夢から目覚めた後、久しぶりに面白い内容であったので、ブログに書こうと思いながらしばらく反芻していたが、枕元にメモ帳があるのを忘れ、そのまま階下に降りて顔を洗ったりしている間に夢のこともブログに書くことも忘れてしまった。

ところが夜になって突如近所にあった古い神社がすっかりなくなって整地されている夢の内容の一部が蘇った。もっと思い出すことが出来ればよかったが、無理であった。すぐに忘れてしまう内容であるだけにどうでもいいことのはずで、別段それを書き留めても何の得にもならないし誰も期待もしていないが、筆者が見る夢は、夢の中だけで感じることの出来る懐かしさと未知の場所へ行った時の楽しさのようなものがいつも混じっていて、それが現実では全く感じることの出来ないものであるだけに、文章にして書いておくと、いつでもその夢だけの世界に浸ることが出来るではないかと思ったりもする。その夢ならではの味わいは、最近遠い過去を思い出した時にもかすかに感じることが出来る瞬間がある。これはついにぼけて来たのかもしれないが、実際に経験したこととそうでないことが、いつの間にか区別出来ない記憶として混在していることは、はたして具合の悪いことなのかどうかと思えば、虚言癖、つまり自分の夢想を実際にあったこととして人に自慢しない限りは、別段そうではない気がする。小説家などはそういう夢想を実際に経験したことのように書く才能を人並み外れて所有する必要があるはずで、実際の経験よりもむしろ実際に経験したことのように感じることが出来て、それを文字にすることの出来る才能の方が大切と言ってよい。実際に経験したことはないが経験したように感じる才能は、映画やTVが登場してからは人々はそれ以前よりはるかに増したように思う。眠っている間に見る夢は、実際の経験や日常に思ったことが出鱈目に組み合わさったイメージが主体になったもので、そこには映画やTVで見たことが大きく左右しているような気がするが、夢は個人的なものであって他人とは共有出来ないから、映画やTVがなかった時代や他人のことはよくわからない。だが、自分が実際は経験しない多くの映像をそうした媒体から受け取ることによって、あたかも自分が経験したかのように錯覚する割合は現代は急速に増加し、現実感が希薄になった人々が増え、そのためにわけるわからない変な事件も多くなっているのではないかと思ったりもする。さて、いきなり今日見た展覧会と何の関係もないようなことを書き始めたが、実際はそうでもないか。みんぱくの企画展は近年は映像をよく見せるようになっているが、みんぱくの意図する「モノ」の展示をよりよく理解させるためにはそれを実際に使用している、着用している場面を動画で見せるのが一番という思いからだ。だが、それが進むと、もう本物の「モノ」は不要で映像だけでいいということになりはしないだろうか。

自然文化圏の入場券を見ると、太陽の塔の向こうに国立国際美術館の建物がようやく消えていた。今まであった在庫の券がようやくなくなったので新たに撮影したと見える。さて、今回はみんぱく開館30周年記念ということでかなり力が入っていると思いきや、日曜日であったにもかかわらず会場はがらがらであった。先日の5日は無料開館日であったが、あいにく雨が降ったのでさほどの入りでもなかっただろう。ギョーザ問題やチベット問題のため、中国はさっぱり不人気で、せっかくのみんぱくの企画も肩透かしをくらった形に思えるが、こういう時期だからこそこうした展覧会も意義がある。少数民族を通じて現代の中国、そしてひいては日本のことを考える手立てにもなる。こうした展覧会はほかではやらないし、また今の日本では観光で出かける場所とは考えられていないので、なかなか有意義な内容であった。ギョーザ問題は原因が不明で心配だが、統計によれば中国製よりアメリカ製の食品の方が税関検査がひっかかる確率が高いにもかかわらず、日本はアメリカ崇拝のため、その現実を過少評価し、中国のみを極悪と決めつける。同じように不買を決め込むなら、アメリカからも怪しい食物は輸入を即刻やめるべきだが、それをすればどこそこの丼屋が困るとかで、そういうわけにもいかない。小さな島国の日本は昔々から大国に寄りかかる主義でやって来た。それが昔は中国であったのに今はアメリカに変わっただけの話で、また100年や200年経って中国が経済大国になった場合、どうなっているかわかったものではない。チベット問題にしても、歴史を遡ってチベットと清国がどういう関係で、当時のダライ・ラマさんがどのような動きをした結果自治区になったかも知る必要があるが、そんなことはほとんど誰も知らないし、興味も持たず、そうしたこことは別にその後の中国がチベットに行なっている人権問題だけを取り上げて非難の的になっている様子だが、それを言えばどこの国でも叩けば埃が出て来る。つまり、どこで境界線を引くかは困難な問題で、内政干渉になりかねない。ま、それはいいとして今回の展覧会はうまい具合にと言おうか、チベット自治区を取り上げず、中国西南部のヴェトナムに接するチワン(壮)族を中心にその暮らしと工芸品を紹介しようというものだ。中国の少数民族と聞くと筆者はすぐに『中国少数民族服飾』という本を思い出す。今本棚から引っ張り出したところ、1981年7月7日に購入している。厚さ2センチほどの大型の本で、2500円か3000円したと思う。「国際提携出版」として、京都の「美乃美」が出した。その本にはその後開催された中国少数民族関係の展覧会のチラシが10枚ほど挟み続けて来たが、その中にみんぱくが平成5年に開催した新着資料展示『中国・チワン族の生活文化』のものがある。つまり、15年前にみんぱくはチワン族を小規模で紹介している。同展を見たはずだが、記憶から欠落している。改めてそのチラシを見ると、今日展示してあった衣服やら靴、あやつり人形、手鞠などの写真が出ている。そのチラシにはチワン族の人口は1500万人余りと書いてあるが、今回のチラシには1618万人とあって、15年でかなり増加し、しかも国勢調査が行き届いて細かい数字まで出ている。オリンピックを開催するほどであるからそれは当然だが、チワン族の人々はオリンピックをどう思っているのだろう。選手がいて出場するのだろうか。
中国すなわち漢民族と思っていると、広大な中国にはたくさんの民族がいて、それらがみな独自の衣装を着て独自の文化を持っているが、狭い日本でもそれは同じで、人間もひとりひとりが違うのであるから、多くの民族がいてあたりまえだ。チワン族は中国最大の少数民族で、言語はタイ系に属する。東部は漢族とほとんど同化している。西や北部の山岳地方は漢族の影響を受けながらもチワン族独自の伝統文化もとどめている。今回のチラシを見ると、副題に「もうひとつの豊かさ」とあって、それは漢族に同化し切っていない部分を主に指すのは言うまでもない。この少数民族、山間部、豊かさといった言葉で連想するのは「桃源郷」だ。みんぱくがそれを念頭に置いていたのは確実だろう。「桃源郷」は陶淵明の詩に出て来る。道か小川だったかを辿ってある村に到着すると、そこには桃が一面に咲く場所があり、顔のよく似た村人たちが満ち足りた様子で住んでいたが、後日再訪しようとしてもそれがどこにあったかわからないという内容の詩で、現実に存在しない理想郷のたとえに使われるが、筆者が最初に読んで感じたのは、隠れるようにして暮らしている中国の少数民族で、それほど中国が広大であることと、漢民族が行かないような辺境な場所があるということと、そういう場所に住むことをよぎなくされている民族間の力の差という悲しい現実であったが、山間部であっても土地を肥沃にすることが出来て、しかも山水があればどうにか人間は暮らしていけるから、そういう過酷な場所での生活をあながち不幸とは呼べず、むしろ現代では価値の転換も生じていて、むしろそうした場所にゆったりと暮らせる人々こそ本当に豊かであるとの見方も出来る。こういう見方は大昔からあったはずで、それが「桃源郷」という言葉の創出とその後の伝達につながった。なぜそういった場所での生活が理想的であるかは、ひとつには現代のエコ感覚にかなった生活をしているからでもある。つまり、人間と動植物がつながって資源を循環させているのだが、そこに外来の電気を使用する文化が押し寄せると、たちまちかつてのバランスある生活は崩れて、お金を儲けるために人々は村から出て働きに出る必要がある。そうなると世界の経済資本にすっかり組み込まれて、お金がないから貧しいという見方しかされなくなり、日本を初め経済先進国は見向きもしない。前にもブログに書いたが、今のチベットがそのいい例で、鉄道が敷かれ、ホテルが林立したのはいいが、稼ぎは東からやって来た漢族ががっぽりと持って行く。結局チベットに残るのは自然や文化の破壊と、金がなければどうにも生きていけないというむごい現実で、資源循環型の生活にはもう戻れない。一旦都市文化を味わった者はなかなかそれを捨てることが出来ないからだ。
チワン族はその点どうなのかと言えば、会場では詳しく説明はしていなかったが、人口を数十万抱える南寧市は、自動車はまだ少ないものの、大きく真っ直ぐに都市を貫く道があって、その両側には石造りの建物が並んで、現代文明社会そのものといった様相を呈していて、いずれチベットのように観光資源の開発に利用されるのではないかと思わせられた。ところで、会場にはこの南寧市における中秋節の様子を紹介する映像があって、全部見たが、なかなか面白かった。その真っ直ぐに貫かれる通りは、一度歩いてみたい思いにさせらつつも、夢の中で何度も歩いたような気がした。それは昭和30年代初期の、たとえば大阪市内の定期的な夜店の市といったものを思い出させたからだが、こういう見方は、南寧市の現在は日本からすれば半世紀遅れているという一種の蔑視と思われかねないが、筆者にはそういうつもりはない。それに日本の昭和30年代が現在より何もかも劣っていたかと思えば筆者はそうは思わない。それはさておき、チワン族のこの中秋節の祝い方はまだまだ手作り感覚が残っていて、子どもたちを大切にし、それに大人たちも楽しむところがよい。かつて漢族と戦って、漢族がチワン族の兵士を弔った方法がそのままチワン族に受け継がれて、それが今では自分たちの民族の祭りの形となっているとの紹介があったが、そうした民族の風習の交差はどこにでも起こり得ることで、時代とともに新たな風習が生まれて行くことを再確認する。中秋節は日本でも名月を静かに愛でるので馴染みだが、チワン族は満月に対してもっと思い入れがあってしかも祭りは派手だ。風習のひとつに満月型の月餅を食べることがある。月餅を製造する店を紹介していたが、最後の袋詰めまでもみな手作りで、日本のように機械化は一切ない。それを不潔と見る向きもあるだろうが、逆に機械化された工場製品の方が添加物や防腐剤を初め、何を混入しているやらわからず、筆者なら完全手作りの方がおいしいように思う。同じ手作りの様子は、親が子どもたちに買ってやるうさぎや鶏、牡丹の花、戦車や飛行機といった形の蝋燭を中に入れて転がすことの出来る紙製の灯籠にもよく表われていて、中秋の季節になると、普段はほかの仕事をしているが、そうした灯籠を作る職人が何人も現われる。会場にはその実物をいくつも展示してあった。自然の素材のみを使用した素朴なものながら、日本で同じものを作るとなると、人件費からしてはたしてどれほど高価なものになるかと思わせられる。それにそれを輸入してインテリアとして販売しようとすれば、きっと輸送費用が高くつくと称して現地価格の10倍や20倍程度で売ろうとするだろう。もうひとつの手作り品は、大人たちが収穫した大きなザボンに長い線香を何本も放射状に突き挿し、それをさらに10メートルほどの長いポールの先端に挿して少しでも満月に近づけようと掲げることだ。これは収穫に対する感謝や祖先を敬う気持ちの表われだったと思うが、日本とは違って都会でもまだ夜はネオンや電気が乏しい南寧市のことであるから、この線香を多く挿したザボン灯、そして子どもが道路を転がす灯籠の光はとても懐かしい感じをよく伝えて、中秋節の夜のその町を散策してみいた気にさせた。
会場の1階はチワン族の紹介で、今回の最も大きな展示は1階中央のチワン族の高床式住居の復元であった。これは先に書いた資源循環型生活を示すもので、1階部分は鶏や豚が住み、2階に人間が居住する。会場ではこの2階部分のみを復元していて、その内部に入って、ベッドや生活用品などを間近に見ることが出来たが、ふと実際に現地に行った気分になれた。家の中央出入口両側の柱には赤い紙に安手の印刷物である招福関係の金文字や鍾馗像などを貼りつけていたが、前者の金紙文字は中国ならではの造形感覚があって、実物を入手したいと思った。後者はインドでよく見かける神像のポスターの類を思えばよい色合いで、日本では昭和30年代の粗悪なカラー印刷だが、それがかえって新鮮に見える。両親は出稼ぎに出ていることがあり、空いた部屋を子どもが使っていたりするが、壁には日本で言えばあいうえお、アメリカで言うABCを記した文字と発音の表、また机には教科書が数冊置いてあった。出稼ぎからは、現金がなくては子どもに充分な教育を施すことの出来ない現実が見えるが、子どもが高い知識を身につけて、一家一族に福がやって来ますようにといった言葉を印刷した紙も貼ってあって、そこには農業などの肉体労働者が貧しく、大学を出て役人になるなどすれば裕福になれるという現実があるのだろうが、何となく複雑な思いにもさせられる。知識人が国を支配し、そして最もよい生活にありつけるというのは、日本を初め世界中が同じと言ってもよいが、今の日本ではそれは崩れて、芸能人やあるいはそこから政治家を目指す方が高収入は手っ取り早いと言ってよい現実があり、知識や教養の崇拝はかなり減退している。家の中の板張り壁には酒井法子の中国製のカラー写真も貼ってあった。彼女が中国では国民的な美人として人気があることを如実に示して面白かったが、高学歴を身につけなくても、女の場合は美人に生まれると人気者、そして豊かで幸福に暮らせるという現実を一方で示してもいて、実際その事実が日本では幅を利かせて芸能人を目指す若者が後を絶えない。中国も今後ますます同じようになって行くのだろう。高床式住居は揚子江南部に多いが、少しずつそれも変化して来ているらしい。資源循環というのは、人間の食べ残しを鶏や豚が食べ、人間や豚の排泄物からメタンガスを抽出し、それを電熱利用するものだ。そこにやがてもっとさまざまな電化製品が増え、日本のように自動車がなくてはならないものになるのかどうか。そうすれば舗装した道路が必要となり、どこかに巨大なゴミ焼却場を必要とし、工場も林立する。そしてTV画面で桃源郷の風景を懐かしむということになる。
住居復元の周囲はチワン族の1年の祭りが紹介された。1月1日から5日までの春節、2月2日の土地公祭り、3月3日、5月5日、そして7月14、15日の中元節(鬼節)8月2日はまた土地公祭り、15日は中秋節、9月9日の重陽節で、ほとんど日本と同じと言ってよい。春節は派手な飾りの獅子舞いと龍舞いが出るが、獅子はいいとして龍は形が大きくてややこしいので、これを舞うとなれば長崎のクンチと同じように、何人もの人手がいる。土地公とは村民の平安や作物の豊作をことを願うために廟へ詣でるもので、映像での紹介があった。供物を前に3回拝む形式は韓国でも見られるもので、儒教文化圏特有のものであろうか。中元節は祖先は無縁仏の堂を祀るもので、嫁いだ娘が春節とともにこの機械に帰省する。8月2日は豊作祝いで、チワン族の年中行事が4月の種蒔きから9月の収穫までの間に多いことがわかる。重陽節には新米を食べるが、そのほか春節と3月3日にも鶏を食べる。この行事のサイクルはきっと大人にとっては早いと感ずるのであろう。日本では農業に携わらない限り、そうした季節と労働が強く関連した祝い事はもはや感じられなくなって、年中が祭り騒ぎのようなものになっているが、チワン族ではまだまだみんなが同じ日に同じことに参加して交流を図ることがいろいろとあって、そういう節目のある生活は健康的で毎日が充実しているように思える。それも小さな村単位の生活で、貧富の差がまだ極端化していないからであろう。それゆえ急速に貧富の差が拡大している今の中国がそうした少数民族にどのように影響を及ぼして行くかはわからない。みんぱくはそうした政治経済問題には立ち入らず、かつてあった、また今ある民族独自のモノを収集して紹介するだけで、その固有の文化が今後変化しても、それはそれでまたその時のものを見つめて行けばよいという立場だ。伝統文化なるものも固定したものではなく、年月とともに必ず変化する。その変化しかものを否定せずに、その変化することの一種の逞しさに着目することは大事だ。それに変化したように見えて根底には変化し切れないものが残ることもある。会場2階にも映像を見せるコーナーが2か所あった。またミャオ族の竹やひょうたんを使った楽器や銀工芸品、女性が暇を見つけては少しずつ縫う刺繍、そして蝋けつの染色品などの紹介で、日本で言えば民藝品に属するものがいろいろと並べられた。ミャオ族の刺繍や銀細工は特に見事で、その緻密性は日本ではもう一部でしか見られず、また人件費の点で非常に高価につくものなっていて、将来的にミャオ族も同じようになるのかどうかと思わせられる。ミャオ族の女性の頭飾りを映像で紹介していたが、その凝った作りは、日本でいえば江戸時代の髷を思わせるが、それにさらに豪華な細工ものを添える点で日本にはかつてなかっか文化と言ってよい。ナシ族の紙作りと、その紙に記すトンパ文字の紹介が最後にあった。紙の材料は植物繊維で、森に入って伐採して来るのだが、映像にはその植物名の紹介がなかった。漉く場面を見ると、和紙と全く同じだが、トロロアオイを入れるのかどうか。紙はかなりごわごわした感覚のもので、植物はみつまたやガンピではないかもしれない。トンパ文字は漢字と祖先は同じなのかどうか、絵文字そのもので、動物などはそのままその形の特徴を捉えて済むが、助詞や動詞はどのように表現するのか気になった。