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●「BALLAD in G minor op.23」
暖かい風が吹く季節になった。筆者のような年齢になると、1年の365日は毎日微妙に空気の差がわかる。だが、実際は1年は365種の空気に分類出来ず、もっと多いさまざまな日によって成り立っている気がする。



●「BALLAD in G minor op.23」_d0053294_18502256.jpgどういうことかと言えば、たとえば3月20日という日は、これまで50回以上経験して来たが、いくつかの天気があったはずで、それにこっちの気分も絡むと、同じような気分の3月20日は人生にそう何度もないことになる。厳密に言えば何事も1回限りだが、似た季節の似た空気の似た時間は毎年ではなくても、以前に経験した気がするのも事実であり、しかもそれはいつも予期しない形で突如やって来る。さて、今日はぼんやりと書くべき内容を決めていたが、さきほど急にショパンのこの曲が脳裏に蘇り、今年を逃すとまた何年か経たねば書く機会がないかもしれないと思って、予定を変更した。ところで、つい先日のニュースに、ウィニーのソフトを使用している人をプロヴァイダーが特定して、あまりに悪質な人に対してはネットを切断する処置を取るという議論が湧き起こっていることが書かれていた。パソコン1台あれば、CDやDVDを一切買わずとも、同じウィニー・ソフトを持っている人のパソコン内部のデータを無制限に何でも取り込めるというのであるから、これは夢のように便利になったと言える。ザッパは晩年に、デジタル社会になれば、CDは不要で、ネットでダウンロードして音楽を聴く世の中になると書いていたが、その一方でウィニー・ソフトのような登場について思いを巡らせていたであろうか。誰かが買ったCDがウィニー・ソフトによって共有されると、CDは1枚だけ存在すればよく、それでは演奏家にもレコード会社にも利益が発生せず、結局音楽文化は廃れる。自分ひとりくらいCDを買わなくてもコピーすれば充分という意識があるのだろうが、そのようしてまで聴く音楽にどれほどの意味があるだろう。音楽は他人のパソコンから盗んで来て聴くものか。それに、そんなに多くの音楽が生活に必要か。こんな難しい音楽をあれもこれも知っていると、ただ自惚れるだけのものか。筆者はこのカテゴリーで、音楽評論を繰り広げて正しい価値を他人に伝達するのが目的ではない。そういうものはいくらでも存在する。筆者にとって大事なことは、その音楽が今まで、そして現在もだが、自分にとってどういう出会いがあって、どういうように心の中を彩って来てくれたかだ。筆者はすべて芸術作品はそうであると思っている。時空を越えて通ずる作品の絶対的価値という側面はひとまずおいて、自分にとってどうであったかだ。これは自分のお金を費やし、しかも何度も繰り返して聴くという「人生」を費やすことでその作品に接して来た「記憶」に深く関連している。そういう記憶は、ウィニー・ソフトによるお手軽な入手方法で得られるものだろうか。
 筆者にショパンの曲を教えてくれたのは、10代の終わり頃、近所の兄さんであった。ブライロフスキーという痩せた精悍なおじいさんがジャケットに印刷された2枚組LPをくれた。マズルカが収録されていた。その後その盤は、従姉の娘が小学生の頃にクラシック音楽に目覚めたというので、貸してほしいと言われ、他のクラシックのアルバムと一緒に手わたしが、数年後、その子はきれいさっぱりに音楽から離れた。大体そういうものだ。親が思うほどに子どもは秀でてはくれない。子どもに対して、好きな音楽はウィニーを使っていくらでもダウンロード出来るよと教える親があるとする。きっとそうして育った子は芸術のゲとも無縁な子になる。それより大事なのは、親がたった1枚でもいいから、自分の本当に好きな良質のアルバムを、自分の時間を作ってさりげなく家で鳴らしていることだろう。とはいえ、筆者はそういう家庭には育たなかった。筆者のクラシック音楽体験は幼少の頃から鳴っていたラジオ番組と、20代以降20年間以上、ひたすら毎日数時間以上は聴き続けたNHK-FMに基礎がある程度で、給料をもらうようになってからは、毎月何枚か買い続けたLPに尽きる。80年代後半の一時期、中古レコード屋に処分にしたことがあるが、その後はCDを買い始めたので、結果的に増えている。だが、不思議なもので、昔聴いた音楽をそのままCDでほしいと思う。昔聴いた記憶を大切にしたいからと言うより、LPを聴くのが不便であるからだが、そんな1枚にミケランジェリのショパンがある。グラモフォンの日本盤で、1971年の録音だ。これをいつ買ったか忘れた。70年代前半であったことは確かだが、それは先に書いたブライロフスキーのLP以外に何か買ってやろうと思ったからだ。働き始めて間もなかった頃と思うが、2500円ほどしたのだろうか。今の価値なら1万円近い感じだが、レコードはそのような高価なものという通念があったし、であるからこそ大事に聴いたものだ。その何度も繰り返し聴いたことが、心の大きな糧になった。そういう音楽にわずかでも出会えることが人生の幸福というものだ。なぜ、この盤を買ったのか確かな記憶はないが、おそらくNHK-FMで紹介されたのを聴いたからだったと思う。音楽雑誌というものをほとんど買ったり読んだことのない筆者は、もっぱら自分の勘に頼って聴いて来たし、今もそうだ。情報雑誌の意見はほとんど鵜呑みにしないどころか、逆に書かれたそうした意見は信じない方だ。それに人の意見も聞かない。だが、『誰それがあまりいいと言っていないから、自分もそう思う』と口走る人がいたりする。自分の耳で聴くこともせず、また聴いても決められもしない人に、そもそも芸術がわかるはずがない。音楽雑誌など買う金、読む暇があれば、その分少しでもレコードを聴く方に回すのがよい。音楽はとにかく一にも二にも聴き込む必要がある。そして、筆者はこの盤を何度も聴き過ぎたので雑音がひどくなり、CDを買った。だが、LPの方が音がふくらみがあって断然よいように思う。
●「BALLAD in G minor op.23」_d0053294_21450707.jpg
 80年前後だったか、ミケランジェリの来日コンサートがあった。直前に中止になったが、ミケランジェリはキャンセル魔で有名であった。完璧な演奏を求めるあまり、自分でピアノを分解して組み立てることも出来るとか新聞か何かで語っていたこともあった。また、レコーディングが大嫌いで、この盤の当時、グラモフォンには3枚しか録音していなかった。そのうちの1枚のドビュッシーも買ったが、ベートーヴェンの盤は現在に至るまで聴いていない。ミケランジェリの没後、海賊盤も含めてどんどんCDが出たし、筆者も多少は所有するが、このショパンの盤を超える透明感に溢れた演奏はない。ショパンの無数にある他の演奏家のレコードやCDは筆者はほとんど聴いていないが、あまり聴きたいとも思わない。それはきっと20代前半にこの盤を、誰に教わるのでもなく、自分の働いたお金で買って、何度も聴いた経験が貴重に思え、それを凌駕する経験はもうこの年齢になればないと思うからだ。そう言えば、筆者はショパンの「バラード第1番」を生演奏でかつて一度だけ聴いたことがある。ある民間の音楽ホールで、音大を出て間もない若い女性が演奏したのだが、予想以上にいい演奏で驚いた。その時同席した同じような若い演奏家は、ショパンはよく知っているのに、何と「バラード第1番」はレコードでも聴いたことがなく、『バラードであるのに拍子がおかしい』などと、全くとんちんかんな感想を言っていたが、えてしてそのようなもので、音楽に詳しいと自認する人でも案外名曲を全く知らなかったりする。クラシック音楽はほとんど無限に存在するので、何からどう聴くかは問題と言えるが、よく通販で売られている名曲シリーズといった類のものは、入門として常識的に知っておくべきもので、たとえばいきなりシェーンベルクもないだろう。そして、ショパンと言えばほかにも名曲はたくさんあるので、「バラード第1番」に出会うのに年月がかかることもあろうが、最初に聴いた盤があまり気に入らず、それで注目しないままになったりすることがある。特にクラシック音楽ではそういうことが起こりやすい。名盤と言われるものがあまりにも多いにもかかわらず、実際に聴くとさほどでもないということがままあるからなおそうなのだ。そのため、ほとんど自分にとってかけがえのないほどの気に入った盤に出会えるのは奇跡的なことと言える。年齢的なことも含めて、時期を逸するともう同じ感動には巡り会えない。したがって、筆者がこのカテゴリーで紹介する曲目というものは、みな他人には全く筆者が感じているようには感じられないもののはずで、であるからこそ書き留めておきたい気がしている。他人に伝達することが不可能であるとわかっていながらも、書くことは無意味と同義ではない。無意味は最初から何も書かないことだ。
 「バラード第1番」はあまりに有名な曲なので、映画でもよくかかったりする。ヨーロッパに行けば、レストランで老齢のピアニストがへたくそに演奏していたりすると何かで読んだことがあるが、まさにそういう状況にはふさわしい曲だ。『戦場のピアニスト』という映画でも使用されたが、9分ほどの曲であるため多くをカットせざるを得ず、しかも演奏はよくなかった。いや、その演奏は第2次世界大戦当時としては理にかなったものであったが、ミケランジェリのこの盤の演奏に耳慣れた者からすると、古臭くてぎこちない。おそらくミケランジェリの演奏はショパンが聴くと仰天するものではないかと思うが、その一方で、ショパンの魂が入ってショパンそのもの、ショパンが眼前で弾いているという気にもさせられる。ショパンの曲はショパンと同国人が演奏すべきという意見もきっとあろうが、ミケランジェリの格好いい演奏を聴くと、ポーランドの田舎の人の演奏は聴く前から想像出来てしまう。「格好いい」という表現を使ったが、実際そうとしか言いようのないもので、「完璧」の言葉がこれほどふさわしい演奏はまずない。同じ曲をかつて無名のピアニストによるCDで耳にしたことがある。全くこれが同じ楽譜から奏でられる音楽かと耳を何度も疑ったほどのガタガタの演奏で、そのCDで初めてこの曲を聴く人の不運さを思った。建物で言えば、ミケランジェリのゴシック寺院に対するその無名の演奏家の貧民窟といった感じの比較が妥当なほどで、それほどにこの盤の演奏は精密かつ重厚に組み上げられていて、それでいて機械的冷たさがない。コンピュータ音楽とは反対の極致にあるもので、人間の手技がなし遂げることの出来る音楽の最良の見本のひとつと言ってよい。LPではA面にマズルカが10曲、B面に「前奏曲 第25番」「バラード第1番」「スケルツォ第2番」が収録され、CDもこの順に並ぶが、どの演奏も素晴らしく、また全体的流れをよく考えて曲目を配置している。特にB面にそれが言える。LPでは解説を粟津則雄が書いていて、『「詩情」などというあいまいなものに足をすくわれたひき崩しはまったくない。…』といった箇所などはなかなかこの盤の本質を言い得ている。冷徹な演奏と言ってしまっても当たらないが、クールさがかえってショパンの悲しみや激情をよく表現していて、耳にべとつかない。『この箇所で感動するでしょう?』といった、けれん味は皆無で、しかも隙が全くないが、それでも音と音の間の中のわずかなずれのようなものに聴き手は自分の思いを自由に投入出来る大きな広がりがある。その大きな空間の中にミケランジェリの姿が見え、そしてその向こうにショパンの姿も見えているという感じで、その一種の絶対空間における孤独感のようなものが、ちょうど春めく今日のような天気にはまさにぴったりなのだ。よく目を凝らして見ると、ミケランジェリの演奏する姿を見つめる筆者の後ろ姿も見えそうだ。それだけ筆者も年を食ったのだ。ショパンのレコードやCDはほかにも所有するが、結局この盤のこの曲に戻る。これは今初めて読んだが、CDの解説には、『シューマンは、ショパンと会った際、このバラード第1番をショパンの全作品中で最も好きな曲だと述べたところ、ショパンもその言葉に喜び、「私もまた一番好きなひとつなのです」と語った…』とある。楽譜の出版は1836年というから、まだ200年は経っていない。録音嫌いのミケランジェリがこの曲を選んで演奏してくれたのは、人類の財産と言っていいのではないだろうか。
●「BALLAD in G minor op.23」_d0053294_13583459.jpg

by uuuzen | 2008-03-20 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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