満員にはならないはずで、じっくり鑑賞出来るのを楽しみにしていた展覧会であったが、とにかく忙しいこともあって、ようやく会期終了2日前の25日の夕方に見た。

久しぶりに三遊亭圓朝の肖像画が見られると思っていたが、それは展示されず、その下絵が来ていた。そして、キャプションを見て驚いた。いつのことか知らないが、本画は重要文化財に指定されたのだ。昭和五年で(1930)の作であるから、まだ100年は経っていないのにもう重文指定だ。それだけこの肖像画の傑作ぶりが文句なく歴史的にも確定したわけだ。いや全く嬉しい話だ。筆者は清方の絵のすべてが好きというほどではないが、圓朝像や樋口一葉の肖像などは、国宝になってもいいと思っている。特に圓朝像がそうで、肖像画をあまり描こうとしなかった清方にしてこれほどの絵が描けたことは、清方が幼少の頃から圓朝のことをよく知っていたからであって、時代と、そして個人的な幸福な関係の賜物だ。圓朝像を見ると、とても恐いおじさんに見える。実際に会えば尻込みしてしまいそうな気がするが、清方が圓朝像を描いた時には当然もう圓朝はとっくに世を去っていて、わずかな写真と記憶に頼った。それがかえってよかったかもしれない。そこには実際の人物を前にした写実一辺倒に囚われない、清方の圓朝に対する万感の思いが籠もっている。不思議なもので、写真は真実を写すというが、むしろ絵の方がそうだ。一葉は現在の5000円札にも登場しているが、筆者はそこに描かれる顔は全く好きではない。だが、清方の描く一葉は何と素晴らしいことか。やはり描き手の力量の差がはっきりと出るのだ。圓朝の写真を見ると、確かに清方の肖像とよく似ているが、迫力の点では絵の方が数段上で、そこには無限無大の圓朝が宿っているように見える。写真は圓朝そのものであるはずであるのに、どこかに似た人がいるなといった見方をしてしまう。だが、肖像に見られる圓朝はそうではない。こういう人物はどこにもいないという崇高感が漂っている。それは清方が描く一葉にしても、最後の徳川将軍の慶喜の肖像にしても同じで、清方がなぜもっと肖像画を描かなかったのか惜しい。思い入れの出来る人物がそうはいなかったのであろう。明治にしてそうであったならば、現在はどうか。肖像画となって迫力を持つ人間は皆無になった。みなTVにちゃらちゃら出て、ただただうすっぺらい。そんな時代であるからこそ、たまには清方の圓朝像を見たい、あるいは思い出すだけでもいい。だが、東京国立近代美術館にあって、関西ではめったに見る機会がない。それもそうで、清方は東京が生んだ画家なのだ。関西人にすればそれが何となく、悔しいと言うか、遠い存在に思える。
清方は電車嫌いであったため、生前五十歳頃に自動車で関西に一度来ただけであった。その時、京都の日本画家たちが迎えたが、東京に帰すのを惜しいと思ったという。今1971年に京都で開催された生誕100年記念の展覧会図録の中の年譜を見ると、ローマで開催の日本美術展に出席する平福百穂や松岡映丘を見送るために神戸までやって来たとある。その後同じ年に圓朝像を描いている。清方は奈良も回って写生も多少し、それらを元に舞妓や風景画の本画も描いたが、上方で生まれ育っていたならばどういう絵を描いたかと思う。圓朝像を見て思い出すのは、渡辺崋山が描く肖像画、あるいは谷文晁の描く蒹葭堂の肖像で、文人画の系譜を受け継ぎ、庶民的でありながら高潔な感じをよく表現していることだ。文人画は上方で発展したものであるから、上方から見れば清方は親しみが持てる気がする。その点が同じ美人画で有名な伊藤深水との違いで、深水の絵もいいにはいいが、何となく化粧っ気が強い感じがして生身の人間性が感じられない。清方を東京に帰すのは惜しいと応対した画家たちがいた時代、京都にはまだ文人画の精神が生きていたのだ。それはそうと、1971年はもう37年前のことだが、筆者は大阪からやって来て京都で鏑木清方展を見て、そして図録を買い、圓朝像を心に刻んだ。名画の記憶とはこのように一生もので、その時からさほど清方の絵は見ていないはずなのに、なぜかそうは思えない。実際今回の展覧会はその時以来ではないかと思う。図録に挟んでいるチラシを見ると、東京で1999年に大きな展覧会をやっているが、それは関西には来なかったように思う。それほどまだ関東と関西は好みが異なる。さて、清方には肖像画以外に代表作がいくつかあるが、やはり女を描いたものに忘れ難いものがある。そのひとつは今回も出品された「妖魚」だ。6曲1隻の金屏風に緑色の大きな岩を描き、そこに肌の白い妖艶な人魚が横たわっている。その顔は、清方の他の絵には見られない表情で、モデルがいたのであろうが、この1点で清方がどれほど女のさまざまな顔と性質があることを見抜いていたかがわかる。これは初期の挿絵に描いたような型にはまった美人とは全く違って、女のむき出しの性と言おうか、男としては一歩後ずさりしてしまう、それでいてふらふらと引き寄せられてしまうといった魅力で、清方らしくないところがまた清方の才能の途方のなさを物語っている。だが、淫猥というのではなく、「清方」の名前から連想される、一種独特の清らかさとでも言うべき空気も漂っていて、つまり女の見通す眼差しの恐さとでも言えばよいようなものがある。今回は出なかったが、長崎の踏み絵を題材にした遊女を描く対幅の「ためさるる日」に描かれる女も印象に強い。これは上村松園に近いような当時よく描かれた典型的な優しい顔をした美人に属するが、それでも左幅にひとりで描かれる女の顔は下を向いて沈みがちで、それがまた他のどこにもいない存在として迫って来る。美人はみな共通した美しさがあって、それを絵に描けばどれも似たものになるというのが理屈のようだが、実際はそうではない。そこに美人画というジャンルの存在意味があるのだが、現在は写真のようにリアルに描くポルノ紛いのものが愛好されてもいるようで、美人画はすっかり廃れたと言ってよい。
会場を出た売店にチラシがあったのでもらって来た。それは鎌倉市にある清方の記念美術館が発行している叢書で、現在9刊まで出ている。これは知らなかった。全集のような形で清方の画業をつぶさに紹介しているのだが、この美術館が所蔵している作品と、後は雑誌や新聞に描いた挿絵を網羅している。先に述べたような代表作は国立近代美術館などに入っているので、いわば小品中心に紹介しているようだ。力作だけ見れば充分という人もあれば、とにかくちょっとした挿絵でもみな見たいという大ファンもある。また、清方は当初挿絵から腕を磨いたから、挿絵は無視出来ない画業と言える。今回の展示の前半はほとんどそうした作品で飾られた。気になったのは、額に入れられたそれらの作品がみなうっすらとぼけて見えたことで、何度もカラー・コピーか、あるいは自分の視力が急に落ちたかと思ってじっくりと見つめ直したが、30点ほど見てからそうではないことがわかった。木版画の空押しの技法が見えたからだ。ぼけて見えたのは、ガラスではなく、梨地のアクリル板を嵌め込んでいたためだ。これは褪色しないようにとの配慮からだろうか。繊細な刷りの状態はほとんどわからず、かなり不満が残った。清方は明治11年(1878)生まれで、明治33年の『新小説』に挿絵を描いた。この雑誌は明治22から3年にかけて同好会によって発刊されたもので、29年になって今度は春陽堂が第2期として発刊を始めた。清方が描いたのは内田魯庵の「青理想」だが、木版画の配色に慣れておらず、出来上がった本を見て失望し、以後の注文を諦めた。だが、同年に川上眉山の「店暖簾」の口絵の依頼があって、今度は色調や構図に満足することが出来た。人気が多大なものになるのは、34年に泉鏡花と出会って、その小説の口絵を担当してからだ。それ以後は官展に出品するようになり、挿絵は後進に譲った。『新小説』は大正4年まで、『文藝倶楽部』は同8年まで続いたが、清方は小説によって画業を磨き、そして重文指定されるほどの名作を描いた。小説用の絵を描くことは、さまざまな知識の吸収につながる。また人気は読者からすぐに伝わるから、画家の成長を促し、また世に受け入れられる絵とはどういうものかという、一種の大衆にすり寄った態度を身につけさせかねないが、写真がまだふんだんに雑誌や本に使用されない時代にあっては、どうしてもそうした絵は映画の一場面のように、文章の一場面を視覚化したわかりやすいものが求められ、また女を描くならば美人が歓迎されたことは誰しもよく想像出来る。そうした点が今から見れば、悪く言えば漫画に近いものと言えなくもなく、使い捨ての仕事であった気がする。だが、そういう職人的な腕を求められる中から、実力を身につけ、名作をものにするところは、やはり才能と努力があってこそで、清方が当時の挿絵画家とは違って飛び抜けて有名になり、後年は文化勲章をもらうまでになったのも、単なる挿絵画家に満足していなかったからだ。
当時清方と人気を二分した挿絵画家として鰭崎英朋(1880-1968)がいた。今回はふたりの合作も何点か出品されたが、1枚の絵の男女、あるいは女性ふたりを両人が別々に担当し、確かに作風の違いがあって、見方によれば齟齬を来しているし、またどうにか調和しているようにも思えた。最近鰭崎の再評価が始まっているらしいが、清方とは全く異なる絵がどの程度あったのか、多少の関心を抱かせる。小説や雑誌に提供した清方の女性を描いた作品は、みな美人画と言ってよいものであるので、清方好みの顔となっているが、たまには違った顔を描きたいと思っても、清方とわかる同じような顔でなければ読者は歓迎しなかったであろうから、挿絵というのも画家にとっては限界のある仕事に思える。もし清方が挿絵だけで終わっていれば現在の評価はなかたった。木版画以外に、清方にはさらりと描いた素描的な絵があり、それはそれでまた清々しい空気をたたえていいが、歴史に残る名作と呼べるものはないような気がする。また、今回は第9回の文展で最高賞を獲得した出世作「霽れゆく村雨」(1915)の下絵が6曲1双の屏風仕立てで展示された。この小下絵は生誕100年展に展示されたが、その後見つかったのだろう。浮世絵の春信の女性を思わせるキモノ姿の女が強い雨を避けるように傘を指して歩く様子を描くもので、右隻はほとんど蓮池のみを描く。これは前年に描かれた同じく6曲1双の「墨田河舟遊」に似て、江戸時代の風俗絵と言ってよい。そこに江戸の画家である自負が見えるが、筆者には明治がそのまま江戸時代につながっている感を改めて思って面白かった。だが、現在ではもうこういう絵を描く才能はないし、また無理して描いても、江戸時代に直結する感覚を見る者に与えることは出来ないだろう。それは教育や国の文化方針によって今後また変化するものかもしれないが、明治からここまで欧米化した日本ではもう無理だ。それを思わせる作品は実は清方にもある。昭和8年に描かれ、宮内庁に入っている6曲1双の「讃春」は、背景には遠くに霞む墨田川にかかる鉄橋を描き、近景には舟で暮らす母親や小さな女の子を、桜の折れ枝などとともに描く。田舎ではなく、鉄橋を描くことで明らかに東京を示したかったのであろうが、何となく違和感が拭えない。だが、そういうのんびりとして情緒のある光景はまだ昭和初期にはあったのに、今ではとても画題にならない。そういう意味での日本画はもうとっくに死んだと言ってよい。
清方の写真を見ると、研ぎ澄まされた切れ者といった感じはない。むしろのんびりとして物静か、どこにでもいそうな風貌だ。そんな人物の内面にどれだけのさまざまな人間ドラマが思い描かれていたかと思う。小説を読んでその挿絵を描くということは、そういう人間のあらゆる生活を垣間見ることであり、しかもそれを実感しなければとても人を納得させる絵は描けない。そして小説もいろいろだが、鏡花、あるいは圓朝となれば、清純というよりむしろドロドロ感の方が強い。そういう物語を読む中で、清方が影響されて、たとえば血生臭い絵を描こうとするに至らなかったのかが不思議だが、あるいはそれは今回も出品された「曲亭馬琴」(1907)のような絵によく表われている。同作は一度見れば忘れられない。第1回の文展に出品して落選したが、盲目の馬琴の表情がお化けじみていて、映画の一場面そのままで、明治の日本画が到達したほとんど極致と言ってよいその写実表現は清方の執念を感じさせる。美人画を描く清方のイメージからは遠いが、そういう背筋が寒くなるようなドロリとした感覚の絵も描けたからこそ、清方の大きさ、深さがあった。同作はいかにも小説から育った画家にふさわしく、挿絵をそのまま鑑賞画に高めた雰囲気があり、それが馬琴であるころがまた面白い。おそらく馬琴のことをあれこれ想像する中で、清方の脳裏にははっきりとその生活が見えたのだろう。また、同作で培った写実性は、チケットにも印刷された「朝涼」(1925)にもよく表われている。これは横向きの若い女性を描き、娘をモデルにした。近くで見ると、背後の蓮の葉や花など、いかにもさっさと描いた速筆の感じが強い。それがまたタイトルの意味するところによく似合っている。無名性の、つまり理想的な美人を描く絵とは違って、娘の顔を忠実に描いたところに、後の圓朝像で威力を発揮する才能が芽生えてもいる。今回知ったが、挿絵を勧めたのは圓朝だ。となれば、圓朝がいなければ清方はなかったことにもなる。そういう深い恩があるからこそ、名を遂げた後の清方は圓朝の肖像を描いた。圓朝は人生の半分を江戸時代、半分を明治時代に生きた落語家で、その天才ぶりは永遠に記憶されるものだが、そういう人物と清方が出会ったところに、何か奇跡のようなものを感じる。才能は個人が持つとしても、それを発揮するには人との出会いが必要だ。その時に出来上がった磁場の中で才能はより磨かれ、そして運がよければ不朽の名作が出来る。そんな機会はめったにない。そのめったにないところで生まれたのが圓朝像だ。何だかそんなことを考えていると、こうして駄文を書いて時間を潰していることがつくづくもったいなく感じて来るのでここでやめておく。