近年図録はほとんど買わなくなっているが、この展覧会は珍しい画家のものであり、しかも2000円という安さもあって迷わずに買った。

別の理由としては、上田秋成の『雨月物語』を、その文章とともに画家が描いた絵巻がいくつか展示されていたが、どれも長いものであるので全部広げることは出来ず、全体を知るには図録を見るしかなかったことにもよる。『雨月物語』をこのように絵巻にすることはほかに例があるのかどうか知らないが、秋成の原書では挿絵があったから、絵巻にしても違和感はない。溝口健二監督の有名な同名映画にもあるように、この物語は視覚性に富み、画家が挑みたくなるのはよくわかる。玉村方久斗という画家の名前は記憶の片隅にあったが、まとまった作品を見る機会は今までなかった。今回展示された「猫」(昭和3年)は、京都市美術館蔵で、2年前だったか、同館の企画展に出品されて記憶に新しい。この「猫」一点からでも、この画家の特異な画風はよくわかる。今回の展覧会の副題にある「日本画改革」の言葉がふさわしい感覚が確かにあり、この絵に限れば、琳派などの装飾性を基盤に速筆ぶりを見せたどこか洒落た画面と言える。きっちりと描く才能がなかったのではない。時間が惜しく、時代の変化ぶりに呼応しようとしたのか、方久斗の絵はどれも一気に描いた感じが強い。それは洋画からの影響が考えられるが、時として雑然や混濁の印象を与えかねない。油絵ではそうした表現は不自然さを感じさせないが、それを日本画の顔料に置き換えたとも思える。前衛といった言葉は、洋画がリードして来たもので、その精神を日本画で発揮しようとしたのだ。そうなると旧体制の批判という立場に身を置くことになるが、日本画である限りは、画題や画材、筆法から完全に自由になることは不可能で、伝統に即しながら、それをいかに解体するかに挑み続けることになるのは必至だ。もっと言えば、日本画はそういう存在があってもびくともせず、方久斗の存在を速やかに消し去った。いや、現在から見れば、方久斗のような画風も含めて、大正や戦前の日本画があって、それらすべてがすでに伝統と化した。であるからこそ、あまり人に知られない方久斗の画業をこうして回顧しようという動きがある。そして、方久斗の作品を現時点で見ると、それが過去に埋没した古めかしいものではなく、意識するしないにかかわらず、現在活躍中のさまざまな絵描きにつながっていることがわかる。その意味で再発見されるべき画家であり、方久斗からまた何かを汲み出して今後の制作のヒントにする人も出て来るだろう。美術館の役目はそういうところにあるし、画家は作品を残せば、それがひとつの種子になって、いつまた発芽して人々の知る花になるかわからない現実を方久斗の例はよく示しているように思える。
方久斗は珍しい名前だが、当然「ほくと」と読む。本名は善之助で、明治26年(1893)京都市生まれで、昭和26年(1951)に東京で58歳で死んだ。生まれたのは中京の新京極界隈で、これは伊藤若冲とほぼ同じの、都会生まれの都会育ちだ。大正4年(1915)に現在の京都市立芸大の前身である京都市立絵画専門学校を卒業し、同窓生の岡本神草や甲斐荘楠音らと団体を結成するが、岡本や甲斐荘という名前が出て来るところからすでに方久斗の絵がどういうものであるかは想像がつく。岡本や甲斐荘といった、大正時代のかなり特異な京都の日本画の再発見、再検討が行なわれ始めたのは、京都国立近代美術館が新しく建て直された1986年頃からで、当時新館開館記念で開催された『京都の日本画 1910-30』が大きな役割を果たした。美術館前の神宮道には、そうした隠れた京都の画家の作品を扱う星野画廊があって、同展以降、『甲斐荘楠音展』や『秦テルオ展』、そして今回の展覧会もそうだが、同画廊から借りた作品が多く飾られることになった。地元京都出身の画家を京都の美術館や画廊が積極的に紹介するのは義務でもあるから、今後ももっと積極的にそうしてほしいものだが、あらゆる文化が東京一辺倒になってしまっている現在、なかなかそれも効果が乏しい。そして、方久斗の場合、なおさら複雑な事情がある。『京都の日本画 1910-30』には方久斗の作品は展示されなかったが、それは京都出身であるにもかかわらず、京都で活動しなかったからだ。方久斗は京都画壇に近づかず、学校を卒業してすぐに東京の再興院展に初入選し、翌1916年には早速東京に移住した。図録には家族との確執があったとあるが、それがあっても京都の別の場所に住めば済むことであるから、やはり京都の伝統の長さといったことがいやで、もっと新しい土地でのびのびとやりたかったのだろう。1918年の第5回の再興院展には「雨月物語」を出品して受賞し、院友に推挙されるが、1920年の出品で落選し、院展を脱退する。このあたりから方久斗の反骨ぶりがすでによく見える。身を翻すのが早いと言おうか、そうした転身ぶりからも、60歳前で亡くなったことが納得行く気がする。つまり、やりたいことを次々とやったのだ。それほどの頑固さと活力がなければ、「日本画改革の先導者」などと呼ばれて回顧展を開いてもらえるはずもない。だが、筆者には「雨月物語」を画題にしたところに、そして入賞した同作を今度は絵巻に描き直し、それが関東大震災で消失した後にすぐにまた同じものを作り直した、その『雨月物語』に執拗なまでにこだわる態度からは、上方を自負する意識が常にあったように思える。つまり、東京にあって、方久斗は生涯一種の孤独感を味わったのではないだろうか。もちろん東京の都会を描いた作品も多く、またグループを作って率先するなど、大いに生活を満喫はしていたろうが、アイデンティティを考えた場合、京都の大きさを東京に住んで初めて実感し、西鶴や売茶翁を描いた作品からもわかるように、絶えず画題の源泉として見つめていたように思う。それが痛々しいというのではないが、東京にあって、そういう態度が歓迎されたかどうかとなると、現在ならいざ知らず、当時は風当たりもあったと思える。方久斗は江戸時代の琳派同様、大きくて目立つ円印をよく使用した。これは「玉村」にちなむのであろうが、見方によれば京都の伝統意識の明確な提示だ。関東大震災直後、岸田劉生や谷崎潤一郎など、上方にやって来て新たな作風を確立した才能がいる中、方久斗が京都に戻らなかったのは、先の展覧会『京都の日本画 1910-30』にも含まれなかったことにつながり、京都と東京の双方から忘れ去られる存在となったことに影響したと思える。
今回最初に展示された「山十題」(1915)は、民藝趣味的な立派な木製の額に入った横長の画面10点揃いで、筆者にはとても興味深かった。その画風はいかにも大正時代そのもののモダンな南画といったものだが、特に冨田溪仙を思い出させた。溪仙も院展画家で、博多から京都にやって来た。方久斗のように東京に行かなかったところに、溪仙と方久斗の画風の差がある。溪仙は明治12年(1879)生まれで、昭和11年(1936)に57歳で亡くなっているから、方久斗より14歳年長であったが、その年齢差の分だけ、方久斗が新しいと言えば言える。溪仙の画風にはドイツ表現主義など、当時のヨーロッパの前衛絵画の影響があるとされるが、方久斗はそうしたヨーロッパの最新の芸術の動きをより意識した。また、溪仙も方久斗のように素早く描くところに特徴があり、その意味でも両者はよく似ているが、どちらも顔料の美しさをよく知っていて、溪仙に見られる群青は方久斗においては白緑に変化した。ぐちゃぐちゃと描いたような部分に、思わず透明感豊かな色彩効果があり、具象を描きながら、ほとんど抽象画面を見ている気にもさせられる。方久斗は伝統的画題を描くことだけに満足することはなかったため、溪仙よりはるかにとりとめのなさのようなところがあるが、これは食べて行くためと、おそらく関心もあったからであろうが、商業広告図案社を設立したり、新聞の連載小説の挿絵も描くといった、多様な活動が関係している。院展脱退後に活版印刷会社の社長と交際が始まったり、またいかにも前衛そのもののタイトルを冠した雑誌を発刊したり、二科会の向こうを張って三科会という前衛団体に参加したりと、日本画とはますますかけ離れた活動をするようになるが、その一方で日本画を相変わらずたくさん描いたのは、それが売れたからであろう。32歳で現在の杉並区井荻町に前衛的と言ってよい家を新築するが、そのような若年で年齢で広々としたアトリエつきの新居をかまえられるところ、なかなかの経済観念があったことを物語る。パトロンもあったようだが、方久斗の人柄や才能がそうした人々にとって愛すべきものであるほどに目立ったからで、それは今回の展覧会がよく証明していた。速筆の画風、つまり着色画であっても素描的であるので、作品は今回展示された以上に多く残っているのだろう。「山十題」のような風景画は少なくなく、またそれらは独特の味わいがあってよいが、人物をそこに大きく添えたり、あるいは人物だけを描く場合も目立つ。方久斗はおそらく人間好きであったのだろう。自分の名前をつけた団体を旗上げするところからは、人づき合いがよかった様子が伝わる。人物画は表情を美化したものではなく、むしろ醜悪さもかまわずに凝視したものだが、冷たさはない。ただし、特に印象的であった「50歳の自画像」には、一筋縄ではいかない皮肉と反骨精神が強くみなぎっている。ところが、同年に描かれた「ハーモニカを持つ少年」は、唇が赤く、とても優しい表情をたたえた少年が爽やかに描写され、もっと他の肖像画を見たい気にさせる。そうした人物画の才能は新聞の連載小説の挿絵ではいかんなく発揮され、昭和5年のもの、あるいは最晩年の昭和24、5年に描かれたものは、一度見れば忘れ難いほどの個性と強さがある。そうした挿絵は、かつて『雨月物語』のそれを見て、同じ方面の仕事をしたいと考えたことのひとつの帰結であったのではないだろうか。
方久斗の画風は、見る人によって好き嫌いが激しいことだろう。「へたうま」という表現がかつて流行ったが、それを思えばよい。「雨月物語」の絵巻は、人物はまるでビュッフェが描くように痩せ細り、顔の表情も戯画化が激しい。そして凄惨な場面を好んだのか、ほかの作品でもよく血生臭い情景を描いた。そうした絵は当時の日本画家は決して描かなかったが、日本の物語の中にある戦いや死の場面を積極的に表現することで、安穏とした日本画の世界に風穴を開けたかったのかもしれない。「雨月物語」は特に筆者は絵本画家の瀬川康男を思い出させたが、ひょっとすれば瀬川は影響を受けたかもしれない。また、先の「山十題」は片山健を想起させるところもあるが、いずれにしろ方久斗の絵は、そうした商業美術の画家にきわめて近く見える。これは方久斗が商業美術に関係したからには当然かもしれない。その意味では方久斗の絵は今見るととても新しい。今でも商業美術は一段低いものに見られるが、それは絵を描いて食べて行くためにはそれも仕方なしとする、一種の妥協がそこに見え透くからだが、ここには絵描きにとっての永遠のテーマがある。そういう妥協をせずに済む幸福な画家もあるが、そういう画家が必ずしもいい絵を描くとは限らず、結局のところ、絵の問題と経済は切り離して考えられるのが常だ。だが、人間は生身であって、食べないことは生存が出来ないから、どうにかして経済の問題を制作の傍らで決着し続ける必要がある。その意味で、絵、あるいは芸術を鑑賞する立場としては、作品だけではなく、その作家がどういうようにして収入を確保したかに目を配ることもあってよい。芸術は人品によって格が決定するとすれば、作品そのものと、芸術家がどういう生涯を送ったかを知ることの往復運動の中でしか、本当の作品の姿は見えて来ない。とはいえ、経済力が豊かであるかどうかは人品を決定しないし、その豊かさは常に相対的なものと言ってよいから、結局また絵と経済は関係ないという結論にたどり着きそうだ。方久斗の絵が溪仙のものとは全然違うものを加えるのは、昭和5、6年以降で、今回のチラシやチケットに採用された生活に密着した日常の光景を描いたものは、ほとんど下絵もなしにぶっつけ本番に描かれたものであろうが、描き込んでいる割に色彩が澄んでいて、結婚する前後の方久斗の幸福な精神が表われている。面白いのは、そうした画面でも大きな円印をまるで満月か太陽のように使用していることで、ほとんど洋画家が描く題材であるにもかかわらず、そこには日本画家としての自負が端的に示されている。方久斗は戦争勃発時には48歳で兵隊に行くこともなかったが、戦時下の絵具などの画材統制による190名の選から洩れたことはひどく自尊心を傷つけた。自分が今まで必死に描いて来た絵はいったい何であったかと憤り、「百九十一番居」と彫った印を使用し始める。そういうところにも反骨ぶりがよくうかがえるが、心底から旧態の日本画壇に反旗を翻すのであれば、190名の中に含まれなかったことを喜ぶべきではないだろうか。そうでなければ、方久斗は画壇を常に意識し、大家と呼ばれる人と肩を並べたかったのだと思われる。先に日本画の世界はびくともしないと書いたが、方久斗はそのことをよく知っていて、なおかつそのびくともしない旧態たる画壇の中に、一種異端的な画家として加えられることを願った点において、最初からその前衛も中途半端なものとして挫折せざるを得ないものであったように感じる。これがもし最初から前衛を旨として活動した洋画家であればどうであったろう。「百九十一番居」といった、エリートを意識した名称を使用することは決してなかったであろう。だが、日本画家であれば、そして戦時下でそのような二、三流の画家の扱い受けることは、キルヒナーがナチから頽廃した画家とみなされたのと同じような衝撃だったのであろう。その点において、方久斗が戦後まで生きて、また新たな仕事へと出発していたならば、どういう展開を見せたか惜しまれる。