まさか一時期折りたたんでいたからではあるまい。南北朝時代に作品で今から600年ほど前のものにあるが、顔料はまだ全体によく残っており、その色合いが他に展示されていたもっと後の数種の聖徳太子絵伝とは違って鮮やかでしかも上品であることに感心した。時代を経るほど顔料の質が悪いのか、全体に白々しくなり、また絵の筆力も劣るように見えたが、これは絵絹地がまだ新しくて白っぽいことも関係しているかもしれない。叡福寺本は絹地はほとんど焦茶色に変化しているが、そこに緑青や群青などの絵具が浮かび上がる様子は、とても即席に現在作り出されるものではない。現在描くものが600年経って同じように見えるかとなれば、これは誰にもわからないし、またそれよりも前にまず600年も大切にされる絵かどうかが問題だ。叡福寺本が貫祿充分に見えたのは、時代を経た風合いもさることながら、寺にずっと保管され、信仰の対象になり続けて来たという事実で、何十世代にもわたって大切にし続けて来たというその現実を前提に絵の前に立つからこそ、なおのこと絵が神々しく見える。今回の展示の目玉はこの叡福寺本で、それを最初に充分堪能すればもう後は流し見してもよかったと言えるが、ひとつ疑問に思ったことは、この叡福寺の後に描かれたいくつもの太子絵伝のうち、法隆寺に献納されたものを模写したものが多かったことだ。法隆寺献納本は残念ながら今回は展示されなかった。これは大坂の絵師が今から1000年ほど前に描いて法隆寺に献納した壁画で、その後屏風に改装されて明治時代には法隆寺が宮中に献上し、現在額装されて東京国立博物館に保管される国宝となっている。つまり叡福寺本よりまだ400年ほど前のもので、これが現在伝わる聖徳太子絵伝の最初のものだ。それでも太子没後300年ほど経ってのものであるから、当然同本以前にも描かれたはずだが伝わっていない。四天王寺に狩野山楽か山雪が描いたと思うが、今立ち上がって16年前に同じ美術館で開催された『四天王寺の宝物と聖徳太子信仰』の図録を引っ張り出すと、山楽が描いて寄進した。これは秀吉の命を受けたものであったが、後の大坂の陣で焼けて、その9年後に徳川秀忠がまた山楽に描かせたものが残っている。だが、それより300年古い14世紀初期本が同寺には伝わっている。これは南都つまり奈良の絵師が描いたもので山楽のものよりはるかに状態がよい。山楽のものは板絵であるので、長らく日に晒され、絵具が剥落しやすかったのだろう。
 聖徳太子絵伝とは、この伝説的な人物にまつわる数十の事柄を年代順や季節順に並べて描くもので、キリストの生涯を壁画に描いて衆人に絵解きして説明するのと同じように、太子信仰に役立てられた。叡福寺本は確か法隆寺本とは違って、季節順にまとめたもので、1幅の掛軸の中にさまざまな年齢の聖徳太子の事蹟が混在して描かれる。法隆寺本は場面ごとに何歳の場面かを示す小さな紙札が貼られるが、叡福寺本にはそれがなく、説明パネルの小写真上に各場面の説明がされた。絵全体の美しさは『一遍聖絵』とよく似て、顔料の美しさとやまと絵的な山並みといった表現にある。当然中国絵画的な部分も当然見られるが、やまえ絵的な部分との混合具合が面白い。叡福寺には江戸時代初期と後期の絵伝もあって、今回は南北朝本の隣に展示された。法隆寺にはその中間の18世紀の絵伝もあり、それも来ていたが、やはり時代が遡るものほどよいように思えた。これはそれだけ信仰がまだ深かったことも関係してのことかどうかはわからない。もしそうであるならば、もう現在ではそうした絵伝を描いて奉納する画家もないであろうし、聖徳太子信仰も絶えたと言わねばならないかもしれない。それはつまるところ、日本における仏教が揺らいでいるということになる。いや、仏教だけではなく、信仰というものがそうだ。聖徳太子絵伝は江戸時代には版本によって絵伝の各場面が人々に伝達されるようになって、ある意味では聖徳太子絵伝の内容はそれ以前より有名になった。そのためもあってか、叡福寺は人々がよく訪れる名所となった。会場の第3章「河内三太子と太子信仰の違宝」はそうした資料の展示で充実していた。各時代の寺域を示す絵図などによって、寺の規模が時代によってどのように変化したか、また聖徳太子の墓は変化しなかったかがわかるが、現在のように電車や自動車道がなかった分、そして信仰心がまだまだ強かった分、大坂の中心や京都、奈良からそこそこ離れた場所ということで、かえって今より実在感が強かったのではないだろうか。先にチラシの文句を引用したように、意外に知られていない叡福寺は、司馬遼太郎の『街道を行く』ではいつどのように採り上げられたのか、気になるところだ。野中寺や大聖勝軍寺はさらに二上山に近い街道沿いにあって、今回の展示から見ると、叡福寺ほどの出品数はないものの、平安時代後期の重文の仏像などがあって、歴史の古さはよくわかる。会場に60代半ばの陽気な、いかにも大阪庶民といったおじさんがいて、ひとりごとを言いながら見ていて、筆者に話かけても来たが、これらの寺について詳しいのには驚いた。とはいえ、寺の存在を知るだけで、それは近くのゴルフ場にはよく通っていたり、また近辺を車でよく走るからだ。つまり地元感覚ゆえなのだが、そうしたよく知る寺がこんなに歴史が古く、貴重なものを収蔵していることに感心していた。仏教美術はそれほどに感心のない者にとっては存在しないも同然で、それだからこそ数百年の長きにわたって伝わって来たとも言える。それは信仰の力が寄与する部分が大きく、美術品という前にまず拝むべき対象であったからだが、こうした展覧会という、歴史的に見れば一瞬にも満たない短い機会で一堂に会した状態でお目にかかれるのは、人生にそうめったにない機会で、信仰とはひとまず関係なくても、開催の意義は大きい。
 第2章は「太子廟と叡福寺の歴史」で、太子の墓陵がいつ叡福寺に築かれたかの考察が試みられていた。最大規模を誇った時期の寺域を2枚折り屏風に描いた作があったが、太子廟を中心奥に控えた堂々たるもので、それに比べれば現在の寺はかなり縮小しているが、これは戦国時代に兵火に遇って堂宇が焼けたことによる。その後秀吉は積極的に再建に寄与したらしく、叡福寺には桃山時代に描かれた秀吉像がある。見慣れた秀吉像とは多少顔立ちが違って見えたが、秀吉の足跡を意外なところで知った。つまり、古代から江戸にかけてこの寺の付近はずっと歴史の波にもまれ続けて来たのだ。太子廟の始まりは明確ではない。これは聖徳太子そのものの存在についても同様で、文字として書かれたものがなければ証拠がないという考えを前提にするからだ。文字として書かれたものは当初はあったかもしれないが、後に失われることは多いし、そうなれば事実を否定する立場を生む。言い伝えには重視すべきだが、いつかどこかでそれが捏造されることもある。聖徳太子絵伝というものも太子没後の言い伝えを元にして描いたもので、聖徳太子をほとんど神のように扱っているが、最初に描かれたものを後の絵師が踏襲するということを繰り返すうちに、太子にまつわる言い伝えはそのままひとつの強固な実相をまとい、それ自体が文化と言うべきものに成長する。それは弘法大師も同じで、当人の没後に大人物として育むところに、国の風格のようなものがある。現在はもうそのような時代ではなく、たとえばノーベル賞といった、権威による表彰づけによって大人物が確定して行くのであろうが、全人格的にそうした人物が崇められる存在になる保証はない。修理が完成した叡福寺の聖徳太子絵伝はまた100年や200年には改装されるのであろうが、物を大切にして行くことの中に聖徳太子の存在がそのまま伝達して行きもする。今は信仰の乏しい時代であっても、また100年200年後にはどう変化するかわからない。信仰なくして国家の存続が危ういともしも日本がいずれ思うことがあれば、その時はまた仏教の大きな出番があるかもしれないし、そうなれば聖徳太子はまたいっそう崇められるだろう。10万円札がいずれ造られるとすれば、肖像は聖徳太子以外に考えられないと言われるが、そのような気持ちがある限りは、まだ仏教は見捨てられたとは言えない。信仰とはどういう態度かとなれば、これは人によって差があるが、聖徳太子の言ったことは和を以て尊しとなすで、この何の変哲もないような言葉は今はもっと噛み締めてさまざまな場面に実践すべきものであって、そんなことから自然に信仰の道も開けている気がする。仏像を拝むということも信仰だが、古い物を大切に守り続けるということに自然とその精神は表われるであろう。であるからこそ、たまにはこうした展覧会を見て、いかに日本が古いものを大切にし続けて来ているかを再確認するのがよい。その古いものがなければ、今の新しいものの将来もない。
by uuuzen | 2008-05-19 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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