たまるばかりで少しも目を通さない新聞だが、たまたま番組欄を見ると、深夜にこの映画をやることを知った。2年ほど前からネット・オークションでこの映画のビデオかDVDを買おうかと思いながら、そのままになっていたからちょうどよかった。
録画して早速見た。この映画を見て数日後、アメリカ映画の『遠い空の向こうに』を見て、よく似た部分があると思い、どっちを取り上げようかと迷いながら、『遠い空…』の方は先週の別のカテゴリー内で少しだけ触れた。『ニュー・シネマ・パラダイス』の評判を友人から聞いたのは、もうかなり昔のことだ。その友人は映画ファンで、大量のビデオを所有してもいたが、海外移住する前に全部処分した。どんな映画のことを訊ねても答えてくれたものだったが、今ではネットがその代役をしてくれる。便利にはなったが、友人に訊ねることが不要になった分、味気ないものだ。ネットは人間をつなぐようでいて、その逆のことをしているのではないかと思ったりもする。だが、ネット時代に育つ若者にはそういう考えはきっと理解出来ない。時代は変わるのだ。『ニュー・シネマ…』は見るまでどういう内容か全く知らなかった。知ってから見ては面白くないので、たいていは知識のないまま作品に接することにしている。その方が衝撃が大きくてよい。『ニュー・シネマ…』を見て感じたことは多い。月並みな言葉を言えば感動した。だが、それがどうも少し質が違う。1989年制作と知って、やはりそうかと思った。80年代はもうすでに昔だが、筆者にすれば89年はなかなか微妙な年で、まだかなり新しく、「80年代」という言葉では括れないものを感じる。90年代になると味気ないムードが社会に蔓延して、筆者の中ではほとんど楽しかった記憶がないが、89年はまだそれがあったと言おうか、まだ自分の若さを感じることが出来た。だが、ひしひしと90年代の味気なさが忍び寄っていた頃で、当時を思い出すと妙な気分になる。その頃筆者はザ・スミスの音楽をよく聴いていたと思う。スミスの音楽はロカビリーの香りを濃厚に漂わせながら、それでいて社会の閉塞感を斜めに見ながら皮肉たっぷりにさまざまなことを歌い上げるもので、過去に蓄積された音楽遺産をどう時代にかなうようにうまく使うかといったところに着目した部分があって、ロカビリーを知っている者からすればどこか懐かしい、それを知らない世代にとっては、自分たちより大人の世代が懐かしがっている様子を通じてその懐かしさを味わうという、屈折した距離感のようなものを感じていたのではないだろうか。そういう距離感、閉塞感をスミスははかないメロディに乗せてよく表現し得ていた。日本で言えばパフィーがもろビートルズ風の曲で登場した時、当時彼女たちを歓迎した若者にも同じような感覚はあったと思う。
筆者が『ニュー・シネマ…』を見て感じたのもそれだ。いかにも大作で、巨匠が撮ったかのような貫祿はあるが、どのシーンもあまりにも計算され尽くされ過ぎて、それが時に白々しいと言おうか、次の場面の予想がついてしまうことがたびたびあった。これは過去の映画を膨大に研究し、どういう脚本や撮影の仕方がいいのかを学び、その方法論に忠実に沿いつつ、しかも映画の内容として映画の歴史を大きく主軸に据えるという、いかにもマニエリスム的な手法に頼っているためだ。映画を題材にした映画という点において、映画ファンを強く意識しているが、見始めた時すぐに思ったのは、『今はもう映画を映画館で楽しむ時代ではなく、ビデオやDVDだしな…』であったところ、そのとおりの言葉が最後近くの映画館経営者のセリフに登場したことに苦笑した。その意味で、この映画の価値は50年や100年後にもっと醗酵してよいものになるのではないだろうか。筆者のように子どもの頃に映画館でよく映画を楽しんだ者からすれば、この映画はノタルジーとするには歴史が近過ぎて、楽しむこと出来るが、その奥には自分が古い時代の人間であることを意識させられて、何となくさびしい。スミスの音楽を聴いた時もロカビリーを思い出して同じ気分になったかと言えばそれはなかった。これは矛盾する話に聞こえるがそうではない。スミスの音楽は同時代的に楽しんだからだ。89年の映画をおよそ20年後に見るというのとは違う。では、今は先に書いた50年や100年の将来により近づいたから、かなり醗酵もしていい味わいを感ずるべきという理屈になるが、それもまた違ってどうも落ち着かない。それは89年において30年前の過去からこっちを回顧している男の物語を、89年からおよそ20年後に見た奇妙な感覚と言えばよいか、古いなら古いでいいのに、なまじっかタイトルに「ニュー」がついているように、最初に書いたごとく、89年という現在に近い作品を意識させられる点において、作品全体がどうも作り物めいて重厚感がないのだ。断っておくが、俳優の演技はみな素晴らしくて感動は確かにあるし、各場面は長く記憶に残るものだが、それでももっと過去の巨匠、たとえばフェリーニでも誰でもいいが、往年の名監督と呼ばれるような人々の作品とは明らかな差がある。それは89年という時代のせいだろう。つまりザ・スミスの音楽に近いのだ。過去の要素に大きく立脚するあまり、結局は長い歴史の中で消えて行く運命にあるものと言えばよい。今後の映画のあり方を根本的に決定する斬新さといったものとは無縁で、その意味において筆者はたとえば過去の大作など何も意識せずにさっさと作った映画の方が気楽でよく、時代を前向きに体現していてよいと思えたりもする。名作には学ぶべきではあるが、それに振り回され過ぎると、結局もとからある良質の部分をなくす。その意味でこの映画はノスタルジーを題材にしているとはいえ、ノスタルジーを感じる世代には逆に好かれないのではないかと思う。中年以降の人もさまざまだが、筆者はまだノスタルジーに浸って楽しむという気はない。
見ていて長い映画だなと思ったが、調べてみると124分で、オリジナル版はまだ30分長い155分とのことだ。そしてDVDでは170分版が収録されている。それらの長いヴァージョンの内容を簡単にネットで調べたところ、画面を見ながら感じていた違和感を払拭させてくれた。124分版では中途半端に登場しなくなる人物がいたりするが、やはりそうした人物が後半になって主人公に絡んで来て、別の物語を構成する。「別の」と書くのは、監督としてはそれをひとまず切り離して劇場版、つまり筆者がTVで見たものを編集出来たからで、悪く言えば脚本のその融通性が、この映画の満足度をいささか減じさせている。主人公はシチリアの田舎町にいた頃、転校して来た美人の女の子に恋し、やがてふたりは恋人同士になるのだが、徴兵にとられている間、ぷつりと彼女からは連絡が来なくなる。結局その後のなりゆきは描かれないので、ま、そんなものかと思っていたが、それにしてはどうも中途半端な描き方を感じた。やはり、監督は最初はその女性とのその後のことも描いていたのだが、あまりに映画がヒットしないので、124分に切り詰めたのだ。機会があればその完全版とやらも見たい気がするが、それでも熱烈にという気はない。それは、そのように切り詰められて大ヒットした映画であるならば、それが完全版であることと、映画はひとつの空想の産物であるから、結末がどうあっても、それはそれという気がするからだ。劇場版を監督が執念で170分版をDVD化したかったのはわかるが、そうなると、次には190分、240分ということになって、いつまでも切りがない。しまいには主人公が老人になり、死に、その息子の時代になってといったように、大河も大河、大大河ものになる可能性もある。作り話にそんな長い間つき合ってはいられないから、せいぜい124分版で充分と思う。だが、124分版以外に155分や170分のものが存在するという事実は、作品の印象をあやふやにして、この映画そのものの価値をいささか減じるものにしている。名作とは、形はだいたい確固としている。だが、80年代に、音楽でも別ヴァージョンが大流行したことを思えば、この映画がそのようにいくつかのヴァージョンを揃えることは時代に沿った考えだ。その中途半端に登場しなくなる女性は、『華麗なるギャツビー』に登場したミワ・ファーローを思い出させるような顔立ちやヘア・スタイル、化粧をしていたが、いかにも高嶺の花といった、つまり別世界に住む女性を表現していて、うまいキャスティングながら、ちょっと違和感があった。それはおそらく過去の名作に学んだとおりのことを実践しているからで、もっと89年当時の美人タイプを選んでよかったのではないかと思う。どうせ映画は作りものであるから、あまり時代感覚の考証まで尽くし過ぎると、その手の内が見え透いて白けるのだ。
この映画で一番好演していたのは、独身の映写技師で、本当の主人公と言ってよい。彼は学はなく、小学校も出ていない。そのため、地元の小学生と一緒に試験を受けて卒業資格を取るという場面もある。映画なるものが昔、町にやって来て、その技師は技術を覚えて、その後ずっと町唯一の映画館で技師をしているのだが、そこに父親が戦争に行って帰って来ない小さな子どもが毎日遊びにやって来る。そして見よう見まねで映写技術を覚えてしまう。そして、ある日映写中のフィルムが燃え上がって技師は失明するが、その後は男の子が技師の役割をするようになる。そしてそのまま高校生へと成長するのだが、技師は小さい頃から知っている男の子の頭の賢さをよく知っていて、「こんな田舎町にいては駄目だ。都会に出ろ」と強く勧める。ここが筆者には一番の感動場面であった。それは『遠い空の向こうに』でも同じで、秀でた者は大きな世界に出てこそ大成するという一種の人生訓だ。現実にはそうではないとしても、やはり映画でそのような成功物語を見るのは楽しい。映写技師は、「お前とはもう話をしたくない。お前の噂を聞きたい」と言って駅で青年を見送るが、それから30年間、その青年は一度もシチリア島に帰らなかった。ところが、母からの電話でその技師が死んだという報せを聞き、飛行機で駆けつける。30年の間に青年は名を上げてローマで映画監督になっている。徴兵時に別れたままの彼女とはもうそれっ切りだが、先に書いたように、拡張ヴァージョンでは、彼女のその後が描かれ、実は少年時代に全く勉強の出来なかった同級生と結婚して、しかもその同級生は政治家になっているというから風刺がかなりきつい。画面を見ていないので何とも言えないが、その筋立てはなかなか現実的でよい。現実はそうしたものと言ってよく、学校で全く冴えなかったような連中ほど大金持ちになったり有名になったりするものだ。つまり、小さな時にはみ出ているほど大成する。だが、はみ出ていると今はいじめに会うから、日本ではとびっきりの才能を育てる土壌がもはやない。いや、いじめにもめげずに出て来る人物からは期待出来るか。さて、葬式に参列した主人公は、目の前で古びた映画館を見る。もう使用されなくなって数年経っていて、館内はボロボロだ。昔映画を楽しんだ連中が勢揃いする前で映画館は爆破される。そこには映画そのものがもう映画館で楽しむものではなくなっ現実がそのまま示される。今の若い人にはわからないが、筆者が小学生や中学生の頃は、まだ夏休みに学校の校庭で夜映画をよくやった。30円や50円程度のお金を払ったと思うが、普段見慣れない夜の校庭に大きなスクリーンが張られ、そこに映画が上映されるのは面白かった。どんな映画を見たかは全く記憶にない。ただ友だちが集まって騒いでいた記憶だけが楽しい。つまり、映画は人と人を結びつける道具でもあった。そのことがこの映画でも最大限に表現されていた。国が違っても映画の力は同じだったのだ。
今はTVが大型化して、プラズマや液晶と言っているが、筆者には関心はない。14型のテレビデオで充分だ。家庭で大画面で見るなら映画館の方がいいと思う。だが、その映画館の画面もシネコンでは全くしょぼくて、これなら家の小さなTVで見るのと大差ないという気がする。これも昔話だが、70ミリのワイド・フィルムを使った映画がよくあって、あれは映写機を2、3台同時に映していたのだろうか、とにかく巨大スクリーンを持つ大きな映画館が大阪にはあった。そういう迫力ある画面を記憶する者からすれば、シネコンの画面はオモチャ同然で、あれでは映画館に足を運ぶ気がしない。つまり、筆者は大型TVに興味がなく、シネコンにも関心がなく、結局家の小さなTVか2番館の祇園会館かといった選択肢しか持ち合わせていないが、これはきっとたいして映画好きではないからだろう。『ニュー・シネマ・パラダイス』の見所のひとつは、町中の人が映画を通じて仲よく楽しく生活をしている様子だ。これはシチリアの田舎町ということを考えなくてはならない。カトリックの国柄であるから、神父が力を持っていて、映画のフィルムが到着し、上映する前に、必ず神父がひとりで見て検閲をする。キス・シーンがあれば技師に鐘を鳴らして知らせ、技師はその場面に紙を挟んで後で削除する。そうしてズタズタになったフィルムを見ながら、観客たちはいつになればまともなキス・シーンが見られるかと不満を抱く。やがて時代も変わって、そういう場面も見られるようになるが、そうした時代の波の表現がさまざまな形で紹介される。特に映画館の装飾がそうで、いかにも時代に応じたデザインが楽しい。洒落たデザインはさすがイタリアを感じさせるが、日本の映画館はその点、かなり無粋で、ただの箱であった気がする。主人公が青年になってから故郷に帰るまでの30年間は描かれず、少年時代から青年になるまで、そして故郷に戻ってからのいわばエピローグ的な部分で構成されているので、映画の大半は主人公が少年だった頃の回顧談だ。つまり、主人公は少年、青年、大人の3人の俳優が演じるのだが、その意味でこの映画は3本分が合わさっている。それはそれでいいのだが、各時代を分けて、3本の映画にしてもよかった。だが、それは過去の映画がさんざんやって来たことであって、同じ土俵で勝負してはかなわない。それを見越しているところがまたいかにも89年なのだ。この89年頃という時代が将来どのような時代として評価されるだろうか。20年ほど前の映画であるから、当然大人役を演じた俳優は、今はかなり老けているが、その顔を見ると、また不思議な感覚に襲われる。つい先日見た映画で中年の若々しい男が、今は初老になって渋い顔をしている。一体どっちが本当の姿なのか、ひょっすれば初老は化粧をして演じているものではないか。映画は不思議なものだ。人生そのもののようにそうだ。