盛んにこの曲を聴いた時からもう20年経ったと思うと、これから残りの人生は夕日が沈む間際のような状態にあることを実感する。

今TVを見ていると、コマーシャルなしで夕日が沈むところを固定カメラでずっと映し出していた。それで驚いたのは、本当に沈むのが早いことだ。それは日常的に見てよく知っているが、改めて雲ひとつない水平線の彼方に円形の夕日だけが映し出される状態で見ると、人生の最晩年の象徴に思え、自分の過去や現在、そして未来を重ね合わせてしまう。さて、今回採り上げるザ・スミス(The Smiths)の曲は、筆者の4つ年下の妹の同窓生のEくんからLPを借りて1987年の前半期に聴いたと思う。あるいはその前の年であったかもしれない。当時Eくんとはアルバムの貸し合いをしていて、毎月1回は大阪に出て会っていた。このことは前にも書いたのでこれ以上繰り返さないが、Eくんから当時借りた新しい音楽は新鮮で、教えられることが多かった。その中で筆頭に挙げていいのがこの曲の入った『THE QUEEN IS DEAD』だ。アルバムのジャケットに若い頃のアラン・ドロンが写っている。このアルバムを一聴し、たちまちザ・スミスを好きになった筆者は、そのことを次にEくんに会った時に言うと、Eくんは気前よくそのアルムバを筆者にくれた。Eくんはザ・スミスはあまり好まないらしかった。筆者が気に入ったのは、いかにも50年代末期のロカビリーのような雰囲気をバンド・イメージとしながら、イギリスらしい、そして80年代半ばにかなった音を感じたからだ。過去の音楽の遺産からどう引用しながら新感覚を作って行くかという実験は、80年代からより顕著に始まったが、その中でもザ・スミスは着眼点がよく、当時のイギリスが生んだ最も良質のものではなかったという気がする。ともかく筆者は1年も経たない間にザ・スミスのレコードを次々と買って、ほとんど全曲を聴いた。当時はマキシ・シングルが全盛で、ザ・スミスはそうしたものを大量に出していたが、当然それらもくまなく探し出して揃えた。アルバム数は4、5枚といった少なさだが、そのシングルを含むと30枚以上になったのではないだろうか。どれも2、3分のヴォーカル曲で、その点はビートルズ時代そのままだが、その短い音楽に言いたいことを濃縮して詰め込んでいて、駄作がなかった。だが、当時、いや今もそうだが、筆者はザ・スミスについて語り合える人物がおらず、仕方なしにまだ3歳かそこらの息子の前でよくステレオを鳴らしていた。そのためかどうか、息子は中学になると、ザ・スミスが、そして特にギタリストのジョニー・マーが好きになった。マーはかなり暗い印象で、いつも物陰にいるような感じがある。それがまた格好よく、息子もそれは感じていたであろう。
ザ・スミスは4人編成で、歌詞はヴォーカリストのモリッシーが書き、それにジョニー・マーが曲をつけた。ドラムとベースのふたりはほとんど目立たなかった。そして、どのロック・グループでもそうだが、何と言ってもヴォーカルは目立つから、ザ・スミスはモリッシーという感じがあった。だが、やはりジョニー・マーの才能なくしては魅力は生まれなかった。残念なことにモリッシーとマーは仲違いして、88年だったか、とにかく筆者が熱中し始めて間もない頃に解散してしまった。その後、すぐにモリッシーはアルバムを出し、筆者はその最初と次のアルバム、あるいはさらにもう1枚買ったが、どれも2、3度しか聴かなかった。ザ・スミスにあった魅力はすっかり失せていた。似たサウンドを奏でてはいたが、マーが欠けたことによる変質は疑いようがなかった。一方のマーは別のバンドのギタリストとしてしばらくして登場したが、そのCDにも感心しなかった。不思議なもので、モリッシーとマーが協力したためこそのザ・スミスで、ふたりが離れると、もう魔法の力は完全に消えたのだ。わずか数年の活躍で消滅したバンドは無数にあるが、ザ・スミスほどの質のよいバンドは80年代後半にはいなかった。モリッシーは辛辣な男で、歌詞の中にイェーツやキーツを読んでどうのこうのとあったりするほどの文学青年であった。それがザ・スミスに対して単なる労働者階級の職のない不良が作ったバンドという枠を越え、機会があれば、つまり金持ちにでも生まれていれば、もっと違った世をわたったであろうと思わせるようなハイブラウな感覚を漂わせていた。だが、当時のイギリスの現実はそうではなかった。サッチャー政権下で若者には職がなく、エネルギーの発散をどうするかといった日常があった。この曲が入ったアルバムのタイトルが、『女王は死んだ』であるから、日本で言えば『天皇は死んだ』になるのか、とにかくその過激さにはちょっとびっくりさせられる。それほどにイギリスでは若者が深刻な立場にあった。その反体制的な歌詞はロックの伝統をそのまま受け継いだものだ。悪く言えば、社会の片隅でひねくれた不満を唱えているだけと捉えられるが、ロック・バンドの出来ることはせいぜいその程度のことで、分をわきまえた態度であるとも言える。つまり、若者たちの代弁者としてはふさわしかった。だが、イギリスの若者がどの程度モリッシーのように文学好きであるかは知らない。おそらく、イェーツやキーツを読む若者は少数派であろうが、そうした文学者の名前が歌詞に登場しても違和感のないところがさすがイギリスだ。日本ではまずそんなセンスのあるバンドはいない。いたとしても受け取り側に問題がある。そのため、イギリスでどんな若者がザ・スミスの音楽を愛聴したのかと思うが、モリッシーは歌詞をいたってシンプルでストレートな内容にしたから、広い人気を獲得出来た。
この音楽を聴いていた当時のことを思い出すと、ザッパが最後のツアーをしていた頃に相当する。それなりにザッパの音楽を追いかけて、発売されるCDはみな買っていたが、心はほとんどザ・スミスにあった。それほどに熱中していた。したがって、今久しぶりにLPを引っ張り出して聴くと、20年前の頃がいろいろと蘇り、妙に切なくもなる。それはザ・スミスの音楽が先に書いたように、常にジャケットに使用する俳優や歌手のモノクロ写真の使用やロカビリー的な雰囲気といった回顧的な部分を売りにしていたから、当時からすでに切ない音楽の様相をしていたからでもある。それがこうして20年経つと、なおのこと回顧は重層的になって、じっくりと聴くと思わず落涙する。そう言えば、『今時ザ・スミスの音楽を聴く者はいない』と、5年ほど前に東京のUさんが語っていたが、先日ネット・オークションでザ・スミスの全アルバムとシングルを格安で出品している人もいて、かつて熱心に聴いた人ももう不要な音楽となっている。ポップスなどそうした使い捨てが似合うと言ってよい。手元に置いても、残りの人生でそう何度も聴くことはないからだ。それに筆者にしても、街を歩いていてふっとザ・スミスの音楽を思い出して口ずさんでいることがあるが、そうした時の気持ちよさは、実際に音楽を聴いて楽しむのとほとんど同じで、レコードやCDは、じっくりと何度も聴いて楽しみ、心の中に浸透し切れば役目を果たして不要となる。ははは、だが、筆者はザ・スミスのレコードやCDを生涯手離さない。今何年かぶりでLPを引っ張り出して眺めると、Eくんの声が聞こえて来そうであるし、当時歩いた大阪の街中の風景が鮮烈に蘇る。そして、それらが筆者にはとても貴重な思い出になっている。そうしたことを書いておきたいために、実はこの曲はこのブログを書き始めた頃から、いつ採り上げようかとずっと機会を待っていた。今年逃せばまた来年の今頃になってしまうので、今日ようやく書くことに決めた。ザ・スミスの全曲の中では筆者はこの曲が最も好きだ。他にも名曲は多いが、歌詞とメロディの合致の点、そして曲全体のはかない美しさはほかにはない。ザ・スミスの音楽はエレキ・ギターの大音量を響かせるものではなく、語りに近いモリッシーの歌声に、アコースティック調のギターが軽快に重なるが、ザ・スミスの解散以降、それを真似た音楽をしばしば耳にし、それは現在に及んでいるほどだ。それほどに彼らの音は創造的なものであったことが今になって証明されている。わずか数年にぱっと散ったバンドであったということがかえってよかった。これが再結成などと称してまた登場すると、かつて築いたファンの中にある栄光を無残に汚しそうな気がする。
さて、ザ・スミスを曲を気に入っていた頃、筆者は大阪のナビオ阪急横の狭い通りを歩き、今もあるケンタッキー・フライド・チキンの前に来たところ、その店からか、あるいは別の店からか、本曲が鳴り響いていることに気づいた。ところがそれはアルバムで聴くのとは違って、もっとテンポが早く、またライヴ演奏のようなワイルドな感じがあった。筆者は早足だが、ちょうどそれに見合った速度であったのが印象的で、その鳴り響いていた曲と同じヴァージョンを探そうと思いながら、不思議なことにザ・スミスの音楽を片っ端から聴いたにもかかわらず、その演奏と同じものがなかった。いや、それどころか、本曲は別ヴァージョンすらなかった。つまり、本アルバムに入っているヴァージョンのみで、では筆者が大阪の街中で聴いたのはいったい何であったのか、今もその謎が解けない。その頃はもうこの曲がすっかり好きになっていたから、聴き間違えたはずはないと思うが、街中の喧騒の中では違う響きで鳴っていたかもしれない。それはそうとして、この曲は実際に聴くと、頭の中でメロディを思い出す時よりもかなり早い。それがまた不思議で、筆者の脳裏にはもっとゆったりとした曲として記憶されている。なぜそうなのかはわからない。筆者がこの曲の中で最も好きな部分は、「And,if a double-decker bus crashes into us,to die by your side such a heavenly way to die,and if a ten ton truck kills the both of us,to die by your side to the pleasure and the privilege is mine.」で、この下りをよく口ずさむ。「2階建てバスに衝突して君のそばで死ぬことがあっても、天国へ行ける。10トン・トラックがぼくたちを殺すことがあっても、君のそばで死ぬ喜びと権利はぼくのものだ」といった意味で、この前後には、家にいるのが嫌で、ドライヴに連れ出してもらいたいことが書かれる。その詳細は不明だが、行間からは親や兄弟とうまく行かず、かといって家出も出来ない青少年の姿が浮かぶ。そうした人々はいつの時代でもいるが、今の日本では当時のイギリスと同じように深刻な状態になっているのではないだろうか。いじめやそれにフリータなど、家という存在が希薄になり、若者は居場所がなく、ケータイを使用したり、ネット空間に漂いながら、人とうすっぺらい関係を築くしかない。そのために自殺願望が多く、最近は浴室で洗剤を混ぜ合わせて有毒ガスを発生させるのが流行だ。それに、自殺願望者が同じ車の中で数人集まって死ぬという事件もよくあるが、そうした若者は恋することを知らないのだろうか。この曲の歌詞は、好きな異性(あるいは同性でもいいが)がいて、その人と一緒ならいつでも死ねるということを歌い、そこが純粋で筆者が強く惹かれる点だ。
つまり、モリッシーは社会や家庭などには絶望しているが、この曲ではまだそうした者を救う存在として友人ないし恋人の存在を挙げ、その人とならばどうなってもいいという気持ちを歌う。80年代のイギリスが今の日本とどう社会状況や人々の熱意といったものが違うのかはわからない。だが、ザ・スミスの曲が心に響くのは、刹那主義ではあっても、究極では人を求め、そこに同化したいという要求を表現している点からだ。同じことは今の日本の若者が群衆となって聴くポップスにも当然存在するとはいえ、その歌詞内容はうすっぺらいものに思えてしまう底なしの不信感がつきまとう。つまり、音楽でさえももう救いようがないほどに絶望している若者が一方に増殖しているのではないか。実際はイギリスではザ・スミスのこうした曲に触発されて自殺した若者がいたそうだが、モリッシーは、そうした人々の最後にザ・スミスがいたことはまだ救われるではないかと、相変わらずモリッシー節を語っていた。だが、それは本当のことで、日本では今はそうした何かに感動することもない人々が多く自殺に向かっているに違いない。だが、一緒に死んでもかまわないと思えるほどの恋人がいれば、人はどうにかして生きて行くものであるから、その恋人を得ることの困難さがそもそも今の日本には蔓延したと言える。いや、肉体関係を結ぶことは簡単なのであろうが、問題はその先で、ふたりがお互い死ぬほど愛し続けるという間柄を続けることが困難なのだ。それをわかっているからこそ、若者が次々と自殺するのかもしれない。モリッシーがそうした悩める若者の声を代弁した形で人気を博したとして、そういう立場はなかなか持続が難しい。モリッシーやマーは人気者になって金持ちになるだろうが、音楽の聴き手は相変わらず何も変わらないからだ。いや、心優しいファンたちは、素敵な音楽によって一時でも心休まる状態を与えたくれたザ・スミスに感謝こそすれ、金持ちになったからといって否定する人はいないだろう。そう思うと、モリッシーはなかなかうまく若者たちを洗脳して有名人になったが、誰にも有名になれるほどの才能は備わっていないのが現実で、これは仕方のない話だ。だが、日本の同じようなロックやポップスとは何かが大きく違うことを感じる。『女王は死んだ』といった言葉に代表されるように、体制批判を平気でやるということは別にして、労働者階級の若者に対する眼差しが日本のそれとは本質的に違ってもっと赤裸々な印象を与える。筆者がザ・スミスを好むところはそこだが、赤裸々とはいっても粗野では決してないのだ。モリッシーやマーはおそらく傷つきやすい心を持った青年で、その繊細さが過激に表面に出たのがザ・スミスの音楽であった。したがって、繊細さを理解しない粗野な人物には彼らの音楽はまずわからない。
先ほどピアニカで音を拾ったが、この曲はC♯マイナーで、特徴的なイントロのリズムがとてもよい。3分以上あると思うが、アルバムでは3番目に長い曲ではないだろうか。アルバムの冒頭曲はアルバム・タイトル曲で、4、5分はあると思うが、かつてデレク・ジャーマンがこの曲に映像をつけて話題になったことがある。当時それを何度か映画館で見る機会があったにもかかわらず、いまだに見ていないのが気がかりだ。本アルバムはオーケストラが少しかぶさる曲があり、本曲もそのひとつだが、それはマーが作曲した。ギターだけではないところを示してさすがと思わせる。多弁なモリッシーとは違って、マーは顔からも寡黙な性格がよくうかがえる。その分ギターに込める思いが強く、そのことは曲からよく伝わる。このアルバムはザ・スミスとしてはこの後に出たライヴ盤を除いて最後のものとなったが、今聴いても行き着くところまで行った感がある。どのアルバムもそれなりに素晴らしいが、全体にマイナーの静かな曲が目立つこのアルバムは、悲しみがこれ以上になってはもう持たないというところに達していて、それがなおさらザ・スミスの全体像をはかなくも美しいものに仕立て上げている。何度も「美しい」と月並みな言葉を使っているが、彼らの音楽にはこの言葉が一番ぴったりする。労働者階級の、しかも誰からも理解されない青年の叫びに応えるぎりぎりのメッセージのようなものが伝わる気がして、筆者はことあるごとにこのアルバムを当時イギリスで聴いた若者の心の中に立ち入ってみたくなる。そして限りなくそこに同感出来る気がする。マキシ・シングルのジャケットのひとつに、煉瓦造りの建物を背景にして立つブーファンの髪型をした若い女性の写真を使用したものがあった。そこに写る女性は、現在の日本で言えばヤマンバみたいなものだ。つまり流行の最先端を気取る女性だが、金持ちではないから、その特徴的なルックスも社会への反抗の思いを込めている。世の中には矛盾が溢れている。越えられない社会的な階級、貧富の差など、永遠の問題が人間にはあるが、何の肩書や家柄、財産のない、最も底辺の存在のひとりであることを常に意識している筆者にとっては、ザ・スミスの音楽が遠いところで絶えず鳴り響いていて、それが「決して消えない光」になっている。